海神・伽藍神としての招宝七郎大権修利

二階堂 善弘


前 言

招宝七郎、また大権修利と呼ばれる神がある。

今ではこの神の信仰は衰退してしまったため、現在中国人の間では全くその名を知られていない。また民間信仰研究においても、文献資料が非常に少ないためか、ほとんど注目されることはない。

しかし『水滸伝』にはその名が見えており、かつては浙江を中心に絶大な信仰を有した神であったと考えられる。いまでも日本の禅宗系の寺院には、この神の像が伽藍の神として祀られているのを幾つも見ることができる。恐らく宋代の南方の寺院においては、普遍的にこの神を祀り、それが日本の寺院がそのまま伝えられ、あたかも「文化遺産」のごとく残されているものであろう。

この神の像は一見してそれと判明する独自の形象がある。すなわち、片手を高く額の前に差し上げて、遠くを望むようなポーズをしているのである。鎌倉の覚園寺や、京都の相国寺に蔵される大権の像は、まさにこの姿をしている。またその着ている衣冠などは、完全に中国の王侯風のものである。

<平戸瑞雲寺の招宝七郎像>

現在も信仰が盛んな神々、関帝や媽祖については数多くの研究が存在する。だが宋から元にかけての中国特に南方では、もっと多様な信仰が展開されており、関帝信仰や媽祖信仰はそのうちの一部分を占めるに過ぎない。これは無理からぬことではあるが、現代に隆盛である神からのみ民間信仰を研究するのでは、その見方が偏ったものになってしまう危険性がある。大半の神々はその信仰が消えてしまったが、七郎神のように、遠く異国にその信仰が保存されている例も稀に存在する。小論はこの七郎神の信仰について検討し、宋から明にかけての民間信仰の姿を探ろうとするものである。


1.これまでの招宝七郎に関する研究

実のところ招宝七郎大権修利の来歴を探ろうとすると、非常に困難な点が多い。まず文献資料がほとんど残っていない。或いは残っていたとしても、断片的なものがほとんどである。頼りになるのは寺院に残されている像などの方であるが、これも時代や作られた場所が確定する場合の方が少ない。しかし、禅宗の寺院に祀られていることから、禅宗においては研究が幾つかは存在する。ここではまずこれまでの招宝七郎の研究について述べたい。

七郎神については、江戸時代に臨済宗の僧侶、無著道忠が『禅林象器箋』において詳細な考察を行っている。その考察は非常に優れており、現在でもこれがすべての研究の基礎となっている。

さて現代の研究者で、早くからこの神の重要性について指摘したのは、塚本善隆氏であろう。塚本氏は成尋の『参天台五台山記』中の記載に注意し、次のように推論している(1) 

(成尋は)羅漢院で十六羅漢の等身像と五百羅漢の三尺像を拝し、食堂に入って七郎天に礼拝焼香した。(略)七郎天とは何か。恐らく成尋が後に平水大王と記している地方的な神仙であろう。(略)新封の平水大王すなわち周七郎に対するこの地方の人びとの信仰が、相当に大きかったことも推察される。(略)わが国の洞門の寺で祭られた招宝七郎もこれに関係あるかも知れぬ。

塚本氏のこの指摘を受けて、王麗萍氏は宋代の日中文化交流史の立場から、平水大王すなわち七郎天について詳細に分析している(2)


禅学研究において、やや早くからこの問題を論じたのはH・デュルト氏であろう(3)。さらに曹洞宗における佐々木章格氏、中世古祥道氏の論考によって、伽藍神としての招宝七郎については、かなり研究が進展した(4)

さらに禅宗の寺院に蔵される伽藍神像から、招宝七郎神について論じたものがある。三山進氏、及び田中知佐子氏は、鎌倉建長寺・海蔵寺・円覚寺・覚園寺などに蔵される伽藍神について分析を加え、その像の比定を行っている(5)

これらとは別に、筆者が招宝七郎神の存在に注意したのは、主に通俗文学に見える記載からであった。まず『水滸伝』第七十七回には次のような記載がある(6) 

