『春秋繁露直解』について

二階堂 善弘


はじめに

前漢の著名な儒者・董仲舒は、漢王朝の儒学尊重に対して大きな影響を与えたとされる人物である。しかし、この董仲舒の撰になる『春秋繁露』(以下『繁露』と称す)については、偽書との疑問を抱かれたこともあり、古来あまり重視されてはこなかった。

このことについて『四庫全書總目提要』は次のように記す(1)。

漢董仲舒撰。繁或作蕃、蓋古字相通。其立名之義不可解、中興館閣書目謂、繁露、冕之所垂、有聯貫之象。春秋比事屬辭、立名或取諸此。亦以意爲説也。其書發揮春秋之旨、多主公羊、而往往及陰陽五行。考仲舒本傳、蕃露・玉杯・竹林皆所著書名、而今本玉杯・竹林乃在此書之中。故崇文總目頗疑之、而程大昌攻之尤力。今觀其文、雖未必全出仲舒、然中多根極理要之言、非後人所能依託也。是書宋代已有四本、多寡不同、至樓鑰所校、乃爲定本。

この評価は当を得たものであろう。つまり『繁露』は、すべてが仲舒の手によるものではないとはいえ、後人が仮託することのできない内容を含み、基本的に董仲舒の著作と見なして全く問題はないと考えられるのである。

筆者は、これに関連して『繁露』の版本の系統を考察し、偽書説が甚だ頼りにならぬことを論じ、併せてこれまであまり注目されなかった明・清代の『繁露』の諸本について報告を行った。同時にこの作業を通じて、各機関に所蔵される多くの『繁露』の注釈書を見る機会を得た。時に、台湾中央図書館に蔵される『春秋繁露直解』(以下『直解』と称す)も、その調査において管見に及んだものである(2)。

この『直解』は、その書名からはまるで『繁露』の注釈であるかのような印象を受ける。しかし、この書は所謂一般の注釈書とは性質を異にするものである。これは『繁露』の中の「求雨」「止雨」篇という、祈雨の祭祀に関わる部分のみを抜き出し、実際の雨乞いに使用するために、叙述を改変したものなのである。その内容は、この本が書かれた明の時代の風習に即して改められた箇所が多く、ほとんど『繁露』と関連の無い、別の著と考えてよい性質のものである。

しかし、この書は同時に、当時『繁露』がどのように受容されていたかという側面を示すものであり、そしてまた、明代の儒教・道教及び民間信仰がどのように関わっているかを考える上で、非常に興味深い資料であると考えられる。

本論ではこれらの点に注意しつつ、この『直解』の内容について分析と考察を行いたい。


1. 祈雨について

農業社会における天候の重要性は、いまさら強調するまでもないであろう。天候は、為政者にとっても農民にとっても重大な関心事であり、また旱や長雨などの降雨の不順は、時に経済に決定的なダメージを与えた。しかしまた天候は、これを人力では如何ともし難い面があるのは確かである。これは現代においてすら同様であろう。

そのため特に、旱が続いた場合は、人々は宗教的な手段によって天や神に訴え、雨を降らせようとした。これは世界各地で見られる傾向である。中国においても古来より、祈雨の事例には事欠かない。

「雩」という祭りは、まさに雨乞いを示すもので、これは古代より祭礼の一種として行われた。ただ、祭祀を行って雨乞いをする伝統がある一方で、中国では帝王の行いによって天候が影響を受けるという考えもあった。そのためには、まず君主が徳を積み、身を慎んで雨を乞わなければならないと言われる。

成湯遭灾、以六事剋己。魯僖遇旱、而自責祈雨。

伝承に過ぎないとはいえ、特にこの商の湯王が行ったという事例が、後世においてはたびたび強調されるのは、まさに聖王が行った雨乞いの典型的な例だからであろう(3)。またここに見える『春秋左氏伝』僖公二十一年の例も、君主の徳行に言及するものである(4)。

