漳州の寺廟について

二階堂 善弘


前 言

福建南部にある漳州は、古来貿易港として発展した街である。また福州や泉州と同様に宗教信仰が盛んであり、数多くの廟宇が建てられている。台湾に渡来した移民の多くは、福建南部の出身であり、現在の台湾の廟の祖廟とされるものが多く存在することでも知られている。

福建においては、以前に泉州の寺廟を訪れて若干の報告を行った(1)。時に近隣の漳州についても多くの寺廟が残されていることを知りながら、日程の関係で訪れることができなかった。このたび2005年の322日から25日まで、非常に短い日程ではあったが、かの地を訪れる機会に恵まれ、幾つかの寺廟を見ることができた。ここでは若干の廟について、その現状を中心に報告したい。


さて、漳州はかねてより多くの廟宇があることで知られていた。これはすでに南宋の頃からそうであったようで、その出身である陳淳をしてこのように嘆かせている(2)。

わたしが思うに、南方の人はとにかく淫祠を好むようだ。しかしここ漳州の風俗はその中でも最もひどいものではないか。街から村落に至るまで、淫祠に祀られる鬼の名称は様々である。その廟宇の数たるや、数百箇所にものぼると思われる。これらの淫祠は各廟に神を迎える儀式があり、毎月のように「迎神の会」が行われている。新春になると、すぐに迎神のための財物を調達しようとする。例えばある所では、土偶に装いをこらしてこれを「舎人」と呼び、一団の隊列を組み、人家に突入していき、財物を要求する。その金額は、多い者では一万銭にもなり、少ない者でも一千銭は下らない。(略)このような廟宇の中でも、ただ威恵王(開漳聖王)の廟だけは、(略)王朝の封錫したものでもあるし、礼制に合致しているというべきである。(略)しかしながら所謂聖妃(媽祖)などというのは、甫田あたりの鬼である。いったいこの漳州と何の関係があるというのか。また所謂広利(洪聖王)という者も、広州地方の鬼である。いったいこの漳州にどんな利益があるというのか。(略)東嶽とは泰山であり、魯の地方の神である。だから魯でこれを祀ることは正しいだろう。しかしこの漳州をはじめとして、あちこちの地方で東嶽の廟があるのはおかしな話ではないか(3)。

まことに正統派の儒者たる陳淳らしい厳しい見解である。東嶽大帝は、現在でも中国の各地に廟があるが、陳淳に言わせれば、いまや全国的に奇妙なことをやっていることになるのかもしれない。ただここで言及されている神々、開漳聖王・東嶽・媽祖などは、当時そのままの姿ではないであろうが、今の漳州でも祀られている。その意味では貴重な記録と言えよう。

さらに『福建通志』の巻二十三には、漳州の寺廟について所在や祭神についての記載がある。これには清代の状況が記されているが、廟宇の位置については、現在でも一致するものが多い。漳州の寺廟は、これらの記述と現在の状況を見合わせると、非常に強固な伝統を有するものと考えられる。以下では各廟の特色について見てみたい。


1.二つの保生大帝廟

保生大帝は福建・台湾で広く祀られる神である。医薬の神であり、神農大帝とともに尊崇を受けている。台北の保安宮は台北でも屈指の大廟であり、その祭りは台北三大廟会の一つに数えられている(4)。さらに台湾では、有名な学甲鎮の慈済宮をはじめとして、無数の保生大帝廟がある。

これらの台湾に数多く存在する保生大帝廟の祖廟とされるのは、漳州・廈門にある青礁・白礁の慈済宮である。ここは保生大帝・呉夲が生前に住んでいたところとされる。

しかし、問題はその祖廟が二つ存在することである。すなわち青礁の慈済東宮と白礁の慈済西宮の二箇所に、同じ名の「慈済宮」が存在する。また両廟の距離はそれほど遠くない。何故このように二箇所の同名の廟があるのかについては、『漳州掌故』に次のような記載がある(5)。 