張清は左手で鎗をおさえ、右手で招宝七郎のような構えをして、一声「やっ」と叫び、周信の鼻へと石つぶてを投げると、周信はそのためひっくり返って落馬してしまった。

(只見張清左手約住鎗、右手似招宝七郎之形。口中喝一声道、着。去周信鼻凹上只一石子打中、翻身落馬。

後に梁山泊に加わる豪傑の一人、没羽箭の張清の姿を「招宝七郎のような」と形容する。これはすなわち、石つぶてを投げて敵を倒す張清の姿を称したものである。

この記載には何の説明も無い。つまり、『水滸伝』の読者は、恐らく大半の者が招宝七郎神の手を差し上げる姿を熟知しており、何の説明も無くして張清のポーズが連想できたものであろう。さもなくば、この段の記述は理解できない。『水滸伝』のこの部分が書かれた時、招宝七郎神は一般によく知られた存在であったのである。そして、筆者は日本の伽藍神の七郎神の姿を見て、初めてこの段の意味が理解できたのである。


楊景賢の『西遊記雑劇』は、小説『西遊記』のより古い説話を残すものとして知られている。この中に大権菩薩が登場することは、実はそれほど知られていない。観音菩薩が三蔵法師守護のために指名する神々「保官」の中に、その名が見えている(7)

第一の保官はわたくし観音が勤めましょう。第二の保官は李天王、第三の保官は那吒三太子、第四の保官は灌口二郎、第五の保官は九曜星辰、第六の保官は華光天王、第七の保官は木叉行者、第八の保官は韋駄天尊、第九の保官は火龍太子、第十の保官は迴来大権修利に、それぞれお願いします。

(第一箇保官是老僧、第二箇保官李天王、第三箇保官那吒三太子、第四箇保官灌口二郎、第五箇保官九曜星辰、第六箇保官華光天王、第七箇保官木叉行者、第八箇保官韋駄天尊、第九箇保官火龍太子、第十箇保官迴来大権修利。

この記載も非常に興味深い。やはり伽藍を守護する役割の華光神と韋駄天の名も見えているからである。さらに『西遊記雑劇』には、大権菩薩が登場して次のように話す場面もある(8)

廻来大権が登場して言う。「小聖は大権修利菩薩である。わが仏如来の法旨を奉り、金剛大蔵を見守る役割を担っておる。経典は金光が燦然と輝くため、常に手をあげてこれを守っておる。およそ人は我を招提と称す。今日、仏法が東行せんとす。毗盧伽尊者が転じて陳玄奘となり、東方より来たって西方に取経にまいられたものであり、今日はお迎えしなければならぬ。」(略)大権は言う。「玄奘よ、わが仏の法旨により、経文のあるところ、わしが随って守護しておる。帰りの沿路にてそなたが中原に至るまでは保証しよう。何故なら諸寺の経蔵には、すなわち小聖がいるからである。」

(廻来大権上、云、小聖大権修利菩薩。表我仏法旨、看守金剛大蔵。為金光燦眼、常手掌護之、凡人称我為招提。今日仏法要東行、着毗盧伽尊者、托化為陳玄奘、自東来西取経、今日敢待来也。(略)大権云、玄奘、我仏法旨、経文到処、着我隨所守護、沿路上我当保障你直到中原、諸寺但有経蔵処、即有小聖。

ここで大権が玄奘三蔵に対して「すべての寺の経蔵には、この大権が居て守護する」という記載は重要である。また「常に手をあげて」というのも、かの手を差し上げるポーズを意識してのものか。もっとも、いまの寺院の経蔵に大権を祭祀した形跡は残っておらず、この記載を裏付ける証拠は無い。なおこの劇の中では、大権はまた「廻来大権」とも称される。

楊景賢は元末明初の人であり、この時点でも七郎神は相当に広く知られた神格であったことが分かる。成尋の言及と、『水滸伝』の記載から考えると、七郎神が有名であったのは、宋から明初にかけてのことかとも推察される。日本の寺院に伽藍として祭祀されるのは、まずこういった招宝七郎神の信仰の普及が背景にあったことを考えるべきであろう。


2.招宝七郎大権の性格について

伽藍の神というと、現在の中国の寺院は圧倒的に関帝と韋駄天を祀ることが多くなっている。しかし、かつてはもっと多様な伽藍の神があった。

平安期に宋に渡った成尋は、当時のかの地の状況について非常に貴重な記録を残している。その『参天台五台山記』で挙げている寺の鎮護の神には、王子晋・東嶽大帝・五通神・白鶴霊王、それに平水大王こと七郎神がある(9)

