玄天上帝の変容 −数種の経典間の相互関係をめぐって−

二階堂 善弘

 

一、玄天上帝とその経典研究について

玄天上帝は、宋明代に盛んに祭祀された神である。武勇に優れた神として、北方守護の役割を担っている。この神は四神のひとつ玄武をその源流とし、宋代は一般に真武と称する。明代においては、世祖永楽帝により王朝の特別な庇護を得、その信仰は隆盛を極めた。今にも残る武当山の大神殿は、この時に増築されたものである。

民間において祭祀が盛んなだけでなく、道教でも重視され、その聖地武当山は南方道教において長い間特殊な地位を保った。この武当派はまた挙法でも知られ、少林寺と並び称せられる。現在、台湾では道士が斎醮を執り行う場合、三清の両側に、張天師と玄天上帝の像を掲げるのを常とする(1)。もってその特殊な地位をうかがうことができよう。また旧時の大陸においても、全国の無数の廟において祭祀が行われていた。今でも、台湾・香港などで数多くの廟において玄天上帝が祀られている。

ところで、人格神としての玄天上帝についての記載は、唐代以前の文献には見えない。もって唐末以降に発生した神であることがわかる。玄天上帝に限らず、宋代以降に多くの神信仰が起こり、道教に密接な関わりを持つようになる(2)。道教信仰の研究において、玄天上帝の占める地位は小さくない。ただ、これまでの玄天上帝に関する論議は、元明の社会史と関わるものが多かった。無論、その方面では多くの優れた業績が出されている(3)。しかし一方で玄天上帝自体の形成やその経典については、関心が薄かったように思える。まず、これまでの玄天上帝経典の研究について触れたい。


玄天上帝が古代の玄武を源流として発展したものであることは、許道齢氏が早くも一九四七年に論じている(4)。

玄武の起源は古く、西周の世であったと推察される。戦國時期、西方の秦國では二十八宿を祭祀しており、南方の楚國でも、玄武を天神としていた。…北宋の眞宗大中祥符五年、天尊・聖祖趙玄朗の諱を避け、眞武と改称したのである。…『唐六典』に「紫宸殿の北面を玄武門と言う。その内に玄武觀あり」との記載が見える。玄武の専祠は、この時より始まるものであろうか。しかしその信仰が隆盛になるのは、宋の眞宗の頃と考えられる。…眞武の信仰は、北宋時に河南東部で盛んに行われ、その後四方に伝播したものであろう。元の掲傒斯の『武當山大五龍靈應萬壽宮瑞應碑文』に「世祖皇帝初めて燕都を営むに、十二月、龜と蛇が高梁河の上に出現した。詔してその地に大昭應宮を建造し、もって玄武を祭った」とある。

すなわち、北方の星神である玄武が玄天上帝の源流であること、北宋代には人格神として扱われ、真武と改称されたこと、また元代には祭祀が盛んになったことなど、基本的な問題はほぼ論じられている。歴史資料から通俗文献まで広く博捜された許氏の論は、玄天上帝の研究において大きな業績と言える。しかし、幅広い問題を包摂するために、幾つかの問題が残された。特に、道教経典については、二三の経典を引用するのみで、その内容などの分析には至らないままとなっている。

この後一歩進んで、玄天上帝に関して、道教経典の内容にまで踏み込んで考察されたのが黄兆漢氏の「玄帝考」である(5)。

そもそも玄武の伝説が始めて文字となってあらわれたのは宋代であり、しかもそれは宋の淳煕十一年より以前である。宋徽宗の代に成ったと思われる『眞武本傅神呪妙經』に玄武に関する記載がある。…しかしもし玄武の伝説が『眞武本傳神呪妙經』の成書から始まるものと考えるのであれば、それは一面的かつ武斷に過ぎると言えよう。ただ、この経典は最も早く玄武の伝説を叙述したものである可能性が極めて高い。しかし、『眞武本傳神呪妙經』に述べられている伝説は必ずしもすべてが創作であるとは言えない。この経典に見える伝承には必ず典拠がある。例えば、玄武の伝説に言う「浄楽國王の太子が、武當山に入って修行した云々」という記事は、明らかに釋迦牟尼仏が浄飯國の王子の出で、後に出家し苦行したという事績に基づいたものであろう。

黄氏は唐代においては、まだ玄武は亀蛇として理解され、その人格化及び伝説の形成は宋代に起こったと見る。この見解は首肯できる。また幾つかの道教経典の成立年代を推定する。『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙經』の成書を宋の徽宗の代とし、『玄天上帝啓聖録』については、それが散逸した南宋董素皇の『降筆実録』を元としていることに注目し、元代の成立とする。さらに、陳伀の『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙經』前半部分の注釈に、散逸した資料が多く残されていることをも指摘する。これによって、玄天上帝関連の経典の成立年代の基礎が固まったと言える。しかし、若干問題が無くもない。例えば、黄氏は『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙經』よりも古い成立と見られる『元始天尊説北方眞武妙經』にはあまり着目しない。この経典は、北宋元符二年(一○九九)の碑文が残されており、おそらく『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙經』はその影響を受けて成立したものであると推察されるが、その点については述べられていない。


