蘇州玄妙観の十二天君について
二階堂 善弘
1.明清期の雷法
北宋期に興起した雷法については、林霊素が徽宗に取り入って国を誤らせたなどの批判があるが、後々までも、雷法自体はむしろ正統的な道術であると広く認識されていた(1)。 これを受けて、民間においては、雷法は道教の中では正統的な法術であると認識されてきた。例えば『水滸伝』では、公孫勝に対して師の羅真人が次のように説く場面がある(2)。
話説當下羅真人道、弟子、你往日学的法術却与高廉一般。吾今伝授与汝五雷天心正法、依此而行。可救宋江、保国安民、替天行道、休被人欲所縛、悞了大事、専精従前学道之心。你的老母、我自使人早晩看視、勿得憂念。汝応上界天間星、以此容汝去助宋公明。
このように、雷法を重視する考え方は、明代の小説作品中にしばしば見え、『警世通言』の「仮神仙大鬧華光廟」や「白娘子永鎮雷峰塔」には、道士が「雷法を修得していること」を強調する場面がみられる。また『西遊記』や『平妖伝』においても、しばしば「五雷法」は正統的な法術の代名詞として使われる。
清代の作品、例えば『緑野仙踪』や『済公伝』などでも雷法については言及されるが、正統的な法術というニュアンスはやや減じているように思える。例えば清の呂熊の『女仙外史』では、奎道人が自らの法術について、次のように述べる(3)。
臣所学的皆五雷天心正法、要風雲就有風雲、要雷雨就有雷雨。若到両軍交戦、能遣神将天兵空中助陣。又有両種異術、能駆魑魅魍魎之精、能摂毒蛇猛獣之魄、無影無形、吞噬敵人。賊若敗走、又能使沿途林木皆化為軍将、絶其去路、無可逃生。皆百発百中的。
前に述べる神将を呼び出して使役する術はよいとしても、後半の魑魅魍魎を駆使する術となると、いささか妖術に近いものを感じる。民間におけるイメージとしては、雷法は単に威力の強い法術として、各種道術の中に埋没していく印象がある。このような民間における雷法の地位の変化は、道教の側においても軌を一にしているように感じられる。
明清期の雷法と、主にその担い手であった神霄派の道士たちについては、李遠国氏が「論明清時代的神霄派」において論じ、また卿希泰氏主編の『中国道教史』においても詳しく述べられている(4)。
それによれば、まず四十三代張天師である張宇初は、雷法に造詣が深かったとされる。雷法などの諸法が集大成された『道法会元』はおそらく明初に正一派を中心として編纂したものと言われる。おそらくこの時点では、清微・神霄・天心などの諸法は、正一派にかなりの部分が吸収されて融合しつつ発展したものと思われる。
神霄系の道士として特に目立つのは邵元節と陶仲文であろう。彼らは嘉靖期において絶大な影響力を行使した。もちろん彼らの道法は、幾つかの流派を兼ね備えたものであったろうが、陶仲文が授けられた「神霄保国宣教高士」なる号に表れているように、彼らは雷法の伝承を強く打ち出していた。
特に陶仲文は世宗に寵任せられ、一人で少師・少傅・少保を兼ね、尊貴をほしいままにし、それはあたかも徽宗朝の林霊素を彷彿とさせるものであった。しかし『明史』において邵元節と陶仲文の両者が共に「佞倖伝」に入れられていることからも分かるように、世宗の妄信とも言える道教尊崇を煽った面があるのは否めない。 このような嘉靖朝における動向は、おそらく強く民間にも影響を与えたと思われ、先にみたような幾つかの小説作品における雷法重視のイメージにつながっているものと推察される。
しかし清代になると、王室はチベット密教を重んじたため、道教はそれほど重視されなくなる。しかも全真教が清代にそれなりの発展を遂げるのに対し、正一系の諸派は振るわなかったとされる(5)。張天師の号が「天師」から「真人」となったことに端的に示されているように、天師を擁する龍虎山の地位も相対的に低下した。その中で、神霄派の拠点として比較的活動が盛んであったのが、蘇州の玄妙観であった。
2.蘇州玄妙観と雷法