無著道忠は、『禅林象器箋』の中で祠山張大帝や関帝や火徳星君などの神を伽藍の神として列挙する。このうち祠山張大帝は、七郎神と特に関係の深いものであるが、これについて詳しくは別稿で論ずることとする(10)。さらに時代を遡れば、日本の広隆寺などで祀られる摩多羅神、園城寺の新羅明神、比叡山麓赤山禅院の赤山明神なども、もとは伽藍の神の性格を持つ。宇治萬福寺の伽藍堂で祭祀される華光神は明末の信仰を反映したもので、比較的新しい伽藍神であるが、実質的には五通神の代わりとなっているものである(11)

このように数多くの伽藍神が、特に日本の寺院によく残されている。一方でこれらの神々は、中国での信仰が後世衰えたために、もともとの由来が不明確になっているものも少なくない。その点でもこれらの神々の来歴は大変興味深いものがあるが、小論ではもっぱら七郎神のみについて考察を行う。


さて、招宝七郎神の像については、前にもふれた通り、手を差し上げる姿をしているのが一般的である。ところが、今の鎌倉建長寺の伽藍神像には、このような姿のものは無い。

無著道忠は建長寺に残されている五体の像を、張大帝・大権修利・掌簿判官・感応使者・招宝七郎の五種の神であるとする(12)。何故か道忠は大権修利と招宝七郎を別の神とし、大権修利について次のように記す(13) 

道忠が思うに、大権修利とは、右手を額にかざして遠望の勢をなす像である。大唐の阿育王山の護法神である。「修利」を或いは誤って「修理」とするのは間違いである。(略)道忠思うに、伝説に大権修利、はインドの阿育王の郎子であり、阿育王の建てた舎利塔を守るものと言う。その神力をもって中国は明州の招宝山に来たり、手を額にかざし、四百州を回望するのだとする。阿育王寺でこれを祀って土地神とした。これより各寺院は倣ってこの神を祀ることになった。

(忠曰、右手加額為遠望勢像是也。大唐阿育王山護法神矣。修或謬作修理、非。(略)忠曰、伝説、大権修利、是天竺阿育王郎子。為護育王所建舎利塔、以神力来支那国、止明州招宝山、加手於額、回望四百州。育王山祀之、為土地。自爾刹刹慣之。)

 

<建長寺仏殿の伽藍神>

 


 

さらに招宝七郎の項では、大権との関連について以下のように説く(14)

 

招宝七郎とは、道元和尚が日本に帰国された時、形を隠して従い護法の任に当たっていたものである。或いはいう、これと大権は同じ神である。大権修利とは、封号であって、本名は招宝七郎であると。招宝山は鄮峯にあり、この神をここで祀っていた。七郎とは排行であろう。(略)招宝七郎は、陶弘景のことを指すのではないか。(略)七郎が大権であるという説は、わたしはこれを疑っている。

(道元和尚帰朝時、潜形隨来護法。或云、亦是大権而已。大権修利、是封号、本名招宝七郎。招宝山在鄮峯、此神祠于此。七郎、蓋行第乎。(略)招宝七郎、恐是弘景乎。(略)七郎亦是大権者、余未信之。)

招宝七郎神とは、道元が帰朝する時に白蛇に化けて随伴した護法の神であること、大権と同じ神だと言う者も多いが、道忠はそれを疑っていることなどが示されている。

確かに、大権修利と招宝七郎の関係は、単純には同一だと言い切れない面がある。ただ、『水滸伝』の記載などから見るに、招宝七郎も一般に額に手をかざす姿が知られていた。すると大権と七郎は同じ神と考えないと甚だ都合が悪くなる。道忠の疑義は無理からぬ点もあるが、やや首肯しがたい。

またここで示される七郎神の性格は様々なものがある。阿育王の子であるとも、陶弘景であるとも、阿育王寺付近の土地の神であるとも、招宝山の神であるとも、航海神であるとも。

元来、民間系の神々は幾つかの性格を併せ持つのが普通である。財神であり武勇の神であり伽藍の神でもある関帝、火神で財神である華光神、水神で武神かつ北方守護の神である玄天上帝など、類似の例は数多く見いだせる。七郎神も、元来は海神であり、また同時に伽藍の神でもあったものであろう。