黄氏の論に続き、さらに総合的に玄天上帝関係の経典について論じられたのが、王光徳・楊立志両氏の撰になる『武当道教史略』である(6)。

玄武は、元は青龍・朱雀・白虎・玄武の四象崇拝の一つであったものが、後に道教の神系に加えられたものである。玄武は四方の守護神の中で北方守護をその任とした。…後、北方星神である北宮玄武は、五代の前には北極紫微大帝の神系に属するとみなされるようになった。そして徐々に四象崇拝を脱し、紫微大帝の四大神将の一つとなった。…玄武は道教の神系において地位を向上させていったが、これは中天北極紫微大帝の信仰と密接な関係がある。…おそらく六朝時代には北極大帝、略して北帝という神格が成り立っていた。また唐代の道教には北帝派という派が存在していた。北帝の四將とは、すなわち天蓬・天猷・黒煞・玄武の四将である。このように宋代以降は専ら四聖と称するようになった。この時点での「將軍」という職は天帝の侍從に対する称呼であり、神格の地位は決して高くはない。時間の推移とともに玄武は四象の系統を脱し、星神から転化して具体的な人格を有する神となった。そして後には北極崇拜と融合し、道教の「大神」となる基礎を築き上げたのである。

ここで王・楊両氏は玄天上帝の変容に関して重要な指摘を行っている。まず玄武が真武として、北方四将の一つとして発展したこと、さらに後に北極崇拝と結びつき、道教の高位神となったことなどである。王・楊氏はまた『元始天尊説北方眞武妙經』の成立が早いことにも触れ、多くの経典の成立年代やその背景を分析している。もっともこの書の中心は、むしろ中国の宗教史における、武当山及び武当派の役割を考察することに置かれているため、経典成立論はその一部分を構成するに過ぎない。この書の内容は多岐に渉るため述べ尽くすことはできないが、これより玄天上帝と武当派に関する多くの基本的な問題が解決されたのである。この書が玄天上帝関係の経典について、もっとも総合的に論じられたものであることは間違いない。

しかし、黄氏も王・楊氏も、北帝からの影響については、「影響がある」と指摘するのみで、具体的な証左を示さぬままになっている。また玄天上帝経典の相互関係についてもかなり討論自体はなされているものの、幾つかの経典については、その影響関係が深く論じられぬままになっている。小論では、これらの先行論文の論議、特に黄氏と王・楊両氏の業績を踏まえた上で、玄天上帝経典の相互関連について、さらなる検討を加えたい。

二、北帝神の真武神への影響

北帝神は、六朝道教において重要な地位をすでに有していた。『真誥』(7)に見える「北帝煞鬼之法」では北帝が六天を統率するとされている。

世人有知鄷都六天宮門名、則百鬼不敢爲害。欲臥時、常先向北、祝之三過、微其音也。祝曰、吾是太上弟子、下統六天。六天之宮、是吾所部、不但所部、乃太上之所主。吾知六天門名、是故長生、敢有犯者、太上斬汝形。…此所謂北帝之神祝、煞鬼之良法。鬼三被此法、皆自死矣。

後の真武像の形成には、実は玄武よりもこの北帝神の形象が強く影響しているのである。そしてこの北帝が六天を征する話は、玄天上帝説話を構成する重要な要素の一つとなっている。

 これまで注意されていなかったが、玄天上帝の関連経典のうちもっとも早い成立と思われる『元始天尊説北方真武妙経』(8)が、『太上元始天尊説北帝伏魔神呪妙経』(9)を模して作られているのは明らかである。

 

 
太上元始天尊説北帝伏魔神呪妙経

 
    元始天尊説北方真武妙経
 

 
道言昔於龍漢元年甲午之歳、元始天尊居上元之殿、
…是時、上元天都東北方振動、天門忽開、下觀乃有欝勃血光、…時法會中一眞人、名曰妙行、
…再拝長跪上白、…黒毒血光之氣、紛維衝天、是何灾祥、
…元始天尊、…今爲六天鬼神、
枉有所傷、…死魂未散、結成惡氣、怨怒上衝、…天尊告妙行曰、
…北方之極、有一世界、…有帝君、名曰、太陰五靈玄老黒帝靈君。
…天尊告北帝曰、北陰鬼魔、
出行人間、枉殺生民、…、北帝再拝受命、…妖状七日悉皆禁斷。
 
 

 

