哪吒太子(中国民間神紹介1)

哪吒太子とは

哪吒太子(なたたいし)は、もともと仏教の護法神であったものが、中国でその後変容し、道教神となってしまった神です。 なお、哪吒の読みは「ナタ」です。「ナタク」というのは、読み間違いですので、ご注意ください(1)。

中国語の発音ですと、「ノーチャ(Nezha)」になります。「哪」は「ナー」ではありません。特殊な読み方になります。

その姿は少年で、身体や衣服は蓮華でできています。蓮華の化身とも言われます。 また火尖槍・乾坤圏・混天綾の三種の宝物を持ち、風火二輪に乗るという特殊な形象で知られています。 特に台湾でこの神を祀ることが多く、「太子爺(たいしや・タイズイェ)」とも称されます。さらに「中壇元帥(ちゅうだんげんすい)」「哪吒三太子(なたさんたいし)」の呼称もあります。その誕生日は旧暦の9月9日とされ、その日は各地で盛大な祭りが催されます。 かなり暴れん坊、やんちゃな武の神であるとされています。

日本で「太子」といえば聖徳太子ですが、中国ではこの哪吒太子が代表となります。

<台湾鹿港の王爺廟における中壇元帥像>

その由来

インドでは「ナラクーバラ(Nalakûvara)」という神でした。これは毘沙門天の息子に当たります。 これが「那羅鳩婆」「那吒矩缽羅」「那吒倶伐羅」とも書かれ、それが「那吒」になり、さらに「哪吒」に変じていきました。 北涼の訳といわれる『仏所行讃』には、次のような記載があります。

 毘沙門天に子のナラクーバラが生まれたように、多くの天の神たちが喜んだ。

(毘沙門天王、生那羅鳩婆、一切諸天衆、皆悉大歓喜)

この頃より、哪吒は毘沙門の子として、仏法の守護神として扱われます。

仏教神として

『太平広記』には次のような話が見えています。道宣に対して、仏牙を献上したという故事です。

道宣律師が階段から落ちそうになった時、その足を支える少年がいた。道宣が尋ねると、毘沙門の王子の哪吒太子であるという。護法の役割により、道宣律師を守護していたものであった。道宣は自分は修行の身であるため、特に守護は不要であると告げた。そこで哪吒太子は、道宣にその所有する仏牙を献上した。いまでも崇聖寺には、この仏牙が祀られている。

どうもこの伝説の仏牙は、本当に存在していたようで、日本から唐に入った円仁が『入唐求法巡礼行記』に実際に見たという記録を残しています(2)。 この仏牙、宋の時代には開封の相国寺にあったようなのですが、その後の経緯についてはよく分かりません。ところで、いま京都の泉涌寺には、湛海が持ち来たったという仏牙が舎利殿に祀られています。

これがそもそも、道宣律師に由来する仏牙であると伝説では言われています。すると、哪吒太子が献じた仏牙は、なんと回り回って日本の京都にあることになります。

もっとも、仏牙舎利は鎌倉の円覚寺、京都嵯峨の鹿王院にもあるとされています。伝承では、韋駄天がこの舎利を取り返したという話があります。また、舎利をもたらしたのは、哪吒以外の神という伝説もあります。

また、幾つかの禅宗の公案では、哪吒太子が骨と血を父母に還して、親子関係を離脱して説法したという記載があります。これが後世、父李靖との争いの話に発展するものと思われます。

道教神に変容

宋代からどうも徐々に仏教よりは道教系の神と変じていったようで、元や明の雑劇にはそういった役割で登場します。

例えば、『鎖魔鏡』雑劇には次のような記載があります。

那吒が衆を率いて登場して言う、「小聖は那吒神である。十大魔君を降したこと。(略)多くの妖魔を降伏さえた功績により、自分は八百八十一万天兵の降妖大元帥に封じられた。部下には有副元帥の野馬貫支茄や首将の薬師大聖がおり、天兵たちを統治している。」(略)那吒神は怒り心頭に達し、その姿を変化させて三頭六臂となり、六種の武器を執った。

これらの記載を見ると、哪吒太子は守護神として玉帝の命令に従い、妖魔などを退治する天界でも屈指の将という位置づけとなっています。よく二郎神とも組になって行動します。明の小説『西遊記』では、孫悟空を討伐する役目となりますが、この時点で、哪吒については相当広く知られていたと考えられます。

その物語

明の『三教捜神大全』には、次のような記載が見えます。

那叱(哪吒)はもとは玉皇大帝配下の大羅仙であった。(略)世に魔王が数多く出現したので、玉帝は下界に下れと命じた。托塔天王李靖の素知夫人は、長子の軍叱(金吒)を産み、次子の木叱(木吒)を産んでいたが、哪吒元帥は三男として誕生した。哪吒は生まれて五日に変化して東海にて水浴をしたため、東海龍王の水晶殿を倒してしまった。そして身を翻して宝塔宮に登った。龍王は宮殿を破壊されたために怒り、哪吒と戦った。哪吒は生まれて七日であったが、よく戦って九匹の龍を倒した。東海龍王はいかんともしがたく玉帝に訴えようとしたが、かえって哪吒の知るところとなり、天門の下で戦うことになった。このため龍王は殺されてしまう。

