包公(包拯)
1.包公について
包公(ほうこう・パオコン)と言えば、まず中国人で知らない人はいないでしょう。
政治家、というより文官の中で、ひょっとすると中国史上、知名度はナンバー1かもしれません。諸葛孔明ですら、ある意味では及ばないかもしれません。それほどよく知られています。
真っ黒な顔に、額に三日月のような傷の、威厳あふれる姿、公平無私の裁きを行い、弱きを助け、強きをくじくその清官ぶりは、「包青天(パオチンティエン)」と呼ばれ、テレビドラマや映画でもおなじみの存在です。これは、おそらく京劇での姿が定着したもののようです。
ちなみに、包公というのは、尊称であり、本名は包拯(ほうじょう・ほうしょう・パオチョン)です。
簡単にいえば、「名裁判官」として有名です。日本でいえば、大岡越前みたいなものですね。だいたい位置づけも同じくらいだと思ってください。そもそも、大岡越前の裁判ものは、包公の方がオリジナルのものが多いです。有名な「しばられ地蔵」などがそうです。
権力の横暴に苦しむ人を助け、冤罪に泣く民を救い、相手がいかなる大臣・王族であろうとも、ひるむことなく正義の裁きを行うといったイメージは、ある意味では水戸黄門にも通じると思います。さらに、包公を助ける武侠の士が、助さん・格さんのような活躍をしますので、むしろこちらのイメージに近いかもしれません。
「開封府に包青天あり。鉄面無私」と、まるで北宋の開封府の長官は、包拯しかいなかったかのような扱いです。
北宋には、多くの著名な文官を排出したにも関わらず、この包拯のクローズアップのされ方は、異様ともいえるほどです。欧陽脩も、一時は確か開封の知事だったはずですが、ちっともそちらのイメージはありません。蘇東坡だっておそらく知名度では、包拯に一歩を譲るでしょう。
この評価は、包拯の生前より、あるいは亡くなってからすぐに起きたようで、元の時代には、すでに多くの「包公もの」の戯曲が作られています。
もっとも、はじめに「包公もの」は、名裁判官として推理ものの性格が強かったのです。ところが途中から、包公の下にいる武侠の士、こちらの方の活躍が目立つようになってきました。
展昭・白玉堂といった義士たちは、むろん架空の人物ですが、いまや実在の人物よりよく知られています。包公と彼らの活躍を描いた小説、『七侠五義』は、非常な人気を博しました。現在では、中華圏においては、『七侠五義』の武侠の士の面々を知らない人などはいないと思います。
2.歴史上の包拯
包拯は、字(あざな)を希仁、北宋の廬州合肥の出身で、真宗の咸平二年(999)の生まれ、仁宗の嘉祐七年(1062)に亡くなり、孝粛と諡(おくりな)されました。
二十九歳の時に進士となり、官吏となるところでしたが、親の喪に遭うなどして、十年は郷里におり、そのときに孝行で知られました。年三十九になって官に就き、以後六十四にて没するまで、地方と中央の官を歴任しました。
この期間は、ほとんど北宋仁宗の治世に当たります。仁宗の時代は、後世からは太平の世と讃えられますが、実際にはそれほどでもなかったと言われます。それでも、北宋の中では比較的落ちついた時期であったと思われます。北宋は、常に北方からの驚異にさらされ、内憂外患のうちに滅びて、南遷せざるを得ませんでした。
ただ、仁宗の治世の後期には、范仲淹がおり、また文彦博・富弼・韓琦らが宰相におり、執政には、欧陽脩・王尭臣や、それに包拯がいました。かなり人材には恵まれていたと思います。
包拯は、『宋史』巻三一六に伝があります。それによれば、人となりは剛直で、高位高官の者にも臆しなかったので、これを恐れ憚るものが多かったとあります。また、滅多に笑わず、包拯が笑うのは黄河が澄むのに等しくまれなことであると言われました。
庶民から子供に至るまでその名は知られており、「包侍制(ほうじせい)」と呼ばれていたといわれます。侍制の官にあったため、このように呼ばれました。また龍図閣学士に任じられたことから、「包龍図(ほうりゅうと)」ともいわれます。
そして、夜には冥界の閻魔となり、あの世の裁きまで行うと噂されました。
このように生前からある程度の神格化が始まっていたようです。すでに後世におけるイメージに近いものもあります。
3.『七侠五義』
元の雑劇に「公案」と呼ばれる部類があります。これは、「裁判もの」ともいうべきもので、いまで言えば、推理もの・ミステリーとなるかもしれません。
この公案ものには十八種類の劇が区分されていますが、そのうちなんと十一種類は包公のものです。すでに包公は、名裁判官として、伝説の存在になっていたわけです。
そして、講談・芝居といった通俗文芸の中で、包公のイメージはふくれあがり、理想の裁判官として広く語られるようになりました。
