黄檗山萬福寺の華光像について
−三百年の誤解を解く−
このたび、黄檗山文華殿、田中智誠和尚のご厚意により、黄檗山の伽藍堂の華光像を調査することができました。
より詳しいことは、別に文章にまとめるつもりですが、ここでは簡単に華光像の価値と由来についてふれたいと思います。
黄檗山萬福寺は、かの有名な隠元禅師の開山になる古刹であり、明代末期の中国の禅宗文化をそのまま保持していることで知られています。
中国では、仏寺の構造として、天王殿・大雄宝殿・法堂(講堂)が直線的に並ぶ形式を持つところが多いですが、萬福寺の構造はまさにその通りとなっています。また、天王殿には布袋が「弥勒」として祀られていますが、これも中国の様式そのままです。
その弥勒菩薩像、そして韋駄天像など、仏像の多くは、仏師范道生が作成したものです。范道生の仏像は、明末の様式をいまに伝える大変貴重なものです。その像の造型のすばらしさは、直接見た者はすぐに実感できるでしょう。
その范道生が寛文3年(1663)に作成したという神像が、いまも伽藍堂に祀られています。それが「華光菩薩」の像です。
華光(かこう)といえば、元明代に中国で盛んに信仰された神で、仏教からは華光菩薩(けこうぼさつ)、道教からは五顕霊官(ごけんれいかん)・馬元帥として尊崇された神です。有名な明の小説『南遊記』の主人公でもあります。
華光神は、その姿はかなり特異です。すなわち、三眼で無髯、手にはその宝物である金磚という武器を持ちます。像によっては風火輪に乗っていることもあります。
明末の中国南方の様式をそのまま受け継いだ黄檗山で、この華光菩薩が伽藍神として信仰されるのは、まったく自然なことです。いま、萬福寺の伽藍堂に祀られる華光の像を見るに、三眼や金磚など、ほとんどその特色を備えています。また、華光神は財神としてよく知られていますが、この伽藍堂でも脇侍に弁天と大黒天がいます。この二神との組み合わせ自体、華光が財神であるとの意識を強く打ち出したものでしょう。
ところがこの神の信仰は、清代に入ってからはやや衰えていきました。いまでも広東では演劇神として祭られていますが、ものすごく信仰の盛んであった杭州でも、現在廟はほとんど残っていません。
そのように信仰が衰えていったたためでしょうか、この華光像は関帝であるとの誤解を受けてしまいます。例えば、現在ではこの華光像の前に関帝像を安置し、関帝として祭祀を行うようですが、これは残念ながら間違いです。
関帝と華光神は、道教ではともに四大元帥の一角を占めており、財神という職能も一致することから、ある意味誤解があるのも仕方のないところがありますが、元来は全くの別神です。この二神を混同することは、問題があると言ってよいでしょう。
関帝は、よく知られているように三国時代の武将で、神として祭る場合は、顔を赤くし、青龍刀を持ち、長髯を持つ像であるのが普通です。これに対して、華光神の像は、三目で髭は無く、また手に金磚を持っています。そもそも華光神は密教の妙吉祥(文殊菩薩)と由来の深い神で、密教的な様相を持っています。関帝とは出自も形象も、全く異なっているのです。
隠元禅師のころには、明確に華光菩薩は、伽藍神として、しかも仏法の守護神として認識されていたと思われます。それが後世、華光神の由来が不明になってしまったことから、誤解されるようになってしまったのです。
三百年以上、華光神は異土において誤解され続けたことになります。
しかしここは、当時の認識に基づいて、華光菩薩としてお祭りするべきでしょう。ましてや、この華光神の像は当時の信仰をそのまま残すものとして大変貴重なものです。自分のように、中国の民間信仰を研究する者にとっては、その価値は計り知れないものがあります。
以下に、幾つかの影像を記します。
萬福寺の大雄宝殿
華光菩薩像(誤って前に関帝が置かれている)