夏、大旱。公欲焚巫尪。臧文仲曰、非旱備也。修城郭、貶食省用、務穡勸分、此其務也。巫尪何為、天欲殺之、則如勿生。若能為旱、焚之滋甚。公從之、是歳也。饑而不害。

興味深いのは、ここでの魯の僖公の「巫尪を焚かんと欲す」という行いである。これはむろん、臧文仲によって意味のないことと否定されている。だがむしろ、当時においては、こういった巫覡と呪術に頼って雨乞いを行う方が一般的であったと思われる。

『繁露』に見られる求雨法も、基本的にはこの古代的な巫俗の流れに沿ったものである。『繁露』求雨第七十四に見える雨乞いの法は、巫術的な要素が濃いものである(5)。

春旱求雨、令縣邑以水日、令民禱社、家祀戸、無伐名木、無斬山林、暴巫、聚尪。(略)擇巫之清潔辯言利辭者、以爲祝齋三日、服蒼衣、先再拜乃跪陳、陳已、復再拜、乃起。

社を祭り、名木を伐らないなどの令を行わせ、巫に祝詞を読ませ、祭祀を行わせる。また、民を選んで、舞を行わせる。このように、雨乞いの行事は、感応呪術的な色彩が濃厚なものであった。

ここで注目すべきは、「巫を暴す(さらす)」という所作で、先に見た魯の僖公の「焚巫」の例と通底するものがある。そしてこの、「暴巫」という行為については、『礼記』檀弓篇に、同様の事例が記載されている(6)。

歳旱。穆公召縣子而問然。曰、天久不雨、吾欲暴尪而奚若。曰、天久不雨、而暴人之疾子、虐。毋乃不可與。然則吾欲暴巫而奚若。曰、天則不雨。而望之愚婦人、於以求之、毋乃已疏乎。徙市則奚若、曰、天子崩、巷市七日。諸侯薨、巷市三日。為之徙市、不亦可乎。

ここでも、どちらかと言えば巫術的な行為は否定されているのであるが、一方で「巫を暴す」ことが、雨乞いに効果があると信じられていたことが分かる。註釈によれば、巫などを天に曝すことによって天の慈悲をこいねがうとのことであるが、むしろ「巫を焚く」と同じく、犠牲を捧げるような、より呪術的な面が強かったと思われる。

ところでこの祈雨の法を、董仲舒は実際に行っていたとされる。『史記』にはこうある(7)。

今上即位、為江都相。以春秋災異之變推陰陽所以錯行、故求雨閉諸陽、縱諸陰、其止雨反是。行之一國、未嘗不得所欲。

これは『漢書』の仲舒伝もほぼ同文である。雨乞いの祭祀を行い、その効果が上がらないことは無かったという。

ここで興味深いのは、『春秋左氏伝』や『礼記』に見える「徳行重視」という考えがあまり『繁露』の求雨の記載には見えないことである。そもそも儒教においては、徳行を重視して、巫術に頼ることを戒める立場と、祭祀として巫術を重んずる立場とが混在している。ただ、それは矛盾というよりは、補い合う関係であったと考える方がよいであろう。『後漢書』の礼儀志には、次のような記載がある(8)。

自立春至立夏、盡立秋、郡國尚旱、郡縣各掃除社稷。其旱也、公卿官長以次行雩禮求雨、閉諸陽、衣皁、興土龍、立土人、舞僮二佾、七日一變、如故事。

漢代においては、このような行為は普遍的なものであったろう。ただ、後世になれば、こういった古来の巫術の要素は時代を経るに従って変化せざるを得ない。

雨乞いに関して言えば、例えば『晋書』には、僧侶である仏図澄が雨乞いを行った例を挙げる(9)。

時天旱、季龍遣其太子詣臨漳西滏口祈雨、久而不降、乃令澄自行、即有白龍二頭降於祠所、其日大雨方數千里。

もちろん、仏図澄に関しては、仏教の影響と言うよりは、特に呪術的な側面が強調される特殊例として扱うべきであろう。しかし、ここでの祈雨の性格が『後漢書』に見えるような古代祭祀の性格を持っていないことは、首肯されよう。

