関帝(中国民間神紹介4)

関帝とは

「中国で最もよく信仰されている神は何か」といえば、おそらく多くの人が「関帝」と答えるでしょう。現に台湾や香港にいけば、あちこちで関帝廟にお目にかかりますし、どこも参拝者でごったかえしています。

旧時の北京でも、なんと全廟の一割を関帝廟が占めていたといいます。中国国内のみならず、華僑が住まうチャイナタウンに関帝廟はつきものです。日本でも横浜中華街の関帝廟が知られています。

ところで、関帝(関聖帝君)とは、『三国志』でおなじみの蜀の関羽のことです。ただし中国ではめったにその名を呼ぶことはありません。敬意を表して関公(クァンコン)と称するのが普通です。だが「その関帝にはどんなご利益があるのか」と問えば、また多くの人が「発財(ファーツァイ:お金儲け)」と答えるでしょう。つまり関帝は財神なのです。いったいどうして、三国の猛将が財神と化してしまったのでしょうか。

また、廟の多さもさることながら、関帝に対する尊崇は、他の多くの神を上回るものとなっています。 孔夫子(こうふうし・孔子)に対して「関夫子(かんふうし)」という呼び方まであります。または「山西夫子(さんせいふうし)」とも。すなわち、関帝の地位は孔子と比肩するまでになったのです。一介の武将であったにすぎない関羽が、どのようにしてかくも高き地位を占めるまでになったのでしょうか。ここでは簡単にその変遷をたどってみたいと思います。

<上海白雲観の関帝像>

その由来

関羽の事蹟は『三国志』巻三六の「関張馬黄趙伝」に記載されています。

関羽は字を雲長といい、河東(今の山西省)の解州の出身であった。若くして劉備が旗揚げした時より張飛とともに従い、その手足となって活躍した。 後に劉備が曹操に敗れて袁紹のもとへ亡命していた時には、関羽は一時曹操に身をよせ、礼遇された。曹操と袁紹の戦のさなか、関羽は万軍のなかに一騎にて入り、袁紹の将顔良の首をとって返る。「漢寿亭侯」に封じられたのはこの時である。しかし劉備との恩義を忘れぬ関羽は褒賞をすべて返し、劉備のもとへと帰参する。曹操はこの行為を「義」であると称えた。

劉備が荊州を占めると、襄陽太守となる。劉備や諸葛亮が蜀を平定してからは、関羽は荊州全土を管轄することになる。ほどなく、前将軍・五虎将の首に任じられ、関羽は曹操軍を撃破する。かくてその勢威は魏を脅かし、曹操は一時許都からの遷都も考えたほどであった。 この時司馬懿らの献策により、曹操は呉を利用して、関羽の背後を襲わせる。魏呉に挟撃された関羽は敗れ、子の関平と共に斬首された。

かく歴史上の関羽は、その忠義と豪勇が知られるのみです。ただ単なる武人ではなかったようで、『春秋左氏伝(しゅんじゅうさでん)』を好んだことも注には記されています。

このような「忠義の英雄」のイメージは、後世において芝居や講談などによって増幅されていきました。三国の故事は唐ではもう原型ができていたようで、宋代には三国専門の講釈師がいました。 この物語が書として結実したものが、元代の『三国志平話(さんごくしへいわ)』であり、明の『三国演義(さんごくえんぎ)』です。特に『演義』は大流行し、現在にまで至っています。 現在では関羽の事蹟は、むしろ『演義』の方が有名になってしまったようです。そのため知識人の中にも小説を史実と混同する者があります。関羽の形象もすでに小説のイメージが定着しています。すなわち、赤い顔に長いひげ、赤兎馬に跨り、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を使い、側には刀を持つ周倉(しゅうそう)と、義子の関平(かんぺい)がつき従うといったものです。

<洛陽関林の関帝・関平・周倉像>

これも史実としては、ひげの見事さの描写があるだけです。また本当は関平は実子であるのに、小説により義子ということになってしまいました。だがその人気は絶大なものでした。『水滸伝』などにも、関羽の子孫とされる者が登場しますが、無論、史書の注には「関氏の家は滅んだ」とありますので、子孫がいるというのは怪しいものです。

ところで『演義』でも『平話』でも関羽はただ一人その名を呼ばれず、「関公」と敬称されています。すなわち、すでに当時「神」として扱われていたのは明白です。但し『演義』では、第七七回に、関羽が死後玉泉山に顕現したという記載がある他には、それほど「神」らしい記事はありません。やはり武人としての面が強調されています。それではいったい関羽はどのようにして「神」となったのでしょうか。

