杭州の寺廟について
二階堂 善弘
はじめに
中国江南の中心都市・杭州は、古来より経済と文化の発達した都市であった。ただ、どの他の都市とも同じように、杭州も発展と衰亡をともに経てきた。町の中心よりやや南に位置する呉山は、春秋呉国の南界と言われる。春秋から秦漢代には、南方の有力都市の一つとされた。隋唐代よりは水運の要衝として経済が栄え、また西湖と錢塘江を擁し、景勝の地としても知られる。また五代において、杭州は呉越国の首都としていっそう発展した。南宋期には、北方を逐われた宋王朝がここに「行在」を起き、事実上の首都として機能した。元代にはマルコ・ポーロがこの都市を訪れてその繁栄に驚嘆した。その後動乱期にはやや衰退したものの、明清期には経済の中心地として再び繁栄を極めた。
このような経済・文化の発展を背景に、杭州には多くの寺廟が存在し、宗教文化が栄えた。特に古刹霊隠寺は全国的に名が知られた大伽藍を擁する。また南宋の忠臣岳飛の墓である岳王廟も、その存在を知らぬ者とて無い。
筆者は、茨城大学の浙江大学との協定による短期留学生派遣の引率担当として、2001年2月28日から3月17日までの日程で杭州を訪れる機会を得た。その間に調査できた寺廟は決して多くはないが、現在の信仰との関わりという観点から、若干の報告を試みたい。
1.抱朴道院
現在の杭州においては、霊隠寺や天竺を始めとして、寺院の方が目立つが、もちろん以前には夥しい数の道観や廟が存在していた。歴史上の文献には数え切れぬほどの道観の存在が確認でき、また近年までも多くの道観が活発な活動をしていた。分類によれば、杭州の道観は全真系と正一系のものが半々である(1)。
抱朴道院は、現在でも活発な活動を続けている道観の一つである。その位置は、西湖の北に聳える宝石山の一角、かつて葛嶺と称された箇所にある。「抱朴」「葛嶺」という名から察せられる通り、この道観は抱朴子葛洪が煉丹を行った場所とされており、それにちなんで名付けられたと言われる。実際にこの道観の主神は葛洪であり、また呂洞賓や東岳大帝が併祀されている。呂洞賓を祭祀することから察せられる通り、この道観は清代以降は全真教龍門派の十方叢林として扱われている。明初には「葛仙庵」と称されていたが、清代に抱朴道院という現在の呼称となったようである。かつて葛洪が丹を練ったという古井戸が存する。全真系の道観らしく、その前門には王霊官の像が掲げられている。
抱朴道院の壁面・抱朴道院の門と王霊官
宝石山の近辺には数多くの旧跡がある。後述する岳王廟、それに黄龍洞、また山の頂には保俶塔がある。抱朴道院は山の南の斜面にあり、実のところあまり広くはない。
主神が葛洪と呂洞賓・東岳大帝の他、祭祀される神は玄壇元帥趙公明などがある。また杭州の地方神である張大仙、それに金華将軍が祀られているのが特色である。いささか不明なのは、円通自在天尊という神で、これは観音大士と称されている。筆者が訪問したおりには、道教ではなくむしろ仏教の進香団が来ており、主神ではなく、この神の周りで祭祀が行われていた。
この道観の特色として挙げられるのは、女性道士、つまり道姑が儀礼を執り行うことが多いということである。実際に筆者が訪れた時も、女性道士が儀礼を行っていた。
参拝する進香団・元辰殿から西湖を見下ろす
2.岳王廟
岳王廟は、抱朴道院からさらに西に進み、西湖のほとりと言ってよい場所にある。蘇堤の入り口の近くにもあたり、もっとも観光地化が進んだ箇所の一つであろう。
岳王廟、また岳墳は、岳飛の墓を中心とした建築であるが、ここも興廃の激しい土地である。そもそも岳飛は紹興年間に秦桧に謀殺されており、しばらくは罪人として扱われた。そのため一人の獄卒が、岳飛の遺体を密かに運び出して埋めたという。その後二十余年を経て孝宗の代、ようやく生前の爵位が戻された。現在岳王廟があるのは、元来は智化寺という寺院であったとされる(2)。元来、岳飛を祀る廟は杭州に二箇所あったとされる。一つは現在の岳王廟、もう一つは、始めに岳飛が葬られた所で、現在の慶春路にあったという(3)。
岳王廟は、現在の基礎になっているのは民国七年(1918)の建になるが、その遺構も文革期に徹底的に破壊された。現在の岳王廟は、1979年に重建されたもので、比較的新しい建築が多い。
岳飛と岳雲の墳墓・ 跪く秦桧と妻王氏の像
