天師張虚靖のイメージについて

二階堂 善弘


はじめに

北宋期に活躍した第三十代天師とされる張虚靖は、歴代張天師の中でも特に著名な人物である。南宋から元にかけて、江南の道教界においては、張陵の子孫と称する龍虎山の正一派・張天師の権威が確立していく。その過程の中で特別視され、神話的な要素を付加されていったのが、この第三十代天師張虚靖であった(1。

張虚靖は、また通俗文学作品の中で「法力高強な道士」としてしばしば登場する。しかし、そのような民間における彼のイメージと、「儒雅」(2と評された、史料に見える彼の姿とは、若干の差異があると思われる。

小論では、この張虚靖について、通俗文学作品から、史書や道教経典に至るそのイメージについて考察するものである。そして併せて、張天師の系譜の妥当性についても論じたい。


1.通俗文学作品に見える「張虚靖」

張虚靖の「虚靖」とは号であり、その諱は「継先」であるとされる。但し、通俗文学作品中では、しばしばその号だけで称されることが多い。

張虚靖は史料によれば、本来は、北宋の徽宗朝の頃の人であるはずである。ところが、彼は仁宗期を舞台とした『水滸伝』の冒頭部分に登場する。これではやや時代が合わない。むろん、これを単純に小説の虚構と片づけるのは簡単であるが、そうではない。その背景には、幾つかの事情があり、ここでの張虚靖は、そのまま第三十代張天師の張継先と決めつけることができないのである。

まず、『水滸伝』の冒頭、第一回には次のようにある(3。

洪太尉便問監宮眞人道、天師今在何處。住持眞人向前稟道、好教太尉得知、這代祖師、號曰虚靖天師、性好清高、倦於迎送。…(略)…

看時、只見那一箇道童、倒騎着一頭黄牛、横吹一管鐵笛、轉出山凹來。…(略)…

眞人道、太尉可惜錯過、這箇牧童正是天師。…(略)…這代天師、非同不可、雖然年幼、其實道行非常。他是額外之人、四方顯化、極是靈驗。世人皆稱爲道通祖師。

梁山泊に集う豪傑たちは、百八の魔星の転生なのであり、龍虎山の伏魔殿に封じ込められていたものである。その彼らを仁宗が派遣した洪太尉が誤って解き放ってしまうのが、そもそもの『水滸』物語の発端である。ここに張虚靖が登場し、仁宗の乞いによって、瘟疫の祈祷を行うことになっている。ここでの張虚靖は、牧童と見まごうほどの年少者として現れる。しかもその若さに似ず、強大な法力を持つ人物とされる。


ところで、張天師の系譜から考えるに、当時の張天師は、第二十五代張乾曜、号を澄素先生という人物であるはずである。むろん、これは機械的に考えたものである。

しかし、実は『水滸伝』のこの部分では、この天師を第何代であるとも、張継先であるとも言ってはいない。単に「張虚靖」と称するのみである。しかし、張虚靖の「虚靖」号は、本来は個人に限定された号ではない可能性が高いのである。

一方で、『水滸伝』が基づいたと思われる『大宋宣和遺事』では、有名な蛟退治の話を載せる。ここでは、はっきりと張虚靖は第三十代の張継先であると明言されている(4。

崇寧五年夏、解州有蛟在鹽池作祟、布炁十餘里、人畜在炁中者、輒皆嚼嚙、傷人甚衆。詔命嗣漢三十代天師張繼先治之。不旬日間、蛟祟已平。

繼先入見帝、撫勞再三、且問曰、卿此剪除、是何妖魅。繼先答曰、昔軒轅斬蚩尤、後人立祠於池側以祀焉。今其祠宇頓弊、故變爲蛟、以妖是境、欲求祀典。臣頼聖威、幸已除滅。帝曰、卿用何神、願獲一見、少勞神庥。…(略)…此即蜀將關羽也。…(略)…仍賜張繼先爲視秩大夫虚靖眞人。

この蛟退治の話は、張虚靖の逸話として広く知られている。解州に現れた蛟は、古の蚩尤の化身であり、それが災害を起こしているため、特に張虚靖が道教の神将の関羽を使役して追い払う、というものである。