もっとも、山川社稷に祈る雩の祭りは、その後も国家祭祀的な形式では続けられていった。これは『隋書』に見える例である(10)。

隋雩壇、國南十三里啓夏門外道左。高一丈、周百二十尺。孟夏之月、龍星見、則雩五方上帝、配以五人帝於上、以太祖武元帝配饗、五官從配於下。牲用犢十、各依方色。京師孟夏後旱、則祈雨、理冤獄失職、存鰥寡孤獨、振困乏、掩骼埋胔、省徭役、進賢良、舉直言、退佞諂、黜貪殘、命有司會男女、恤怨曠。七日、乃祈岳鎮海瀆及諸山川能興雲雨者。又七日、乃祈社稷及古來百辟卿士有益於人者。又七日、乃祈宗廟及古帝王有神祠者。又七日、乃修雩、祈神州。又七日、仍不雨、復從岳瀆已下祈如初典。秋分已後不雩、但禱而已。皆用酒脯。初請後二旬不雨者、即徙市禁屠。皇帝御素服、避正殿、減膳撤樂、或露坐聽政。百官斷傘扇。令人家造土龍。雨澍,則命有司報。

隋唐の祈雨の事例では、冤罪を晴らし、貧窮の民に施しをし、賢者を挙げるなどの、徳治的な面がまず強調されている。また、臣下に命じて祈雨をさせる例も目立つ。

さらに宋代では、仏寺や道観において祈雨を行う例が目立つようになる。

丁巳、幸大相國寺、上清宮祈雨。(11)

六月甲戌、祈雨于玉清昭應宮・開寶寺。丙子、詔決畿内繫囚。丁丑、雨。(12)

癸卯、以久旱、詔州縣毋得淹繫刑獄。辛亥、祈雨于相國天清寺・會靈祥源觀。(13)

祈雨については、このように皇帝の祭祀ですら、これ以降は仏教・道教の関わりによって行われる事例が多くなる。様々な階層において行われる儀式も、仏教道教によるものが多くなる。むろん古代祭祀に則った祭祀も、たびたび行われるが、その祭礼はかなり形骸化している面は否めない。

総じて言えば、儒教的な祭礼が内包していた、「焚巫」「暴巫」のような巫術的な要素は時代を経るに従って薄れていくのである。儒教の性格について、これを宗教だと見る向きもあるが、首肯できない。なるほど儒教には、古代の巫術的な要素が古い時代には濃厚であった。しかし、巫術は民間信仰が独自に発展するにつれて変容していく。儒教の方は、古代の祭祀を抱えたまま、民間信仰とますます乖離していき、どちらかというと民間信仰を迷信として糾弾する側の役割を担うことが多くなるのである。儒教は、かつては宗教的であったが、後世それがどんどん形骸化したものと考えるべきであろう。

そして、このような流れの中で、いきなり漢代の祈雨の祭祀を明代に適用してみようとするのが、『直解』の試みであった。当然、そこには本来の祭祀とは大きく異なる部分が見られるのである。以下ではその点について見てみたい。


2.『直解』の背景について

『春秋繁露直解』は、台湾の中央図書館に蔵される。大部な書ではなく、単冊の本である(縦21.4cm×横15.2cm)。その構成は次のようなものである。

春秋繁露直解序(陳文燭・睦禁撰)

繁露説(李天麟撰)

春秋繁露求雨止雨直解(宋応昌撰)

武夷集木郎呪(白玉蟾撰)

付録(周嘉賓等撰)

中心となる内容は、董仲舒の『繁露』の求雨・止雨篇の内容を変改したものである。この書を撰したのは、明の宋応昌である。応昌が何故この書を著したかについて、陳文燭は序文においてこう述べている(14)。