神となった関羽

六朝の道教における神々の一覧に『真霊位業図(しんれいいぎょうず)』があります。この図では仙人が高位を占めていますが、下位の部分には、俗世で功績のあった人物も見えています。不思議なことに、この図には曹操や劉備などがいるのに、かえって関羽の名がありません。おそらくこの時代はまだ、関羽は神としての地位を獲得していなかったようです。 関羽の神格化の動きはむしろ道教よりも仏教の方が早かったのではないかと思われます。隋の頃、有名な天台智顗(てんだいちぎ)のもとに神人が現れて、「自分は漢の将関羽である」と名乗り、仏法に帰依したいと請いました。そこで智顗は煬帝(ようだい)に奏し、関羽を伽藍神(がらんしん)に封じたといいます。この話は『仏祖統紀(ぶっそとうき)』に見えています。

実際、現在でも中国の寺院では伽藍神は関羽です。北京の雍和宮(ようわきゅう)のようなラマ系の寺院ですら、関羽の像があります。ただし、この伽藍神の話がいつ成立したのかは、明らかではありません。より確かなことは、関羽は民間信仰の世界では、恐ろしい冥界の鬼将と考えられていたらしいことです。唐代には、「関三郎の鬼兵が城に入ると、家々では皆恐れた」という記事があります。また関羽が殺された荊州には玉泉祠(ぎょくせんし)という廟があり、鬼神がこれを造り、神は「関三郎(かんさぶろう)」であったという伝承があります。 この関三郎の称がどうして起こったのかは分かりません。ただこの称からおそらく別の人物像が形成されます。それは関羽の三男と言われる関索(かんさく)です。

さて、北宋の時代になって、ようやく道教と関羽を結びつけるような説話が現れます。それは、解州(かいしゅう)で害をなしていた水蛟(みずち・龍の一種)を、張天師(ちょうてんし)が神将関羽を呼び出して退治したというものです。この話は『漢天師世家(かんてんしせいか)』などの資料にも見えています。 後の戯曲『関雲長大破蚩尤(かんうんちょうおおいにしゆうをやぶる)』となると、「小土地神であった」関羽が、悪鬼蚩尤(しゆう)を退治した話となっています。この功績により、関羽は徽宗より神に封じられるとあります。この張天師が有名な第三十代の張虚靖(ちょうきょせい)であり、『水滸伝』の冒頭にも登場します。この時点での関羽は、まだ道士に使役される神将、といった程度の存在であったと思われます。

なお、この時期の関羽の性格を示す資料が『道法会元(どうほうかいげん)』という道教儀礼書に収められています。ここでは関羽は「関元帥」と呼ばれます。この「元帥神」は宋から起こったもので、民間の巫者層から道教に流入したと考えられる武神です。宋代や明代ではよく「関(かん)・温(おん)・馬(ば)・趙(ちょう)の四大元帥」という言い方をします。

<『道法会元』に見える関元帥>

この書に見える関羽の称号は「鄷都馘魔関元帥(ほうとかくまかんげんすい)」とあります。すなわち、地獄(鄷都)の神であったことをにおわせる記載です。またここでの関元帥の姿は、すでに赤き顔、赤兎馬などの要素がすべて整っており、関平・関索の名も見えます。しかし周倉は時に「周昌(しゅうしょう)」となっています。或いは、漢初の周昌であった可能性もあります。この場合は神様としての記載ですので、異なる時代の人間が並記してあっても問題ではありません。もっとも、単なる誤記かもしれませんが。

関羽の顔が赤いことはおそらく他の元帥と関係があると思われます。すなわち、温元帥は青、趙元帥は黒、馬元帥は白がそれぞれ顔の色です。だから残りの関元帥は赤に配当されます。後世では「赤は忠義の色だから」などと言われますが、これはこじつけの要素が大きいです。 このように民間信仰の鬼将から道教の神将に採用された関羽ですが、その後はまた三国物語の流行の影響によってか、徐々に地位が上がっていきます。

それは封号にも現れておりまして、蜀漢の後主に「壮繆侯(そうびゅうこう)」に封じられて以来、千年近く封がなかった関羽が、北宋徽宗の代に「崇寧真君(すうねいしんくん)」の号を与えられています。 そしてこの後は追封が盛んとなりまして、南宋から元までは「義勇武安王(ぎゆうぶあんおう)」でありましたが、明末では「協天護国忠義関聖大帝」との称を勅封されています。清初は「忠義神武霊佑仁勇関聖大帝」との号をおくられ、清道光年間には、その封号はなんと二六字の長きに至っております。

信仰の発展

ところで、現在のような絶大な信仰が形成されたのは、実は清代(しんだい)になってからのことだと思います。清王朝は『三国演義』を経典視しておりまして、また宗教政策の必要もあって、関帝を称揚することにつとめました。清では県に必ず一座、孔子を祭る文廟と関帝を祀る武廟がありましたが、このうち関帝の廟については制限なしとされました。 かくて「関壮繆の祠は天下にあまねし」(顧炎武・こえんぶ)という状況が出現するに至ります。

<山西解州の関帝廟>

「関夫子」は武聖として、ついに文聖の孔子と肩を並べるまでになったのです。 民間における関帝の地位は現在でも向上の一途にあります。かつては「左玉皇」と称され、玉帝に比肩するものとまでされましたが、近年の台湾では結社系の教派より、「関帝は第十八代の玉帝となられた」と言われます。つまり関帝が最高神だというのです。もっとも正統を標榜する派からはこの説の評判は芳しくありません。