 
元始天尊、於龍漢元年七月十五日、於八景天宮上元之殿、安祥五雲之座。
…是時上元天宮東北方、大震七聲、天門忽開、下觀世界、乃有黒毒血光穢雜之氣。
…時會中有一眞人、名曰妙行、…執簡長跪上白天尊曰、…何得有此黒毒之氣、盤結衡上、是何異。 
…天尊曰、…今六天魔鬼、枉有傷害…死魂不散、怨怒上衝、盤結惡氣。妙行眞人上白天尊曰、不審此位神將、生居天界、
…天尊告曰、昔有淨樂國王與善勝皇后、夢呑日光、覺而有娠、懷胎十四箇月、於開皇元年甲辰之歳三月建辰初三日午時、誕於王宮。生而神靈、長而勇猛。不統王位、唯務修行、輔助玉帝、誓斷天下妖魔、救護羣品。日夜於王宮中、發此誓願。父王不能禁制、遂捨家、辭父母、入武當山、修道四十二年、功成果滿、白日昇天。…眞武神將、敬奉天尊教勅、乃披髪跣足、…領三十萬神將、六丁六甲、五雷神兵、巨虬獅子、毒龍猛獸、…七日之中、天下妖魔、一時収斷、人鬼分離、冤魂解散、生人安泰、國土清平。
 

 

すなわち、両経典の内容はともに、元始天尊が龍漢劫に説法する中、突然毒気が東北の方角に出現し、「妙行真人」の要請を入れて、勇武の神将を派遣して、「六天」を討伐するといったものである(10)。この両経は多くの字句が一致し、影響関係があるのは明らかであろう。ところで中心となる神格について、『太上元始天尊説北帝伏魔神呪妙経』では単に「北帝」と称するのみである。一方で『元始天尊説北方真武妙経』は「真武」とし、真武が浄楽国の太子であったというその出身説話を載せる。この出身伝の有無が、両経のもっとも大きな相違であろう。ここで両経典成立の前後が問題となるが、『道蔵提要』では、『太上元始天尊説北帝伏魔神呪妙経』を唐初の成立とする(11)。やや早すぎるきらいはあるが、内容からは確かに古い成立であることがうかがえる。いずれにせよ『太上元始天尊説北帝伏魔神呪妙経』の成立が早く、『元始天尊説北方真武妙経』はその影響を受けて作られたものであるのは間違いない。


これに類似する内容の経典がもう一つある。それは黄兆漢氏がもっとも早い成立とみなした『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙経』である(12)。

爾時紫微大帝、於龍漢元年中元之日、…時有玉童、傳大帝之勅、北方大将玄武将軍、…時有眞人、名曰妙行。其玄武之将軍乃玄元之應化、其始之迹。…紫微大帝敷以玄言、…淨樂國王善勝皇后、夢而呑日、覺乃懷孕、…既經一十四月、乃及四百餘辰、於開皇元年甲辰之歳、三月三日午時、降誕於王宮。…遂捨家、辭父母、入武當山、修道四十二年、功成果滿、白日昇天。…大帝曰、昔永壽元年上元之日、元始天尊於八景天宮、…俄天門之東北七聲大震十目、…今為六天魔王・五府瘟曹、不以尊卑、枉致傷害。

この経典と『元始天尊説北方真武妙経』の間にも明らかに影響関係があると推察される。やはり龍漢劫において、高位神と妙行真人との問答が行われ、浄楽国の太子であった玄武神の出身について述べられる。そして六天魔王を玄武神が討伐することなど、全く類似した内容となっているからである。しかしこの経典では終始一貫して、紫微大帝が高位神の中心となっている。一方、元始天尊が玄武神に命を下して六天を討伐することも、紫微大帝によって語られている。総じて説話が複雑に組み合わされていると言えよう。

黄氏がこの経典を宋徽宗代の成立としたことには、若干の疑念がある。この経典では、「玄天大聖」などと「玄」の字を多用している。宋代では「玄」の字を避けて真武と称したはずである。少なくとも北宋では用いられないはずである。もっともこの経典はその題名には「真武本傳」と言いながら、本文では「玄武」と称するので、後に書き改められた可能性がなくもない。黄氏がこの経典の成立を徽宗代としたのは、この経典が『眞武靈應眞君増上佑聖眞號冊文』(13)及び『章獻明粛皇后受上清畢法籙記』(14)と「三経同巻」として道蔵に収録されているからであろう。『眞武靈應眞君増上佑聖眞號冊文』には大観二年(一一○八)の日付が記されている。もって同時期の成立とみなしたものであろう。筆者も「玄」字の多用以外には、この説には積極的な反証は持たない。

しかし仮にこの経典が徽宗代の成立としても、『元始天尊説北方真武妙経』がより早い成立であるのは確実である。先に触れた通り、この経典には元符二年(一○九九)に碑文に記したものが存在するからである(15)。そして、元始天尊と妙行真人とが語る形式は、より古いはずの『太上元始天尊説北帝伏魔神呪妙経』にも共通して見られる。

