台湾新荘市の寺廟について
二階堂 善弘
はじめに ─台湾の集落と廟の関係─
台湾の中国人社会は、大陸からの移民によって形成されたものである。もっともその歴史は意外に浅い。明代にはオランダ人による台湾支配があり、さらに鄭成功の割拠があったこともあり、移民が自由に行き来することは難しかった。しかしその後は清王朝の版図となったため、表向きは渡航は禁止されていたものの、実際には大量の開拓民が台湾に押し寄せることになった。中華民国以降は、大陸全土からの移住者もあったが、それ以前は福建・広東地方、特に福建沿岸部からの移住者が圧倒的に多かった。また客家系の移民もあった。
そのため言語的には、台湾は福建(閩南・閩北)語圏に属し、これに客家語を使用する層が加わっている。もっとも後に「日拠時代」と呼ばれる日本統治時代があり、教育方面などでは日本語が強制されることになる。すると福建語の中に、多くの日本語の語彙が混用されるようになり、そのため「台湾語」とも称すべき特異な方言を形成することになった。そして第二次世界大戦後、国民党が台湾に移ってからは、「国語」と呼ばれる北京官話に基づく標準語が広められた。
これにより、台湾の言語地図には、地域による以上に、世代による差異が大きいという特色も加わることになった。
さて、台湾における伝統的な宗教文化は、明清時代の移民によって形成された部分が重要な部分を占める。なぜなら、大多数の移民たちは、出身や血縁関係によって集落を形成することが多く、その時に出身地の信仰をそのまま移住地へ持ち込むことが行われたからである。そして台湾における寺廟とは、単なる宗教施設であるのみならず、集落の政治機能をはたす場所でもあり、文化コミュニケーションの場でもあった。集落の会合や相談が、寺廟において頻繁に行われ、また付近では商業活動も盛んに行われた。
現在の台湾でも、選挙の投票所などの政治的な役割を、寺廟は担っている。
台湾では、出身地の異なる集団が別に集落を作り、それが武力を行使して対立する、すなわち「械闘」という紛争がおびただしく発生したが、その時に廟が防御の拠点となることが多かった。廟は地域社会のシンボルとして機能したのである。このような台湾の集落における廟の特色について、荘芳栄氏は次のように述べる(注1)。
移民が定住して後、集落の人口も増え続けた。しかしその場合、同一の出身地から来た者が一つの集落を形成することが多く、また同郷の者たちは往々にして故郷において信仰されていた神を共に崇拝することが多かった。このような神々は、また短時間のうちにその集落・団体の結びつきの象徴となっていった。移民の集落は、多く之場合このような郷土の守護神を中心に形成され、その結びつきを強めていった。 例えば、漳州の出身者は「開漳聖王」を信奉し、泉州から来た者は「広沢尊王」を祭り、客家系の移民は「三山国王」を祭祀して、おのおのその守護神とした。 またさらに一歩進んで、詳細に分析を加えるなら、われわれは泉州の安渓県の出身者が「清水祖師」を信奉し、同じく泉州の恵安県から来た者は「霊安尊王」を祭り、泉州同安県より来た者は「保生大帝」を祭祀し、金門の出身者は「蘇府王爺」を信奉し、汀州から来た者は「定光古仏」を祭る、といった特色を見いだすことができるであろう。
すなわち、台湾においては、集落の寺廟とその守護神がその地域が形成された集団の特色を示す場合があるのだ。この点は、台湾の地域社会の発展を調査する上で重要な問題であると考えられる。
昨今、欧米や台湾などにおいて、このような寺廟の発展に関する研究が盛んになりはじめ、『寺廟与民間文化検討会論文集』(注2)のような専門の論集も発行されるようになった。しかし、このような宗教と地域文化に関する研究は、日本では中国の民間信仰自体の研究が進んでいないこととも相俟って、やや遅れていると考えられる。
小論は、台湾の北部に位置する新荘市の近辺に点在する廟について、筆者の実地調査をもとにその特色について考察するものである。調査期間は、1994年12月から1995年3月にかけてである。
