佐藤光先生

大学院時代の5年間、佐藤光先生の指導のもとで学びました。「浪人」と「4回生での入ゼミ」という二つの誤算が重なったおかげで、僕は田中秀夫先生と出会うことができたわけですが、佐藤先生との出会いもそれと同じくらい「嬉しい誤算」でした。
田中先生に入門することによって僕は学問の面白さに目覚めたので、大学院も京大の経済学研究科にそのまま進み、田中先生の指導を受けるつもりでした。しかし、僕は京大の院試に2年連続で失敗しました。自分が「面白い」と感じた分野――具体的には思想・歴史分野ですが――ばかり勉強してしまい、院試に必要な他の科目(第二外国語など)を幅広く勉強することを怠りました。しかも、3回生終わりまで続いた「暗闇の日々」のツケはあまりに巨大で、理論分野(ミクロとマクロ)の基礎学力の不足はいかんともしがたいものでした。しかし、第二志望で受験した大阪市立大学の院試は、運良く突破することができました。合格できたのは、受験科目が少なく(第二外国語がない)、得意の経済史の配点の比重が相対的に高くなったことに加えて、苦手なミクロ&マクロをマルクス経済学に代替して受験できたからだと思います。
大阪市大を第二志望として受験した最大の理由は、京大と同様に(あるいはそれ以上に)、思想・歴史分野に多くの優秀なスタッフを擁していたからです。他学部のことはわかりませんが、経済学部に関するかぎり、大学ごとのカリキュラムの個性は強烈です。大阪市大のように、思想・歴史分野がひときわ充実している大学もありますが、阪大のように、理論分野が突出している大学もあります。大学入試の偏差値では、市大より阪大のほうが上ということになっていますが、仮に僕が阪大の大学院に合格したところで、僕の学びたい科目がほとんど開講されていないわけですから、受験しても意味がありません。
佐藤先生に指導をお願いしようと思い立ったきっかけは、先生の最初のご著書『市場社会のブラック・ホール――宗教経済学序説――』を読んだことでした。田中ゼミで学んだハイエクをはじめとして、エコロジー経済学の泰斗ジョージェスク=レーゲン、宗教哲学者エリアーデ、国家学者カール・シュミットなど、きわめて多種多様な思想家が生き生きと論じられており、いい意味で「ちゃんこ鍋」のような本で、とても面白く読みました。しかも、僕は田中ゼミ時代に西部邁さんの一連の大衆社会論――『経済倫理学序説』『大衆への反逆』『大衆の病理』『新学問論』など――を愛読しており、佐藤先生が西部さんのお弟子さんであることを知って、ますます親近感が強まりました。アカデミックな社会思想史家である田中先生のもとでは、古典研究をすること以外の選択肢は考えられなかったわけですが、「社会経済論」を講じておられる佐藤先生のもとでは、もっと多様な選択肢が期待できました。思想と歴史に関するものなら何にでも興味が出てきた僕には、何でもやらせてくれそうな佐藤先生の懐の広さはきわめて魅力的でした。院試の合格発表の直後、ようやく佐藤先生とじっくりとお話しする時間を持てました。期待していた通り、とても守備範囲の広い先生でした。ちょうど先生は2冊目のご著書『ポラニーとベルグソン』を準備中で、僕はワープロ原稿を手渡され、「もし時間が許すようなら、次回の面会で一読者として忌憚のない意見を聞かせて欲しい」と依頼されました。その日から僕の佐藤ゼミ生としての長い修行生活が始まったわけです。
自由をモットーとする佐藤ゼミですが、その自由の度合いは尋常ではなく、本当にどんな研究テーマでも許容されます。佐藤ゼミの先輩・後輩たちが選んだテーマは、「ユダヤ思想」「水俣病」「渋沢栄一」など、「これが同じゼミか!?」と思えるほど多岐にわたっています。しかし、自分の自由意志で選んだ研究テーマであるからこそ、強い言論責任も要求されます。ゼミの雰囲気は基本的にアット・ホームなのですが――市大のすぐそばのカフェ「夏炉」の2階の座敷を借り切って、昼食を楽しみながらのゼミでした――、ゼミ生の報告に対する先生のツッコミはかなり厳しく、単に調べただけで問題意識の曖昧な報告、自分を偽った「知ったかぶり」の報告は、先生が一番嫌うもので、容赦なく鉄槌が下りました。田中先生と堀先生をたして2で割ったような指導とも言えますが、骨の髄まで歴史家であるお二人とは違って、佐藤先生は「どんな思想も現代日本に対して発言するために学ばれるべき」と考えておられるようで、そのどこまでもアクチュアルな研究スタイルは、学生の指導に際しても貫かれました。「なぜそのテーマを研究するのか? それを研究することがどのような現代的意味を持つのか? それを研究することで君という人間はどのように変わったのか?」佐藤先生の厳しいツッコミは、時として人間の実存的問題にまで及びました。佐藤先生は「思想を生きる」ことを学生に要求していたわけです。合宿での議論は深夜にまで及ぶので、学力よりも体力が必要でした(笑)。