玄妙観は、現在は蘇州の街の中心に位置する。ここは現在でも繁華街の中枢である。ただ記録によれば、かつては蘇州府の東北の隅にあったとされる。
玄妙観山門
『玄妙観志』などによれば、晋の時に真慶道院として建てられたのが玄妙観の淵源であるとされる。その後、唐代の開元2年(714)には開元宮となり、宋の大中祥符年間には天慶観と改称された。南宋の建炎年間には北方の金の軍によって毀壊せられ、淳煕年間に再興された。元の成宗の時、天慶観を玄妙観と改名する。明の洪武年間には、玄妙観を「正一叢林」と改称した。
明嘉靖年間には再び玄妙観とする。清の康煕年間に多額の費用を使って重修し、また皇帝の諱を避け、「元」妙観と称した。その後もたびたび火災などにより焼失しては、修復を行った。民国元年には現在の呼称に復し、現在に至っている(6)。その間、兵乱や火災などによって何度も改築を経ている。現在でも広大な面積を持ち、山門・三清殿・雷祖殿・財神殿などの大規模な建築群を擁する。とはいえ、現在の建築物が整えられたのは、1980年代以降である。ただ、主殿となる三清殿などには、北宋のものとされる遺物が幾つか存在している。
玄妙観の主殿となるのは三清殿で、ここには三清を中心にし、玉皇上帝と金童・玉女、さらに鄧天君・辛天君・張天君・陶天君の四将を祭祀していた。また後部には虚皇天尊の像があったとされる。これらの像は文革中に破壊された。
現在、三清と玉皇上帝・金童・玉女と十二天君などの像があるが、これは1991年に作られたものである。 三清殿の脇の無字碑は非常に著名なものである。高さ二丈、広さ八尺の大きなものである。本来は明の方孝儒の撰した碑文があった。しかし方孝儒が永楽帝に罪を問われてより、その文は削られ、現在は無字の碑となっている(7)。
三清殿
三清殿の後ろには、弥羅宝閣という三層の広大な殿宇が本来は存していたが、民国期に火災で焼失し、残っていない。この殿においては、上層に玉皇上帝、中層に斗母、下層に地祇を祀り、また三十六元帥など、多くの従神像があったはずであるが、現在は残念ながら見られない。玄妙観の中心となるのは、山門と三清殿とこの弥羅宝閣であった。山門には、四大元帥を祀っていたが、その構成は温元帥・馬元帥・趙元帥・王元帥であり、関元帥は入っていない。
三清殿を中心として、左右の回廊には、多くの神々を祀る大小の殿宇があった。いま『玄妙観志』に付す図を見るに、雷尊殿・観音殿・三官殿・八仙殿・関帝殿・三茅殿・火神殿・玄帝殿・天后宮・文昌閣といった名称がみられる。
これらの殿宇についても、幾つかは名称や形態を変えて再興されている。現在は、九天雷声普化天尊を祀る雷祖殿、趙公明などの財神を祀る財神殿、文昌帝君を祀る文昌殿などがある。
文昌殿
この玄妙観は宋代以来、神霄派の活動拠点であったとされる。『中国道教史』には、『玄妙観志』により王文卿・莫月鼎・張善淵・周玄真・胡道安といった著名な道士たちが、玄妙観に居住して活動を行ったことを記す(8)。
ただ、明以降においては、すでに道教の諸派は融合に向かっており、特定の派に限定しての活動というよりは、ある派の流れを引き継ぐといった形での活動になっているものと考えられる。明末清初にここを拠点として活動した施道淵は、元は全真教龍門派の道士であり、後に正一派に属したという。清初、この施道淵によって玄妙観は再興された。『玄妙観志』に記す(9)。
本朝順治初、三清殿亦圮。里人魯芳募建延、穹窿施度師道淵経営成之、并建雷尊天王等殿。
施道淵は字を亮生、また鉄竹道人と号した。十九の時に龍虎山に行き、徐演真より五雷法を授けられたという。道淵の弟子は胡徳果、徳果の弟子に潘元珪があったが、この人がまたよく雷法を行ったという。その名声は京師にまで響き、雍正年間には召されて京に赴いたという。さらに元珪の弟子には、恵遠謨があり、遠謨の弟子に張資理がある。