1、新荘の発展・衰退と寺廟
台湾において繁栄していた代表的な場所について、よく「一府、二鹿、三艋」という言い方をする。
すなわちこれは、清代に栄えていた3つの都市を表す。「府」とは台南府のこと、「鹿」とは鹿港のこと、「艋」は艋舺のことを指す。つまり、「台湾でもっとも繁栄している街は、一番が台南府で、二番目が鹿港、三番目が艋舺である」といった意味だ。いずれも台湾では古い歴史を持つ城市であり、寺廟などの歴史的建造物をよく残す地区である。
このうち台南府は、明末に鄭成功が本拠を置いたところでもあり、古くから台湾の政治や経済の中心であった。現在の台南市である。いまは台北や高尾市に比べ、その経済規模は小さくなっている。 鹿港は、台湾の中部彰化県に位置する港街である。大陸と台湾の交通要衝であり、貿易港として栄えた。現在では往事の繁栄を忍ぶべくもないが、おびただしい寺廟が残されており、「三歩一小廟、五歩一大廟(三歩にひとつ小さい廟があり、五歩にひとつ大きな廟がある)」との称があるほどである。
艋舺は、後には萬華とも書かれる。現在では、台北市が台湾の政治・経済の中心地となっているが、その中でも特に萬華地区は古くから発展し、水運・商業の中心地として栄えた。
そのためこの地区には、古廟が多い。龍山寺(観音菩薩を祭る)・真武殿(玄天上帝)・青山宮(霊安尊王)・啓天宮(媽祖)・清水巌(清水祖師)・晋徳宮(助順将軍)などは、いずれも清代の創建になるもものである。またこの地区には、無数に小規模の王爺廟が存在している。これが台北市の他の地区とは異なる特色であり、萬華地区の由来の古さ物語るものとなっている。そのため、台北近辺の寺廟調査においては、必ずといってよいほど萬華地区が重点に置かれている。
しかし、台北市の西に位置する新荘市に目を転ずると、そこには萬華地区の寺廟より、さらに歴史の古い廟が数多く存在するのである。この点については、林衡道氏の詳細な分析がある。(注3)
清初に艋舺がかくのごとき発展を遂げたと同時に、淡水河の西岸に位置する新荘もその港をもって知られていた。福建・広東から来たった巨大な船舶は、みなこの新荘に停泊し、しかるのちに、さらに淡水河の上流に向かうのが常であった。このため、新の雍正年間(1723-1735)あたりでは、新荘において非常に商業が発展し、一時は艋舺をもしのぐほどであった。清の乾隆年間(1736-1795)には、官は新荘に巡検署を置き、清の嘉慶四年(1799)には、新荘に県丞を配したほどであった。このように、新荘の地は重視されていたのである。 ところが、後に淡水河の土砂が次第に上流に堆積し、淡水河上流の水運業は次第に衰えていった。新荘の港としての地位も水運の衰退につれて没落し、下流の艋舺がそれに取って代わることとなった。(西暦は筆者による)
台北地区における水運の発展は、淡水河沿いに下へと移っていったことがわかる。この後も艋舺から、さらに下流に位置する大稲埕へと貿易の中心は移動していった。
後に台北城が築かれたとき、それは艋舺と大稲埕の間に作られた。
そして、寺廟の発展も、このような地域貿易の発展・衰退と密接な関係を持つと推察される。新荘と、それに隣接する三重市に、特に由来の古い寺廟が存在することは、当時の状況を反映しているものと考えられる。だが現在の新荘市は、台北市のベッドタウンという位置づけに近く、むしろその廟だけが、往事の繁栄を偲ばせるものとなっている。
新荘において、由来の古い廟は、かつての港、つまり淡水河に近いところに密集している。ただ、そこに祭られる神は、萬華地区との違いを感じさせるものがある。 現在、かつての新荘地区は、新荘市と三重市という2つの行政単位に分割されてしまった。以下では、新荘・三重両市に存在する廟の幾つかを紹介し、その特色について述べたい。
2、新荘市の廟
*慈佑宮
新荘市屈指の古廟である。
媽祖(天后)を祭る。媽祖は、台湾のみならず、福建・広東一帯の海神として著名な存在である。ただし北方ではこの女神を祭ることは少ない。天津の天后宮はその数少ない例外の1つである。