思想と歴史に関するものなら何でも面白いと感じていたM1(修士課程1年)時代の僕でしたが、それは決して褒められたものではなくて、問題関心を絞り込めなかった、ということでもあります。春には「ジョージェスク=レーゲンやハイエクに興味があります」と言っていたのに、秋には「自然観や世代間倫理にも興味が出てきました」と言い出す始末で、それらを大衆社会論と結びつけたいとも思っていたので、修士論文のテーマがいっこうに定まりませんでした。しかし、修士課程はわずか2年。修士論文を書き上げないことには、博士課程に進学できません。時間は過ぎ去ってゆくばかりでした。こんな僕に業を煮やしてか、M1の冬のある日、佐藤先生はっきりとこうおっしゃられました。「大衆社会論や環境倫理のような現代的問題は、中澤には向いていない気がする。中澤はいろいろな問題に興味を持ってはいるが、思想のスナック菓子をつまみ食いしすぎて、虫歯だらけになっている。今のままでは修論は書けない。中澤に向いているのは歴史のほうだと思う。最低でも大学院の5年間、現代的な問題関心を封印して、誰でもいいから西洋の偉大な思想家一人にしぼって、その思想のエッセンスを徹底的に究明することを勧める。その思想家と対話ができるくらいまで、対象に没入するんだ。もし大衆社会論や環境倫理を研究したいという気持ちが本物なら、5年間我慢した後でも、研究への情熱が残っているはずだ。自分の問題関心が本物なのか偽者なのかを確認するために、5年間古典研究に打ち込むことは、意味のあることだと思う」。もちろん、僕はすぐに納得できませんでした。「古典研究・プラス・アルファ」の「プラス・アルファ」の部分に惹かれて佐藤ゼミ生になったのに、他ならぬ佐藤先生ご自身から「「プラス・アルファ」を禁欲せよ」と言われたわけですから。しかし、最終的にそのアドバイスに従うことにしました。当時の僕は、院試失敗の記憶も生々しくて、「オレ流」を押し通すことの限界を痛感していました。「やりたいこと」と「できること」との間のギャップを埋め合わせられるだけの学力が自分に具わっているようには思えませんでした。それに、心のどこかで禁欲的な研究生活に憧れてもいたのでしょう。
佐藤先生が勧めてくださった道は、期せずして、田中先生が勧めてくださった道と重なりました。紆余曲折を経て、僕は修士論文で採りあげる思想家を、18世紀イギリスの代表的政治家で、保守主義政治哲学の祖として知られるエドマンド・バークに定めました。バークを選んだのは、第一に、イギリス保守思想を敬愛する佐藤先生と18世紀イギリス思想を専門とする田中先生の両方の守備範囲であったからで、恥ずかしながら、積極的に選びとった研究対象とは言えないわけですが、ヒュームやスミスと並ぶ18世紀イギリスの代表的思想家なのに、欧米と比べると大きく立ち遅れている日本の研究現状を知って、「オレがやらなきゃ誰がやる!」と士気が高まりました。田中先生は正規のゼミ生ではない僕の論文指導を快く引き受けてくださいました。以後、僕の大学院生活は、《論文を書く→佐藤先生と田中先生からコメントをいただく→コメントを参考に書き直し→両先生からOKがもらえたら学術雑誌に投稿する》の繰り返しでした。単調と言えば単調でしたが、充実した毎日でした。佐藤先生と田中先生という二人の師を持ったおかげで、バークという研究テーマと遭遇し、自分の論文に少しでも個性をつけようとして、経済学的視点からバークを扱ううちに、バーク研究がスミス研究、マルサス研究へと発展してゆきました。そして、そのバークとマルサスの比較研究が評価されて、関西大学に「経済学説史」担当教員として採用されました。すべてが意図せざる結果の積み重ねでした。
「歴史で勝負しろ」ときっぱりと言ってくださった佐藤先生の慧眼にはいくら感謝しても感謝しきれませんが、「嬉しい誤算」は他にもありました。市大の研究環境は本当に素晴らしく、温かさと厳しさが絶妙なバランスで同居していました。佐藤先生以外の諸先生がた――マルクス経済学の正木八郎先生、経済学説史の白銀久紀先生、社会思想史の中村健吾先生、日本経済史の大島真理夫先生、アジア経済論の朴一先生の授業を履修しました――も実力者ぞろいで、しかも教育熱心でした。また、勤勉な先輩がたの後姿を見て、「これだけ勉強しないとプロの研究者になれないんだ」と発奮させられました。彼らの存在は本当に大きかった。大学院重点化の前だったので、院生の数もそれほど多くなく、院生同士の仲も良かったです。市大の1学年先輩にあたる浦坂純子さん(同志社大学)のゼミと中澤ゼミ(1期生)との合宿ゼミが実現した時は、院生時代のいろいろな思い出が心に去来して、感慨深かったです。

(14 January 2003)

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