そして明代には、『包公案(ほうこうあん)』(『龍図公案』)という裁判ものの小説が現れました。これはまた日本にも伝えられ、大岡裁判のもとネタになったりしました。
かの有名な大岡裁判の「しばられ地蔵」は、『龍図公案』のなかの「石碑」が元になっています。縛られるのが石碑である以外は、ほぼ同じストーリーです。これがまるで、実際にあった大岡裁きの一つであると思われ、本当にしばられた地蔵を持つお寺まであるのですから、ちょっと笑ってしまいますね。
清朝の道光年間に、ある芸人がこの包公ものに一大変革をもたらしました。それは石玉崑という講釈師で、彼が語った包公ものは、大人気を博しました。
この講談を元に、『龍図耳録』という小説が作られます。この物語の特色は、それまでの裁判だけに偏していた包公ものが、武侠の士たちが活躍する武侠ものとミックスされていることでしょう。実は、この小説は未完に終わっているのですが、それにしても傑作です。
この本を元に、光緒年間になって百二十回の『三侠五義』という作品が作られます。これをさらに大学者の兪樾が改訂を加えたのが『七侠五義』です。兪樾は「三侠では足りない」として「七侠」に置き換えたのですが、いまやこちらの名前の方が有名であると思います。
『三侠五義』が未完であることから、続編の『小五義』が作られ、その後も続々と作成されたようです。
『三侠五義』は、包公とその周辺の武侠たちの活躍を描く作品ですが、そこに登場する人物は、いまや知らぬ人とてない存在になってしまいました。
特に、包公を常に助け、武芸に優れる「南侠」展昭は主役クラスの扱いで、大活躍します。この他、包公の部下には、知謀でもって包公を支える公孫策、常に包公の周りを警護し、手足となって働く王朝・馬漢・張龍・趙虎の四人も有名です。
さらに、一時は展昭と敵対するものの、義士として称えられる五鼠の面々も知られています。
柱を昇る身の軽さをほこる「鑽天鼠」盧方とその義兄弟たち、地に穴を掘る特技を持つ「徹地鼠」韓彰、もと鍛冶で山を穿つ力を持つ「穿山鼠」徐慶、機知に富み、水練の達人「翻江鼠」蒋平、それに年若く、残忍な性格であるものの、武芸の腕は確かな「錦毛鼠」白玉堂、この五名が「五義」であるわけです。
さらに、「北侠」欧陽春、「双侠」丁兆蘭・丁兆蕙の兄弟、これで四名ですが、これで「三侠」です。兪樾が、これに「小侠」艾虎に、その師である智化、さらに「小諸葛」沈仲元を加えて、「七侠」としたわけです。
これらの武侠の士は、典型的な英雄として描かれるわけではないのがある意味で作品の魅力になっています。特に出色なのが白玉堂でしょう。彼は、義兄弟たちのいうことも時には聞かず、悲惨な最期を遂げますが、その智と活躍は大変人気があります。
この『七侠五義』に基づいた講談や芝居、後世では映画やドラマは、何作も作られて、まるで忠臣蔵のごとく、どのように改作するかが焦点になっているほどポピュラーな題材になりました。
さらに、似たような公案ものの元祖となりました。『施公案』『彭公案』『海公案』といった類似の作品がどんどん生み出され、また流行していきました。この中でも、特に『施公案』は有名です。
金庸などの武侠小説のルーツとなっているのは、実はたぶんこれらの作品群であると思います。
4.「包青天」
ある意味で、中華世界を震撼させたといってよい作品が、台湾・香港合作のテレビドラマ「包青天」です。
このドラマは、アジア全体にものすごいブームを巻き起こしました。台湾・香港・中国大陸は言うに及ばず、韓国やマレーシアでも大人気、インドネシアの子供たちが、「ジャッジ・パオ(包裁判官)」と呼称するまでになりました。
「開封有個、包青天。鉄面無私、弁忠奸」というテーマソングは、一時中華世界を席巻しました。主演は、香港の役者金超群です。
典型的な時代ものですが、脚本と演出がよくできたドラマで、一世を風靡しました。類似の作品が多く作られましたし、ブームとなって多くの人が開封の包公祠にお参りに行ったほどです。
この包公ものが流行する理由は、何時の時代も変わりません。それは、現実には多くの政治家や官僚が腐敗しているということです。実際には、権力者が懲らしめられることは滅多にありません。
それだけに、庶民は包公の活躍に快哉を叫ぶのです。どんな権力者であれ、包公は正義の裁きを行います。
いつも「今の世に、このような清廉な官吏がいないものか」と切実に願っているということは、ある意味でそのような政治が行われたことが無い、という証左なのかもしれません。
ですから、包公ものは永遠に受け続けるのかもしれません・・・・。
参考文献:
孔繁敏『包拯研究』(中国社会科学出版社)
鳥居久靖『三侠五義』解説(平凡社・中国古典大系48巻)