ちなみに、三国蜀の関羽が道教の神として扱われたのも、実はこの頃より始まったと思われる。解州はまた関羽の故郷であり、その縁から張天師の使役神として使われたと考えられる。後に、関帝廟は顧炎武によって「天下に遍し」(5と嘆かれるまでになるが、その発端は実にここにある。

同様の説話は『三教源流捜神大全』にも見えている(6。そこではやや話の構成を複雑にしているものの、基本的な構造は変わらない。ただ、見過ごせないのは、そこではこの蛟退治の話を、真宗の大中祥符七年(1014)のこととしている点である。『三教源流捜神大全』の記事でも、これを単に「張天師」と称するだけで、誰であるのかは特定できない。


さらに問題を複雑にしているのが雑劇「関雲長大破蚩尤」の存在である。この雑劇の記載によれば、関羽を使役して蛟に変化した蚩尤を退治したのは、明確に張乾曜のことであるとされているからである(7。

貧道姓張、名乾耀、道號澄素。我祖傳道法、戒律精嚴。三十二代、輩輩留傳。貧道在這信州龍虎山居住、毎日修行辧道。…(略)…

小官天朝使命是也。今奉聖人的命、着小官直至信州龍虎山、請虚靜天師。

この雑劇では、主役の張乾耀(張乾曜)を「三十二代天師」とし、さらに「虚静天師」と称している。むろん、この記載を単なる誤りと見ることもできる。しかし、少なくともこの資料は、張乾曜もまた「虚靖先生」の号を持っていた可能性を示唆するものと言えよう。

もっとも実際に、第二十五代張乾曜と、第三十代張継先の二人の張天師は、非常に混同されやすい面を持っている。いま『歴世真仙体道通鑑』の記載に拠るに(8、張乾曜については、「宋の天聖八年(1030)、仁宗に招かれて朝廷に赴き、澄素先生の号を賜った」ことが見え、また張継先については、「宋の崇寧年間(1102−1106)、徽宗に招かれて朝廷に赴き、虚靖先生の号を賜った」ことが見えている。そしてこの両天師の間に挟まれた第二十六代から二十九代までの天師には、特別に目立つ事績らしきものが見えない。


これについては、通俗文学以外の文献から傍証を得ることができる。まず『龍虎山志』の張乾曜に関する注記である(9。

陸放翁筆記、信州龍虎山漢天師張道陵後、世襲虚靜先生號、蠲賦役。自二十五世孫乾曜始、時天聖八年也。今黄冠輩謂始三十二代、謂三十二代爲張虚靜、非也。

 『龍虎山志』の編者は、ここにさらに注記を加え、虚靖先生の号が世襲されていることについては誤りであると見なしている。だがここで「張虚靖」の号が世襲されており、さらに、第二十五代張乾曜を第三十二代と称することが、完全に符合しているのである。簡単に「非なり」と片づけられるものではない。さらに、これについては『続資治通鑑』の記載も傍証となる(10。

甲寅、賜信州龍虎山張道陵二十五世孫乾曜號虚靖先生、以其孫見素為試將作監主簿、仍令世襲先生號、蠲其租課。

このように、「大破蚩尤」雑劇の記載と、『続資治通鑑』『龍虎山志』の記載がほぼ一致するのは偶然ではないと推察される。つまり、この当時における「張虚靖」とは、第二十五代張乾曜と、第三十代張継先との両者が混同されていると見なすべきであろう。何故混同されるかと言えば、それは「張虚靖」という号が、本来は世襲されていたと考えられるからである。さらに、史料においては、第二十四代張正随も、時に張乾曜と混同されることもあるが、それもこの号が世襲されていたことに起因されると考えられよう。

この混同のために「虚靖天師」の活躍する時期は、非常に長く、真宗・仁宗・徽宗などの期間に渉ってしまうことになった。またそのために、有名な蛟退治の話も、時にはその主体が張乾曜になり、時には張継先であることになってしまったのである。

むろん、文学作品に厳密さを求めるのはそもそも問題があろう。しかしそれを念頭に置いた上で、敢えて『水滸伝』における「虚靖天師」を比定するなら、第二十五代の張乾曜を指すと考えると、一応、時代的な矛盾は無くなるのである。


さて一方で、幾つかの通俗文学作品においては、時代を無視して、単なる仙人として張虚靖が登場することもある。例えば、薩守堅の得道伝である小説『呪棗記』には、薩真人に道術を授ける人物として張虚靖が登場する(11。