七郎神が阿育王の子であるとか、陶弘景であるとかの伝説は、恐らくは後に付加されたものであり、些か信用できない。七郎については塚本善隆氏と王麗萍氏が指摘している次のような伝承が早い時期のものであろう(15)

平水大王とは、西晋の周清である。商売を行って台州・温州あたりを行き来し、俗に周七郎と呼んでいた。臨海の林氏の娘を娶り、にわかに杵に乗って海に浮かび龍と化した。その妻と共に姿が見えなくなった。後にある人が彭公嶼においてこれを見た。宋の大中祥符九年に、温州に霊験を顕した。そのために平水大王に封じられた。

(平水大王、西晋周清、以行賈往来台温、俗呼周七郎。娶臨海林氏女、俄乗杵化龍、与女皆不見。後有人遇之於彭公嶼者。宋祥符九年、以顕異於温、錫封為平水大王。

すなわち、七郎とは西晋時代の周清であり、俗にこれを周七郎といった。もとよりこの記載も信ずるに足るものではないが、一応七郎神の古い形を残すものとは言えよう。興味深いのは、七郎の妻を「林氏」としているところである。姓が「林」の海神と言えば、すぐに媽祖(林黙娘)が想起されよう。或いは、七郎と媽祖は元来対となる海神であったかもしれず、七郎神がその姿から千里眼に変化したとも考えられなくは無いが、これはあくまで憶測に過ぎない。また「何々郎」という形も、唐から宋代にはよく見られた神の名称である。四川の二郎神があまりにも有名であるが、他にも関三郎・泰山三郎神などの例が多々存在する。なお、現在では平水大王とは、むしろ治水に功あった禹王を指すものになっている。

『鋳鼎余聞』には、かつて数多くの土地神が、「大王」や「何々郎」という名で存在したことを示す記載がある(16)。その中には、「顧三郎」「陶四郎」「潘七郎」「白八郎」「白馬三郎」「玄陵三郎」「玄陵四郎」「攀花五郎」「西官七郎」「張十六郎」「張十七郎」「陳九郎」など、実に様々な神がある。この一連の記述には、むろん「招宝七郎」の記載もあり、それによれば、七郎神は慧日寺で土地神として祀られていたようである。やはり伽藍神としての影響があったものか。

招宝七郎神が道元禅師に従って来朝したという説話にも、疑問な点は多い。実のところ、天台の円仁と赤山明神、円珍と新羅明神にも似たような話が見受けられるからである(17)。すなわち高僧が帰国するに当たって、その徳に感じた異国の神が行をともにするというものである。もっとも、いずれにせよその信憑性は薄く、単なる伝説である可能性が高い。赤山明神は山東地方の神と伝えられる一方で、「明州の山神」との説もある(18)。明州はすなわち現在の寧波であり、伽藍神であることも含めて、七郎神と赤山明神の共通点は多い。一般に赤山明神は泰山府君であるとされるが、招宝七郎や張大帝と類似した山神、或いは龍神である可能性もあろう。

またこの記事によれば、台州・温州一帯で七郎神の信仰は盛んであったとする。成尋は天台で七郎が祀られているのを見ており、その廟は浙江の南方一帯に広がっていたと解すべきであろう。この信仰の範囲は、微妙に張大帝の信仰圏と接点を持つ。さらに「龍と化した」との記載も興味深い。四海龍王の例を出すまでも無く、海神はすなわち龍神であることが多いからである。

これらのことから、招宝七郎は龍神であったものが、後に仏寺に祀られて伽藍神となったものと推察されるのである。また招宝七郎と大権修利は一般には同じ神として扱うべきであろう。とはいえ、これには若干の問題もある。それについては後段でも検討する。

なお、宋の呉泳の『鶴林集』巻十一には、「龍山真聖観霊感大権尊聖招宝七郎封助霊侯」という一文が採録されており(19)、これによれば、招宝七郎は助霊侯という封号があったと考えられる。


3.阿育王寺とゥ寺に祀る大権修利

先に見た通り、日本の寺院で招宝七郎大権を祭祀するのは、阿育王寺でこれを祀ったことから始まると、道忠は指摘する。

寧波阿育王寺の舎利殿には、現在も招宝七郎大権の像があり、仏舎利塔を劉薩河(慧達)と挟む形で守護している。200512月に阿育王寺を訪れた時、この像は新しいものに変えられているようであったが、その姿は以前のものを引き継いでいるようであった。この像の由来について僧侶に尋ねたところ、残念ながら単なる「護法神」というだけで、その名称も由来も知らなかった。