医術の神として祀られる大道公とは、民間において医薬を業としていた者で、姓は呉、名は夲(音はトウ)、字は華基、号は雲冲という人物である。その祖は河南濮陽の人であったが、唐代の中和四年(884年)に閩南に移住した。当初はその家族は安渓の石門に居住していたが、後に漳州龍渓県青礁(現在の廈門海滄)に移り、さらに泉州同安県明盛郷積善里白礁(現在の龍海市角美鎮)に移った。すなわち呉夲は白礁に生まれ、成長して後は青礁と白礁の間の龍湫坑に廬を結び、薬草を採り、丹を練っていたのである。(略)宋の高宗紹興二十一年(1151年)、詔を下して「医霊神祠」を建て、名を「慈済」と賜った。青礁と白礁においては、それぞれ異なる慈済神祠が同時に造られたのである。(略)白礁と青礁は、現在は別の行政単位に所属しているものの、二つの慈済宮は一里あまりの距離しか離れていない。区別しやすくために、青礁の方を「慈済東宮」、白礁の方を「慈済西宮」、或いは「慈済南宮」と称するようになった。 

すなわちこれによれば、創建当初から二つの慈済宮があったことになる。


『福建民間信仰』及び『閩台民間信仰源流』の指摘によれば、青礁東宮には楊志の記した「慈済宮碑」があり、白礁西宮には荘夏の記した「慈済宮碑」がある(6)。いずれも呉夲が没してより百数十年後に書かれたものであり、伝承に類する部分も多い。これらの記載によれば、この両廟は早くから存在したことになる。ただ、互いに相手方の廟をどのように考えているかは微妙な問題であるようで、例えば白礁西宮で入手した廟の案内には、青礁東宮に関する記載はほとんど見えない。

 

慈済東宮の外観と内部


調査初日にまず訪れたのは青礁東宮である。やや交通が不便でタクシーを利用した。しかし驚くべきことに、運転手は廟の所在さえ知らなかった。さぞかし台湾のビジネス客が参拝に訪れているであろうと予想していただけに、意外の感もあった。やむなく地図を頼りに探すことになった。とはいえ、青礁東宮は幹線道路に近く、広大な敷地を持つ所で、比較的容易に探すことができた。現在の殿宇は1991年に改建されたもので、新しい碑文によれば台湾の諸廟に寄付を募ったものであるという。両側は文廟・武廟となっていた。

続いて白礁西宮に向かった。こちらは幹線道路からはずれており、やや見つけにくかった。かなり改築されているものの、内部は伝統的な殿宇がよく保存されており、廟の中心部には古い祭壇や石獅子などの文物を残している。またその符は、非常に古い版木を使って刷られている。

 

慈済西宮の外観と内部

青礁東宮と白礁西宮は、周囲の状況に差異があるため、一見異なる印象を受けるものの、廟自体の構造は非常によく似ている。台北の保安宮と合わせ、これらの廟宇が共通の信仰を背景として建てられたものであることを印象づけられた。 


2.開漳聖王廟・関帝廟

開漳聖王は漳州の守護神であり、台湾では漳州出身者がこの神を祀り、同郷者のコミュニティを構成した。そのため、台湾には現在でも数多くの開漳聖王廟がある。台北では士林区芝山巌にある恵済宮が最もよく知られている。開漳聖王という称号は、まさに漳州を開いたという意味であり、地方神としての特色を色濃く反映した神である。

開漳聖王は、名を陳元光、字を廷炬といい、唐代の将軍である。父の陳政に従って福建に入り、陳政の死後将軍職を継いで福建を平定したという。まだ蛮夷の風を残すこの地で陳元光は教化に励んだという。その功績を称えて、宋代には「輔国将軍」、明代には「威恵開漳聖王」に封ぜられたとある(7)。『福建通志』には、「威恵廟は北門外にあり。宋の建炎四年に建てられた」との記載がある(8)。台湾の陳姓の者は、この神をその祖先として祭祀することも多い。

現在漳州市内にある威恵廟は、九龍江沿いの威鎮閣の近くにある。正面から見た限りでは、ここが廟だと分からないような造りである。むしろ洋風と言えるかもしれない。ただ、横から見れば、後部に伝統的な屋根を残していることが看取できる。どうも一時は別の施設として使われていたようで、現在の様相は、とりあえず廟として復活させただけのように思われる。

 