忽見有三位道人而來、…(略)…此三道人正是張虚靖、王方平、葛仙翁也。因見這個薩君誠心慕道、遠來叩己、于是三人共議、就在半路之中傳他的妙法。

王方平や葛玄と共に現れるのであるから、ここでの張虚靖は仙人として扱われていると思われる。このあたりからしてすでに神話的な色彩が強い。さらにこの小説においては、薩守堅はその後龍虎山に上り、張虚靖の後を継いで天師になっているその息子に面会している。しかし、これはこの張虚靖が継先であるとすると、『歴世真仙体道通鑑』の記載に照らしてみた場合問題があると言わねばならない。第三十代天師張継先については、「不娶」とあり、子供がいないことになっているからだ。もっとも、これには後述するようにやや怪しい部分もある。

薩守堅の時代を考えると、ここでの「張虚靖」はやはり継先のことでなければならず、ここのところは『呪棗記』の作者が、単純に歴代張天師の父子伝承のイメージをそのまま張継先にも適用してしまったことがそもそも問題であると言えよう。

この他、「張天師」雑劇などにも、「第三十七代張天師」が登場するが、その名前も事績も、全く史実とは合っていない。また小説『三宝太監西洋記』に出現する張天師も、全編にわたって非常に活躍するが、これは「張某」として名前も明かされず、ほとんど「虚構の張天師」と言ってよいものになっている。

逆にこのような通俗文学作品の中で、具体的なイメージを唯一強く打ち出しているのが張虚靖であるとも言える。結局は張乾曜のイメージも、「虚靖先生」として張継先に合流している感もある。それはやはり、実在した天師張継先の事績が際だっており、彼に張虚靖のイメージが集約されてしまったからであると言えなくもない。

ただ、ここでは仮に『歴世真仙体道通鑑』などを典拠としてみたが、実際にはこれらの史料にも、多くの問題があると考えられるのである。次には、第三十代張継先の伝とその実像について見てみたい。


2.第三十代天師張継先の事績と思想

第三十代天師張継先(1092−1126)の伝記としては、先にも挙げた『歴世真仙体道通鑑』の記事の他、『漢天師世家』、『龍虎山志』、それに『玄品録』(12などがある。また、詩文に優れた継先には、主としてその文章を収めた『三十代天師虚靖真君語録』(13という著があることが知られている。さらに『道法会元』(14には、継先に関連する記事が幾つか存在する。

『玄品録』には継先について次のように述べる(15。

張繼先、漢天師三十代孫。九歳得其法、淵黙寡言、清癯白皙、眉目眞天人也。

徽宗遣使召之、既至秩以碧虚大夫、先生方十三歳、辭不受。

崇寧四年、再召命弭解州鹽池怪事、甚神異、賜號虚靖先生。政和中大内災、命禳之。因奏紅羊赤馬之厄、其語秘。

また継先のやや詳細な伝は、また『歴世真仙体道通鑑』『漢天師世家』に見えるが、それらの伝を総合してみると、次のようになる。

張継先、字は遵正。但し『漢天師世家』では字は嘉聞、または字道正とする。号は翛然子。父親は張処仁といい、宋に仕えて臨川県の知県となった人である。これからも分かる通り、継先は第二十九代天師の子ではなく、傍系から天師を継いだ事になっている。

『漢天師世家』では継先は第二十七代天師張象中の曾孫であると言われる。しかし、これについては『歴世真仙体道通鑑』では、第二十六代張嗣宗の後であるとも言い、一致しない。

継先は、わずか九歳にて天師を継いだとされる。或いは『水滸伝』に見える年若きイメージは、この弱年にして天師を継いだことの投影であるかもしれない。その後徽宗に召されること四たび、都に赴く。その後、有名な解州での妖怪退治を行った。これが『宣和遺事』に見えることは先に述べた。そして「虚靖先生」の号を賜るなど、崇道の皇帝徽宗のもとでかなり厚遇されたようである。

ただ、世俗の栄誉にはあまり興味がなかったようで、その後はまたすぐに龍虎山に戻っている。靖康二年(1127)に欽宗に召されて出向くが、途中泗州にて没した。時に三十六歳。その著である「大道歌」や「心説」が世に行われた(16。終生娶らなかったため、子が無く、次の天師位は、叔父である第三十一代張時修が継いでいるとある。