<阿育王寺・舎利殿における七郎神>

デュルト氏の指摘によれば、フランス極東学院の1914年の調査において、この二体の像は劉薩河と阿育王と認識されている(20)。劉薩河は、阿育王寺の仏舎利に関わる伝承を有する僧侶である。日本の曹洞宗の寺院では、釈尊を中心に、左に達磨、右に大権修利を祀ることが一般的であるが、本来は達磨ではなく、劉薩河であった可能性も高い。招宝七郎大権については、恐らくは周七郎の話に、阿育王或いはその子とする伝承が重ねられていったものであろう。この意味では、周七郎神と、大権修利菩薩とは元来別尊であった可能性もある。

2005年に筆者が阿育寺を調査した時点では、伽藍の神はすでに関帝に変わってしまっていた。同時に寧波天童寺も調査したが、ここの伽藍はやや複雑である。まず天童寺のある一帯は太白山と呼ばれるが、この地の太白龍王が伽藍神であった(21)。これが日本に入った後は、恐らく白山明神との混同が起こったものと思われる。むろん言うまでもなく日本で白山明神が伽藍神となるのは、この太白龍王神の影響であろう。ただ『天童寺志』によれば、後世の伽藍神は周城という人物であるとされる(22)。筆者が調査した所、現在も太白龍王が伽藍として祀られているようである。

伽藍の神は、水神である龍神と、火災に備えるために火徳星君や華光などの火神を祀る場合とがあった。浙江一帯では海に近いためか、龍王を土地伽藍の神とする場合が多いように思える。また中世古氏の指摘によれば、阿育王寺には霊鰻菩薩という龍王の伝承があり、これも大権と混同しやすい(23)


これらの伽藍神が流入するに当たっては、多くの研究者が指摘する通り、道元や俊芿などの入宋僧、さらに蘭溪道隆などの渡来僧が関係しているものと思われる。京都の泉涌寺や建仁寺では祠山張大帝を、相国寺では大権修利菩薩を祀るなど、その痕跡は各所に残っている。この二神とその眷属の他にも、成尋が見た諸神、すなわち王子晋・東嶽大帝・五通神・白鶴霊王が祭祀されていたかもしれない。さらには、天童寺の太白龍王もあり、恐らく浙江一帯で伽藍とされていた神であれば、すべて祭祀されていた可能性があるのである。いま現在残っている伽藍神像は、実はそのごく一部が残存しているにすぎないのであろう。

鎌倉の建長寺には元来土地堂があり、現在仏殿に祀られる五体の伽藍像は、すべてこちらにあったと考えられる。中世古氏の示唆するところによれば、こちらでは「土地龍神」が祀られているとされていた(24)。土地神や龍神が伽藍を守護する神とされる、と解すべきであろう。なお2006年夏に建長寺を訪れた際には、五体の伽藍神のうち一体は、鎌倉国宝館において展示されていた。

現存する建長寺の五体の伽藍のうち、三体は張大帝とその眷属である感応使者、それに掌簿判官である。この三体は組み合わせて置かれていた可能性も高い。残りの二体は、道忠の考察によれば、招宝七郎と大権修利であるとする。しかし先にも見た通り、この両者を別の神と考えるのは難しい。

問題は、五体の神のうち手を額にかざすポーズを取るものが一体も無いことである。或いは、この二体は双方とも大権七郎でない可能性もある。三山氏はこれらの像と円覚寺・海蔵寺・覚園寺の伽藍像を詳細に比較し、無著道忠の論を念頭に置きつつ像の比定を行っている(25)。その推論は非常に精緻なものである。田中知佐子氏は、この論を踏まえつつ、残りの二体を大権修利と土地神とする(26)

またもう一つの問題は、銘文を有する覚園寺の伽藍像の存在である。この三体は、手を額にかざす大権菩薩と、笏を持つ大帝菩薩、さらに恐らく如意を持つ修利菩薩の三種であると明確に記している。このうち、大帝が張大帝を指すことは問題無い。しかし、一方で大権と修利を別の神とするのである。この像は応永25年(1418)に作られたものである。実際、幾つかの記録は、この三神を「大帝・大権・修利」菩薩と記す。この三神を別のものと考えている可能性は高い。