威恵廟の前面からと側面から


三国の武将である関羽を祀る関帝廟は、漳州市内だけでも、古武廟・新武廟など数カ所がある。また台湾との関係からすれば、東山武廟が特に有名である。東山武廟は、台湾の各所の関帝廟に分祀を行ったことで知られている。今回は時間の関係で東山武廟を見ることはできなかった。

市内の廟で見ることができたのは、市内の古武廟・崇福宮の両廟である。

一般に官製の関帝廟を武廟と呼ぶが、漳州にはそれが二つあり、創建時代によって古武廟・新武廟と呼んでいた。これについて『漳州掌故』は次のように述べる(9)。 

漳州城内の官製の関帝廟は二箇所ある。一つは地方官僚の建てたもので、城の西にある。これを古武廟という。その付近の土地は、廟にちなんで古武廟街と呼ばれる。(略)もう一つは芝山の下、開元街にある。これは明の万暦年間に総兵の呼良朋が建てたものである。こちらを新武廟と呼ぶ。

古武廟は市街の中心部に位置するためか、家屋などが密集しており、また建物自体もかなり老朽化していた。近々に改建の予定とあったが、それでも熱心に参拝する人の姿が多く見られた。

崇福宮は岸辺にある廟で、かなり広い敷地を有する廟宇であった。山西関帝廟からの分祀と大書された碑があったが、これは1995年の比較的新しいものであった。それより廟脇にある「大廟碼頭」の碑は、万暦十年(1582年)の日付があり、創建の古さを伺わせるものであった。その隣には乾隆年間の重建に関する碑があった。廟の管理人に聴いた所では、廟は南宋の創建であるとのことであったが、ただこれについては何とも言い難い。

 古武廟

 崇福宮


3.東嶽廟・媽祖廟・真武廟

漳州の東嶽や媽祖廟については、先に見た陳淳の言にあったように、南宋代からすでに存在したと思われる。これらについては『福建通志』にも記載がある。媽祖廟については、威鎮閣の下の鶴沙廟など、小さな廟を市内で幾つも見かけた。

東嶽廟は城の東にあったとされるが、訪問した時点ではこの一帯は再開発がなされており、道路の拡建のために周囲の建物は壊されていた。ただこの東嶽廟については新規に建て直したとみえ、真新しい廟が存在した。残念ながら完成直後であったようで、内部の調査はできなかった。

真武廟、すなわち玄天上帝廟である鳳霞宮は、文化街と呼ばれる一帯にある。やはり家屋の密集した地区にあり、殿宇は非常に狭いが、かなり古くから存在したものと思われる。内部には嘉慶年間の碑文があった。主神はむろん玄天上帝で、脇には王霊官と馬元帥の像があった。この両者の組み合わせは珍しい。奥は三清を祀り、伝統的な道教系の廟であることを伺わせるものであった。

 東嶽

 真武廟 


4.南山寺・孔子廟

南山寺は漳州城より九龍江を隔てた南側にある、広大な面積を有する寺院である。創建は古く唐代であると言われる。山門から入ると、弥勒・韋駄・四天王のいる天王殿があり、次に大雄宝殿がある典型的な中国式の仏寺である。ただいずれも新しく改修したようで、かなり新しい殿宇が目立った。古いものでは、元の元祐年間に造られた大鐘がある。元来ここは唐代に陳邕が建てた邸宅であり、後にそれが寺院に転用されたと言われるが、奥には陳邕を祀った陳大傅祠がある。

中国において寺院や道観などを訪れる時いつも感ずるのが、大陸での仏教信仰の圧倒的な強さである。孔子を祀った文廟に参拝する者は極端に少なく感じるが、また道観でも、廟会の日はともかく、有名な廟でも普段は、押すな押すなという状況までにはならないものである。しかし寺院においては、それこそ何度も山のように押しかける参拝客を見かけた。これは台湾や香港とはまた状況が異なっているかもしれない。この南山寺でも、多くの参拝客を目にした。しかもかなり熱心な者がいたようで、観音や羅漢の前で五体投地して拝礼する姿を幾人も目にした。

