八仙(中国民間神紹介6)

八仙とは

「中国で一番有名な仙人は?」と聴かれたら、まずほとんどの人が「八仙(はっせん・パーシェン)」と答えると思います。

その位置づけはほぼ日本の七福神と同じで、祝賀や正月などの飾りとして用いられたりします。中華圏では、知らない人は無いと言ってよいでしょう。

しかし、例によって日本では研究者の間でもあまり知られていません。ここでは、簡単に八仙のメンバーとその来歴について紹介します。

<福建九鯉湖廟にある八仙像>

八仙とは、次に挙げる八人の仙人のことを指します。

・李鉄拐(りてっかい)名は李岳(りがく)と言われます。

・漢鍾離(かんしょうり)名は鍾離権(しょうりけん)です。漢の時代の人とされますので、漢鍾離と呼ばれます。

・呂洞賓(りょどうひん)また呂祖(りょそ)・呂純陽(りょじゅんよう)とも呼ばれます。名は呂嵒(りょがん)または呂岩で、洞賓は字。

・張果老(ちょうかろう)名は張果(ちょうか)です。後ろ向きのロバに乗るのが有名です。

・何仙姑(かせんこ)八仙の紅一点、唯一の女性です。

・藍采和(らんさいか)謎の多い人物です。

・韓湘子(かんしょうし)名は韓湘です。韓愈の甥だと言われます。

・曹国舅(そうこくきゅう)名は曹景休(そうけいきゅう)と言われます。或いは曹佾(そういつ)だとも言いますが、これは史書に記録がある人物に附会したものだと思われます。 

李鉄拐

李鉄拐は、いかにもホームレスという姿をしています。着ている服もボロボロです。 また片方の足が不自由で、杖をついています。この杖が鉄製であるため「鉄の杖の李」すなわち「鉄拐李」または「李鉄拐」の称があります。

なぜ高位の仙人がこんな姿をしているのか。伝承ではもともと美丈夫であった李岳は、ある時に魂だけを飛ばして、太上老君のおともをして旅をしていました。身体を見張っておくようにと弟子に申しつけていたのですが、弟子が誤ってその身体を焼いてしまうのです。 魂が戻ってくると、身体が無くなっていたので、やむなく近くの餓死者の身体を借りて蘇ったといいます。

 <李鉄拐(『列仙全伝』)>

もっとも、この伝承は後から附会されたもので、本来はこのような姿をした仙人の伝説があったのだと思われます。

この話は雑劇の『鉄拐李』となりますし、また『八仙東遊記』にも描かれます。

漢鍾離

次の鍾離権は、もとは漢の将軍であったものが、後に出家して仙人となったと言われます。

漢の時代の人だから漢鍾離と。また雲房先生とも呼ばれます。

でっぷり太っていて腹を出し、頭を子供のような丫(あげまき)に結っています。大きな団扇を持っていたりします。

<鍾離権(『列仙全伝』)>

歴史上には、漢の時代にこんな人物はいません。漢初には韓信の故事にからむ鍾離眜(しょうりばつ)という人はいますが。

実は、鍾離権は本来は五代頃の人らしいです。自称して「天下都散漢(天下一の暇人)」などと称していたのが、いつの間にか「漢の鍾離」となってしまったようです。

呂洞賓の師匠としてよく知られていますし、また道教の一派の全真教では、祖師の一人として数えます。

呂洞賓

呂洞賓は、恐らく中国のあらゆる仙人の中でも一番知られた人物でしょう。

壮年の道士という姿をしており、背に剣を負っています。剣仙としても知られており、妖怪退治も行います。

<呂洞賓(『列仙全伝』)>

この呂洞賓の出家物語は、「邯鄲の夢(かんたんのゆめ)」として知られています。

それによれば、呂洞賓は出世を目指し、科挙の試験を受けるための道中、邯鄲にて酒店に入ります。 そこで雲房先生という道士に出家を勧められますが、出世への未練がある洞賓はこれを断ります。

洞賓はうたた寝をします。夢の中で科挙の試験に合格、栄達し、四十年の時を過ごします。しかし罪に触れて罰せられる所、目が覚めます。なんと四十年の時が過ぎたと思ったのに、店ではまだ粟が煮えてないほどの時間しか経っていなかった。人生の虚しさを悟った呂洞賓は、雲房先生こと鍾離権について出家することになります。

この邯鄲の夢は別にオリジナルストーリーがあって、別に呂洞賓絡みの話ではなかったのですが、いまでは完全に彼のエピソードになってます。しかも邯鄲ではなく、長安で起きたということになっていたりしますが。一応、唐の時代であったとされています。

八仙の面々はそれまでの仙人のイメージと違って、人間くさい連中です。特にこの鍾離権と呂洞賓の師弟コンビは、よくモメ事を起こして、周囲の人も巻き込まれます。

一番有名なのは、この師弟が大ゲンカをして、勝負をつけるために、それぞれ化けて人間界に下り、鍾離権は宋の軍師、呂洞賓は遼の軍師となり、大戦乱を起こしたというものでしょう。 さらに有名な楊家将の面々が、この騒ぎに加わります。これは『楊家将』の故事としてもよく知られています。