総じて見れば、『太上元始天尊説北帝伏魔神呪妙経』(唐代)から、『元始天尊説北方真武妙経』(北宋元符年間前)への影響が見られ、また『元始天尊説北方真武妙経』から『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙経』(北宋大観年間以後)へとその内容を引きいでいるのは確かである。そして、本来「北帝」が担っていたはずの「六天討伐」の説話は、真武に属するものとされたのである。また真武にはこの北帝の性格、つまり妖邪を征する北方の神という機能が与えられた。これを唐代以前の玄武の性格と比較すれば、その差は明らかである。亀蛇としての玄武には、このような妖邪を征するといった性格は薄い。つまり人格神としての真武は、その性質において、玄武よりも北帝神に多くを負っていると見なすべきなのである。
それでは北極紫微大帝はこのような性格を持たないのであろうか。北帝という名称からすれば、紫微大帝にこそ、その性質が受け継がれているように思える。しかし少なくとも『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙経』の記載から見る限り、紫微大帝は玄武神に命令を下すだけであり、『元始天尊説北方真武妙経』における元始天尊と同様の役割を担うのみである。この時点ではおそらく紫微大帝は高位神としての機能が強くなっている。但し、北極を統べる神としての役割から、玄武神の上位に置かれたものであろう。自ら妖邪を討伐することは、すでにその任ではないと思われているかのようである。もっとも、幾つかの紫微大帝関連の経典には、駆邪神としての機能を強調するものもある。このあたりには、幾つかの経典間で不統一が見られる。新しい経典が古い記述を典拠としている場合もある。

また『元始天尊説北方真武妙経』では、元始天尊が真武に命を与え、それが龍漢劫に起こったとされるのに対し、『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙経』では、高位神として紫微大帝・玉皇上帝・元始天尊が見え、なおかつ紫微大帝が龍漢劫において、永壽年間の故事を語ることになっている。もって『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙経』は『元始天尊説北方真武妙経』の内容を踏まえ、かつより複雑に書き改められたものと推察されるのである。

では亀蛇に象徴される玄武は、人格神真武とのつながりが薄いのであろうか。そうではない。なんと言っても、真武はイコール玄武であり、その源流であることは間違いない。問題は、後世亀蛇は真武の「部下」であると見なされていることである。例えば、現在台湾の廟などでも、玄天上帝像は亀と蛇を踏みしめた姿で表現されているのである。これについて、やや後の『玄天上帝啓聖録』(16)では、六天魔王が亀蛇に変じたものとする。

…玄帝…、下降凡界、與六天魔王。是時、魔王以坎離二氣、化蒼龜巨蛇。変現方成、帝以神威攝於足下、

後の民間の見方も同様である。『西遊記』第六十六回(17)においても、来援を頼む孫悟空に対し、玄天上帝は「我今著龜・蛇二将並五大神龍、與你助力」と言って、部下の「亀蛇二将」を貸し与えるのである。

これらを総合的に考えるならば、真武、後の玄天上帝は二つの神が源流となって形成されたと思われる。一つは言うまでもなく亀蛇としての玄武、もう一つは北帝神である。北帝神の辟邪の性格、玄武の北方神としての性格、これらが真武という人格神に集約されている。また亀蛇としての玄武は、真武の源流となった一方で、人格神となった真武の部下として亀蛇二将という神に分化した。同様のことは北帝神にも言え、北帝神の高位神として北極を統べる機能は、紫微大帝に受け継がれたし、妖魔討伐の機能は真武へと引き継がれたのである。こちらでも分化が起こっている。一方で真武・玄天上帝では両者の結合が起こったのだ。つまりこれまでの「玄武(亀蛇)は真武の起源である」といった直線的な発展を考える見方は、単純に過ぎると言わねばならない。もっとも玄天上帝に限らず、一つの神の形成には、幾つかの複雑な要素が結合しているのが常である。

三、玄天上帝出身説話について

北宋では「真君」「将軍」クラスの神として祭祀された真武は、南宋から元明代において、位階を上げ玄天上帝と称される。ここで玄天上帝はまさに「北帝」としての位を獲得するに至った。『元史』(18)にはこうある。

