哪吒太子に関する補論
二階堂善弘
A Supplementary Study of Prince Nezha by NIKAIDO Yoshihiro
1.哪吒太子の研究について
筆者が「哪吒太子考」において、哪吒太子の変遷について考証してから、すでに十数年が経っている(1)。この間、哪吒太子に関する研究はかなりの進展があった。
特に2002年に台湾新営の太子廟を中心に開かれた「第一届哪吒学術研討会」においては、数多くの論文が発表され、かなり詳細な問題まで明確になったと考えられる(2)。また中国大陸においても重要な論文が幾つか出版され、さらには、陳学霖氏の“Legend of Building of Old Peking”において、北京築城の問題に関連して哪吒伝承の論議が行われている(3)。
しかし日本においては、これらの研究の進展について紹介される機会が非常に少ない。そのため、哪吒太子研究に関する認識は古いままであると言ってよい。本論では、主に関連する海外の哪吒太子に関する論議を紹介し、また先の論にて検討が足りなかった部分を補いたい。
台湾鹿港の廟にある哪吒太子像
2.「那羅鳩婆」の表記について
筆者はかつて、『仏所行讃』に見られる「那羅鳩婆」が中国における哪吒太子に関する最も古い記載であると述べたことがある(4)。これは筆者の考えというより、『望月仏教大辞典』などの記載を元に、幾つかの経典の内容を元にして導き出したものである。しかしこれに対して、蕭登福氏や陳学霖氏から疑義が提出された。陳氏の所論によれば次の通りである(5)。
He is mentioned as a son born to King Vaiśravaṇa, whereupon all the hosts of heaven were thrilled with joy, but recently the Taiwanese scholar Xiao Dengfu has contested that the name suggests he has only one of Vaiśravaṇa’s sons and does not specifically refer to Nazha. In most of the Tantric Buddhist texts Nazha appears as Vaiśravaṇa’s third son, and remains so through later times.
これはそもそも蕭登福氏の議論に基づいたものである。蕭氏の議論は『第一届哪吒学術研討会論文集』に収録されている「哪吒溯源」に見えるもので、次のように述べている(6)。
以為「毘沙門天王、生那羅鳩婆」、「那羅鳩婆」即是「哪吒」之一音訳。但「那羅鳩婆」、是否即是「哪吒」、疑点頗多。
すなわち、『仏所行讃』の「那羅鳩婆」をイコール「哪吒太子」であるとすることは、疑問が多く、賛同できないとする。
しかし筆者はやはり「那羅鳩婆」「那吒鳩伐羅」「那吒俱缽羅」「那吒矩襪囉」は、すべて同じ「ナラクーバラ」、すなわち「哪吒太子」を指すものと考えたい。それについては『大孔雀明王経』の記載が参考になると思われる。
『大孔雀明王経』は幾つかの翻訳があるが、このうち不空三蔵の訳と称される『仏母大孔雀明王経』には、ナラクーバラについて次のように記されている(7)。
那吒矩襪囉、住於迦畢試。
「ナラクーバラ神がカーピシーに住む」という記載である。この部分について、義浄三蔵訳とされる『仏説大孔雀呪王経』では、次のように記す(8)。
捺羅俱跋羅、住在迦畢試。
さらに、梁の僧伽婆羅訳の『孔雀王呪経』においては、次のように記す(9)。
那羅鳩婆羅夜叉、住柯毘尸国。