『宋史』には、張継先に関しては、徽宗紀の崇寧四年の条に、「賜張繼先考法。辛酉、命官分部決號虚靖先生」との記事が見えるのみである(17。林霊素の如くに、方技伝などに伝を立てられることは無かった。実際、史書から推察するに、当時の龍虎山の教勢はさほど強くはない。正一派が江南道教の支配権を握るのは、もっと後、元代になってからのことである。

『玄品録』に「甚だ神異あり」と称せられているように、張継先の「法力高強」といったイメージは、かなり早くから成立していたようだ。これはやはり、雷法との関係が深く影響していよう。

神霄派や清微派などの諸派をどうとらえるかについては、非常に難しい問題があるが、ここでは宋代に興起した、雷法を中心とした新しい道教の派と考えたい(18。雷法は、以降の道教に巨大な影響を与えたものである。神霄派は王文卿が火師汪君の伝を得たと称して創始した派で、大いに流行した。この派の道士林霊素が徽宗に迎合し、「教主道君皇帝」との号を奉り、後に亡国の一因になったということでやや評を落としているが、その影響力の大きさについては否定できない。後の『道門十規』(19に「神霄自汪、王二師而下、張、李、白、薩、潘、楊、唐、莫諸師」とあるように、張継先は神霄派の祖師の一人と明確に位置づけられている。

『龍虎山志』に見える記事を見ても、継先は、王文卿や林霊素、それに徐神翁などともかなり密接な関係があったと記されている。さらに、後世雷法の教説と儀礼を集大成した『道法会元』には、張継先を中心とした法を数種収録する。巻二五八の「東平張元帥専司考召法」、巻二五九の「地祇馘魔関元帥秘法」、巻二六十の「鄷都朗霊関元帥秘法」などである。関元帥の法で張継先が主体となるのは、蛟退治の件をふまえてのことであろう。

雷法と張継先の密接な関係はこのように顕著である。このような雷法を駆使して辟邪を行う、といったその形象が増幅していき、後の通俗文学作品に見えるような張虚靖といったイメージに発展していったことを想像するのは容易であろう。


『明真破妄章頌』(20は、張継先の雷法との関わりを示す重要な資料とされる。

元精元氣與元神、三者无形亦有形、運用得伝眞可見、光明无極是分明。

雷乃先天炁化成、諸天仙聖總同眞、我身一炁相關召、同祖同宗貼骨親。

張継先は、このように、「身外の雷法」と「体内の錬気」を結びつけることにかなり腐心している。この説は、雷法理論の中でも重要視されていたようで、『道法会元』巻七一にも、幾つかの雷法理論とともに引用されている。特にその前の巻七十に収録する王文卿撰、白玉蟾註とする「玄珠歌」との結びつきが強く感じられる。

一方で彼は、清微派などの雷法諸派と、正一派の融合を図っていたようで、『明真破妄章頌』に「萬法本來歸一處、何分正一與清微」との言がある。この後、張虚靖より業を受けたとする薩守堅により、雷法はさらに広められ、白玉蟾へと発展していくが、正一派において、雷法導入のきっかけを作ったのがまさに張継先であったと思われる。南宋以降、龍虎山では「冲虚先生」との号を賜った留有光など、雷法に通じた道士を輩出するに至る。後に『道法会元』が編纂されたのは、まさに正一派の手によってである(21。

さらに「心説」(22には次のような説が見える。

夫心者萬法之宗、九竅之主、生死之本、善惡之源、與天地而並生、爲神明之主宰、或曰眞君、以其帥長於一體也。或曰眞常、以其越古今而不壞也。或曰眞如、以其寂然而不動也。

これらの言説からは、張継先が道と禅・儒の融和を意図していたことがうかがえる。また「虚空歌」などには、かなり禅思想への傾斜を思わせる字句がある。ただ「大道歌」「休歇歌」などでは、やはり情を絶ち修養に努めることを重視している(23。

総じて言えば、張継先は、雷法などの新興の術を取り込み、それを消化して伝え、また一方で禅や儒の思想に通じるなど、かなりの多面性を持った人物であることが推察される。一般的な張天師という枠から、かなりはみ出した人物であると言えよう。『三十代天師張虚靖真君語録』には、この他にも多くの詩文を載せており、継先が文章に優れていたという面をもよく伝えている。後世、マジシャン的なイメージばかりが強調されてしまったのは、一面気の毒な感もある。