さて覚園寺の伽藍像は、建長寺像を模したと思われるが、そう考えると、現在の建長寺には大権像に該当するものは無いことになる。そして、片方の手を挙げて、もう一方の手を下げる像については、これを修利菩薩の像と見なすことも可能である。あくまでこの覚園寺の像を基準に考える限り、建長寺に残る五体の像は、張大帝・掌簿判官・感応使者、それから元来は如意を持っていたであろう修利菩薩と、さらに名称不明の一体となる。そして恐らく、手を額にかざす招宝七郎大権像が本来はあったものが、後に失われてしまったものと考えるべきであろう。やはり大権七郎である以上は、手に額をかざす姿を持っているものだけをそれと認定せざるを得ない。

2006年夏に福井永平寺を訪れたが、その仏殿に祀る伽藍神を、招宝七郎大権修理と土地護伽藍神としていた。招宝七郎は新しいものに見えたが、これは例によって額に手をかざす像である。これからすると、七郎と土地神という二種の神があったようにも思える。ただ、宝物殿には掌簿判官と監斎使者の像を置く。掌簿判官については地獄の判官とされることが多く、或いは張大帝とは関連が薄いかもしれない。永平寺で土地伽藍とされるのは張大帝か、また天童寺を模したとすれば、太白龍王である可能性もあり、やや断定し難い。


4.招宝山の七郎と東海龍王神

寧波の東側に海に面した鎮海地区に招宝山という小山がそびえ立っている。かつて中国へ航海してきた船舶は、この山を目印に寧波に入港してきたと言われている。

佐々木章格氏の指摘によれば、かつてこの山には手に額をかざした仏像があったという。恐らくは招宝七郎のことであろう(27)2006年夏に筆者も招宝山を調査したが、山上の宝陀寺は観音菩薩を祀る寺院である。また工事中で中を確認することはできなかった。招宝七郎との名称からはこの山との深い関係が想起されるが、実のところこの山と七郎神の関係を示唆するものは少ない。

この地区と深い関係を有する神に、東海龍王がある。東海龍王というと、現在は四海龍王の敖氏四兄弟の長兄・敖広が有名であり、『西遊記』『封神演義』などによるイメージとあいまって、誰知らぬ者の無いほどの神格となっている。

しかし、唐から宋代にかけての東海龍王は、恐らく敖広とは異なった姿の神を指したものと思われる。そもそも四海と称しながら、実際には海の存在が意識できぬ西海と北海に対しては神格も曖昧であり、機能していたのは東海・南海の二龍王だけであった。これらについては、古林森廣氏の詳細な分析がある(28)

このうち、南海龍王は広東地方で信仰されていた南海広利王である。現代においても、南海洪聖王として姿を変えて残っている。この神についても多々問題はあるが、ここでは詳しくは述べない。


さて、宋代の東海龍王、すなわち広徳王については、その廟は明州定海県にあったとされる。古林氏の指摘によれば、その場所は招宝山であるとする(29)。さらに、この神は特にここから入港することの多かった高麗の人々に重視されていたという。これにより龍神である招宝七郎や、また新羅明神との関連も想起されよう。

龍神であり、さらに同じ地域に祭祀される神であることから、東海龍王が招宝七郎であると見なすことも可能である。しかし、両者にはこれほど多くの共通点がありながら、互いに同一であるとする記録は全くと言ってよいほど無い。記録によれば、招宝山の上にあった東海龍王廟は、元来は県城の南にあったものが、明の時代に移されたものである(30)。現時点では、この地区で招宝七郎と東海龍王の二神がそれぞれ併存していたものと考えることにしたい。ただ、両神はその性格の類似から、混同されやすかった面はあろう。

柳和勇氏の指摘によれば、寧波から遠からぬ舟山一帯では東海龍王神の信仰が盛んであったようである(31)。その形象は、人間界の帝王のような様子であり、手には如意を持っていたとある。現在でも東海龍王敖広とその住居である水晶宮は「龍宮」として富貴の象徴であるが、恐らく龍王の手に持つ如意とは、その富を示すものではないかと思われる。