すなわち、この「那吒矩襪囉」「捺羅俱跋羅」「那羅鳩婆羅」は、すべて同じナラクーバラを指すことは明瞭である(10)。興味深いことに『仏所行讃』の「那羅鳩婆」と『孔雀王呪経』の「那羅鳩婆羅」は、ほぼ同じである。つまりナラクーバラ神は、古くは「那羅鳩婆」と訳し、後には「那吒俱缽羅」「那吒矩襪囉」と訳すようになったものと推察される。なお、義浄が「捺羅俱跋羅」とするのは、その音に注意したものか。むろん、「那吒」という表記が定着するのは唐代以降のことである。
『第一届哪吒学術研討会論文集』や、その後の大陸で出された論文においては、哪吒について多くの重要な文献資料が取り上げられている。そこには筆者が先の論文で扱っていなかったものも多い。例えば、蕭登福氏や郭俊葉氏が取り上げる蘇轍の『欒城集』に見える「那吒詩」は、北宋期における哪吒の伝承を示すものとして非常に重要である(11)。
那吒一首
方北天王有狂子、只知拝仏不拝父。
仏知其愚難教語、宝塔令父左手挙。
児求見仏頭輙俯、且与拝父略相似。
仏如優曇難値遇、見者聞道出生死。
嗟爾何為独如此、業果巳定磨不去。
仏滅到今千万祀、只在江湖輓船処。
「北方毘沙門天王に狂子あり、仏を拝するも父を拝せず」とまでその父子相克説話が発展し、かつ蘇轍が題材に取り上げるほどの知名度があったことは注意されるべきであろう。そしてこの故事は、『西遊記』において最終的に次のように語られるようになる(12)。
後来要殺天王、報那剔骨之仇。天王無奈、告求我仏如来,如来以和為尚、賜他一座玲瓏剔透舍利子如意黄金宝塔、那塔上層層有仏、艶艶光明、喚哪吒以仏為父、解釈了冤仇。所以称為托塔李天王、此也。
この説話は禅の公案によって示される「那吒太子、析骨還父」がその源流であるとはすでに指摘したが、北宋期にこのような形がすでに存在していることについては、残念ながら全く認識していなかった(13)。ここで後付けながら補っておきたい。
4.哪吒と北京城伝説について
北京城が明初に築城された時、哪吒の姿を象ったという伝説は、現在の北京地域を中心としてよく知られたものとなっている。この伝承について詳しく論じたのが、陳学霖氏の”Legend of the Building of Old Peking”である。この書は、同氏のそれ以前の著である『劉伯温與哪吒城-北京建城的伝説』に基づいて、その内容を発展させたものである(14)。この”Legend of the Building of Old Peking”については、筆者はかつて『東洋史研究』において内容を紹介したことがあるので、それを援用したい(15)。
第一部で主として扱う「哪吒城」の伝説は、よく知られたものであり、現在でも北京首都空港には哪吒の姿を飾った絵があるほどである。すなわち、明代に北京を建都するに当たって、風水の大家である劉伯温(劉基)が姚広孝と協力して、三面六臂、或いは八臂両足の哪吒太子の姿に象って設計したというものである。この伝説については、E.T.C. Werner ”Myth and Legend of China”(1924)やL.C. ArlingtonとWilliam Lewisohnの”In Search of Old Peking”(1935)などで詳しく紹介されているが、哪吒太子のどの部分が北京のどの部分に当たるかは、各伝承によって若干異なっている。本書128~130頁においては、主に哪吒の頭が正陽門、鼻が棋盤街、口は中華門、右肩は哈達門(崇文門)、左肩は順治門(宣武門)、右手は朝陽門、左手は平則門(阜城門)、膝が東直門と西直門、足は安定門と徳勝門に当たるといった説が紹介されている。この説によれば、別に三面六臂でなくても構わないと思われるが、あまりその点については注意されていない。134頁には、別の伝承による図が紹介されているが、こちらの場合は三面六臂のそれぞれに対応する。ただむしろ足の部分が宣武門・崇文門に当たり、両手が安定門と徳勝門に当てられている。ある意味では、三面六臂の形象或いは類似の形象を持つ神であれば、何も哪吒太子でなくてもよさそうなものである。しかし、元以降、特に明清から現代にかけては、「三面六臂の神といえば哪吒太子」と言えるほど、哪吒は著名な存在になっており、そのためにこの伝承に附会されたものと考えられる。
