台北保安宮と保生大帝
二階堂 善弘
(雑誌掲載時に比して若干の修正を加えてあります)
1.台北保安宮について
台湾台北市の北部に位置する保安宮は、台北市に存在する廟宇の中でも、最大級に属するもののひとつである。
この廟は、萬華地区の龍山寺と清水巌とともに台北の三大廟のひとつに数えられ、さらにその主神である保生大帝の生誕祭は、霞海城隍祭・青山宮祭とともに、台北三大祭と呼ばれる。台湾北部の宗教活動において、非常に重要な地位を占める廟であると言える。
台湾は明末以降、大量の移民によって形成された社会である。そのため、移民者の出身地の影響がそれぞれの地区に色濃く反映している(注1)。
台北地区においては、やや南方に位置する萬華地区が早くから繁栄し、その後北部の大稻埕が栄えた。大龍洞はその北に位置する。大きな廟としては、萬華地区には龍山寺・青山宮・清水巌があり、大稻埕には、霞海城隍廟や慈聖宮などが存在する。さらに北部の士林地区には、漳州出身者が祭る開漳聖王を奉じた恵済宮がある。いずれも古廟として著名な存在である。
このような廟の存在自体、それぞれの郷里の信仰を台湾へと持ち来たったものであり、出身者の地域性を示すものである。さらに地域出身者集団の争い、すなわち械闘が色濃く影響を落とす場合も多い。
大稻埕の一帯に見られる特色としては、福建省泉州同安県の出身者が多いことが挙げられる。霞海城隍廟と慈聖宮は、元来萬華地区にあったものが、咸豊3年(1853)に発生した泉州人同士の械闘、すなわち晋江・恵安・南安出身者と同安出身者の争いの結果、この地に移転してきたものである。
保安宮は、大稻埕のやや北、現在の台北市大同区哈密街61号に位置している。この地区は、かつて大隆同・大琅泵などと呼ばれていた。すなわち現在の大龍峒である。ここには大稻埕と同じく、泉州同安県の出身者が多く居住しており、この保安宮も、同安県白礁の祖廟である慈済宮から分霊したものである。この大龍洞ではこの保安宮と文昌帝君廟が比較的規模の大きな廟として知られる。
その建立年代については『淡水庁志』卷6に記載が見える(注2)。
保安宮、在大隆同街、嘉慶十年捐建、道光十年告成。
すなわち、清朝の嘉慶10年(1805)に建立が開始され、道光10年(1830)に完成したとされる。しかしやはり械闘の影響があり、咸豊9年(1859)には漳州人と泉州人との争いが起こり、保安宮も多大な損害を蒙ったため、大規模に補修が行われたとされる。また日本占領時代は、徴用されて日本語学校として使用されていた。その後民国6年(1917)に大々的な補修が行われた他、数次の改修を経て現在に至って いる。
保安宮正殿裏
保安宮正面より
2.主神・保生大帝について
保安宮の主神は保生大帝である。福建地方の医神として著名な存在である。 伝によれば、保生大帝は姓を呉、名は夲(とう)、字は華基、号は雲東。また大道公・呉真人・呉真君・英恵公などとも呼ばれる。
『続修台湾府志』巻19によれば、
真君母夢吞白龜、生於太平興國四年。長而學道、治疾有奇效。景祐二年卒、里人肖像為祠。
とあり、さらに、
神名夲、同安白礁人。母夢吞白龜而娠、生於宋太平興國四年、不茹葷、不受室、精岐黃術、以藥方濟人、廉恕不苟取。景祐二年卒、里人祀之、有禱輒應。
ともある(注3)。
これらの史料によれば、保生大帝・呉夲は、宋の太平興国4年(979)に生まれ、医術を修めて人を救い、景祐2年(1035)に亡くなった後、祭祀されて神となったとのことである。生前名医であったことから、医術の神として盛んに信仰されたとされる。また福建省同安県の出身であり、地方神としての特色が強い。
台湾には、この台北保安宮の他、台南学甲鎮の慈済宮、台南市興済宮、高雄湖内長寿宮・普済宮・慈済宮など、由来の古い廟が数多く存在し、台湾全土では、273座の廟があるとされる(注4)。
台湾全土で比較すると、南方、特に台南・嘉義両県にその廟が偏在している傾向があるものの、台湾でももっとも著名な神の一つでもあることは確かである。
もっともこの「保生大帝」という称号は、宋代においては始祖神・趙玄朗に対して使われていたようである。
『宋史』によれば、かの天書事件に絡んで、