ここで再び鎌倉覚園寺の像について考えてみたい。すなわち、手を差し上げる大権菩薩と、如意を持つ修利菩薩の二体が存在した。これからすると或いは修利菩薩とは、東海龍王であったかもしれない。つまり招宝七郎と東海龍王を、共に航海守護の神として併置してあったものを、片方を大権菩薩と称し、片方を修利菩薩と誤った可能性がある。すなわち覚園寺には、東海龍王神と招宝七郎大権と祠山張大帝の三体が祀られているのであり、この三者は元来、すべて建長寺にもあったとすれば、一応の解釈は成り立つ。これはまた古い記録が「龍王と護法」としている事実にも符合する。とはいえ、これは現時点ではあくまで憶測の域を出ない。


さて九州の平戸において「七郎権現」という神が祀られており、これがすなわち七郎神を指すであろうことは、無著道忠が指摘している通りである(32) 

肥前の平戸に神があって、名を「七郎権現」という。これは招宝七郎のことであろう。昔中国からの貿易船はほとんど平戸に来港し、盛んであった。そのために中国人がこれを祀り、航海の守護神としたものである。現在の長崎の媽祖神と同じようなものと言えよう。いまその神社の扁額を見るに「紹法」の二字がある、これこそ「招宝」が訛したものに違いない。

(肥前州平戸嶋、有祠神、名七郎権現、蓋招宝七郎也。昔唐舩来皆著於平戸、故唐人祭之、為護舶之神。猶如今時長崎媽祖。今存其祠扁紹法二字、蓋訛招宝也。

もっとも、現在七郎神を祀った七郎宮は元来の場所には無く、平戸城の二の丸に位置する亀岡神社に合祀されている。一方で平戸の七郎権現には「十城別王に従った武将で、七郎氏広という者である」(33)との伝承もあり、実のところ、伝承面では七郎神との共通性は少ない。

筆者は20069月に平戸の七郎宮の調査を行った。七郎宮は平戸の宮の前にあったもので、元来はまさに海に面していた。その後に海岸の埋め立てが行われて位置はやや後退し、さらに元来七郎宮のあった所はスーパーマーケットになっていた。いまは小社をその後方に存しているものの、当時のものとしては亀岡神社にある鳥居や、平戸城に蔵される宝剣など数点を残すのみである。そのため道忠の見た扁額なども確認することはできなかった。ただ、幸いに訪れた松浦史料博物館で『神社帳抜書』の複写を見ることができ、そこには明確に「紹法七郎大権現勅額」と記してあることが確認できた(34)。この記載とその神社の位置から、これを招宝七郎が祀られたものと認めてほぼ間違いはなさそうである。

<平戸の七郎宮跡>

ただ、明以降には七郎の信仰が衰え、また貿易の拠点が長崎に移ったために、徐々に由来が忘れ去られていったものであろう。他の地域で七郎氏広の伝承を見ることが少ないのも、結局は七郎神が渡来神であることを示唆するものと思われる。


結 語

このように招宝七郎大権は、龍神=海神として、また伽藍神として宋から明にかけての中国で広く祀られる神であった。さらに日本では平戸にても祀られた。ところが、その後、航海守護神は福建系の媽祖神の力が強くなり、中国では伽藍神であることも忘れられ、信仰が衰退していったものと考えられる。ついには阿育王寺でも、その名すら不明確になってしまっている。

ただ、日本において宋代の文化を伝える寺院でその像を祀ることから、信仰が僅かながら保持されたものである。民間信仰についてはその変容が激しく、恐らくは宋代の姿は全く今と違ったものであったろう。さらに東アジア一帯で海を飛び越えて信仰される海神は媽祖以外にも多様な神々があったはずである。その当時の宗教文化の一端を今に伝えるものとして、招宝七郎神は非常に貴重な存在であると考えられる。


1.    塚本善隆「成尋の入宋旅行記に見る日中仏教の消長」(『塚本善隆著作集』第6巻『日中仏教交渉史研究』大東出版社・1974年)8485頁。

2.    王麗萍「入宋僧成尋と道教」(勉誠出版『アジア遊学』第73号・2005年)130頁。なお成尋の入宋については、藤善真澄『参天台五臺山記の研究』(関西大学出版部・2006年)、また王麗萍『宋代の中日文化交流史研究』(勉誠出版・2002年)などを参照。

