祠山張大帝(伽藍神探求2)

祠山張大帝とは

鎌倉の建長寺、寿福寺(じゅふくじ)、京都の建仁寺、東福寺、泉涌寺(せんにゅうじ)など、鎌倉室町期に中国とさかんに交流のあった寺院に伽藍神として祀られているのが祠山張大帝(しざんちょうたいてい)です。

多くの寺院では、招宝七郎と並んで祀られています。 南宋期には、中国を代表する神であったと思います。しかし、その後信仰は衰えて、いまではごく少数の廟でしか祭祀が見られません。

<鎌倉寿福寺の祠山張大帝>

張大帝の来歴

この神は招宝七郎とは異なり、『三教捜神大全』や『陔余叢考(がいよそうこう)』などに記録がありますので、それなりに信仰が残った神となっています。

明(みん)の初め頃まではメジャーな神でした。おそらく関帝よりも、張大帝のほうの信仰が強かったのではないかと考えられます。ただ、封号としては「王」どまりですので、ほんらいの称号としては「祠山張王」が正しいと思われます。 南京十大廟のひとつにも数えられていますし、『西湖二集』には「祠山張大帝、天下鬼神爺」 と記載があります。それほど信仰が大きかったわけです。

『三教捜神大全』の祠山張大帝の記載によれば、次の通りです。

祠山聖烈真君は、姓を張、名を渤、字を伯奇といい、武陵龍陽の人であった。父を龍陽君といい、母を張媼といった。(略)懐胎すること十四ヶ月、漢の神雀(神爵)三年二月十一日夜半に張渤を生んだ。張渤は長じて雄偉な貌であり、寬仁大度にして、感情を表に出すことが少なかった。身長は七尺で、鼻が高く美髯あり、髪を垂らせば地に届いた。そして水火の術に通暁していた。

ある時、張渤に向かって神が現れ、「この地は荒僻にして、家を建てるところではない。他の場所に行くように」と命じた。時に神獣が前を導いたが、その形は白馬のようで、その声は牛のようであった。張渤は夫人李氏と共に東のかた呉の会稽に遊び、浙江を渡り、苕雲の白鶴山に至った。山には四つの河が流れ、その流れは山の下で会した。張渤公はそこに居住することにした。(略)

唐の天宝年間に、祈雨において霊験があり、始めて水部員外郎に任ぜられた。また「横山」を改めて「祠山」とした。唐の昭宗は司農少卿の位を贈り、金紫を賜った。唐の景宗は「広徳侯」に封じた。南唐においては、司徒とされ、「広徳公」に封じられた。後晋では「広徳王」とされた。宋の仁宗は「霊済王」に封じた。寧宗の代に至り、号を加えて八字の王とした。理宗の淳祐五年、改封して「正佑聖烈真君」とした。咸淳二年十二月十二日に至り、加封せられて「正佑聖烈昭徳昌福真君」となった。

すなわち、安徽の広徳がその聖地とされます。広徳はずっと張大帝信仰の総本山とされ、かつては壮大な廟があったようです。 また清の趙翼は、『陔余叢考』で次のように述べます。

程棨の『三柳軒雑識』に、広徳の祠山神は、姓を張といい、豚肉を食すのを避けるとある。また『祠山事要』を引いて言う。張王は始め長興県から広徳に流れを通じさせようとし、変身して猪となり、陰兵を駆使して開鑿を行った。夫人の李氏がこのさまを目撃したため、その工事を途中で止めた。しかしこれよりその祭祀には豚肉を避けるようになったのである。(略)また『文献通考』には、祠山の神は広徳にあり、その土地の者は多く耕牛をもってその進物となしたとある。

この「祭祀には豚肉を避ける」という習慣はずっと続いていたようで、張大帝の広徳の祭りは、牛肉祭りとしても知られていました。宋代は牛肉を食べるのは禁じられていたので、官僚は禁止します。それでいったん止むんですが、また管理が緩くなるとすぐにまた戻ります。清代くらいまで、ずっと官僚と庶民のイタチごっごは続いたようです。

伽藍神としての張大帝

張大帝が日本に来たのは、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)と関係が深かったからだとされています。無著道忠(むじゃくどうちゅう)は『禅林象器箋』において招宝七郎と同様に、張大帝についても検討を加えていますが、以下のような伝承があるようです。

蘭渓道隆がまだ中国にいた時、ある異人と会ったが、その異人は「汝の縁は東方にあり」と予言して消え去る。ところが、その姿は後に見た帰宗寺に祀られる張大帝とそっくりであった。このことを不思議に思っていたが、さらに明州の天童寺にいたときまたこの異人が現れて、日本への船に乗るよう勧める。この異人は、やはりこの地に祀る張大帝の像と、瓜ふたつであった。この霊験に感じた蘭渓和尚は、自分が伽藍を建てる時は、この神を土地の守護神として祀ると焼香して誓った。

また泉涌寺における俊芿(しゅんじょう)の影響についても指摘されています。いま泉涌寺の仏殿後方には、張大帝が祀られていますね。

<京都泉涌寺の張大帝>

建長寺には5体の伽藍神がいます。この伽藍神が何なのかは、無著道忠以来ずっと議論があります。

<鎌倉建長寺の伽藍神>

後ろの立像2体は、掌簿判官(しょうぼはんがん)と感応使者(かんのうししゃ)であるとされます。これらの神と張大帝の組み合わせは、他の寺院でもよく見ます。 手前の3体のうち、どれが張大帝かは意見がわかれるところです。

自分は、真ん中の手を揃えて笏を持つ1体が張大帝だと思います。そして、向かって左側の神は白山龍王、右側の神は不明です。 詳しくは、幾つかの論文を参照してください。ただ、今後まだ意見が変わる可能性はあります。

大陸における廟

現在、信仰が衰えてしまったとはいえ、中国大陸ではまだ幾つかの祠山張大帝の廟を見ることができます。 以前、浙江省の湖州の南潯(なんじん)にある広恵宮を調査しました。俗に「張王宮」とも称されるこの廟は、伝承によれば北宋の治平年間に建てられたといいます。 もっとも、主神が入れ替わってしまっていまして、あまり信仰はさかんではないようです。

<湖州広恵宮>

総本山である安徽広徳の祠山殿も見ました。ただ、こちらもいかにも建てなおしたという感じのものです。とはいえ、本拠地で信仰が消えてないことは確認できました。

<広徳祠山寺>

むしろ信仰が強いのは、江蘇省南京市の南方に位置する高淳(こうじゅん)の椏溪鎮(あけいちん)あたりでした。この近くには張大帝の廟がまだ数カ所残っており、かつ廟会も行われます。

<椏溪鎮張王廟>

このように、探せばまだ信仰は残っています。しかし、かつての信仰に比べれば、かなり縮小しているのも確かです。