伝によれば、媽祖は宋代の人で、福建眉州の出身で、林氏の娘・林黙娘だという。しかしこの伝承は北宋期には見えず、南宋以降に起こったものと推察される(注4)。若くして世を去り、航海の守り神となったと伝えられ、福建・広東の沿岸において絶大な信仰を得た。現在の台湾でもおびただしい数の廟宇がある。
慈佑宮の建築された年代は、『淡水庁志』によれば、
天后宮、…一在新莊街、乾隆十八年建。四十二年、巡檢・曾應蔚修。嘉慶十九年、縣丞・曹汝霖重修。
となっている(注5)。つまり乾隆18年(1753)の建立とあるが、『台湾府志』によれば、雍正9年(1731)の建とある。さらに伝承によれば、康煕25年(1686)の造営という。
新荘・慈佑宮
現在の廟宇の規模は大きくない。元来はもっと大規模な伽藍を有したと考えられるが、面積はかなり縮小しているようだ。また、本来の様式は台南の大天后宮や鹿港の天后宮、すなわち大陸の伝統的な形式をよく反映したものと言われているが、おそらく数次にわたる改築を経て、かなりの変改を蒙っているものと推察される。
媽祖廟に関しては、台湾全土に広く分布するものであり、福建全土のみならず、広東にもその信仰は行き渡っている。そのため、この廟に特別な地域性を見いだすことは困難だ。新荘の媽祖廟は、ここが有力な貿易港であったことを反映するものであろう。
*文昌祠
文昌帝君を祭る。
この神は文章を司る神で、元来は四川の地方神であった。後に中国全土にその信仰が広まった。これは福建の神ではない。特に社会の上層部、すなわち読書人階層に信奉される神である。読書人階層においては、本来儒教の聖人として尊崇すべき孔子よりも、この文昌帝君がむしろ信奉された。それは読書人の意識が、学問としての儒学ではなく、科挙の試験に集中していたことを物語るものである。
新荘・文昌祠
『淡水庁志』には、この廟の建立について、次のような記載が見える。
文昌祠、…一在新莊街、嘉慶十八年、縣丞・曹汝霖捐建。
すなわち、清の嘉慶18年(1813)の建立である。台湾の中では十分に古い層に属するが、新荘のなかでは比較的新しい廟に属す。
これには、廟の性格が影響していると考えられる。すなわち、読書人階層に信奉される文昌帝君は、地域神として祭られることがあるものの、多くは科挙を受験するような富裕者層の支持を受けて建立される。例えば、台北・大同地区における文昌帝君廟は、その地域に秀才が多く出現したことを背景として作られたものである。新荘の文昌祠も、この地域における富裕者層の発達とともに出現したものと推察される。つまりその建造年代が嘉慶年間であることは、新荘における経済発展の状況を反映したものと考えられる。
*武聖廟
武聖廟は、関帝を祭る。
関帝廟は、台湾のみならず、中国大陸全土に廟が存在する。中国の民間信仰においてもっとも普遍的な信仰の1つである。
新荘・武聖廟
関帝とは、三国時代の猛将、関羽を指す。この神の信仰が盛んになったのは、北宋以降のことで、王朝による封号も、元代には「義勇武安王」、明代には「関聖帝君」へと上がり、清代には孔子に比肩するほどとなる。
この神も元来は山西から広まったもので、福建の地方神ではない。小説『三国志演義』の流行により、その忠義と武勇については民衆の間に広く知れ渡っており、現在でも絶大な尊崇を受ける神の1つである。
この新荘の武聖廟については、『淡水庁志』につぎのような記載がある。
關帝廟、…一在新莊街、乾隆二十五年、貢生・胡焯猷建。道光三年、縣丞・王承烈重修。
すなわち、この廟も歴史が古く、乾隆25年(1760)の建立になることがわかる。
全世界の中華街に必ずといってよいほど関帝廟があることからもわかるように、中国全土、あらゆる宗派において普遍的に祭祀される神である。もっとも、元来関帝は武神であったが、清代には財神(福の神)として、商人階層から特に信奉された。