ところで、『三十代天師張虚靖真君語録』と『歴世真仙体道通鑑』『漢天師世家』に見える記事とでは、時に不一致が見られる。これについては、『龍虎山志』を婁近垣が編纂するにあたって、改めて疑義を呈している(24。

まず、第三十代張継先から、第三十一代張時修に天師が引き継がれた件である。張継先には子が無く、そのために天師位は叔父に当たる張時修が「衆に推されて」継いだとする。

しかしここに幾つかの疑問が生ずる。『虚靖真君語録』の「謝職官表」には、「無間顓蒙、義重天倫、推及臣子。雖縁故例、實駭當時」とある。これによれば、継先には子があったと考えるべきであろう。さらに続けて「傳天師與弟青詞」という青詞があり、「今諸籙之師、兄辭而弟受」と自ら述べている。

『漢天師世家』によれば、張継先は天師の位を弟の淵宗に継がせたかったが、泗州にて没した時に、張天師の法器である剣と印とを時修に与えた。そのために衆が時修を推した、としている。不可解なことに、『漢天師世家』が基づいたと思われる『歴世真仙体道通鑑』には、時修について「衆推承襲」とあるだけであり、継先の弟や子については言及していない。

つまり、『歴世真仙体道通鑑』と『虚靖真君語録』とでは、継先から時修への嗣教の経緯が全く異なっているわけである。『漢天師世家』はそれを折衷してやや合理的な説明を加えようとしているが、成功しているとは言い難い。

これについては、おそらく『歴世真仙体道通鑑』の記載に問題があると考えるべきであろう。張継先には、子がおり、弟にいったん天師位を伝えた可能性が高い。すなわち、『漢天師世家』などの張天師の系譜には誤りがあるのである。

しかし、これは『歴世真仙体道通鑑』や『漢天師世家』の記事に虚偽があると言うよりも、張天師の系譜、それ自体に作為があると考えた方がよいと思われる。次にその点について考察してみたい。


3.張天師の系譜に関する疑問

一般には張天師の系統は、孔子の家系と同じく、初代天師張陵より代々受け継がれて現在に至っていると考えられていた。『元史』釈老伝には、次のような記載がある(25。

正一天師者、始自漢張道陵、其後四代曰盛、來居信之龍虎山。相傳至三十六代宗演、當至元十三年、世祖已平江南、遣使召之。…(略)…

二十五年再入覲。世祖嘗命取其祖天師所傳玉印、寶劍觀之、語侍臣曰、朝代更易已不知其幾、而天師劍印傳子若孫尚至今日、其果有神明之相矣乎。嗟嘆久之。

これによれば、元の世祖フビライは、多くの帝王の後裔すら所在が不明であるのに、張天師の家系は絶えることなく続いている、と嘆じたとされる。

現在の道教研究においても、いまだにこの見解をそのまま受け入れているものも少なくない。例えば、任継愈・陳兵(26、秋月観瑛(27、荘宏誼(28などの見解は、ほぼ伝統的な見地に沿ったものである。

これに対し、その継続性を疑問視する見解が、福井康順(29、窪徳忠(30から出された。そして、現在では、卿希泰・李剛(31の考察によって、おそらくは完全にその継続性については否定されたと考えられる。ここではその説を援用しつつ、第三十代とされる張継先の前後の系譜について考えてみたい。


『歴世真仙体道通鑑』や『漢天師世家』において、最もその作為的であることを感じさせるのが、第四代張盛から第二十八代張敦復までの系譜である。これによれば、張盛が龍虎山に移ってから、その後はすべて長子が相続し、しかもみな百歳、九十歳という高齢をもって世を終えている。第二十八代張敦復に至るまで、年八十を超えなかった者はいない。まことに不自然な記録と言わざるを得ない。

ところが、第二十九代張景端は、敦復の「第五子」ということになっている。おそらくこのあたりから漸く記事に信憑性が出てくるものと思われる。さらに張継先の代になると、傍系からの相続も見られるようになるのである。その後においては、兄弟や親族によって襲われる事例も多々登場する。これから見るに、明らかに第二十八代までの系譜は、後に作成させられたものと見てよい。