岳飛は現在では民族英雄としてその名を知らぬ者とて無いが、このイメージを形成するにはやはり通俗文学作品と、それに基づいた講談や演劇の影響が大きい。『説岳全伝』における「忠臣岳飛」対「奸悪宰相秦桧」という図式は、牢固として抜きがたい観念となっている。岳飛の墓の前に、跪いて許しを乞う秦桧と王氏の像があり、岳王廟に詣でる者は必ずこの像に唾を吐きかけることになっていた。現在ではこの像も柵で覆われ、そのような行為は禁じられている。ただ筆者は、観光客が昔と同じ意識で棒を使ってこの像の頭を叩いているのを見た。
岳王廟については、信仰の対象というよりは、現在では民族英雄の墓としての畏敬の対象、それに観光地という性格がより強くなっているように思われた。
3.霊隠寺・浄慈寺と済公
杭州一の名刹と言えば、まず霊隠寺の名が挙げられよう。これと近くの天竺、すなわち上天竺法喜寺・中天竺法鏡寺・下天竺法浄寺は西湖の山間の土地に位置する。中でも大規模な伽藍を誇るのは霊隠寺である。
霊隠寺は、著名な五山の一であり、古刹の多い杭州近辺でも一際目立つ存在である。筆者は、この他にも有名な古刹である浄慈寺・天童寺・阿育王寺などを訪れる機会も得たが、参拝客の多さ、伽藍の規模の大きさなどから見ても、他を圧して霊隠寺の存在は際だっているように思える。
多くの人が参拝する霊隠寺大雄宝殿・霊隠寺天王殿
霊隠寺の淵源は東晋時代に遡ると言われ、1600年あまりの歴史を有すると称す。実際、唐代にはすでに大伽藍が存在し、これに関しては多くの記録が残っている。宋代に五山の一つとして著名になり、王朝の庇護のもと多くの殿宇が建てられた。しかしその後たびたび火災などに遭っては改築されており、明清期にもしばしば増築が試みられた。
ただ太平天国のおりには、天王殿と羅漢堂を除いては、すべて破壊を蒙ったとされる。民国初に再建がなされたものの、新中国成立直後に大雄宝殿が倒壊、その時に中の仏像も壊れ、1956年に再建された(4)。このように、現在の霊隠寺の巨大な殿宇の多くは、清以降、特に現代にかけて建てられたものである。また筆者が訪れた時には、五百羅漢の像を備える新しい羅漢堂が公開された直後であった。
しかし、一方で多くの文物が遺されている。例えば、大雄宝殿の傍らにある石塔は、北宋の遺物である。また霊隠寺の前は、飛来峰といい、多くの洞窟があり、そこには南宋から元のころに彫られた磨崖仏が数多く存在する。
飛来峰の磨崖仏
霊隠寺と言えば、すぐに済公活仏が想起されよう。伝承によれば、済公はかつて霊隠寺と浄慈寺に住持しており、この両寺と深い係わりを持つ。また名水で有名な虎跑には済公殿がある。ここは済公の墓所と伝えられる。ただここは寺として機能してはいない。
済公は活仏として、その名を知らぬ者とて無いほどの著名な僧である。そしてその酒を飲み肉を食らうという破戒ぶりや、神通力で悪人を懲らしめるといった活躍は、親しみをもって語り継がれている。むろん、こういったイメージは岳飛同様、『済公伝』などの通俗文学作品や、それに基づく語り物の影響を深く受けており、史実とは異なったものである(5)。済公の伝承には古来からの「癲僧」の事績を集約して膨れあがっていった面がある。
「済公」は、宝志和尚が「志公」と称されたことの転訛であり、実在しないとの説はすでに誤りとされているが、まったく宝志和尚信仰の影響がなかったかというと、これは単純には判定できない。むろん、済公こと道済は南宋に実在した僧侶であり、確かに霊隠寺や浄慈寺に住持していた(6)。
しかしながら、浄慈寺においては本殿の裏側に独立した済公の像を配し、虎跑においては済公のみを祀る殿を用意することに比べ、霊隠寺における済公の影はやや薄いように思われた。もちろん、飛来峰にある青林洞の中には、かつて済公が寝床にしていたという「済公床」が存するくらいである。そもそも、杭州といえば済公と結びつきの深い土地柄であると考えられるのに、済公に関連した古跡はそれほど目立たないのは、意外の感があった。それでも済公の人気は根強いものがあると見え、五百羅漢の中に埋没する像であれ、独立して祀られる像であれ、熱心に拝む人の姿が絶えることはなかった。
4.城隍閣と呉山
杭州市街の南に呉山という小さい山がある。この山の頂上に城隍閣という建物があるのが一際目立つ。
呉山下から城隍閣を望む・城隍閣
呉山はそもそも春秋の伍子胥にちなむ山で、「伍山」が転訛して「呉山」となったという。頂上の城隍閣は、最近になって建設されたものであり、エレベーター付きのコンクリートの建造物である。まったく観光のための施設であって、今日ではそれ自体に宗教的な意義は無い。
