招宝七郎(伽藍神探求1)

招宝七郎とは

曹洞宗のお寺に行くと、真ん中に本尊のお釈迦さま、左側に達磨大師、そして右側に招宝七郎(しょうぼうしちろう)という神さまが祀られているのを見ることができます。

招宝七郎は、また大権修利菩薩(だいけんしゅうりぼさつ・だいごんしゅりぼさつ)とも称されます。この神は、南宋の時代に鎌倉時代の日本に伝わった神であるとされます。しかし、いま中国に行っても、この神はほとんど祀られていません。南宋当時には非常に有名だったと考えられるのですが、いまは信仰が消滅してしまっているのです。いわば、「失われた神」です。

そのために、ほとんどこれまで民間信仰研究でも対象とはなりませんでした。江戸時代の無著道忠(むじゃくどうちゅう)という有名な僧侶が詳細に考察していますが、それくらいでした。

この神は特殊な姿をしています。片手を差しあげて、遠くを見ているような格好をしているのです。これはこの神が海神で、海の向こうの気候や、船の様子を案じているのだとされています。その意味では、現在の媽祖の神に役割が近いかもしれません。このことについても、無著道忠は指摘しています。

<福島広覚寺の招宝七郎像>

五山と伽藍神

鎌倉時代、中国から禅宗文化が入ってきます。栄西(えいさい・ようさい)や道元(どうげん)、俊芿(しゅんじょう)などの高名な僧が南宋の寺院で学び、また蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)など、著名な僧侶が日本にやってきたりしました。当時は、仏教文化を中心に、かなりグローバルな時代でもあったのです。

南宋の格式の高い寺院を、五山と呼びました。すなわち径山寺(きんざんじ)・霊隠寺(りんにんじ)・浄慈寺(じんずじ)・阿育王寺(あいおうじ)・天童寺の五つの寺院です。日本でもこれらの寺院をまねて、五山が造られました。ただ日本はその後数が増えて、京都五山・鎌倉五山、さらに五山の格上として南禅寺が定められたりしました。

これらの日本の五山諸寺院は、中国の五山をコピーする形で作られました。そこで、招宝七郎や祠山張大帝などの神もそのまま伽藍神としてこれらの寺院に祀られました。いま鎌倉の寿福寺(じゅふくじ)や京都の相国寺(しょうごくじ)に行きますと、招宝七郎の像が祀られています。

また北宋時代に日本から中国に渡った成尋(じょうじん)も、記録のなかで七郎神が祀られているのを示しています。この当時は、お寺にごく当たり前のように七郎神が祀られていたのです。

実は、いまの中国でも阿育王寺の舎利殿には、まだ招宝七郎の像があります。これは以前は招宝七郎の像だと認識されていなかったようですが、いまはちゃんと七郎像だと理解されるようになりました。

<阿育王寺舎利殿の七郎像>

文学作品に見える七郎

招宝七郎の名は、実は『水滸伝』に登場します。第70回に、張清(ちょうせい)という豪傑が登場しますが、彼を形容するのに、招宝七郎が使われているのです。『水滸伝』の第77回には次のような記載があります。

張清は左手で鎗をおさえ、右手で招宝七郎のような構えをすると、一声「やっ」と叫び、周信の鼻へと石つぶてを投げる。周信はそのためひっくり返って落馬してしまった。

この描写に関しては、全然説明がありません。おそらく当時の読者は、これを見ただけで招宝七郎の「手を差しあげる」様子がすぐに思い浮かんだのでしょう。それくらい、当たり前のものとして招宝七郎は知られていたことになります。

また、明の小説『西遊記』に先立って書かれた『西遊記雑劇』にも、招宝七郎は登場します。こちらでは、ずっと「大権修利」と呼ばれます。観音菩薩が、玄奘三蔵を守護する神々を「十大保官」に任命するのですが、大権はその十番目に名が見えるのです。

第一の保官はわたくし観音が務めましょう。第二の保官は李天王、第三の保官は那吒三太子、第四の保官は灌口二郎、第五の保官は九曜星辰、第六の保官は華光天王、第七の保官は木叉行者、第八の保官は韋駄天尊、第九の保官は火龍太子、第十の保官は迴来大権修利にお願いいたします。

すなわち当時江南あたりでは、哪吒太子や二郎神と同じくらい、大権修利の神が知られていたことになります。しかし明代の小説の『西遊記』には出てきませんし、『封神演義』にも出てきません。どうも、明の末ごろまでにはだんだん人気がなくなって、知られなくなってしまったようです。

おそらく海神としては媽祖の方が有名になり、こちらが海神の代表ということになってしまったのでしょう。また、或いは媽祖の部下に千里眼がおりますが、この千里眼はまさに片手を差しあげる姿をしています。この神の方に吸収されてしまった可能性もあります。

明代からは、だいたい華人廟といえば、関帝と媽祖が見られることが多いです。かたや財神、かたや海神の代表です。ただ、恐らく宋の時代においては、この両者よりも祠山張大帝と招宝七郎の組み合わせの方がよく知られていたと考えられます。

中国では、清(しん)代にお寺の伽藍神もすべて関帝になってしまったので、これらのもともとの伽藍神はやはり寺院から姿を消してしまいました。

七郎権現

九州地方に行くと、あちこちに「七郎神社」があります。ここに祀られているのが、七郎権現(しちろうごんげん)という神です。

この七郎権現は、たぶん招宝七郎が伝わってきたものだと考えられます。特に平戸の七郎宮が規模の大きな神社だったようですが、このあたりには華人がたくさん住んでおり、その守護神として祀られていたものと考えられます。

いまではすっかり日本の神になってしまい、「七郎権現氏広(しちろうごんげんうじひろ)」という名になってしまっています。残念ながらもとの七郎宮はなくなってしまいましたが、亀岡神社の方に合祀されています。もとの鳥居もこちらに移動してきています。

<平戸亀岡神社に合祀されている七郎宮>