帝於大中祥符五年十月、語輔臣曰、朕夢先降神人傳玉皇之命云、先令汝祖趙某授汝天書、令再見汝、如唐朝恭奉玄元皇帝。(略)閏十月、制九天司命保生天尊號曰聖祖上靈高道九天司命保生天尊大帝、
との記述が見える(注5)。これによれば、保生大帝という称号は、宋王朝の始祖神である趙玄朗の別号の一つであったことになる。おそらくは後世、その別号であることが不明確になり、医薬の神である呉真人に対して、「生を保つ」という意味から、「保生」大帝の号を冠したために、同名異神となってしまったものと推察される。
3.その他の祭神について
同じ医神という関連から、保安宮の後殿には神農大帝も祭られている。神農は伏羲や女媧とともに、三皇の一つにも数えられ、当然ながら古来より著名な存在である。福建・台湾以外の地では、保生大帝の名はほとんど知られていない。
他の地方では、医薬の神としては、神農・薬王・扁鵲・孫思邈・韋慈蔵・高元帥などが著名である(注6)。
このうち神農については台湾でも多くの廟宇がある。三重市の先嗇廟や士林の神農廟などは、比較的規模の大きいものである。古来、台湾では瘟疫の害が甚だしく、移民の間で多くの死者が発生した。瘟疫神が特別に発展する一方で、瘟疫への対抗、また疾病の治癒などについては、医薬の神が特に重んじられた。保生大帝と神農大帝の信仰が台湾で発展したのは、むろんこのような自然環境が背景にあると推察される。
もう一つ、後殿には孔子が孔聖夫子として祭られている。
大龍峒は知識人を多く輩出したことでも知られており、「十歩に一秀才、百歩に一挙人」と呼ばれたほど、文運の盛んな地であった(注7)。この地域のやや北に士林という地名があるが、これは、この地域の如くに士が多くなるようにと、対抗上付けられた名であるという。大龍峒にはそのような風潮を支える経済的基盤もあったと推察される。
保安宮に孔子が祭られているのも、そのような気風の反映があると思われる。これについては、保安宮の隣に台北の孔子廟があることもその証左となろう。但し、この孔子廟の歴史は浅く、民国14年(1925)になってようやく完成したものである。本来は台北城の南門の付近にあったとされる。後にそこが毀されたため、大龍峒の士紳が地を献じて作られたものである(注8)。重厚な作りで、台北では最大の孔子廟である。しかし、保安宮に比してはなお小さい。
また、政府によって釈奠の祭りも執り行われるが、これも保生大帝の生誕祭に比べるならば、非常に規模が小さい。これなどは興味深い現象で、一地方の医神に過ぎない保生大帝が、廟の広さ・祭りの規模で孔子を凌駕しているわけである。
また後殿にはこの他、中壇元帥・玄天上帝・三十六官将・黒虎将軍・関帝などを祭祀する。このうち、玄天上帝と三十六官将に関しては、別に保生大帝との俗伝承が残されている。
それによれば、保生大帝の部下である三十六官将は、元来は玄天上帝の部下の三十六元帥であったとされる。玄天上帝が亀蛇の妖怪を退治するに際して、保生大帝の宝剣を借りた。保生大帝はそのおりに、玄帝の部下の三十六元帥を質にとり、宝剣を貸し与えた。しかし、妖魔を退治したあとも玄帝は剣を返さず、三十六元帥は保生大帝の部下となり、さらに玄天上帝の像は鞘の無い剣を持ち、保生大帝の像は剣の無い鞘だけを持っているとされる。
むろん、このような話は民間伝説に過ぎない。保生大帝の部下が三十六名いたことが伝えられたため、同じく三十六元帥の部下を持つ玄天上帝と話が結びつけられたものであろう。ちなみに、保生大帝の三十六官将は、所謂雷部の三十六元帥とはかなり構成人員に差がある(注9)。
紀仙姑・連聖者・五龍官・鎖大将・金舎人・倒海大将・李仙姑・馬龍官・劉聖者・枷大将・唐舎人・移山大将・趙元帥・殷元帥・岳元帥・王孫元帥・辛元帥・必大将・康元帥・温元帥・咒水真人・鄧元帥・李元帥・高元帥・勧仙姑・張聖者・拿大将・江仙官・虎加羅・食鬼大将・何仙姑・蕭聖者・捉大将・紅仙官・馬加羅・呑精大将
このうち、趙・殷・岳・康・温・鄧・李・高などの元帥神は、通常よく言われる三十六元帥に属するものであり、玄天上帝の部下とされる。医術の神である高元帥が入っていることは、そう不自然とは言えない。もっともこれらの神は病魔を倒すために保生大帝の属神として扱われる場合が多く。保生大帝の辟邪の効能を強く打ち出すものとなっている。