そもそも、唐の玄宗の時には、既に張天師の子孫の行方は明確でなく、玄宗はこれを「審定」するよう命じ(32、同じ時期には、張陵の子孫とされる張探玄が、代々官僚の家から出て道士になったことを示す碑文が撰せられている(33。それに張天師の専有であるはずの「天師」号は、唐代までは多くの道士によって使われている。寇天師(寇謙之)、陸天師(陸修静)、呉天師(呉筠)、葉天師(葉法善)、杜天師(杜光庭)、李天師(李渤)などの例は枚挙にいとまがない。これから見るに、張天師の家系だけが特別視されることは無かったと推察される。

つまりは、「天師」という語の意味も、北宋までは高位の道士に与えられる尊称に過ぎないと考えた方がよいと思われる。張天師が明確に龍虎山に居た時期にあっても、「鄧天師」と称する一派が存在したほどである。「天師」号に「正一の法旨を継ぐ」という意味があったとしても、それは後世ではかなり形骸化したと考えるべきであろう。

それでは、何時から張天師と称する一派が龍虎山に居するようになったのであろうか。これについては、李剛らは、李翔撰とする『渉道詩』に「獻龍虎山張天師」という詩があることが挙げられる。この時期の特定は困難であるが、唐末であるとする説が有力である。さらに、五代の徐諧『茅山道門威儀鄧先生碑』に「詣龍虎山十九代天師參授都功正一法籙」とあり、さらに、陳喬『新建信州龍虎山張天師廟碑』に「二十二代孫秉一」などとあることにより、張天師の系譜が五代の時に確定せられたとする(34。


ところで、ここにも幾つかの齟齬が見られる。例えば、陳喬の碑文に「第二十二代」とされる張秉一は、『歴世真仙体道通鑑』によれば、「第二十一代」である。また、徐諧碑文に、咸通十二年(871年)には「第十九代天師」がいたはずであるが、『歴世真仙体道通鑑』の「第二十代張諶」の項に、唐の懿宗が咸通年間に金籙醮を命じたことを記す。北宋の張君房の撰になる『雲笈七籤』にも、張天師の継承については、ほとんど記載がないのである。さらに、先に見たように、『漢天師世家』に注記として、「第二十五代張乾曜」を「第三十二代」とする例もある。

これらの資料から言えることは、張天師の継承については、おそらく北宋時期においては確定していなかった、ということである。元の趙道一の『歴世真仙体道通鑑』になって始めて、道教側としては始めて系譜を出してくるのである。ただ、南宋とされる『仏祖統紀』の巻五十二に「天師世次」として、『歴世真仙体道通鑑』の内容と一致する記載が見られるから、この頃には張天師の継承については、それなりの見解が成り立っていたと考えられる。


注意すべきは、龍虎山の正一派というものは五代から始まる、新しい派であるということである。張継先が雷法の祖師となったのも、その点を考慮する必要があろう。

しかしこのように、『歴世真仙体道通鑑』の記事の信憑性が問われることになると、第三十代張継先から、第三十一代張時修への継承についても、その記事を疑う必要が出てくる。おそらく、張継先から張時修への継承には、何らかの問題が存在したものと推察される。

また、「虚靖」の号が世襲されていた、とする幾つかの記載も、正しく事実を伝えているのではないかと考えたい。とすれば、「張虚靖」という称号は、ある意味で五代から北宋に渉る張天師の数名を指していた時があり、それが後に張継先一人に集約されたものであると考えられる。そう考えると、幾つかの通俗文学作品に見られる記述も、あながち誤りであるとは決めつけられないのである。


1. 松本浩一「張天師と南宋の道教」(『歴史における民衆と文化−酒井忠夫先生古稀記念論集』・1982年)340頁。

2. 任継愈主編『中国道教史』(上海人民出版社・1990年)548頁。

3. ここは、『容與堂本水滸傳』(上海古籍出版社・1988年)に基づいた。七十回本など他の系統では、この部分は第一回ではなく楔子となる。同書5−8頁。

4. 『大宋宣和遺事』前集(上海古籍出版社『宋元平話集』上巻・1990年)281−282頁。

5. 『日知録』巻三十による。

6. 『三教源流捜神大全』の巻三「義勇武安王」の項。ここでは『絵図三教源流捜神大全』(上海古籍出版社・1990年)109−111頁の記事に基づいた。

7. 『孤本元明雑劇』(台湾商務印書館・1977年)第八冊所収。

8. 『歴世真仙体道通鑑』巻十九(『道蔵』洞真部紀伝類、H.Y.296)。

9. 『龍虎山志』(江西人民出版社・1996年)51頁。

10. 『続資治通鑑』北宋紀第三十八卷、仁宗天聖八年の条。但しここでは、台湾・東呉大学陳郁夫「寒泉」(http://210.69.170.100/s25/index.htm)を使用して検索。