関帝は商人階層のみならず、多くの階層から支持されている神であるから、新荘の関帝廟においてもその特殊性を見いだすことは難しい。しかし少なくとも、この地域に古くより商業が発達したことを反映するものだとは言えよう。
*広福宮
広福宮は、三山国王を祭る。三山国王は、もとは広東の地方神である。この神を信奉するのは、客家人であるといわれる。台湾の客家人は広東から渡来した者が多い。だから例えば、台南市の三山国王廟は、広東風の建築を残す。しかし、新荘の三山国王廟は福建風の建物で、同じ地域の他の廟と異なる特色はない。
この廟について『淡水庁志』はつぎのように述べる。
國王廟、一在新莊街、乾隆四十五年、…建。
すなわち、乾隆45年(1780)の建になる。一説に、乾隆15年(1750)の建造とも。三山国王廟の存在は、すなわち客家人がその地に居住していたことを示す。
「三山」とは、広東の潮州府にある独山・明山・巾山の3つの山を指す。宋朝最後の皇帝がこの地に逃亡してきた時、この三山の神が神助を与えたという。ただこれはあくまで伝承にすぎず、類似の説話は他にもある。
この三山国王廟の存在は、元来ここに客家人が在住していたことを示すものであるが、道光21年(1841)に台北盆地において大規模な福建人と客家人のと械闘が起きたため、ここに在住していた客家人は、やや南方に位置する中壢に移住した。その後、この廟の信仰は衰えたという。
*土地廟
上に述べた広福宮(三山国王廟)の、道を挟んで真正面に位置する。規模の小さい廟である。史書にも特に記載はなく、その建立年代は不明。しかし、一説に清の乾隆年間に築かれたという。
この廟は新荘の諸廟のなかでは小規模なものであるが、通常の土地廟に比べた場合は大きい。
土地公はまた福徳正神とも呼ばれ、その土地の住民を司る冥界の官吏の一つである。中国ではいかなる場所にも冥界の官吏が置かれるものとされ、山には山神、城市には城隍神、そして郊外には土地公が祭られることが多い。台湾では旧暦の2月2日に、全国で一斉に土地公の祭りが行われることが多い。
台湾南部においては、道士を何人も招いて大規模な斎醮が執り行われ、1週間以上にわたって廟会を開くこともあるが、台北地区においては、祭りは数日間で完結してしまう場合が多い。
新荘の土地公廟でも、この日に毎年生誕祭が行われる。小規模な廟ではあるが、3名の道士を招き、まる1日にわたって、一帯の住民が総出となって盛大な祭りが挙行された。
新荘・土地公生誕祭の儀式、正面向こうは広福宮
新荘・土地公廟における道士の儀礼
*地蔵庵
地蔵庵は、またの名を大衆廟という。地蔵菩薩を祭祀する仏教系の寺廟であり、正殿には地蔵菩薩を祭るが、隣にある大衆爺の方が中心になっている。
大衆爺というのは、特殊な神と言える。それは特定の人物や神を指すというより、事故や戦争で亡くなった人々を具現化したものである。日本の無縁仏に近い。このような幽鬼をよく「厲鬼」と呼ぶ。この厲鬼の祟りをおそれ、入念に祭祀を行うのである。同様の神に「有応公」がある。 ただ、大衆爺の神自体は、一般の城隍神に類似したものとして扱われる。
新荘・地蔵庵
新荘の地蔵庵は、やはり当時盛んであった移民集団の紛争、すなわち械闘による戦死者を祭ったものである。このことは、新荘地区における械闘の激しさを物語るものであろう。もっとも、地蔵庵の正確な創建年代は不明である。伝承では乾隆年間と嘉慶年間に建てられたものとの両説がある。
3,三重市の廟
*先嗇宮(神農廟)
先嗇宮は、神農大帝を祭る。
神農とは、日本でも神社で祭祀されることがあり、医薬と農業の神だ。堯・舜のような古代の聖王とされる。単なる民間信仰の神ではない。
福建地方の医薬の神には、他にも有名な保生大帝があり、台北の大同地区にある大規模な廟が有名である。多くの保生大帝廟では、同時に神農を祭るが、この新荘の神農は、また別名「五穀王廟」とも呼ばれることから、どちらかというと農業の神としてとらえられていたようだ。
三重・先嗇宮
この地区ではもっとも大規模な廟である。その建築年代については、史書に記載が無い。石碑の文によれば、乾隆20年(1755)に作られたとある。