ただこの両名は、婁近垣からも道術を得ている。また五十七代天師張存義が五雷法を授けたことも記される。このように清代においては、龍虎山以外では玄妙観が、雷法を受け継ぐ重要な拠点であった(10)。現在の玄妙観では、雷祖殿において儀礼が行われているようであるが、雷法に由来する「雷醮」も行われるとのことである。
3.三清殿の十二天君像
道観や廟に祭祀される神像は、期せずしてその廟の何らかの特色を映し出すことがある。むろん道観であれば三清や玉帝が、関帝廟であれば関帝が、媽祖廟であれば媽祖が中心になるのは当然であるが、従祀されている神が重要である場合もある。例えば、北京の東岳廟の七十二司や、十太保の像などは、冥界の主神たる東岳大帝の特徴を如実に示すものと言える。
元明以来続いている廟宇の場合、時に従祀神の由来などが不明になっている場合もある。武当山の三十六元帥の像なども、そこに含まれる多くの神の由来は、現在不明となっている。今後は、もう少し神像と廟の関係に注意した研究が必要になると考えられる。
さて蘇州玄妙観では、鄧・辛・張・陶・龐・劉・苟・畢・岳・温・殷・朱の各天君を三清殿に祭り、これを「十二天君」とする。先にも書いたように、その神像自体は新しく作られたものである。しかし三清や玉皇上帝のある主殿にこれらの神を祀るのは珍しい。そして、これらの天君を祭祀するということが、すなわち雷法と関係が深いという玄妙観の特色を浮き彫りにするものである。
雷法では、雷部に属する神将を召す法術を重要視する。雷部の神とは、九天雷声普化天尊の配下の三十六元帥を指すことが多いが、その場合は、馬元帥や関元帥や王元帥など、本来は火部や水部に属する神をも含むものとなってしまう。三十六元帥という時は、現在ではむしろ玄天上帝配下の天将としての元帥神を指すものとされる。天君と称する場合は、むろん雷部であるという性格が強調される。雷部の天君を描いたものとしては、むしろ『封神演義』の聞仲(普化天尊)率いる十天君、或いは二十四天君の方が知られることになってしまった。『封神演義』の二十四天君は次の通りである(11)。
鄧天君忠・辛天君環・張天君節・陶天君栄・龐天君洪・劉天君甫・苟天君章・畢天君環・秦天君完・趙天君江・董天君全・袁天君角・李天君徳・孫天君良・栢天君礼・王天君変・姚天君賓・張天君紹・黄天君庚・金天君素・吉天君立・余天君慶・閃電神(即金光聖母)・助風神(即菡芝仙)
これについては、『封神』の作者による虚構が含まれているため、特にその後半部分の天君の名称の根拠については怪しいものがあると言わねばならない。ただ、現在道士階級に属する者の中でも、この二十四天君をそのまま信頼している場合がある。とはいえ、鄧天君から畢天君までの名称と順序がほぼ一致するところから、ここについては伝承に基づいているものとみなすことができる。すなわち、当時雷部の天君としては、やはり鄧・辛・張・陶・龐・劉・苟・畢天君という位置づけであったと考えられる。
これらの天君について、より詳しい記載がみられるのは、道教経典では『道法会元』であり、民間信仰においては『三教捜神大全』である。ただ、すべての天君に対する記述があるわけではない(12)。
『三教捜神大全』の記載によれば、龐天君は龐喬、劉天君は劉後、畢元帥は田華、温元帥は温瓊、朱元帥は朱彦矢、張元帥は張純という名であるとされる。あとは辛元帥についての記載がある。しかし、『三教捜神大全』の記事の中で、雷法との関わりがあることを強調するのは、劉天君・畢元帥・辛元帥くらいである。あとはその名がみえないものも多い。そもそも、『三教捜神大全』には雷部の主神たる鄧天君の記事がない。
ここは『道法会元』の記事が重要であると考えられるが、『道法会元』については、長い時間をかけて発展してきた神や法術の体系が、かなり未整理のまま並んでいるという特色があるので、注意が必要である。またその分量も膨大であるため、ここでは諸天君と雷法の結びつきが強く感じられるものについてピックアップしたい。 まず、『道法会元』巻96の「九天碧潭雷祷雨大法」には、主法に元始天尊・玉皇上帝と九天雷声普化天尊を挙げ、神将としては鄧・辛・張・陶の各天君を召す。また、劉天君は巻104などにみえる。
