京大田中ゼミ

田中秀夫先生は1990年4月に甲南大学から京都大学に移籍され、翌1991年4月から京大での最初のゼミナールが始まりました。1949年生まれの田中先生は当時42歳。第一期田中ゼミのメンバーは、4回生が1人(僕です)、3回生が3人、2回生が2人の合計6人(京大では2回生からゼミを履修できます)でした。少人数だったので、学年を異にする6人が同じ部屋(田中先生の研究室)で学ぶことになりました。
3学年あわせても6人しかいないことに、関西大学の学生の皆さんは驚かれるかもしれませんが、一期生がたまたま少なかったわけではありません。田中ゼミは、昔も今も、俗に言う「人気ゼミ」ではないような気がします。田中先生が在外研究に従事された翌年(1997年度)のゼミ募集では、担当者不在による情報不足も手伝って、3学年あわせて応募者はたった1人(2回生の森直人君)でした。当時僕は大学院博士課程の3年生でしたが、田中先生から「1年間マン・ツー・マンでゼミをやると議論が難しいから、もし中澤君の時間の都合がつくようなら、ゼミを手伝ってもらえないか。森君の議論の相手になってくれないか」と頼まれました。たまたまゼミが開講される曜限には大学院の授業もアルバイトも入っていなかったので、僕はその依頼を快諾し、1997年度田中ゼミは、田中先生、僕、森君の3人で1年間をすごしました。森君は毎週レジュメを作成し、毎週報告したのです(すごい!)。僕のほうも、何歳も年下の彼に負けじと毎週テキストを念入りに読み、彼の報告に対して様々な角度からコメントしました。この年度は極端な例かもしれませんが、田中ゼミは京大経済学部のゼミとしては小世帯なほうだと思います。経済学部の基幹科目は、あくまでマクロ・ミクロ・財政・金融・統計などであって、現代経済とも資格試験とも直接の関わりをもたない経済思想史や社会思想史は、辺境科目でしかありえないからでしょうね。
・・・話が脱線してしまいました。一期生の話でした。3学年あわせて、たったの6人(しかも男だけ)。「1か月半に1回は報告が回ってくるなぁ。サイクルが早いなぁ。しんどいかもなぁ」。しかも、4回生は僕1人。「後輩のほうが絶対に賢いやろなぁ。後輩の前でアホな姿さらしたくないなぁ」。ゼミ初日に他の5人と初顔合わせをした時は不安でいっぱいでした。しかし、その日こそ田中ゼミでの至福の2年間――僕は留年したので幸運なことに2年間ゼミに参加できました――の始まりだったのです。
僕が至福の2年間を送れたのは、田中先生の指導力と温かいお人柄はもちろんですが、それに加えてすばらしいメンバーに恵まれたからでしょう。特に、1学年下の小寺康雄君と田端昌史君の存在はあまりにも大きかった。「こんなに頭の切れる奴とはこれまで出会ったことがない!」 と心の中で唸り声をあげてしまうほど、彼らは明晰な頭脳の持ち主でした。緻密なテキスト読解、周到に用意された報告レジュメ、興味深い論点の提起。彼らの報告はいつも知的刺激にあふれていたし、彼らと議論するのは劣等感を忘れさせてくれるほど楽しかった。しかも、彼らは人格的にも素晴らしい人物で、先輩として僕を立ててくれるので(笑)、「ほんま、オレ、アホやな。アホな発言ばっかり繰り返してたら、みんなに悪いよなぁ。田中先生からも見捨てられるよなぁ。もっと勉強せなあかんなぁ」と毎週心の中で呟いていました。
小寺君のディヴィッド・ヒュームに関する卒業論文は、田中先生と一緒に審査員をつとめた木崎喜代治先生が「これは修士論文でもパスするよ」と感嘆の声をあげたほどの、素晴らしい出来栄えでした。行動力抜群の小寺君は「ゼミ誌」の企画を立ち上げ、面倒を厭わず発行までの全責任を負ってくれました。田端君はゼミに所属していた2年間一貫してマックス・ウェーバーを勉強していました。(当時の僕には、ウェーバーは難しすぎて、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』以外はほとんど理解できませんでした。先に挙げた森君がウェーバーに興味を持っていて、1997年度の田中ゼミで彼と一緒にずっとウェーバーを読むことになったのは、単なる偶然とは思えません。)小説家志望だった(今も?)田端君は「ゼミ誌」に自作の小説を寄稿してくれました。彼は卒業式で経済学部の総代をつとめました。二人は何事に対してもエネルギーが有り余っている様子でした。田中先生は、両君が大学院に進学し研究を続けることを、期待しておられたようです。しかし、結局、小寺君はNHKのアナウンサーになり(→こちら、田端君はサントリーに就職しました。そして、一番「アホ」だった僕が大学院進学を志望したわけですから、田中先生はたいそうお困りになったと思います。案の定、僕は2年連続で大学院入試に失敗し、田中先生を落胆させてしまいました。
・・・またまた脱線してしまったので、話をもとに戻します。ゼミをどのように進めるかについては、一期生ということもあり、田中先生はゼミ生に一任してくださいました。皆、自分の学びたい思想が比較的はっきりしていて、しかもバラバラだったので(僕は言語と歴史と環境に強い興味がありました)、報告者が自分の興味のあるテーマを自分が選んだ本に基づいて報告する、ということに自然となりました。つまり、毎週1冊ずつ(!)さまざまなジャンルの本を読まなければならないことになったのです。僕は、ルソーの言語起源論、今西錦司の進化論、和辻哲郎の風土論、川勝平太の物産複合論、室田武のエコロジー経済学、廣松渉の「近代の超克」論、増田四郎の社会史、シューマッハーの「スモール・イズ・ビューティフル」の思想などについて報告しました。自分では万全を期して準備した報告でも、毎度のごとく後輩たちに議論の矛盾や不備を(愛情をこめて)批判されてしまい、「今度こそ後輩たちをあっと言わせてやるぞ!」とばかりに、自分の報告が終わったその夜から次回の自分の報告の準備にとりかかる、という毎日でした。
持続的な思考は人間を根本的に変えるものなのですね。僕の場合、「地球環境を守るにはどうすればいいのか?」という問題から出発したのですが、それが徐々に「何のために地球環境を守らねばならないのか?」という問題へと変化していって、最終的に「人間のとどまることのない破壊的な情念(利己心)はどのようにすれば適切に制御できるのか?」という問題にたどりつきました。つまり、アダム・スミスをはじめとする18世紀イギリスの啓蒙思想家たちがとりくんでいた問題と同じ問題に、偶然にもたどりついたのです。このことはやがて僕が18世紀イギリス思想史研究――田中先生のご専門も18世紀イギリスです――の扉を叩くきっかけとなります。
ゼミは月曜の2限目でしたが、90分では議論がまとまらず、毎週のように昼休み、さらに、3限目まで延長されました。トイレ休憩の時にサンドウィッチと缶コーヒーを買いに生協まで走り、速攻で胃袋に流し込み、そのまま田中研究室に戻って、議論を再開させるといった感じでした。ゼミの終わった後、そのまま生協食堂に行って、学生だけで議論の続きをやった日もありました。「オレ、今、大学生やってるわ。大学に入ってほんまに良かったわ」。入学以来の3年間の空虚さが嘘のような、本当に夢のように素晴らしい2年間でした。田中先生も卒業式の日に「君たちのおかげで僕もだいぶ勉強させてもらったよ。中年にさしかかっている僕には、体力的にちょっときつかったけど、とても楽しかったよ」と感慨深げに話されました。

(26 October 2002)

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