免大徳七年民間逋税。命江南、浙西官田奉特旨賜賚者、許中書省迴奏。賜皇姑魯國大長公主鈔一萬五千錠、幣帛各三百匹。加封眞武爲元聖仁威玄天上帝。

これ以降、玄天上帝という称号が使用されることが多くなる。武勇に秀でた神であることも知れ渡り、信仰も隆盛になった。それとともに、付随する説話も知られるようになる。

さて、玄天上帝の出身伝としてもっともよく引用されるのは、『三教源流捜神大全』(以下『大全』と称す)の次の記載である(19)。

按混洞赤文所載、玄帝乃元始化身、太極別體、…至黄帝時下降爲玄天上帝。開皇初劫下世、紫雲元年、歳建甲午、三月初三甲寅午時、符太陽之精、托胎化生、淨樂國王善勝夫人之腹、孕秀一十四月、則太上八十二化也。淨樂國者、乃奎婁之下海外國。上應龍變梵度天。玄帝産母左脇、當生之時、瑞雲覆國、異香芬然、地土變金玉。瑞應之祥、茲不備載。…父王不能抑志、年十五辭父母、欲尋幽谷、内煉元眞。…玄帝乃如師語、越海東遊、歩至翼軫之下、果見師告之山。…目山曰太和山、…潛虚玄一、黙會萬眞、四十二年、大得上道。於黄帝紫雲五十七年、歳次甲子九月初九日丙寅清晨、…上赴九清、詔至奉行。玄帝再拜受詔、易服訖、飛升金闕。

この記載自体は、先にみた『元始天尊説北方真武妙経』に見える真武の出身説話とほぼ同内容のものである。つまり、玄天上帝は三月三日に生まれた浄楽国の太子であったこと、王位を継がずに武当山に入り、修道すること四十二年にして白日昇天し、玄天上帝の位を与えられたことなどである。説話の主要な部分は宋代から明代に至るまで、一貫しており大きな変化はない。ただ、詳細に内容を検討すると、細かな差異が見られる。


まず、玄天上帝が太上老君の化身であるとされる問題である。この説は『元始天尊説北方真武妙経』においては、明確な記載がない。ところが『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙経』になると、明確に「且玄元聖祖八十一次、顯爲老君。八十二次變爲玄武。故知玄武者、老君變化之身」と述べられている。この「老君化身」の説話は、実は『正統道蔵』の編纂に影響を与えているものと推察される。すなわち、『正統道蔵』に収録される主な玄天上帝関係の経典は以下の通りである。 

『元始天尊説北方眞武妙經』(洞眞部 第二七冊H.Y.27)

『玄帝燈儀』(洞眞部 第八三冊H.Y.203)

『玄天上帝説父母恩重経』(洞神部 第三四五冊H.Y.662)

『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙經註』(洞神部 第五三○〜五三一冊H.Y.753)

『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙經』(洞神部 第五五六冊H.Y.774)

『眞武靈應眞君増上佑聖眞號冊文』(洞神部 第五五六冊H.Y.775)

『眞武靈應世消災滅寶懺』(洞神部 第五六七冊H.Y.813)

『北極眞武普慈度世寶懺』(洞神部 第五六七冊H.Y.814)

『北極眞武佑聖眞君禮文』(洞神部 第五六七冊H.Y.815)

『玄天上帝啓聖録』(洞神部 第六○六〜六○八冊H.Y.957)

『大明玄天上帝瑞應圖録』(洞神部 第六○八冊H.Y.958)

『玄天上帝啓聖靈異録』(洞神部 第六○八冊H.Y.959)

『武當福地總眞集』(洞神部 第六○九冊H.Y.960)

『武當紀聖集』(洞神部 第六○九冊H.Y.961)

『太上玄天眞武無上將軍籙』(正一部 第八七九冊H.Y.1203)

 

一見してその大半が洞神部にあることがわかる。老君の八十二番目の化身である玄天上帝の経典類は、老君関係の経典とともに洞神部に置かれる。その配列も、例えば『太上老君説父母恩重経』の直後に『玄天上帝説父母恩重経』を置くなど、明らかに意図的なものである(20)。もって経典の内容が『正統道蔵』の編纂に影響を与えていることが看取できよう。

さて、浄楽国の太子として生まれ、武当山で修行したという玄天上帝の出身伝は、『玄天上帝啓聖録』に至ってほぼ完成をみる。この経典について、王・楊氏は元の張守清の撰とした(21)。この結論は妥当なものと思われる。この『玄天上帝啓聖録』は多くの先行経典の影響を受けて成立したものである。そのうち重要なものは、宋庠の編とされる『真武啓聖記』と董素皇撰の『玄帝実録』である(22)。前者は北宋、後者は南宋淳煕年間の撰と推定されている。しかしこの二書は散逸して残っていない。ただ南宋の陳伀による『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙経註』(23)の注釈部分にこの両書が引用されており、その内容を窺い知ることができる。これより古い成立の他経典が残っているにも関わらず、この両者が散逸したのは不可解であるが、おそらくは後に成立した『玄天上帝啓聖録』に両経典の内容がほとんど含まれてしまったため、かえってこの両経が省みられなくなったのではないかと推察される。