董仲舒談天人與之際、甚可畏也。本災異之變、推陰陽所以錯行。故閉陽縱陰、求雨輒應。其止雨、反是。著春秋繁露、(略)右丞宋公、讀而愛之、筆爲直解。毎遇大旱、令有司依法而禱、附以白玉蟾祈雨呪、其文玄遠、有仙氣。行之郡國、往往得其所欲。(萬暦甲申)

また、同様に李天麟は次のように言う(15)。

繁露一書、江都董子作也。(略)今讀其文、多奇古而深奥、自武林宋公爲之解、而理始明其言。(略)歳癸未春、公以大哄於汴時、天久不雨、汴人懼弗豐。公出繁露、下有司按方禱之。(略)天即雨。是繁露自宋公行之、而法始靈。(萬暦甲申)

これらの記す所によれば、宋応昌は、かつて地方官となって赴任した際、旱に遭遇した時に、董仲舒の『繁露』によって祈雨の祭礼を行った。そして実際に効果をあげたのであると言う。また、仲舒の文章は深遠で、不明な点が多かったため、文意を改めてこの『直解』を撰したとのことである。

つまりこの書は、もっぱら実用的な目的のために書かれたものである。しかもその目的とは、官僚などが雨乞いを執り行うためのものであった。

この宋応昌(1536-1606)は、字は時祥、浙江仁和の人、嘉靖四十四(1565)年の進士で、官は右都御史に至る。ほとんど官僚としての事跡のみが目立つ人物である。日本の豊臣秀吉の軍勢が朝鮮に攻めてきた時に、経略として対処したと、『明史』などには見えている。

甲戌、副總兵祖承訓帥師援朝鮮、與倭戰於平壤、敗績。甲申、罷三邊總督魏學曾、以葉夢熊代之、尋逮學曾下獄。八月乙巳、兵部右侍郎宋應昌經略備倭軍務。己酉、詔天下督撫舉將材。九月壬申、寧夏賊平。(16)

副總兵祖承訓統兵渡鴨綠江援之、僅以身免。中朝震動、以宋應昌爲經略。八月、倭入豐德等郡、兵部尚書石星計無所出、議遣人偵探之、於是嘉興人沈惟敬應募。惟敬者、市中無賴也。是時秀吉次對馬島、分其將行長等守要害爲聲援。(17)

応昌のその他の著作としては『朝鮮復国経略』が見える程度である。官僚としての実績はあるものの、学術方面にはむしろ疎かったと推察される。このような宋応昌の経歴からして、『直解』は実用的な書で、そこに書かれている祭祀は、実際に行われたものと考えて問題は無いと思われる。

ただ、この書に類似するものとして、『中国古籍善本書目』に『春秋繁露求雨止雨直解』が見えている。書名からは同一のものかとも推察されるが、その著者は宋応昌ではなく、呉廷舉になっている(18)。

ただ、実際に重要なのは『直解』の成立の背景よりも、その内容である。次に、『繁露』が『直解』においてどのように改変されたかについて見てみたい。


3.『繁露』と『直解』の相違について

ここでは『直解』の内容について、『繁露』の文章との相違について見てみたい。次に挙げる表においては、「求雨」篇の「春」の事例のみを取り上げた。

 

『春秋繁露直解』求雨法

『春秋繁露』求雨第七十四

1

春、正月、二月、三月。

春旱求雨、

2

一、先於甲乙日、爲大蒼龍一條、長八丈、居中央。又爲小蒼龍七條、各長四丈、於東方、皆東向。其間相去八尺、以竹織成龍形、取潔土、填實其中、用青紙糊之、髯・角・耳目・爪牙倶全、用墨畫鱗、遮蓋製完、待臨時用。