11. 『呪棗記』鄧志謨編(『明代小説輯刊第一輯』巴蜀書社・1993年)第四巻608頁。

12. 『玄品録』張天雨編(『道蔵』洞神部讃録類、H.Y.780)。

13. 『三十代天師張虚靖真君語録』第四十二代天師張宇初編(『道蔵』正一部、H.Y.1239)。

14. 『道法会元』(『道蔵』正一部、H.Y.1210)。

15. 前掲『玄品録』巻五、道品。

16. ここでは、卿希泰主編『中国道教史』(四川人民出版社・1992年)第二巻647頁などを参照した。

17. 『宋史』(中華書局版)巻二十。但し、ここでは台湾中央研究院の「漢籍電子文献」の「二十五史」を使用して検索。

18. これについては前掲任継愈主編『中国道教史』第十五章の記載、及び前掲松本浩一「張天師と南宋の道教」、同じく松本浩一「宋代の雷法」(『社会文化史学』第十七号・1979年)、さらに横手裕「白玉蟾と南宋江南道教」(『東方学報・京都』第六八冊・1996年)など、多くの説を参照した。

19. 『道門十規』張宇初撰(『道蔵』正一部、H.Y.1222)。

20. 『明真破妄章頌』(『道蔵』洞神部讃頌類、H.Y.977)。ただ、これが本当に張継先の手になる文章であるかは判断が難しい。小論ではひとまずこれを少なくとも継先の思想を伝えるものと見なす。

21. これらについては、前掲任継愈主編『中国道教史』551−554頁を参照した。

22. 「心説」は、前掲『三十代天師張虚靖真君語録』巻一に収録。

23. 前掲『三十代天師張虚靖真君語録』巻三。

24. 前掲『龍虎山志』52頁。

25. 『元史』巻二百二、釈老伝。ここも「漢籍電子文献」に拠る。

26. 「正一道、即天師道、首創于漢末張陵。在道教諸派中歴史最爲悠久」、前掲、任継愈編『中国道教史』547頁。

27. 「以来、天師道は南北朝を通じて、文字通り道教を代表する存在としての地位を保ち、その後も歴代天師の統率のもとに連綿として今日に及んでおり、今なお張天師六十四代の子孫が台湾に残っていることも、六朝以降、道教教派ならびに教学の複雑な隆退の中にあって、とにかく天師道教団が伝統的地位を保ってきたことを物語るものであろう」、秋月観瑛「道教史」(『道教』第一巻・平河出版社・1983年)43頁。

28. 「由於正一派自漢末祖天師張道陵創教、流傳至今、一千八百餘年、乃歴史最悠久、傳承系統最明確的一派」、荘宏誼『明代道教正一派』(台湾学生書局・1986年)1頁。

29. 「ここに問題になるのは張天師一家の性格である。…(略)…このことから想像すると、天師の存在は、北宋の初め頃からして史上には著しいようである」、福井康順「道教研究の基礎的諸問題」(『東方宗教』第二五号・1965年)15頁。

30. 「張盛から第二十三代天師張季文までの『漢天師世家』の記述は、具体性がかけていて、信用がおけないことはたしかである。…(略)…張魯までと、そののちとは断絶があるのではなかろうか」、窪徳忠『道教史』(山川出版社・1977年)139頁。

31. 「至中晩唐時、逐斬形成龍虎山天師道、并構造出傳承世系」、前掲卿希泰編『中国道教史』第二巻150頁。この段は李剛撰。

32. 前掲卿希泰編『中国道教史』第二巻145頁。

33. 陳垣編『道家金石略』(文物出版社・1988年)136頁。

34. 李翔『渉道詩』は敦煌文書ペリオ3866、前掲卿希泰編『中国道教史』第二巻148−149頁。


戻る