辛天君(『三教捜神大全』より)
巻147の「洞玄玉枢雷霆大法」では、鄧・辛・劉の三天君を筆頭とする。また、その他の天君と絡むものとしては、巻154の「混元六天妙道一炁如意大法」では、馬元帥などの名も見えるが、辛・鄧・張・龐・劉・苟・畢・朱などの天君を並置する。 巻195の「混元一炁八卦洞神天医五雷大法」では、龐天君・劉天君を中心とする。同じく巻196では、龐・劉二天君に陶天君が加わる。この三天君をひとまとめにする傾向は、他の法術でもみられる。
龐天君(『三教捜神大全』より)
朱天君は巻228の「雷府朱帥考邪大法」にみえる。ただ、朱元帥は、馬元帥・陳元帥と共に「上清霊官」として組み合わされる場合が多い。どちらかというと火部に属する神であるかと思われる。 太歳殷元帥は、これらの雷部の天君とはやや異なる神系に属するものである。しかし、『道法会元』巻128の「九州社令陽雷祈祷検式」には、まず「鄧・辛・張」の三元帥を招請し、その後に「天心地司太歳殷元帥」を召す。ただ、殷元帥は巻248に記されるように、「天心地司大法」の主神として扱われる場合が多い。おそらく、これは天心法系の神なのであろう。温元帥に関しては、これも系統を異にするもので、『道法会元』巻253に「地祇法」の中で主となる神である。
これらの記述から、雷法に関わりの深い天君は、鄧・辛・張・陶・龐・劉・苟・畢の各天君であることがわかる。三清殿の十二天君のうち、岳・温・殷・朱の四天君については、若干系統を異にするものであるといえよう。ただこのうち、朱天君については、火部の神であると考えられるものの、時に雷法との関連が強くみられる。殷元帥に関しては、むしろ天心法との関連が強くみられる。温元帥は、東岳大帝の配下の太保としての役割が強くみられるが、地祇法との関係で取り入れられたものと考える。
いささか系統が不明なのは岳天君である。この神は、『封神演義』の二十四天君の中にもみえず、また『道法会元』においても、目立った記載がない。ただ、岳元帥を祭祀する廟宇は他にもある。上海白雲観に蔵する各元帥像は、元は南京の朝天宮にあったものであるが、ここに岳元帥の像がある。岳元帥については、これは岳飛であるともいわれる。もしそうだとすれば、比較的新しく元帥神の列に加わったものであると考えられ、記載に乏しいのは当然だと思われる。ただ、四大元帥において、地位の高くなった関元帥をはずし、かわりに岳元帥を入れることなどがあり、比較的重要視されていると考えられる。
以上、玄妙観の三清殿に十二天君が祀られることは、雷法とこの道観との密接な関連を抜きにしては考えられないと思われる。このような祭神と廟の性格の関連については、今後もっと広く考えていくべきであろう。
注
1.雷法については、松本浩一「宋代の雷法」(『社会文化史学』第十七号・1979年)を参照。
2.『一百二十回的水滸』(商務印書館)886頁。
3.『女仙外史』(百花文芸出版社)492頁。
4.李遠国「論明清時代的神霄派」『中国道教』第68期所収。また卿希泰主編『中国道教史』(四川人民出版社)第3巻334~347頁、及び第4巻183~194頁(いずれも曽召南執筆)。
5.前掲『中国道教史』第4巻183頁。
6.清顧沅『玄妙観志』(『中国道観志叢刊』11巻・江蘇古籍出版社)32頁、及び趙亮・貟信常・張鳳林著『蘇州道教史略』(華文出版社)125頁。
7.前掲『蘇州道教史略』132頁。
8.前掲『中国道教史』第4巻189頁。
9.前掲『玄妙観志』35頁。
10.前掲『蘇州道教史略』154頁。
11.『封神演義』(人民文学出版社)992~993頁。
12.『道法会元』については、『道蔵』(文物出版社等)所収のものを用いた。S.N.1220。『三教捜神大全』は、『絵図三教源流捜神大全(外二種)』(上海古籍出版社)を用いた。