以甲乙日、爲大蒼龍一、長八丈、居中央。爲小龍七、各長四丈、於東方、皆東向、其間相去八尺。

3

一、毎月於初八・十八・二十八日於郡邑、東門之外、爲四通之壇、方八尺、植蒼繒八、

八日於邑東門之外、爲四通之壇、方八尺、植蒼繒八、

4

於壇傍開池、方八尺、深一尺。池中貯水、水中錯置活蝦蟇五枚。

取五蝦蟇、錯置社之中、池方八尺、深二尺、置水蝦蟇焉。

5

一、於壇中、設立工共神位、備生魚八尾、玄酒八大鍾、清酒八大鍾、膊八盤、脯八盤。

其神共工、祭之以生魚八・玄酒、具清酒・膊脯。

6

以祭之先、於道士・端公人役之中、擇潔清辯口利辭者以祝。祝斎三日、臨時穿蒼衣、先再拜乃跪而陳、設祭品于壇上。陳訖、復再拜、乃起。

擇巫之清潔辯言利辭者、以爲祝齋三日、服蒼衣、先再拜乃跪陳、陳已、復再拜、乃起。

7

祝曰、昊天生五穀以養人、今五穀病旱、恐不成。敬進清酒膊脯、再拜請雨。雨幸大澍、

祝曰、昊天生五穀以養人、今五穀病旱、恐不成實。敬進清酒膊脯、再拜請雨。雨幸大澍、即奉牲禱。

8

所選小童八人、皆令先斎三日、穿青衣而舞之。田嗇夫、令先斎三日、穿青衣而立之。又於壇中即奉牲禱。

小童八人。皆齋三日。服青衣而舞之。田嗇夫。亦齋三日。服青衣而立之。

9

聚蛇。

聚蛇。

10

生山内潭中、祈禱時多、聚此蛇、置貯水大缸中、折柳枝泛其上晒于日中、得雨、送還本山。又一法、取蜥蜴十數條、置水瓮中、令童男女、持柳枝、呪曰、蜥蜴蜥蜴、興雲吐霧、令雨霶𩃱、放汝歸去。又祈雨之人、或道士・端公、但能事神者、集於壇上、依科行禱、日色雖熾、不許張蓋。

暴巫、

11

一、既建壇、便將南門闔閉、斷人行走、置貯水大缸中于門外。

令闔邑里南門、置水其外、

12

一、選頗曉經義道士十餘人、將木郎呪誦熟繞壇念之。

 

13

一、毎遇三日、不雨、具生魚八尾、玄酒八鍾、清酒八鍾、膊八盤、脯八盤。祈斎三日、前人穿青衣、先再拜乃跪而陳、設祭品于壇上。陳訖、復再拜、乃起。祝曰、昊天生五穀以養人、今五穀病旱、恐不成。敬進清酒膊脯、再拜請雨。雨幸大澍、所選小童八人、皆令先斎三日、穿青衣而舞之。田嗇夫、令先斎三日、穿青衣而立之。

具清酒・膊脯、祝齋三日、服蒼衣。拜跪陳祝如初、

14

又取三歳雄雞・三歳豭猪、皆用火燔其尾於四通神宇、令勿死。又具老母猪二隻、一置于北門之外、一置于市中。令城中更鋪、各置皷一面、聞壇中皷聲、即逐鋪傳入市中、直至北門、各用火焼猪尾。

取三歳雄雞・三歳猪、皆燔之於四通神宇。開里北門。具老豭猪一、置之於里北門之外、市中亦置一豭猪。聞彼皷聲、皆焼蝦猪尾。

15

凡祈雨、傳牌示諭城鎭郷村居民。一、於皇暦中、査水日、各里立壇、焚香致禱社神。
一、 各家於大門外設香卓水一缸
一、 禁諸人無伐名木、無斬山林
一、 將各該里社之溝渠疏濬、使與閭外之溝相通。
一、於社中各鑿五池、池中貯水、水中置活蝦蟇毎池各壹枚。