また通常の三十六元帥と異なり、女性の神仙が多く見られる。またこのうち多くが保生大帝の属神であると考えられ、独自の信仰を持つ場合もある。
台北市の南に位置する萬華地区には、飛天大聖廟がある。かなり規模の大きい廟である。この飛天大聖という称号から、後世では別の神に結びつけられることもあった。しかし本来、この神は保生大帝の部下の張聖者であり、独自の信仰を持っていたと考えられるのである。このように、三十六官将の中には、保生大帝の属神として広く信仰のあったものもあったと推察されるが、現在では伝承未詳のものが大半である。
さらに、黒虎将軍、あるいは虎爺と呼ばれる神も、保生大帝との関係が深い神である。伝承によれば、保生大帝はある日、人を食べた虎が、口の中に簪を刺してしまい、難儀しているのを治癒してやった。そしてその後、虎は保生大帝を守護するようになり、保生大帝が昇天の後も、虎神となって付き従った(注10)。これが一般に虎爺と呼ばれる神であるが、この伝承も、どこかで保生大帝と結びつけられたものであろう。
この他、保安宮の境内には媽祖・福徳正神・註生娘娘・池頭夫人・太歳星君が祭られ、さらに後部の殿には釈迦・薬師・観音・玉皇上帝・東華帝君・三官大帝などを祭る。各層の信仰が混在したものとなっているが、これは龍山寺や松山慈祐宮など、他の大規模な廟宇でも見られる現象である。
4.保生大帝の事績について
保生大帝のより詳細な事績については、幾つかの資料が存在する。一つは、現在台湾で広く流通する経典『大道真経』である。この経典には、保生大帝の略歴が附されるほか、経典の中においても保生大帝自身が語る形で、その事績が示されている(注11)。
帝曰、吾祖籍江西、遷居福建泉郡白礁郷之積善里。頼先人恩蔭頗能温飽。六經之外、兼讀百家諸史、擧凡禮樂行政之書、天文地理之學、莫不留心潛研。雖寒酷暑、未嘗稍敢釋巻焉。(略)一年之内、四季之中、惨遭冤歿殤折者、不知凡幾。爲憫蒼生、不必死、而致死。可獲生而喪生。乃用心窮研、入山採藥、百草親嘗、燒丹錬汞、悉遵法製。(略)歳十七、廣遊名山大川、求師訪道、希能寸進。上報天恩、下答劬勞、期能安蒼生於袵席也。或日見老者乗楂江上、引拝崑崙王母。留宿七日、親授先天罡訣、號召雷霧霆、於是悟飛昇。通法竅、登天達地、喚雨呼風。隨心所欲、逐怪驅邪、但憑掌雷一發、回生起死。只費靈丹半粒。蒙師指傳點、飭吾下凡、須體天心見劫必救、遇難必扶、逢魔必撃、有怪必除、以安寰宇。吾再拜而謝之。然到家。初隱於漳郡澄邑、大雁東山、後再結廬、白礁故里、海島談経。
さらに、『保生大帝実録』にも同様の記載が見える(注12)。
先祖世積蕨徳、修齋行仁、樂善好施。傳至聖父、諱通協成元君、清操自持、循循然以善訴人。聖母黄氏玉華大仙、幽嫺貞静、増修前徽、馨聞上穹、夢呑白龜之詳、有感而懐聖胎。宋太宗太平興国四年、三月十五日巳卯、聖母將次分娩、恍見長素道人、南陵使者、偕北斗星君護送童子至寝門日、是紫微星也。俄而大帝降生。
すなわちこれらの記載によれば、保生大帝の祖先は江西に在住していたが、父祖の代に福建の泉州白礁郷に移住した。父は呉通、母は黄氏。その母は白い龜を飲み込む前兆を見、保生大帝を生んだ。天上の紫微星の転生であるとする。時に宋の太平興国4年3月15日であった。後世、毎年この日は保生大帝の生誕祭が行われる。幼少より学問を修め、特に医術に長けていた。17歳の時に崑崙山に登って西王母に会い、秘訣を授けられたとある。
保生大帝に関する伝説は数多くあるが、当然ながら神医であることを示すものが多い。『保生大帝実録』には、また次のような記事がある(注13)。
帝嘗過桑林之野、見有枯骨、検之失左腿、以柳枝代之、咒水化而成形、起立猶泣尋其主。帝收爲童子、命携藥嚢以隨。途逢其主、則同安縣知縣江僊官也。見而怪之曰、是吾僕也、向謂死於虎矣。猶幸存乎。帝告以故、弗信而白於大吏、吏亦將信將疑、虚心問曰、子能活之、異能實之乎。帝乃施符而咒水、向之起死回生、旋則轉生爲死、仍成枯骨矣。由是僊官領悟玄妙、知爲異人。
すなわち、白骨と化した童子を生き返らせ、不思議に思った前の主人の官吏の前で、またその童子を死人に返すという説話である。保生大帝の神医ぶりをよく示すものとは言えるが、神仙の説話としては、それほど奇異なものではない。 保生大帝はその後、多くの人々を救済し、58才の時に白鶴に乗って昇天したという。