もっとも、この伝説が全くの虚構であることは陳氏も指摘しており、かつ筆者の書評でも強調した通りである。劉伯温は洪武八年(1375)に没しており、永楽帝の時期のこの北京築城には関わっていない。彼が関わったのは南京城の築城についてである。また姚広孝も恐らくあまりこの件には関係していない。
陳氏の分析によれば、これはもともと元の大都の築城に功績があった劉秉忠の話が元になっている。ただ後に劉伯温の知名度が圧倒的なものとなったため、説話の主役が置き換えられてしまったものと推察される。
ともあれ、この説話をもとに北京が「哪吒城」「八臂哪吒城」と呼ばれたのは確かであり、「北京」というと哪吒太子がそのモチーフとして使用されることが多いのは、現代にも通ずる哪吒太子伝承として注意しておく必要があると考えられる。
5.哪吒太子の献じた仏牙について
哪吒太子が道宣律師に献じたという仏牙の伝承については、すでに先の論でも見た通りである(16)。
中国でも日本でも、仏舎利や仏牙に関する伝承は数多く残されており、かつそれを供養したとする寺院は中国の寧波の阿育王寺をはじめとして、各地に存在する。その真贋については、もはや確かめようもなく、あくまで伝承として扱う他はないのであるが、ここでは哪吒太子の献じたという仏牙の流伝について考えてみたい。
中国に伝来した仏牙については、王海波氏の「仏牙の流伝」という論文に詳しいので、その記載に頼りつつ見てみたい(17)。
従宋太祖・宋太宗往下、関于歴代皇帝供養仏牙的事記載也很多、僅皇帝在大相国寺題賛仏牙的詩今存即有五首。北宋還有一顆著名的「道宣仏牙」、拠説是哪吒太子授给唐代西明寺道宣律師的。有記載説、這顆仏牙在烈火煅焼後更加晶明堅固、光彩奪目。遇到旱災、皇帝在皇宫内祈祷仏牙、随即下起了大雨。又説仏牙上的舍利隔着水晶匣就能冒出来、就像雨点一様等等。
北宋代に、哪吒太子が道宣に献じたという仏牙がまだ存在していたとされる。この仏牙は旱の時に皇帝が祈祷を行うと、雨が降ったという霊験があった。日本から宋に渡った成尋は、開封滞在中に相国寺でこの仏牙を見ている。『参天台五台山記』の煕寧五年十月の条にその様子についての記載がある(18)。
釈迦牟尼の仏牙と伝えられるものは他にも幾つか存在する。王海波氏は、1994年に山東の汶上の宝相寺太子霊踪塔の地下から発掘された仏牙は、やはり北宋の仏牙であるとする(19)。
また北京の西山八大処の霊光寺には、遼の時代に蔵されたとする仏牙が現在でも残っている。
八大処の歴史について記した『西山八大処』によれば、霊光寺には、遼代に造られた招仙塔という塔があり、清代までは存していた。1900年の義和団事件に起因する八ヶ国連合軍の攻撃により、この塔は消失した。この塔の跡から、天会七年(963)の「釈迦如来霊牙舎利」との銘文がある石の箱と、その中にある仏牙仏舎利が発見された。天会は北漢の年号であり、北漢の僧善慧によりこの銘文は記されたという。なお、この仏牙は于闐から持ち来たったものであるとする(20)。
現在の霊光寺の仏牙舎利塔
一方で、この哪吒太子の献じた仏牙は、日本に招来されたとも言われる。京都の泉涌寺には、現在も舎利殿があり、道宣律師ゆかりの仏牙舎利が安置されている。この仏牙は俊芿の高弟である湛海が白蓮寺から招来したものであると言う(21)。井上陽氏が論ずる所によれば、哪吒太子の仏牙の伝説は、日本にも確実に伝来していたようである(22)。
とはいえ、湛海の入宋時の詳細については不明なため、この仏牙の由来も不明確な点が多い。しかしこの伝承が正しいと信ずるならば、哪吒太子の献上した仏牙は、現在日本にあることになるであろう。
泉涌寺の舎利殿
注
1. 筆者「哪吒太子考」(『道教の歴史と文化』雄山閣出版)1998年167~196頁。該当文書を訂正し再録したものは、筆者「哪吒太子考」『明清期における武神と神仙の発展』関西大学出版部)2009年5~39頁に収録。
2.