令縣邑以水日、令民禱社、
家祀戸、無伐名木、無斬山林、諸里社通之於閭外溝。取五蝦蟇、錯置社之中、池方八尺、深二尺、置水蝦蟇焉。取死人骨、埋之。開山淵積薪而燔之、決通道橋之壅塞、不行者、決瀆之。幸而得雨、以猪一、酒鹽黍財足。以茅爲席、毋斷。

両者の形式は、実はかなり異なっている。『直解』の方は、「一、一」と箇条書きの形で書かれているが、『繁露』の文章はそうではない。また、『直解』の方はかなり文章の前後が入れ替わっている。

両者の相違について、この表に従って幾つかの点について考察を加えたい。

まず、多くの文章が、それぞれ基づくところがあるとはいえ、大きく改変されていることが分かるであろう。特に、供物などがより具体的に述べられている。総じて、叙述は詳細になっている。

さて、6の部分は重要である。『繁露』が「巫」としていた部分は、『直解』においては、ほぼすべて一律に「道士・端公」と変えられている。

すなわち、この祭祀の担い手は、道教の道士か、あるいは民間の術者である端公なのである。

端公という名称がここで現れるのは興味深い。しかも道士と並記されているところは、両者が似たような役割を持っていたことを示すものであろう。むろん、端公は現在の法師・師公などと同じく、民間の巫術師である。但し、おそらく古代祭祀とはあまり関わりなく、むしろ道教・仏教の儀礼を取り入れて祭祀を行う面があったと推察される。このような「巫」が「道士・端公」に変容していることは重要である。

9の箇所、「聚蛇」については、これは『直解』の誤りであると考えられる。この箇所は別の版本では、「聚尪」とする。実際には、ここでは蛇よりも、やはり巫術者である尪と関連づける方が正しいと考えられる。

ただ、この誤りを通じて別の解釈を『直解』は加えている。すなわち、水の象徴である蛇を捉えて、雨を得たら蛇を山に返すこととする。これは元来の『繁露』には無いものである。

また9の箇所に見える「蜥蜴蜥蜴、興雲吐霧、令雨霶𩃱、放汝歸去」という呪文も、本来の祭祀にないものである。

この呪文は、「蜥蜴祈雨法」を取り入れたものである。『宋史』の次の文章がその証左となろう(19)。

十年四月、以夏旱、内出蜥蜴祈雨法。捕蜥蜴數十納甕中、漬之以雜木葉、擇童男十三歳下、十歳上者二十八人、分兩番、衣青衣、以青飾面及手足、人持柳枝霑水散洒、晝夜環繞、誦曰、蜥蜴蜥蜴、興雲吐霧、雨令滂沱、令汝歸去。雨足。

すなわち、これは祈雨法であるとはいえ、全く別の呪法に属するものである。当然ながら、元来の『繁露』の祭祀には無かった部分である。

また10の部分の「暴巫」について、『直解』では、道士たちが儀礼を行う際に、「不許張蓋」、すなわち覆いをすることを禁じているのみである。前に見た通り、この「巫を曝す」という行為は、非常に重要な概念であり、古代祭祀の中核的な部分を担うものであった。ところが、ここではそれが単に儀礼上の注意に変質してしまっている。これは、「暴巫」の持っていた呪術的な意義を全く理解していないものと考えられる。

さらに12の部分では、道士・白玉蟾の「木郎呪」を唱えさせている。白玉蟾については、著名な道士であるため多言を要しないが、本来この祭祀とは全く関連は無い。前の構成のところで示した通り、この『直解』では脈絡なく中間に白玉蟾の木郎呪を挟む形となっている。

この呪文自体は、『修真十書』に収録する白玉蟾の文章とほとんど変わるところはない(20)。祈雨ということ以外では、この呪文がこの箇所に挿入され、かくも重視されることの意義は全く無いと言っていよい。この呪自体、『繁露』の古代的な祭祀とは、まったく異質のものである。