その後も、たびたび世に現れて霊験を示した。
*宋の高宗が太子のおりに、人質となっていた金国より帰国するにあたって、これを助けた。
*明の太祖が陳友諒と戦う際に、その乗船が転覆しそうになったのを助けた。
*明の世祖の永楽年間、皇后の病気を治癒した。(注13)
これらの話はむろん後世作為されたもので、公式の記録にはないものである。しかし、保生大帝関係の資料においては一致した記述が見られることから、比較的早い時代に保生大帝に関する伝承が編纂されていたことが推察される。
5.保生大帝生誕祭について
保生大帝の生誕は旧暦の3月15日とされる。毎年その時期には、保安宮では盛大な祭りが行われる。台北三大祭の一つであり、数々の催しが並行して行われている。筆者の取材した期間は、1994年の保生大帝祭である。なお1995年は、保安宮改修のため、祭りは行われなかった。催しものは、陽暦4月15日から25日まで連続して行われるが、もっとも中心となるのは、4月24日(陰暦3月14日)・4月25日(同3月15日)の2日間であった。
この間、保安宮の広場に設けられた舞台では、毎日奉納演劇が行われる。演劇は台湾の伝統劇である歌仔戯・南管・北管戯・布袋戯などである。
また大きな活動としては、台湾の民間信仰一般に見られる「遶境」、すなわち、御輿の行列が街を巡ることがある。さらに、東アジア一帯に広く広がる「過火」と呼ばれる行事で、火を焚いた後に、その上を裸足で渡ることも行われる。そして道士や法師を請じて行われる生誕の祭礼である。ただ、この祭りにおいては、主要な位置を占めるはずの生誕祭礼は、非常に簡略的に行われた。
1994年における祭りの日程は以下の通りである(注14)。
| 日時(陽暦) | 内 容 |
| 4/24 13:00~16:00 | 保生大帝遶境 (保安宮-哈密街-迪化街二段-延平北路三段-延平北路二段-民生西路-迪化街一段-南京西路-延平北路二段-民生西路-寧夏路-蘭州街-大龍街-保安宮) |
| 4/24 18:00~18:30 | 火獅施放 |
| 4/25 9:00~10:00 | 保生大帝生誕祭典(保安宮正殿) |
| 4/25 14:00~14:30 | 過火 |
遶境については、台湾で普遍的に見られる形式に則るものであった。すなわち、八家将が先導を行い、その後を、御輿や山車が多くの人によって担ぎ出される。様々な楽器が奏でる人々が付き従い、またあちこちで紙銭が焼かれ爆竹が鳴らされる。
おそらくは数万人の人出があったとされる。台湾の社会において、この祭りが占めている地位はなお大きなものがあろう。
祭りを先導する八家将
七爺・八爺
御輿を担ぐ人々
近年祭りに多く見られる飾り付きの自動車
多くの飾りが掲げられる
楽器は拡声器によって鳴り響かせることが多い
保安宮正殿における参拝
注
(1)荘芳栄『台湾地区寺廟発展之研究』(中国文化大学史学研究所博士論文・1987年)27頁、及び拙稿「台湾新荘市の寺廟について」(『コミュニケーション学科論集・茨城大学人文学部紀要・第5号)を参照。
(2)本論では資料の検索について、台湾中央研究院の文献検索システム「漢籍電子文献」を使用している。ここでは「台湾方志」を使用。
(3)前掲「台湾方志」より。
(4)自立晩報編『台湾廟宇文化体系5・保生大帝』(自立晩報文化出版部・1994年)による。
(5)中華書局『宋史』2542頁。但しここでは前掲「漢籍電子文献」中の「二十五史」を利用して検索を行った。
(6)宗力・劉群『中国民間諸神』(河北人民出版社・1986年)514頁。
(7)前掲『台湾廟宇文化体系5・保生大帝』16頁。
(8)李乾朗『台北市古跡簡介』(台北市政府民政局・1993年)70頁。
(9)前掲『台湾廟宇文化体系5・保生大帝』10頁。
(10)鍾華操『台湾地区神明的由来』(台湾省文献委員会・1979年)230頁。
(11)『大道真経』(台北保安宮・1988年)8丁。また『保生大帝大道真経』(高雄同善社意誠堂・1990年)12~13頁。
(12)前掲『台湾地区神明的由来』227頁。
(13)前掲『大道真経』3丁。
(14)保安宮発行小冊子『保生文化節』(1994年)による。