後世関帝の事蹟もどんどん造られ、父や祖父の名や、生まれた日までわかっていることになっています。民間の伝承に至っては、関羽の姓はもと関ではなかったとか、降雨を司るとか、様々なものが起こりました。ちなみに、関帝の聖誕日は、六月二四日とも五月十三日とも言われています。台湾では前者の日によく祭りが行われます。

民間結社系では、関帝は「関恩主(かんおんしゅ)」と称されることが多いです。すなわち、道教の「協天大帝関聖帝君」、仏教の「伽藍関菩薩」の称に加え、民間の「関恩主」まであることになります。中国のほとんどすべての伝統宗教から重んじられていると言ってよいと思います。 絶大な人気を背景に、その廟の数もケタ違いに多いです。旧中国では全国至る所に関帝廟がありました。北京だけでも百カ所以上あったといいます。現在は、双関帝廟などの跡地に往事がしのばれる程度です。しかし、洛陽の関林や解州の関帝廟など、いまでも壮麗な建築を残す所も多いです。

いまでも多くの廟が見られるのは台湾・香港です。台湾では、台北の行天宮(こうてんぐう)が有名です。この廟は元来民間系の廟であすが、台北一の人出を誇ります。近くの地下道に占い師がひしめくことでも知られています。その賽銭の額も?台湾一であると言われるほどです。また台北の龍山寺(りゅうざんじ・ロンシャンスー)の後殿にも関帝は鎮座します。

新荘の関帝廟、台南の関帝庁、高雄の鎮南宮などは由緒の古い廟です。そして関帝を従祀する廟は、まず数え切れぬほどあると考えられます。台湾では、適当な廟に足を踏み入れれば、まず関帝にお目にかかれるといってよいほどです。香港でも事情は同じとなります。特に香港の武廟は有名で、やはり歴史の古いものとして知られています。

財神関帝

ところで「財神関帝」であるが、不思議なことに、明代以前の記録では、関帝を財神とするものはほとんどありません。やはりこれも清になってからの現象のようです。しかし実の所、関羽には財神となるような事蹟は片鱗も見えません。むしろ「財を疎んじた」ことの方がよく知られています。一方で、このような人物だからこそ安心して財産を預けられるのだといううがった見方もあります。

 『平話』の冒頭、張飛は大金持ち、関羽は貧しい姿で登場します。そこには張飛がまず関羽に一杯ふるまい、関羽がお返しをしようとして、身に一文もなく、申し訳なさそうにするという記載が見えます。これからすれば、元の頃では、まだ関羽よりは張飛の方が財神にふさわしい人物と考えられていたようです。

<財神関帝>

ところで武神と財神の結びつきは、中国の民間信仰ではそう珍しいことではありません。そもそも趙玄壇神がそうであり、武財神として知られています。これはまた毘沙門天以来の伝統を継ぐものです。馬霊官も五顕財神(ごけんざいしん)と混同されています。これに関帝を入れれば、かつての四大元帥のうち、温太保以外の三元帥までは財神の性格を持つと言えるのです。

民間には清の乾隆帝により関帝が財神に封じたとの話も伝えられます。乾隆帝が早朝に殿に登ると、常によろいの音が聞こえました。ある日、驚いて振り返り「何者が余を守護しておるのか」と問うと、「二弟関雲長であります」と神人が答えました。そこで乾隆はその神人、すなわち関帝を財神に封じたというのであります。これではまるで乾隆が劉玄徳の転生であるかのようです。ただ、この話からも、関帝が財神になったのは新しいことであることが窺えます。これとは別に塩の売買との関係を指摘する向きもあります。

思うに、中国ではポピュラーな神は、多く「財」となにがしかの関係を持つのであると思われます。何故なら「発財」こそが、最も普遍的な願望だからです。農村では関帝は雨ごいの対象となることが多いのも、その需要を反映したものであると考えられます。関帝の顔が「財」を象徴する「紅」であることも、大きな影響をあたえていると考えられます。そして「財」を保護し、悪運を追い払う役を期待されていると考えると、武勇に秀でた神が財神となるのは、そう無理な展開ではないと思われます。

かく財神ともなった関帝は、廟のみならず、各家庭の神棚にも鎮座することになっています。台湾の一般家庭を覗けば、よくその神像にお目にかかります。変わったところでは、選挙事務所の神壇、犯罪人を検挙する警察にも、その神像が飾られているとされます。こうなるともはや関帝は「万能神」となったかのようにも思えます。


・参考文献

黄華節氏『関公的人格与神格』(台湾商務印書館)

鄭士有氏『関公信仰』(学苑出版社)

呂威氏『財神信仰』(学苑出版社)

自立晩報編『関聖帝君』(自立晩報出版)