また帝壇に登ると、手には如来弓箭を持ち、射て石記娘娘の子供を殺してしまった。石記娘娘は兵を挙げて攻めてきた。哪吒は父の降魔杵をもって、戦ってこれを破った。父の李靖は石記娘娘が魔王の領袖であり、その死を恨んだ魔王たちが攻めてくるのではないかと、哪吒を叱った。

哪吒はそこで肉を割いて父に還し、魂だけの存在となって釈迦如来の元に現れた。如来はそのよく魔を降す力を評価し、蓮の葉や実を使って身体を作ってやった。(略)哪吒太子の神通力は広大であり、その変化は無窮である。そのため霊山会においても通天太師・威霊顕赫大将軍とされたのである。玉帝はまた哪吒を三十六員大将の第一総領使に封じた。この後、哪吒は天兵の領袖となり、永らく天界を守護することになったのである。

同じ話は『西遊記』にも載せられています。そしてこのような、「東海龍王と戦う」「石記娘娘と戦う」「父李靖と争い、自らの身を割いて父母に還す」「釈迦如来により、蓮華を身体として復活する」という故事が、後に『封神演義』に見られるような説話に発展していきました。

<『三教捜神大全』の哪吒>

『西遊記』で孫悟空を討伐したり、『封神演義』では周の武王と姜子牙を助けて大活躍する哪吒太子の姿は、講談や演劇に翻案されて広まっていき、大人気を博しました。

その三面六臂になって戦う姿などは、すっかり人口に膾炙するものとなりました。 ただ、おかげで哪吒は風火の二輪に乗ることになってしまい、まるで他の神はほとんど輪に乗らないものとされてしまいましたが、本来はこれは馬元帥華光の姿として知られていたものです。明代の『西遊記』までの哪吒は風火輪に乗っておりません。 『西遊記』で孫悟空と戦った時、哪吒の持つ武器は「斬妖剣・砍妖刀・縛妖索・降妖杵・繡球児・火輪児」となっています(3)。本来の哪吒の武器はこの六種です。

 

<『西遊記』世徳堂本より変化して六種武器を持つ哪吒>

父李靖と兄弟神

また、哪吒の父李靖は、毘沙門天が中国風の神に変化した托塔李天王という神です。何故唐の武将の李靖と、毘沙門天が結びつけられていったのかは不明確な点があります。

哪吒の兄である金吒(きんた)は、もともと密教の軍荼利明王であったものが、軍吒唎と書かれ、さらに金吒となりました。すなわち、これも元来は密教神です。

また次兄である木吒(もくた)は、『西遊記』では木叉(もくしゃ)と書かれます。実はこちらは観音の化身とされる泗州大聖(ししゅうたいせい)の弟子であった者です。

つまり、哪吒の一族はすべてもとは仏教に関連する神でした。いまではほとんどが道教系の神とされてしまっています。

信仰の現状

台湾では哪吒を祀る廟が数多くあります。また王爺や媽祖の廟に従祀されることも多いです。 台南県の新営太子宮と、高雄の三鳳宮は、規模も大きく、有名な哪吒廟です。

哪吒三兄弟を祀るとき、金吒を大太子、木吒を二太子、哪吒を三太子と称することが多いです。

シャーマンであるタンキー(童乩)が哪吒太子を尊重することでも知られています。

大陸では大きな廟はあまり見ませんが、しかし福建と広東ではよく神像を見かけます。

マカオの聖ポール天主堂跡(大三巴牌坊)の隣にある哪吒廟は、規模は大きくありませんが、古い廟として有名なものです。

<マカオ哪吒廟>


1.また哪吒の読み方談義が盛り上がっているみたいなので、ここの注もそれに従って書き換えます。前の情報は不正確なところがありました。

哪吒の読みが「ナタ」であるのは、以下の3つの理由によります。

①安能版の人名

安能努氏の『封神演義』(講談社文庫)ですが、人名がおかしなところがたくさんあります。たとえば、四大諸侯ですが、原作の「姜桓楚(きょうかんそ)」は「姜楚桓(きょうそかん)」になってしまい、文字が逆になっています。「崇侯虎(すうこうこ)」ですが、「侯」の字が「候」になってます。また「鄂崇禹(がくすうう)」ですが、読みが「がくそうう」になってます。「すう」は慣用音ですが、やはりこちらに読むべきでしょう。四大諸侯の3人まで、ヘンな書き方をされていることになります。「聞仲(ぶんちゅう)」を「もんちゅう」と読んだり、「武吉(ぶきつ)」を「ぶきち」にしてしまうのは、やはり問題があると思います。「ナタク」もそのひとつとなります。いまからでも遅くはありません。講談社の編集は、誤りについては訂正すべきだと思います。