3.    H・デュルト「日本禅宗の護法神:大権修利菩薩について」(『印度学仏教学研究』64号・1984年)128129頁。

4.    佐々木章格「日本曹洞宗と大権修理菩薩」(『曹洞宗宗学研究所紀要』創刊号・1988年)3245頁、中世古祥道「招宝七郎大権修理菩薩について」(『宗学研究』35号・1993年)232237頁。

5.   三山進「伽藍神像考―鎌倉地方の作品を中心に―」(『MUSEUM』第200号・1967年)1227頁、及び田中知佐子「建長寺伽藍神像の源流について」(第56回日本道教学会大会・2005年・専修大学における発表)要旨は『東方宗教』第107号・2006年・94頁に採録。

6.     『容与堂本水滸伝』(上海古籍出版社・19881133頁。

7.     『元曲選外編』(中華書局・1959年)652頁。

8.    前掲『元曲選外編』690691頁。

9.    前掲王麗萍「入宋僧成尋と道教」129頁。

10.  拙稿「祠山張大帝考―伽藍神としての張大帝―」(『関西大学中国文学会紀要』第28号に掲載予定)を参照。

11.  拙稿「萬福寺伽藍堂の華光菩薩像について」(『黄檗文華』第122号・黄檗山萬福寺文華殿黄檗文化研究所・2003年)120124頁を参照。

12.  無著道忠『禅林象器箋』(柳田聖山主編『禅学叢書』中文出版社・1990年)175頁。なお訓点は省いた。

13.  前掲無著道忠『禅林象器箋』178179頁。

14.  前掲無著道忠『禅林象器箋』180181頁。

15.   『天台山方外志』巻十より(前掲塚本善隆「成尋の入宋旅行記に見る日中仏教の消長」84頁、及び王麗萍「入宋僧成尋と道教」130頁)。

16.   姚福均『鋳鼎余聞』(王秋桂・李豊楙編『中国民間信仰資料彙編』第一輯・台湾学生書局・1989年)276307頁。

17.   山本ひろ子『異神』上巻(筑摩書房・2003年)8588頁。

18.  前掲山本ひろ子『異神』上巻84頁。

19.  呉泳『鶴林集』巻十一(『四庫全書』)。なおこれは関西大学東西学術研究所CSAC所蔵の『四庫全書』及び『基本古籍庫』のシステムを使って検索を行ったものである。

20.  H・デュルト「日本禅宗の護法神:大権修利菩薩について」128頁。

21.   CBETA電子仏典(http://w3.cbeta.org/index.htm)の検索による。すなわち『卍新纂続蔵経』第84No. 1583『続灯正統』臨済宗大鑑下第二十世霊隠嶽禅師の項。

22.  聞性道等撰『天童寺志』(『中国仏寺史志彙刊』明文書局・1980年)719頁。

23.  郭子章等撰『明州阿育王山志』(前掲『中国仏寺史志彙刊』)303305頁、及び前掲中世古祥道「招宝七郎大権修理菩薩について」235頁。

24.  前掲中世古祥道「招宝七郎大権修理菩薩について」233頁。

25.  前掲三山進「伽藍神像考―鎌倉地方の作品を中心に―」1227頁。

26.  前掲田中知佐子「建長寺伽藍神像の源流について」要旨94頁。

27.  前掲佐々木章格「日本曹洞宗と大権修理菩薩」44頁。

28.  古林森廣「宋代の海神廟に関する一考察」(『吉備国際大学研究紀要』第5号・1995年)1933頁。

29.  前掲古林森廣「宋代の海神廟に関する一考察」21頁。

30.  鎮海区志編纂委員会編『招宝山』(寧波出版社・2006年)41頁。

31.  柳和勇「舟山寺観・祠廟的海洋文化内蘊」(『浙江海洋学院学報』人文科学版2003年第4期)2932頁。

32.  前掲無著道忠『禅林象器箋』180頁。

33.  久家孝史「平戸港周辺の寺院と石造物」(『石造仏研究会第4回研究会資料・海をこえての交流』2003年)4頁。

34.  この資料の閲覧に当たっては、松浦史料博物館の久家孝史氏、また天理大学の藤田明良氏に多大なるご助力をいただいた。感謝の念に堪えない。


付記:小論は2006年度文部科学省科学研究費・特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」の民俗信仰班(「浙江・江蘇地域の道教・民俗信仰に関する廟宇・祭神・儀礼調査」研究代表者・二階堂善弘:課題番号17083038)による成果の一部である。


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