漳州の中心部、かつて衙門があった一帯は、中山公園の南にあり、老街と呼ばれる古い町並みを保存して整備している。この近くでは大きな家廟を幾つも見かけた。

その中でも中心的なものは孔子を祀った文廟であろう。かつて朱子は漳州に知府として赴任し、先に見た陳淳はその教えを請うた。道教や民間信仰の廟が多く存在する一方で、書院も多く見られる。崇福宮の近くにある霞東書院は、また文昌帝君を祀る廟でもあった。そういった儒教系の廟宇の中心となるのはむろん文廟である。ただ、南山寺や関帝廟に比べると、ほとんど参拝する者はいないと言ってよいほど少なかった。

 南山寺・大雄宝殿

 文廟・大成殿


結 語

以上で言及したのは漳州でも比較的大きな廟であり、この他にも城隍廟や王爺廟など、無数の小廟を見た。以前調査した泉州や廈門と同様、ほとんどの廟は入場料が不要であり、この点はやはり台湾の宗教文化と通じるものがあった。

漳州でも他の大陸の諸都市と同じく、あちこちで市街の再開発が進められている。街の中心部には、ほぼ城市を斜めに横切るほどの長大な老街が続いているが、衙門の近くにおいて整備されている地区を除いては、ほとんど建て直されてしまうようである。ややもったいない気がした。

ただ、再開発においては、例えば九龍江の川沿いの土地は、ほとんどの建物が壊されていた一方で、姜公祠や蘇府王爺廟など、廟については壊さずに残す傾向が見られた。伝統的な廟宇については保存しようとする姿勢であり、評価できるものである。

それにしてもこの漳州を始め、福建の各地区には無数の古廟がよく残されているのに驚く。管理する者に尋ねると、南宋から続くものだと称する場合が多いが、あながち虚言でもなさそうである。

ただ若干気になる傾向もあった。例えば真武廟の近くで、とある小廟を見かけたのであるが、外見は完全に一般の廟宇なのに、中は仏菩薩を祀り「七宝寺」と称していた。中には熱心に拝む者がいて、それはそれでよいのだが若干腑に落ちない面もあった。外側に古い碑文があったので、見たところ、清の嘉慶十七年(1812年)のものであった。それを見ると、ここには元は三官大帝が祀られていたと記されている。このように、幾つかの廟はその主神を入れ替えてしまっているようなのである。この他にも、祭神が変更されていると疑われるものを幾つか見かけた。伝統的な廟でもこのようなことがあるので、注意が必要である。


1.      拙稿「2003年度廈門・泉州寺廟調査報告」(『中国都市芸能研究』第3輯・2004年)4349頁。

2.      陳淳『北渓大全集』巻四十三「上趙寺丞論淫祀」(台湾商務印書館『四庫全書珍本』・1973年)、これについては田仲一成『中国祭祀演劇研究』(東京大学出版会・1981年)2225頁の訳を参考とした。

3.      原文:某竊以南人好尚淫祀、而此邦之俗為尤甚。自城邑至村墟、淫鬼之名号者至不一、而所以為廟宇者、何啻数百所。逐廟各有迎神之礼、随月送為迎神之会。自入春首、便措置排辦迎神財物。事例或装土偶名曰舎人、群呵隊従、撞入人家、迫脅題疏、多者索至十千、少者亦不下一千。(略)惟威恵一廟(略)国朝之所封錫、応礼合制。(略)所謂聖妃者、甫鬼也、於此邦乎何関。所謂広利者、広祠也、於此邦乎何与。(略)嶽泰山魯鎮也、惟魯邦之所得祭、而立祠於諸州也何謂。

4.      拙稿「台北保安宮と保生大帝」(『コミュニケーション学科論集・茨城大学人文学部紀要』第7号・2000年)5563頁。

5.      陳僑森・李林昌『漳州掌故』(福建人民出版社・2003年)244245頁。

6.      林国平・彭文宇『福建民間信仰』(福建人民出版社・1993年)217219頁、また林国平『閩台民間信仰源流』(福建人民出版社・2003年)123125頁参照。

7.      前掲林国平『閩台民間信仰源流』169頁。

8.      陳寿棋等撰『福建通志』(華文書局・1968年)589頁。

9.      前掲陳僑森・李林昌『漳州掌故』247頁。


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