②音写について

「哪吒」ですが、これは仏教の神ですので、仏教でどう読まれているかが重要です。サンスクリットの「ナタクーバラ」が音写されて「那吒矩缽羅」になるわけで、「吒」が「タ」、「矩」が「ク」の文字の音写になっています。 他の神々ではどうでしょう。たとえば、不動明王の脇士の「制吒迦(セイタカ)」ですが、これはサンスクリット「チェータカ」の音写です。音は「タ」ですね。別に「制多迦(セイタカ)」とも書かれます。ですので、当て字ですが、「吒」と「多」が似たような発音だったと思います。さらに稲荷との習合で有名な「荼枳尼(ダキニ)」は「吒枳尼」とも書きます。すなわちサンスクリット「ダーキニー」の音写です。この場合は、「ダー」の字の音写となります。いずれも入声では読みません。

慧琳(えりん)の『一切経音義』の反切がデータで出てくるので(便利ですね)、それで見ても「吒」は、「迍加反」 「摘嫁反」 「陟家反」 「摘加反」「謫亞反」 「折嫁反」という形で、ほぼ入声音になりません。もっとも、これに反するデータもあって、「嘲革反」なども、少数ながらあります。入声の例がないとまではいえませんね。実際、漢和辞典を見ても、多くの漢和辞典はこの音を「タ」「チャ」にします。藤堂先生の『学研漢和大字典』は、音はやはり「タ」「チャ」にしますが、復元音がやや異なる感じです。しかし、サンスクリットの「タ」は、当時の中国の口頭音ではおそらく「吒(タ)」と音写され、そしてそれを輸入した日本語も「タ」であったと考えられます。この漢字は、密教の音写で使われることが大半ですので、ここで使われた音が日本でも標準となっていったと推察します。仮に当時の発音が入声なら、日本のいま伝わる漢字音もちゃんと入声になったのではないでしょうか。

梁の時代に訳された『孔雀王呪経』では、ナラクーバラは「那羅鳩婆」と訳されます。唐の義浄(ぎじょう)は、同じものを「捺羅俱跋羅」と訳します。どちらかというと、「羅」で音写されることが普通でした。ところが、唐の不空(ふくう)の訳と称される『仏母大孔雀明王経』においては、同じものが「那吒矩襪囉」と訳されます。ひょっとして、「吒」の口頭音が入声でなくなったために、当てやすくなったのでしょうか。それとも、ナタクーバラとナラクーバラの発音の違いによるものでしょうか。このあたりはちょっとまだ不明確です。

③仏教の伝統

ただ、発音自体もどうでもいい議論といえば議論で、要するに「哪吒(ナタ)」は慣用音ですので、仏教の伝統でどう読まれているかが重要です。「文殊」を「もんじゅ」と読むのと同じで、「慣習に従います」としかいえません。仏教の伝統ということでは、仏教辞典、それに仏典の読みを調べれば、だいたい判明します。大蔵出版の『織田仏教大辞典』では、哪吒(那吒)は「ナタ」とします。東成出版社の宇井伯寿氏の『仏教辞典』では、やはり「ナタ」と読んでいます。さらに、『望月仏教大辞典』ではやはり「ナタ」となります。仏典の呪文でこの漢字はよく出てきますが、これも「ナタ」となります。これは、仏教の書物にほぼ共通のものです。自分は、仏教の読みで不明なものについては『望月大辞典』に準拠することにしています。

さらに、平凡社古典文学体系の『水滸伝』『西遊記』でも、当たり前に「ナタ」と読んでいます。ここ数百年の伝統からして、「哪吒」は「ナタ」読みするのが妥当ということになります。というか、間違ったのは安能版と、その影響を受けたものだけになります。

別に難しい話ではありません。単に読みが違うんだから、伝統に沿ったものに直してくださいというだけです。 むろん、漢字では本来「消耗」は「しょうこう」だったのが、間違えて読んでいるうちに「しょうもう」になってしまうという例はあります。こういう例からすれば、「ナタク」も仕方ないかなあとも思います。またわかった上で「ナタク」読みをするのは、当然オッケーです。

2.『入唐求法巡礼行記』巻三、会昌元年の条。

3.『西遊記』第四回に見えます。明代の小説『西遊記』においては、哪吒は風火輪に乗ってません。しかし、清代の『西遊真詮』などのほうでは乗っているようです。これは『封神演義』が『西遊記』に逆の影響を与えたしまった例だと思います。また、「金吒」も、明の『西遊記』では「軍吒」「君吒」が多いのに、清代には「金吒」に直されてしまう例があります。