論理的な答案を書く
僕が担当する「経済学説史」の期末試験は、例年、論述問題を出題しています(2001年度2部のみレポート試験)。論述問題は文字通り「論理的な記述」を要求しているわけですから、ただ単に答案の分量(情報量)が多いだけでは、この要求は満たせません。ある学生が「答案用紙の表裏びっしり書いたのに、可しかもらえへんかった。中澤って採点がきつすぎるわ」と不平をこぼしたとしても、それは的外れです。答案の分量(情報量)と論理性は別物です。その学生の答案は、論理性が乏しかったために、評価が低くなってしまったのです。それでは論理性とは何でしょうか? わかっているようで実はよくわかっていない言葉ですが、あえて一言で言うなら、「だから」「したがって」「それゆえ」といった、前提と結論をつなぐ接続詞が、適切に用いられていることです。「論理的に正しい」とは、「前提から結論を導く筋道が正しい」ということです。それでは「前提から結論を導く筋道が正しい」とはどういうことでしょうか? 具体例によって、考えてみましょう。
次の推論は論理的に正しいでしょうか?
大安の日に結婚した場合の方が、仏滅に結婚した場合よりも離婚件数が多い。だから君たちも大安には結婚しない方がいい。
おそらく前提は正しい。しかし、結論は認められません。どうしてでしょうか? そもそも大安の日に結婚する人の方が仏滅に結婚する人より多いので、「離婚件数」が多くなるのも当然です。しかし、そのことから「離婚率」について一般化するのは間違っています。この推論は、猫について適切にサンプルをとっているにもかかわらず、そこから犬についての一般化を行っているようなものです。この種の誤りは皆さんの答案にしばしば見受けられます。「利潤額」と「利潤率」との区別がついていないために、「利潤額」に関する事実から「利潤率」に関する一般化を行なってしまっているような答案が、それに該当します。
同じく、正しい推論について、別の角度から考えてみましょう。次のように言う人がいたとして、これは論理的に正しいでしょうか?
魚は水中を泳ぐ。イワシは水中を泳ぐ。だからイワシは魚だ。
二つの前提から結論を導く、いわゆる「三段論法」です。前提は二つとも正しい。結論も正しい。前提も結論も正しいから、この推論は正しいのかというと、そうではありません。どうしてでしょうか? 「論理的に正しい」とは、「前提から結論を導く筋道が正しい」ということでしたね。ですから、もしこのイワシの推論が正しいのであれば、
AはB。CはB。だからCはA。
という推論形式が正しいということになり、イワシのところをラッコにかえても成り立つはずです。試してみましょう。
魚は水中を泳ぐ。ラッコは水中を泳ぐ。だからラッコは魚だ。
前提は二つとも正しいのに、明らかに誤った結論が導出されてしまいました。つまり、「AはB」という命題と、「CはB」という命題を合体させても、「CはA」という結論は導出できないことが、このラッコの例からわかります。「AやBやCに何が入ろうと、この形の推論は、ぜんぶ論理的に飛躍がある」ということなのです。ですから、イワシの推論は、前提も結論も正しかったけれど、論理的には正しくない、ということになります。この種の誤りも皆さんの答案に頻出します。例えば、僕が次のような問題を出題したとしましょう。
『国富論』第四編の概要について、「重商主義」「トマス・マン」「フランソワ・ケネー」という用語を必ず使用して、論述しなさい。
そして、次のような答案が出て来るわけです。
重商主義は『国富論』第四編において批判されている。(以下、長々・・・)
トマス・マンは『国富論』第四編において批判されている。(以下、長々・・・)
だからトマス・マンは重商主義者である。
この答案を書いた学生は、どうして自分の答案が大幅に減点されたのかを、なかなかわかってくれないのです。前提は二つとも正しい。結論も正しい。しかし、この推論が論理的に破綻していることは、すでにおわかりですね。この「だから」は「だから」として機能していません。もしこの推論が正しいならば、トマス・マンのところをフランソワ・ケネーにかえても成り立つはずです。試してみましょう。
重商主義は『国富論』第四編において批判されている。(以下、長々・・・)
フランソワ・ケネーは『国富論』第四編において批判されている。(以下、長々・・・)
だからフランソワ・ケネーは重商主義者である。
前提は二つとも正しいのに、誤った結論が導出されてしまいました(フランソワ・ケネーは重商主義者ではなく重農主義者です)。「重商主義は『国富論』第四編において批判されている」ことと、「トマス・マンは『国富論』第四編において批判されている」ことを合体させても、「トマス・マンは重商主義者である」という結論は得られません。「重商主義」や「トマス・マン」について、いくら長々と書き連ねてあっても、このような論理性を欠く答案に対しては、低い評価しか与えられません。
それでは、どうすれば論理性は鍛えることができるのでしょうか? それは一概には言えません。ベストな方法は人によって異なるでしょう。「経済学説史の講義に出席することだよ」と言ってくれる経済学部生が一人でも増えるように、これからも頑張って講義してゆきたいとは思っていますけれど。とにかく、「キーワードをつないで文章を作ること、イコール、論述答案を作成すること」ではないことを、経済学説史の受講者は肝に銘じておいてください。換言すれば、正しい推論にもとづいて有意義な結論が導き出されている答案なら、内容の如何を問わず、「優」の成績が得られるだろう、ということです。
付記 このコラムの作成にあたっては、野矢茂樹『はじめて考えるときのように』(PHP)の70-86ページ、および、野矢茂樹『論理トレーニング』(産業図書)74-5ページを参考にしました。2冊とも経済学部生にもお薦めです。
(17 December 2002)
このコラムを久々に更新することにしました。市川伸一『考えることの科学』(中公新書)に興味深い具体例をたくさん発見したからです。
彼と結婚すれば私は絶対幸せになれるわ。
でも彼とは結婚できないの。
だから私は幸せにはなれないんだわ。
この推論が論理的に誤りであることは、すぐにおわかりいただけますね。彼女を幸せにしてくれる男性は他にいくらでもいるかもしれませんからね。
亭主は酒を飲むと必ず12時すぎに帰ってくる。
今夜も12時すぎに帰ってきた。
だから酒を飲んできたに違いない。
たまにとはいえ、残業で帰宅が12時すぎになることだってありますよね。遅くなった日はすべて酒を飲んでいると思われては、亭主も気の毒です。
重商主義は『国富論』第四編において批判されている。(以下、長々・・・)
フランソワ・ケネーは『国富論』第四編において批判されている。(以下、長々・・・)
だからフランソワ・ケネーは重商主義者である。
『国富論』第四編は、第一章から第八章までが重商主義(トマス・マンが代表)批判に、最後の第九章が重農主義(フランソワ・ケネーが代表)批判にあてられています。ですから、「重商主義は『国富論』第四編において批判されている」という命題は正しいですし、「フランソワ・ケネーは『国富論』第四編において批判されている」という命題も正しいわけです。しかし、以上から「フランソワ・ケネーは重商主義者である」という結論を導出することはできません。
最初の例の場合、「彼以外にも彼女を幸せにしてくれる男性がいる可能性」が、第二の例の場合、「飲酒していない場合でも亭主の帰宅が12時をこえる可能性」が、最後の例の場合、「重商主義以外にも『国富論』第四篇で批判されている経済学説が存在しうること」が、見落とされているわけです。
「前提から結論を導く筋道が正しい」とはどういうことか、少しはおわかりいただけましたか? たかが「だから」、されど「だから」なのです。
(22 July 2003)