おわりに

このように、『直解』における祈雨法は、『繁露』に基づくと言いながら、本質的にはかなり異なるものとなってしまっている。

おそらく応昌の側としては、祈雨の祭祀を漢の大儒である董仲舒の法に基づいて行うことは、伝統に対する意識が多分にあったと思われる。しかし、実際には、「巫」の位置づけが変わっており、「道士」が祭祀を担うことになっている。また「蜥蜴祈雨法」という別系統の祭祀も混入し、さらに白玉蟾の呪を使用している。結局のところ、『繁露』に見られる古代祭祀については、これを形式だけ真似たものとなっているのである。

これは、他の祭祀や儀礼などにも起こり得ることであろう。儀礼などの場合、伝統的な要素を強調することがあるが、多くの場合、それは古来の祭祀とは連続性がなく、むしろ新しい要素の方が強くなってしまっている。儀礼や祭祀を担う側では、復古や伝統に対する意識が強いものの、実際には新しい儀礼・祭祀に変容していることを意識していないのである。このような、祭祀を行う側の「意識」と「実状」との乖離については、もっと注意されてよいと思われる。


1.『四庫全書総目提要』經部巻二十九『春秋繁露』の項。ここでは『寒泉』(http://210.69.170.100/s25/index.htm)のデータに拠った。

2.この版本調査は、東洋大学春秋繁露研究会における作業の一環として行ったものである。また、その詳細については、拙論「『春秋繁露』の諸本について」(早稲田大学『中国古典研究』第38号、1993年12月、45~58頁)を参照のこと。

3.『後漢書』左周黄列傳第五十一(中華書局版2026頁)。ここでは、台湾中央研究院「二十五史」(http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3)に拠った。

4.『春秋左氏伝正義』上巻(北京大学出版社標点本)398~399頁。また、同時に台湾中央研究院「十三経注疏」を参照した。

5.『春秋繁露』本文の校訂と解釈については、東洋大学春秋繁露研究会の訳注作業に基づいた。ここでは、『東洋大学大学院紀要』第30集(1994年)に所収の、中下正治・横内哲夫・岩野忠昭「『春秋繁露』註釋稿(四)」を参照した。

6.『礼記正義』上巻(北京大学出版社標点本)328~329頁。

7.『史記』儒林列伝第六十一(中華書局版3128頁)。また上記と同様に中央研究院「二十五史」を使用(以下同様)。

8.『後漢書』志第五礼儀中(中華書局版3117頁)。

9.『晋書』列伝第五十一(中華書局版2489頁)。

10.『隋書』志第二(中華書局版127頁)。

11.『宋史』真宗本紀・咸平四年(中華書局版114頁)。

12.『宋史』仁宗本紀・天聖五年(中華書局版183頁)。

13.『宋史』仁宗本紀・慶暦五年(中華書局版220頁)。

14.陳文燭は、『四庫全書総目提要』集部巻一七八『二酉園詩集』によれば、次のような経歴である。「文燭字玉叔、沔陽人。嘉靖乙丑進士、官至南京大理寺卿。」

15.同様に李天麟は、『四庫全書総目提要』集部巻一九三『詞致録』によれば、次の通り。「天麟、大興人。萬暦庚辰進士、官至監察御史、巡按浙江。」

16.『明史』神宗本紀・万暦二十年(中華書局版275頁)。

17.『明史』列伝第二百八・外国一朝鮮伝(中華書局版8292頁)。

18.上海古籍出版社『中国古籍善本書目』経部292頁。なお、これによれば天津図書館に蔵されるとのことである。呉廷舉については、成化年間の進士で、『明史』に伝がある。

19.『宋史』志第五十五(中華書局版2502頁)。

20.木郎呪は、白玉蟾の『武夷集』に収録されている。『修真十書』(道蔵S.N.264)に収録されている。

(付記)本論をまとめるに当たり、道教文化研究会の第126回例会(専修大学)において口頭発表を行った際、参加された会員の方から多くのご指摘をいただいた。ここに感謝の辞を述べさせていただきたい。


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