張果老

張果老は、名は張果ですが、老人の姿であるためにこう称されます。

現在では、ロバを後ろ向きに乗ることで知られていますが、本来はそうではなかったようです。このロバ、幻術によって動かしており、乗らない時は紙に戻し、また乗る時は水を吹きかけるとロバになったようです。

<張果老(『列仙全伝』)>

この人は唐の玄宗皇帝の時代に実在したようです。

数百歳と称していたとか、死んだのにまた生き返ったとか、いろいろ逸話に事欠かない人物でもあります。

有名な道士、葉法善(しょうほうぜん)と同時代とされます。この人もマジシャンとして有名です。

何仙姑

何仙姑は、藍采和を考えなければ八仙の中の紅一点になります。

昔の女性は本名ば不明な場合が多いのですが、何仙姑も姓が「何(か)」であるのは判明するものの、その名についてはよくわかりません。「仙姑」は一種の称号です。

女道士、すなわち道姑(どうこ)のいでたちで登場することが多いです。

<何仙姑(『列仙全伝』)>

則天武后の時代の人だとも言われます。

伝承では、広州の何泰(かたい)という人物の娘で、雲母を食べるようにとの神人のお告げに従った所、身が軽くなり、後に八仙に出会って得道したとあります。

いろいろ異伝もあって、豆腐屋の娘だったともされます。

藍采和

藍采和は八仙の中でも謎の多い人物です。

そもそも男なのか女なのか、それすら明確ではありません。藍采和というのも、本名ではないようです。一応、唐の頃の人らしいですが。

伝承によれば、やはりホームレス風のいでたちで、片方に靴を履いて、片方が裸足だったりするようです。 手に拍子木を取って歌い、それで銭を得ていました。その歌は、実は全部予言の歌だったようで、あとから聴いた人が悟ることになりました。

<藍采和(『列仙全伝』)>

夏に毛皮を着て寒いと言ったり、冬に衣一枚で暑いとか称しており、つかみ所の無い人間です。

現在、ドラマや映画に八仙が出てくる場合、女優さんが演ずることが多いのは、やはり男女が不明だからのようです。

韓湘子

韓湘子も唐の頃の人物です。 この人は有名な文人である韓愈(かんゆ)の甥であると言われます。

韓愈は道教や仏教に理解の無い人なので、韓湘子は言い争い、その後姿を消します。

その後、唐の憲宗皇帝が仏骨を宮中に迎えようとしたため、韓愈はそれを諫めますが、かえって皇帝の不興を買い、左遷されてしまいます。左遷された先で韓湘子の予言が当たっていたことを思い出し、道教の妄ならざることを悟るという話が伝わっています。

<韓湘子(『列仙全伝』)>

歴史上、確かに韓湘という人物は存在したようですが、普通に官吏になって世を終えています。仙人になどなっていません。

『太平広記』には、韓愈の外甥として、不思議な幻術を身に付けた人物が出てきますが、どうもこのあたりの伝承が発展したようです。『韓湘子全伝』という小説があり、そこでも活躍します。

曹国舅

曹国舅だけは宋の人物です。 「国舅」とは、皇后の親戚であることを示す称号です。仁宗皇帝の曹皇后の親戚とされます。

いわば貴族ですので、八仙の中でも一番豪華な衣装を着けています。

<曹国舅(『列仙全伝』)>

伝承では曹国舅は、貴族であるのをカサにきて、悪行を行う弟がおり、何度諫めても聞き入れず、かえって自分の命も危うくなったので、出家して得道したと言われます。

もっとも、この話には異伝もあって、曹国舅自身が守銭奴であって、ある日お金の虚しさを突然悟り、出家したとの話もあります。

清の趙翼は『陔余叢考(がいよそうこう)』という本の中で曹国舅について考察してます。確かに宋代に曹佾という人物はいますが、これは仙人などにはなっていません。ある意味で、韓湘子と同じように、あくまで伝承が一人歩きしていった人物かもしれません。

八仙過海

八仙が勢揃いしたところで、有名な「八仙過海」の事件が起こります。

この物語は「八仙の面々が、各々その宝物をもって東海を渡るに際し、海を支配する龍王の一族と争う」というものです。

まるで『封神演義』のごとく、神々と龍王一族、また天界の武将たちが大暴れします。争い事の好きな孫悟空も最終的には加わります。

この故事がまとめられたのが『八仙東遊記』という小説です。またこれらの故事は京劇にもなっています。

八仙は、実際にはいまのメンバーになるまでは、いろいろ人物の入れ替えがありました。

徐神翁(じょしんおう)や張四郎(ちょうしろう)などが入っていたこともあります。 現在のメンバーになったのは、明末のことと思われます。

これについては、『八仙東遊記』の影響がかなり大きかったのではと思われます。


・参考文献

王漢民『八仙与中国文化』(中国社会科学出版社2000年)

趙景深「八仙伝説」(『中国小説叢考』斉魯書社1980年)230~233頁