『玄天上帝啓聖録』巻一には、前の経典に見られなかった説話が幾つか見られる。「天帝賜剣」・武当山にて修行中、天帝より破邪の剣を賜ること、「澗阻群臣」・修行を止めさせようとする父王が、五百名の臣下を使わしたが、これはかえって武当山の五百霊官に変じてしまったこと、「悟杵成針」・修行を中途で放棄し山を下りようとした玄天上帝が、一老嫗が杵を研いで針にしようとする光景を見、一念の継続すべきを悟り再び修道に励むこと、などが見える。これらの説話はみな後に付加されたものと考えられる。五百霊官はおそらく五百羅漢から来たものであろう。玄天上帝像の形成には、直接ではないが仏教からの影響が若干みられる。また悟杵成針の故事は、通俗文学では有名なものであったようで、小説『孫龐演義』などにも見えている(24)。


これらの説話は、先に挙げた『三教源流捜神大全』には見えていない。明代の成書である『大全』に『玄天上帝啓聖録』の内容が反映されていないことは奇異に思える。ここではその問題を詳細に検討したい。

そもそも『三教源流捜神大全』は、明代の成立とはいえ、内容の多くを元の『捜神広記』に負っている(25)。『捜神広記』と比して『大全』では、記載される神の数は大幅に増加しているが、もとから記載のあった神伝はその内容をほぼ踏襲している。玄天上帝の伝も同様で、幾つか字句の相違は見られるものの、『大全』の記事は『捜神広記』とかなり一致する。すなわち『大全』の玄天上帝伝は、元代に編せられたものなのである。

一方で、『大全』玄天上帝の項の文章は、ほぼそのすべてを『玄天上帝啓聖録』巻一の中に見いだすことができる。それでは『大全』の記事は『玄天上帝啓聖録』の節略かといえば、単純にそうとも断定できない。字句の類似は、散逸した董素皇の『玄帝実録』にも見えているからである。例えば、玄天上帝出生の箇所を比較すれば、以下の如くである。

 

 
玄帝実録
 
三教源流捜神大全
 
玄天上帝啓聖録
 
玄帝降誕時、正當上天開皇初劫乃下世、黄帝紫雲元年、歳在甲午、戊辰月初三甲寅日庚午時、符太陽之精、託胎化生、産母左脇、當生之時、瑞雲覆國、異香芬然、地土變金玉。瑞應之祥、茲不盡載。
 
 
至黄帝時下降爲玄天上帝。開皇初劫下世、紫雲元年、歳建甲午、三月初三甲寅午時、符太陽之精、托胎化生、淨樂國王善勝夫人之腹、孕秀一十四月、則太上八十二化也。淨樂國者、乃奎婁之下海外國。上應龍變梵度天。玄帝産母左脇、當生之時、瑞雲覆國、異香芬然、地土變金玉。瑞應之祥、茲不盡載。
 
 
至黄帝時下降。符太陽之精、託胎於淨樂國王善勝皇后、孕秀一十四月、則太上八十二化也。淨樂國者、乃奎婁之下海外國。上應龍變梵度天。是時正當上天開皇初劫下世、歳建甲辰、三月戊辰初三甲寅庚午時、玄帝産母左脇、當生之時、瑞雲覆國、天花散漫、異香芬然、身寶光燄充滿、王國地土皆變金玉。瑞應之祥、莫能備載。
 
 

資料の内容が三者でそれぞれ錯綜しているため、簡単に判断することはできないが、例えば最後の字句、「茲不盡載」は『玄帝実録』と『大全』が一致し、『玄天上帝啓聖録』のみ異なっている。これからすれば、『大全』つまり元の『捜神広記』の玄天上帝の記事は、『玄帝実録』に拠っていると推察されるのである。そして『玄天上帝啓聖録』もまた、『玄帝実録』にその内容を多く負っている。ただ、『玄帝実録』の反映はそれぞれ別個に行われたと推察される。とすれば、『玄天上帝啓聖録』において付加されたとおぼしき「悟杵成針」の故事などが『大全』には反映されていないのは当然と言えよう。

もちろん、これ以外の経典の影響も考慮されねばならない。例えば、これも散逸した『真武啓聖記』などである。しかし、陳伀の『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙経註』において、玄天上帝の出身部分では『真武啓聖記』はほとんど引用されない。おそらく『真武啓聖記』の内容は、大半が玄天上帝が後世に霊験を顕わした記事で占められているものと考えられる。これは『玄天上帝啓聖録』の巻二以下の記事と共通するものである。当然『玄天上帝啓聖録』は、『真武啓聖記』を拡充したものと思われる。『真武啓聖記』と『玄帝実録』はその内容の多くが『玄天上帝啓聖録』に取り込まれてしまい、そのために散逸したものであろう。さらに元の至元年間に成立したと言われる『武当福地總真集』(26)の影響もある。ただ、この経典には『玄天上帝啓聖録』と重複する部分は少ない。
玄天上帝の出身伝に新しく加わった要素がもう一つある。それは六天魔王討伐の時間が設定されたことである。『大全』にはこうある。