国立中山大学清代学術研究中心他編『第一届哪吒学術研討会論文集』新文豊出版公司2003年総664頁。
3. 幾つかを挙げれば、李小栄「哪吒故事起源補考」(『明清小説研究』2002年3期)139~149頁、杜萌若「『封神演義』哪吒蓮華化身故事考源」(『哈爾濱工業大学学報』社会科学版第2巻4期2000年)84~86頁、郭俊葉「托塔天王与哪吒-兼談敦煌毗沙門天王赴哪吒会図」(『敦煌研究』2008年3期)32~40頁などである。いずれも「CNKI(中国学術情報データベース)」による検索である。陳氏のものは、Hok-lam Chan(陳学霖)”Legend of the Building of Old Peking” The Chinese University Press(中文大学出版社)総416頁。また『封神演義』の神格の変容については、山下一夫「『封神演義』通天教主考」(田中文雄・テリー・クリーマン編『道教と共生思想』大河書房2009年)176~198頁などの一連の著作が参考となる。
4. 前掲筆者「哪吒太子考」(『明清期における武神と神仙の発展』)6頁。
5. 前掲Hok-lam Chan(陳学霖)”Legend of the Building of Old Peking” 69頁。なお、陳氏は「哪吒」を「Nazha」としているが、「Nezha」の方がより正確か。
6.
蕭登福「哪吒溯源」(『第一届哪吒学術研討会論文集』)18頁。
7.
不空訳『仏母大孔雀明王経』(『大正大蔵経』巻19)425頁。
8.
義浄訳『仏説大孔雀呪王経』(『大正大蔵経』巻19)466頁。
9.
僧伽婆羅訳『孔雀王呪経』(『大正大蔵経』巻19)451頁。
10. なお、『大正大蔵経』の検索には「CBETA」(http://www.cbeta.org/)のデータ検索を用いた。また『大孔雀明王経』に哪吒の名が見えることについては、井上陽「『仏牙舎利』攷」(『佛教學研究』龍谷大学60・61合併号)130頁を参照した。
11. 前掲蕭登福「哪吒溯源」39頁、前掲郭俊葉「托塔天王与哪吒-兼談敦煌毗沙門天王赴哪吒会図」34頁。なお「那吒詩」は『中国基本古籍庫』(関西大学CSAC所蔵)のデータを用いて検索を行った。
12. 『李卓吾評本西遊記』(上海古籍出版社1994年)1122頁。
13. 前掲筆者「哪吒太子考」(『明清期における武神と神仙の発展』)9頁。
14.
陳学霖『劉伯温與哪吒城-北京建城的伝説』(東大図書公司1996年)
15.
筆者「紹介・Hok-lam
Chan(陳學霖)著『Legend
of Building of Old Peking』」(『東洋史研究』第67巻第4号2009年)165~171頁。
16. 前掲筆者「哪吒太子考」(『明清期における武神と神仙の発展』)8頁。
17. 王海波「仏牙的流伝」(『文史雑誌』四川省文史研究館2007年第3期)72~74頁。
18.
藤吉眞澄訳注『参天台五臺山記』上(関西大学出版部2007年)473頁。
19.
前掲王海波「仏牙的流伝」72頁。
20. 黄春和主編・包世軒著『西山八大処』(華文出版社2002年)41~45頁。
21. 上村貞郎・芳賀徹『泉涌寺』(淡交社2008年)11頁。
22. 前掲井上陽「『仏牙舎利』攷」130~132頁。
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