*南聖宮
南聖宮は、南岳聖侯を祭る。
三重・南聖宮
三重・南聖宮廟会の供物
三重・南聖宮廟会における飾り
三重・南聖宮廟会の行列
中国の五岳のうちの、南岳(衡山)の神を指すと思われるが、詳細は不明。台湾でこの神を祭祀するところは少ない。
史書にもこの廟についての記載はない。創建年代も不明である。
一般に台湾の廟宇においては、1年ごとに祭り(廟会)が行われる。しかし、廟によっては、3年毎、あるいは4年・6年などいうものもある。
この南岳聖侯の廟では、12年を周期として祭りが行われる。そのため、空前の規模で祭祀が行われ、付近の交通を完全に遮断するほどであった。
おわりに ─新荘の廟の特色について─
最後に新荘地区における廟宇について、台北の他の地区の寺廟と比較のもとにその特色を述べたい。
台北地区では、先に見た萬華(艋舺)地区の他、大同地区・松山地区・士林地区などに古い廟が残っている。
しかし、新荘地区においては、台北の他の地区よりも圧倒的に多くの古廟が存在している。例えば、萬華地区でも、乾隆3年(1738)建立の龍山寺を除いては、乾隆年間から続く廟宇は少ない。台北に残る寺廟の多くは、清代のものでも、やや後の同治・光緒年間に作られたものである。
大同地区の代表的な廟である保安宮(保生大帝廟)でも、嘉慶10年(1805)の造であり、松山の古廟である慈祐宮(媽祖廟)でも、乾隆22年(1757)の建立である。このように乾隆年間以前の廟宇は台北ではごく少数であり、さらにそれらの廟はまとまって存在することはない。
ところが、この新荘地区には、港の付近に慈佑宮・武聖廟・広福宮・土地廟と乾隆年間に建てられた廟がいくつも存在し、さらに、やや離れて地蔵庵と先嗇宮がある。いずれも乾隆年間の造営と伝えられ、その規模も大きい。これは、台湾北部においては、非常に特殊な地域であると言わねばならない。それはやはり、新荘がかなり古い時代より、北部の代表的な貿易港として発達したことが背景にあろう。
もうひとつの特色としては、祭祀される神々に地域性が薄いことだ。むろん、三山国王のようなものもあるが、媽祖・関帝・土地公・文昌帝君など、ある特定の地域において祭祀されるものが少ない。
これは、台北における他の地域と決定的に異なっている。例えば、萬華は王爺の小廟が乱立し、泉州出身者が多いことを伺わせる。また士林地区には、開漳聖王の廟を中心に集落が存在していた。すなわち漳州人が多かったことを示す。大同地区には巨大な保生大帝廟があり、泉州出身でも、他と異なる地域の移民が多かったことを現している。
ところが新荘の廟については、このようなある地域の出身者を特定できるような廟宇は少ない。そのうち三山国王廟だけが例外と言ってよい。その他に祭祀される神は、台湾の全土の縮図と称してよいほど普遍的な神ばかりである。
似たような傾向は鹿港や、彰化などの古い港にも見られる。おそらくこのような地域の形成過程においては、港に面したごく狭い地域に、各地からの出身者がおのおの小さな集落を作っていたと推察される。このような特色は、新荘の発展史と暗合するものと思われる。
注
(1)荘芳栄『台湾地区寺廟発展之研究』(中国文化大学史学研究所博士論文・1987年)27頁。
(2)『寺廟与民間文化検討会論文集』(台湾行政院文化建設委員会・1995年)においては、台湾の各地方における廟宇の発展状況と、信仰との関連、また地域の発展史などについて多くの論文を記載する。また、李豊楙・朱栄貴主編『儀式・廟会与社区』(台湾中央研究院文史哲研究所・1996年)においても、台湾の地域と宗教文化に関する数多くの論文を収録する。
(3)林衡道氏「台北近郊史蹟調査」(台湾省文献委員会『台湾勝蹟採訪冊』第2輯・1978年)85頁。
(4)媽祖信仰については、朱天順氏『媽祖と中国の民間信仰』(平河出版社・1996年)を参照。
(5)ここでは、台湾中央研究院の漢籍全文資料庫の「台湾府志」を利用して事例の検索を行った。以下も同じ。