按元洞玉暦記云、至五帝世來當上天龍漢二劫下世、洪水方息、人民始耕、殷紂王淫心失道、嬌侮上天、生靈方足衣食、心叛正道、日造罪孽、惡毒自横。遂感六天魔王、引諸神鬼、傷害衆生、…元始乃命玉皇上帝降詔紫微、陽則以周武伐紂、平治社稷、陰則以玄帝収魔、間分人鬼。

この説話は後に小説『封神演義』の源流となり、その説話を経て現在に至るまで広く知れ渡ることとなった。もっとも玄天上帝の六天討伐が周の武王伐紂と同時に行われたという話がどの時点で加わったかは不明である。先に検討した『元始天尊説北方眞武妙經』及び『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙經』では、六天討伐と武王伐紂とは関係づけられていない。またこの説話には「元始乃命玉皇上帝降詔紫微」との記載がある。つまりこの説話は『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙經』の内容を踏まえたものとなっている。とすれば、その関連づけは『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙經』の成書以降に行われたはずである。

ところで『玄帝実録』を見るに、「元始天尊…、乃命玉皇上帝降詔、詔北極紫微、令紫微大帝…、陽則以周武伐紂、平治社稷、陰則遣玄武収魔、間分人鬼」との記載がある。おそらく南宋期において始めて、玄帝治陰と周武治陽の関連づけが行われたものと推察される。また、この説話においても『大全』と『玄帝実録』の文言は一致する。『玄帝実録』の記事がより詳細であることからすれば、『大全』つまり『捜神広記』の玄天上帝の記事は、『玄帝実録』の節略であると判定できるのである。

四、結 語

これまで論じたことをまとめると次の通りとなる。

現在残っている主要な玄天上帝関係経典のうち、最も成立が早いのは『元始天尊説北方眞武妙經』であり、『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙經』はその内容を拡充したものである。また『元始天尊説北方眞武妙經』は北帝関連の経典を模して作られたものであり、真武という人格神の形成には、亀蛇の玄武以外に、北帝神の影響が強く見られる。

さらに、『三教源流捜神大全』にみえる玄天上帝の出身伝は、その来源についてこれまでは指摘されていなかったが、それは散逸した『玄帝実録』であることが判明した。さらに、『玄帝実録』などの幾つかの経典は、『玄天上帝啓聖録』に集約される形となる。この経典によって、玄天上帝の伝はほぼ完成をみるのである。

さてしかしながら、玄天上帝の人格神としての起源については、いまだに解明されてはいないところが依然として多い。ただおそらく、五代にはその人格神としての形象はすでに成っていたものと思われる。すなわち『旧五代史』にはこうある(27)。

晉高祖為張敬達等攻圍甚急、遣指揮使何福齎表乞師、願為臣子。德光白其母曰、兒昨夢太原石郎發使到國、今果至矣。

案、契丹國志作太宗夢見眞武、使之救晉、與薛史微異。

また、民間の術者が、真武法なる呪法を使っていたことも『宋史』に見えている(28)。

劉宰字平國、金壇人。…帥守命振荒邑境、多所全活。有持妖術號眞武法・穿雲子・寶華主者、皆禁絶之。

これらの資料から玄天上帝の来源は、民間信仰と深い関わりを持つのではないかと推察するが、これについては他の北極四聖との関連もあり、稿を改めて論じたい(29)。さらに、玄天上帝及び多くの元帥神についての最大級の資料である『道法会元』についても考察を加えるべきであったが、紙面の関係で触れることができなかった。これもまた別の機会に検討したい。


(1)劉枝萬氏『台北市松山祈安建醮祭典』(台湾中央研究院民族学研究所専刊之十四・一九六七年)一○六頁の図を参照。

(2)道教の神信仰は、民間信仰からもたらされたものが多い。しかし民間信仰が道教に与えた影響は、唐宋の間を境にして際立って異なる。概括的に述べるならば、唐代以前は、民間信仰と道教はむしろ対立する場面が多かったが、宋以降はその受容に寛容であったと言える。例えば、葛洪は民間信仰について『抱朴子』でかなり激越な調子で批判を行っている。しかし宋代以降の道教神には民間出自のものが多くなってしまった。ここでは道教と民間信仰の差異について詳しく述べる余裕はない。しかし民間神が道教に受け入れられた、その尺度については定義しておきたい。すなわち小論では、南宋から明にかけて正一教を中心に編纂された『道法会元』にその神の記載があるかどうかをひとつの判断基準としたい。無論これに含まれない神も多い。しかしこの経典からは、北宋から起こった民間法の流れを、正一派が明確な基準をもって取捨選択したと思われる形跡を見て取ることができる。但し、これはあくまで小論における便宜的な基準である。この問題については、別稿において論じたい。

