劉伯温(劉基)


1.軍師のイメージ


「中国史上屈指の名軍師といえば?」

と言われれば、まずもって日本人の多くは、諸葛孔明を挙げると思います。もちろん、中国でも、諸葛亮(チューグリャン)を挙げる人が多いでしょう。

次となると、日本人なら漢初の張良を挙げるでしょうか? 長い歴史の中でも数多くの軍師が活躍していますので、ちょっと人選に困るかもしれません。


ところで、この場合中国の人なら、まず必ず「劉伯温」(りゅうはくおん・リュウポーウェン)の名を出してくることは間違いありません。ひょっとすると、諸葛亮より先かもしれません。

それほど劉伯温、つまり劉基(りゅうき)の名は名軍師として知られています。

でも、この名が出てきた時、多くの日本人は「誰それ?」となってしまうでしょう。包拯の場合もそうでしたが、中国ではこれほど著名な人物が、日本ではほとんど知られてないのは、ある意味で奇異に思えるほどです。

ここでは、いささかそのギャップを埋めるためにも、劉伯温についていささか紹介したいと思います。


2.劉基について


このコーナーでは、架空の人物もいずれは取り上げたいと思っていますが、劉伯温は実在の人です。彼は、明の太祖朱元璋に仕えて、明王朝の創設に貢献しました。


『明史』の記載によれば、劉基は、姓を劉、名は基(き)、伯温はその字(あざな)です。青田(浙江南部)の出身で、元王朝の科挙に応じ、進士となりました。

高安県の県丞(副知事くらい)に任ぜられ、累進して江浙儒学副提挙となりましたが、上の意に逆らって意見を申し述べたため、左遷されました。その後は、仕えるのを嫌って、故郷に隠遁しています。

時に、蜀にいた趙天沢は、劉基を称して「諸葛孔明に類する」と評しました。


至正16年(1356)に応天府を陥れてその後呉国公となった朱元璋は、周囲の地を攻略し、また人材を集めることに努めました。その大きな転機となったのが、至正19年に、「浙東の四先生」と呼ばれた、当時の名儒を応天府に招聘した出来事です。

四先生とは、浦江の宋濂、竜泉の章溢、麗水の葉琛、そして、青田の劉基でした。ここから、劉基は朱元璋の軍師として活躍を始めます。


当時、呉・張士誠と漢・陳友諒の間にあって苦慮する朱元璋に、「友諒の憂いが大きく、友諒が滅べば士誠も亡ぶ」と進言したり、韓林児を奉ろうとした元璋を諫めた話などが、『明史』列伝にその功績として見えています。

その後の明王朝の帰趨を決めたと言ってよい鄱陽湖の戦いにおいて、元璋のそばにあって督戦し、軍師として活躍しました。

そして、

「友諒が敗死し、その後太祖が士誠をも破り、中原を北伐し、遂に帝業を成さしめたのは、ほぼ劉基の謀によるのである」

と書かれるように、劉基の謀略面での功績は、絶大なものでした。

太祖は、敬意を表して決してその名前を呼ばず、また「わが子房(張良)である」と称したといいます。これからか、後世、劉伯温は「国師」「帝師」と称されることになります。


太祖が即位すると、功績により郡国公に封ぜられるところでしたが、これを辞退しました。その後、誠意伯の爵に封じられます。

宰相の李善長とは、肌が合わなかったと言われますが、太祖が善長を退けようとした時は、これを諫めています。クセのある人柄と言われますが、人を見る目は確かであったと思われます。

明王朝の創立時には、太史令から御史中丞となり、明王朝の体制作りに参画します。


しかし、洪武4年(1371)に、引退を請うて、故郷に帰ります。県知事が尋ねてきても、一介の民と称して会わなかったとあります。

この動きは、劉基が名利を度外していたと同時に、おそらく朱元璋の猜疑心がひどく、功臣を粛清することを見越していたためであると考えられます。

このように注意していましたが、さしもの劉基も、胡惟庸から弾劾を受けることになります。

郷里に隠退していても、猜疑を免れぬと悟った劉基は、むしろ首都応天にあって韜晦していました。その後は、病を得て、病床に臥します。

洪武8年、65歳にて卒しますが、これは胡惟庸が毒を盛ったのだと言われます。明哲を誇った劉基も、最後の場面では自己の運命より免れえなかったとも言えましょう。


胡惟庸は、劉基の死後、ますます専横の度合いが増していきますが、結局は逮捕されて処刑されます。

そして、これは世に有名な「胡惟庸の獄」となり、ものすごい恐怖政治が明の世を覆います。宋濂も、このさなかに巻き込まれて死を迎えます。

明初の明と暗の転換点で劉基は命を落としますが、朱元璋が猜疑心の権化と化した、最悪の様相は見ずに済んだのかもしれません。


3.『英烈伝』


明王朝の創立に関して、なるほど劉基は絶大な功績がありますが、他にも目立つ人物はたくさんいます。

建国の際の功臣、第一とされたのは、宰相の李善長ですし、第二は徐達、第三は常遇春です。この他、湯和や李文忠など、多大なる功績のあった者は少なくありません。特に、文官で最高の働きをしたのは、李善長でしょう。