しかし、元来はこれも城隍廟がここに存在したからの名称であり、深く信仰に根ざしたものであった。もっとも、いささか目立たないが城隍閣の隣には、これも新しいとはいえ城隍を祀った建物が存在する。但しこちらはほとんど信仰の対象とはなっていない。
杭州の城隍神については、有名な逸話が知られている。これは『西湖二集』に「周城隍弁冤断案」(7)として採録されている。それによれば、杭州の城隍神は姓を周、名を新といい、明代の人である。この人は浙江按察使であったが、永楽帝の時、無実の罪にて刑死した。その後冤罪が晴れて、浙江の城隍に封じられた。もっとも、これについては、祟りを恐れた明王朝が、無理矢理に周新を城隍神に祭り上げたのだ、という見方もある(8)。
ただ、宗教的な意義は薄くなっているとはいえ、城隍閣を中心とした廟会は行われているようである。
5.その他−雷峰塔・六和塔など−
西湖一帯は、「白蛇伝」故事にちなんだ所が数多く存在する。この話は全くの虚構であるが、杭州の風景をよく反映しており、現在の都市景観と関係が無いとも言えない。 その中で、もっとも有名なのは、西湖の南にある雷峰塔であろう。法海和尚が白娘を封じ込めたという雷峰塔は、五代呉越の時に建てられ、その後明の嘉靖年間に倭寇により炎上し、甎の塔の部分だけが存していた。その残余の部分も、1924年に突如倒壊し、現在まで再建されていない(追記:現在再建中である)(9)。
筆者が杭州を訪問している中、まさに雷峰塔の発掘調査が行われた。その模様は浙江地方のテレビにおいて生中継されており、もってその興味の深さが窺い知れた。仏像など、多くの遺物が発掘されたようであるが、詳しい報告はまだ出ていない。
錢塘江沿いに、いまでも八角形に十三層の優美な姿を見せる六和塔は、元来は北宋代に建てられたものである。ただこれも南宋時に兵火に遭い、その後重建された。現在の六和塔は、塔身は南宋代のものを残しているが、それ以外の部分は清の光緒年間に改築されたものである。現在、六和塔は塔の博物館とされており、中国やその他の国の塔を模した大小のミニチュアが近辺に数多く建てられている。
雷峰塔にしても、六和塔にしても、元来は寺院として建てられたものであったが、宗教施設としての機能は消失し、もっぱら観光地としての役割が強くなっていったと考えられる。
おわりに
今回訪問した寺廟は多くはないが、それでも、現在のこういった施設の抱える傾向がある程度明確になったと思われる。中国大陸では、元来宗教施設であった箇所が、はっきりと二極分化を起こしているということである。例えば、抱朴道院や霊隠寺のように、国家によって宗教施設として認定された寺廟は、程度の差はあれ参拝客が多く訪れ、伝統的な祭祀が執り行われている。もちろん、同時に観光地としての機能も持っている。一方、岳王廟や城隍閣や六和塔などのように、宗教設備としての機能の大半を失い、単なる観光地と化してしまった寺廟も多い。もっともこれは、現在でもそれなりに保存されている廟宇であって、ほとんど保存修復の対象にならぬまま、本当に消失していく施設も多い。
このような傾向には若干の疑念もある。それは、宗教の機能を、あまりにも特定の機関のみに限定させすぎるのではないか、ということである。しかも、認められるのは道教や仏教などの伝統的な宗教のみであり、民間信仰に関してはほとんど考慮の外にある。もちろん、廟会などは開催されるものの、それは信仰面の要素を欠いたものである。経済が発展するにつれ、伝統的な価値観や考え方が復活しつつある。そのため、いずれはこういった極端に機能をシフトする傾向も、修正が図られるのではないだろうか。
注
1. 曹本冶・徐宏図『杭州抱朴道院道教音楽』(新文豊出版公司・2000年)1-117頁。
2. 王士倫『杭州文物与古迹』(文物出版社・1988年)52-54頁。
3. 王旭烽『杭州史話』(杭州出版社・2000年)172頁。
4. 巨賛『霊隠小誌』(霊隠寺・1995年)
5. 済公についての論は数多くあるが、ここでは語り物との関係を論じた山下一夫「郭小亭本『済公伝』の成立について」(『中国古典小説研究』中国古典小説研究会第5号47-57頁)、及び朱為総「済公伝説故事之探究考」(『2001海峡両岸民間文学学術研討会論文集』花蓮師範学院民間文学研究所所収)などを参照した。
6. 永井政之『中国禅宗教団と民衆』(内山書店・2000年)215-233頁。
7. 『西湖二集』(浙江人民出版社・1981年)624-638頁。
8. 鈴木陽一「浙東の神々と地域文化」(『宋代人の認識』汲古書院・2001年)111頁。
9. 前掲王旭烽『杭州史話』226-227頁。