(3)明代の政治・社会と武当山の関係については、間野潛龍氏「明代の道教と宦官」(『明代文化史研究』同朋舎・一九七九年所収)・石田憲司氏「永楽帝の太和山復興について」(『社会文化史学』第二一号・一九八五年)・馬書田氏「明成祖的政治與宗教」(『世界宗教研究』第三号・一九八四年)などにおいて詳細に分析されている。また真武に関しては、吉岡義豊氏「妙見信仰と道教の真武神」(『智山学報』第一四号・一九六六年)がある。また台湾における玄天上帝廟について、石田憲司氏「台湾南部の真武神信仰について−特に清朝統治下の台南を中心として−」(『東方宗教』第八五号・一九九五年)に報告がある。この他、『武当山中国道教文化研討会論文集』(『中国道教』一九九四年増刊・中国道教協会)にも、多くの論を収録する。

(4)許道齢氏「玄武之起源及其蛻変」(国立北平研究院史学研究所・一九四七年)

(5)黄兆漢氏『道教研究論文集』(中文大学出版社・一九八八年)所収。

(6)王光徳・楊立志氏『武当道教史略』(華文出版社・一九九三年)、なおこの書について、山田俊氏による批評(『東方宗教』第八四号・一九九四年)がある。

(7)『正統道蔵』太玄部 六三七〜六四○冊(H.Y.1010)、陶弘景撰。「北帝煞鬼之法」は巻十に所収。

(8)『正統道蔵』正一部 一○五三〜一○五四冊(H.Y.1401)、欧陽雯受とする。

(9)『正統道蔵』洞真部 二七冊(H.Y.27)。

(10)「六天」について、黄氏は仏教の六欲天が起源であるとする。しかしこれは道教の「三天・六天」の対立から来たものであろう。このことについては小林正美氏「劉宋期の天師道の「三天」の思想とその形成」(『東方宗教』第七○号・一九八七年)を参照。

(11)任継愈氏主編『道蔵提要』(中国社会科学出版社・一九九一年)一一二一頁。但し現在の『太上元始天尊説北帝伏魔神呪妙経』(『正統道蔵』洞神部・五五六冊H.Y.774)には後代の編集が入っているものと思われる。

(12)前掲黄氏「玄帝考」一三○〜一三二頁。

(13)『正統道蔵』洞神部 五五六冊(H.Y.775)。

(14)『正統道蔵』洞神部 五五六冊(H.Y.776)。

(15)陳垣氏『道家金石略』(文物出版社・一九八八年)三○六頁。

(16)『正統道蔵』洞神部 六○六〜六○八冊(H.Y.957)。

(17)『李卓吾評本西遊記』(人民文学出版社・一九九四年)八八五頁。

(18)『元史』本紀二一 成宗大徳七年の項。なおこの事例については、台湾中央研究院の「二十五史検索システム」(http://www.sinica.edu.tw/)を利用して検索した。

(19)『絵図三教源流搜神大全』(聯経出版事業公司・一九八○年)三三頁。

(20)太上老君の八十一化については、楠山春樹氏『老子伝説の研究』(創文社・一九七九年)参照。なお日本道教学会四八回大会席上にて、楠山氏から元代より以前の資料に「老君八十一化」の説が見えないことをご指摘いただいた。但し、南宋陳伀の『太上玄天大聖眞武本傳神呪妙經註』には老君の変化について、かなり明確に述べられてはいる。

(21)『玄天上帝啓聖録』の成立年代については、前掲王・楊両氏『武当道教史略』一三九頁参照。

(22)『真武啓聖記』については、前掲王・楊氏『武当道教史略』七四頁。また南宋董素皇の『玄帝実録』については、前掲黄氏「玄帝考」一三二頁。なお『玄帝実録』はまた『降筆実録』とも称される。南宋淳煕十一年(一一八四)の成立とされる。

(23)『正統道蔵』洞神部 五三○〜五三一冊(H.Y.753)。この経典については、王・楊氏『武当道教史略』七九頁に考証がある。それによれば陳伀は南宋の人、武当山にはこの経典の明版を別蔵するとのこと。

(24)『前後七国誌』「孫龐演義」(湖南人民出版社・一九八四年)一五頁。

(25)『新編連相搜神広記』(王秋桂・李豊楙氏編『中国民間信仰資料彙編』台湾学生書局・一九八九年に所収)参照。

(26)『正統道蔵』洞神部 六○九冊(H.Y.960)。これについては、前掲王・楊氏『武当道教史略』一三四頁参照。

(27)『旧五代史』外国列伝一 契丹伝。「二十五史検索システム」(http://www.sinica.edu.tw/)による検索。

(28)『宋史』列伝一六○ 劉宰伝。同様に「二十五史検索システム」を使用。

(29)なお、明代以降の玄天上帝については、筆者「『西洋記』における玄天上帝下凡説話」(『中国古典研究』第二号・一九九六年)において考察した。また現在台湾に流布する「玄天上帝はもと屠夫であった」との伝承については、小説『薩真人呪棗記』では薩真人の前世での話とする。これについても別に考えたい。

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