しかし、後世の知名度から言うと、劉基の方が高いと言ってよいでしょう。これはやはり、史実というより、文学作品などにおけるイメージが強く影響していると思います。


そのイメージ作りの大きな根拠となったが、『英烈伝』(『皇明英烈伝』)であると思われます。この小説は、明初の興亡を描いた歴史小説ですが、あまり質の高い作品ではありません。虚実入り交じった描写は、読む者を時に混乱させます。

作者は郭勛という人だと言われます。嘉靖年間頃に自分の先祖の功績を称えるために、この小説を書いたとされます。現在の多くの版は、80回本です。

小説自体の価値はともかく、この小説は、後世おびただしい数の戯曲作品や語り物文学が基づいた資料となりました。そのため、明初の歴史の一般的なイメージは、『英烈伝』そのままの世界と言ってもよいかもしれません。


そして、この小説の中でほぼ主役クラスの役割を与えられるのが劉伯温です。小説の劉基登場のシーンから、当初はかなり「劉伯温」と字で書かれますが、現在字の方が有名になってしまっているのも、この小説からの影響かもしれません。


第17回、劉伯温の登場は、いきなり「黄石公が張良に与えた」という、秘伝の天書を得るという話から始まっています。そして、その番をしているのが不思議な力を持つ白猿です。どうも、40回本の『平妖伝』と似たり寄ったりの話ですが、これは『平妖伝』の方が真似をしている可能性が高いです。

第38回では、伯温は、鄱陽湖の戦に臨むにあたり、風を起こして火攻めを行います。このあたりの描写は、『三国志演義』の諸葛孔明そのままです。

赤壁の戦の描写は、明初のこの鄱陽湖の戦いから取材したものがある、とも言われますが、だとすると、史実としての劉基の行いが、『三国志演義』の孔明に影響を与え、またさらにそれが、『英烈伝』の劉伯温に影響を与える、という相互影響の関係が成り立つのかもしれません。

『演義』での諸葛孔明の羽扇を持つ姿も、劉伯温の影響があると言われますが、これはなんとも言えません。しかし孔明と伯温は、お互いに相乗効果でその名軍師のイメージアップが成されていった可能性は大きいです。

第78回では、太祖の歴代功臣に対する評価を聞いた伯温が、その酷薄さを悟るという場面があります。これも後世、別に劇として編まれています。

ただ、功臣粛清の様子までは描かないのは、さすがに明王朝の治下であるため、そこまでは書けなかったであろう、ということもあると思います。


この小説における劉伯温の特別扱いは際だっています。そして、このイメージが後世においても膨らんでいき、現在、一般的な「名軍師・劉伯温」という姿が形成されたと思われます。


4.伯温にまつわる伝説


劉伯温にまつわる伝説として、「焼餅歌」(シャオピングー)が最も有名かもしれません。

太祖が伯温に、食べていた焼餅を隠して、それが何であるか占って当てさせ、さらに明王朝の未来を語らせる、というものです。

天機である、と称して、伯温は語りたがらないのですが、どうしてもという太祖の懇願のため、「焼餅歌」という隠喩に満ちた歌を作るのです。明王朝の最後の状況までもが予言されているといいます。

もちろん、これも伝説に過ぎませんが、これによって、名軍師であり、またマジシャン的なイメージが増幅されているのも確かです。

このためか、儒者であったはずの伯温の姿は、むしろ道士として描かれます。これは本人にとっては不本意かもしれません。


また、北京の築城にあたって、劉伯温が、城の形を「八臂哪吒」の形になぞらえて作ったという話があります。

永楽帝の時には、伯温はとっくに死んでいますので、これもまったくの作り話であることは明らかです。しかし、明初の伝説というと、必ずと言ってよいほど、劉伯温が引っ張り出されるわけです。


5.おわりに


また、現在でも、劉伯温の伝説は作られ続けています。台湾のテレビドラマ「劉伯温伝奇」は、非常に有名な番組です。

台湾でおそらく最長のテレビドラマが、この「劉伯温伝奇」ではないでしょうか。ただ、はっきり言って、この番組ほとんど水戸黄門のパクリに思えます。

身分を隠して諸国漫遊をする劉伯温、武芸の腕の立つ二人のおつきの者がいます(助さん格さんですね)。

そして、庶民を助けて活躍し、最後には、皇帝から賜った宝剣(ほとんど印籠ですね)をもとに、皇帝の勅令と同様の効果を持つ命令を下します。

ストーリーは、やや退屈でマンネリの感もありますが、現在の劉伯温のイメージを知る上では大事なドラマかもしれません。筆者は、台湾にいた時は、毎週欠かさず見てました(笑)。


これほど中国で有名な人物が、日本では全然知られていないのは、やはりいささかアンバランスであるとは思います。ただ、「英烈」ものが日本で流行するとは考えられないので、こちらの方面から知られる、ということもなさそうですね。

すると、「包青天」同様、「劉伯温伝奇」を見てもらうしかなさそうですね。

それにしても、日本の中国学界でも、もう少し知られてよいのではと思います。


<参考文献>

『英烈伝』宝文堂書店

郝兆矩・劉文峰『劉伯温全伝』大連出版社

檀上 寛『明の太祖 朱元璋』白帝社


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