堀和生先生

 
 堀先生の京都大学定年退職をお祝いするパーティーでの一枚
(2017年3月18日)
僕は4回生の時に履修した「東洋経済史」の講義ではじめて堀和生先生と出会いました。別の場所でも書いたように、僕は1回生から3回生まで暗闇の中をさまよっていたのですが、4回生になって田中秀夫先生のゼミに入ったのをきっかけに、「とりあえずこの1年間、経済学にはとらわれずに、自分が好きな歴史と思想を集中的に勉強しよう」と心に決めました。実際、それまでの3年間で興味を持って聞くことができた講義は「社会思想史」と「西洋経済史」くらいだったので、講義担当者や講義内容に関する情報がゼロだったにもかかわらず、迷うことなく「東洋経済史」の履修を決めました。ところが、いざふたを開けてみたら、この「東洋経済史」はあっと驚く講義だったのです。
第一に、履修者のとても少ない講義でした。(必修でも選択必修でもないただの)選択科目、(火曜)1限目、新任の先生の担当科目のため情報がゼロ、という様々な理由が重なった結果だと思いますが、初回の授業の時点で出席者は10名前後だったように記憶しています。教壇があるような大教室にはあまりに不釣合いな人数だったので、2回目の授業からゼミ用の小教室に変更されました。先生のつばが飛んでくるほどの至近距離で講義を聞くことになってしまったのです。当然のことながら、最初の数回の授業で履修者の顔と名前は先生の頭にインプットされてしまいました。「今日は・・・君の姿が見えないね。彼が来るまでもう少し待とうか」という具合でしたから、無断欠席はもちろん遅刻もうかつにできなくなってしまいました。・・・こんなこともありました。4回生の間、僕は毎週月曜夜にラーメン屋のアルバイトに入っていたのですが、そのせいで就寝時刻がかなり遅い日もあって、ある日僕は完全に寝坊してしまったのです。朝9時すぎ、下宿の電話のベルが突然鳴りました。受話器をとると、堀先生の声が聞こえます。「中澤君、君が来ないと授業が始められない。みんな君を待っているから、至急来てください」。僕は条件反射的に「はい」と答えてしまい、その直後に後悔しました。風邪で寝込んでいることにしておけばよかったと(苦笑)。当時の僕の下宿は大学まで徒歩で10分足らず、自転車を飛ばせば3分という距離でした。布団からすぐさま飛び起きて、教室にダッシュしたのは言うまでもありません。
第二に、恐ろしくハイレベルな内容の講義でした。講義内容は、日本・韓国・台湾の工業化の比較研究(関大だと石田浩先生の講義が内容的に一番近いでしょう)。各国の近代史を概ね理解していることを前提に講義が進められたので、予習なしではついてゆけません。90分間、息つく暇もないほど、膨大な量の情報が先生の口から発射されます。ノートをとるのが大変なばかりでなく、復習も必要でした。堀先生は突然学生の前にやってきて、「先週やった・・・について説明してくれる?」とふってくるような方で、学生が答えられないと、「先週、あれだけ一生懸命説明したのに・・・」とがっくり。とにかくハード講義でした。しかし、いたずらにハードだったのではありません。知的好奇心を刺激してくれる、経済史という学問分野の奥の深さを感じさせてくる、そんな難しさでした。堀先生は「今から話す内容は昨日の深夜まで予習がかかったよ。新規担当科目だから、自転車操業はつらいよ」と時折眠い目をこすって苦笑しておられましたが、実際、90分の講義のために先生がいかに精魂をこめて準備しておられるか、十分に伝わってきました。
後になって知ったことなのですが、堀先生は苦労人で、OD(オーバードクター=大学院博士課程を修了しても就職先が見つからない状態)を10年も続けた後、ようやく決まった就職先が、なんと京都大学だったのです。長いOD生活を予備校講師のアルバイトで耐え抜いてこられただけあって、先生の話術はきわめて巧みでしたし、ご苦労が長かったぶん、「今こうやって講義できることを僕は誇りに思うよ。幸せだよ」と言ってはばからない方でした。「自分の講義を学生に理解してもらいたい」という先生の情熱が教室を充満していました。「こんな熱い講義をしてくれる先生とはこれまで出会ったことがない!」僕は次第に堀ファンになってゆきました。結局、僕は「東洋経済史」の講義に最後まで出席し、平常点で「優」の成績をいただきました。
「東洋経済史」の講義を通じて、アジア経済への関心も高まりましたが、それ以上に堀先生の学問に対する姿勢をもっと身近で感じたくなりました。また、田中ゼミでの1年間の経験から、ゼミという場で勉強することが自分にとても合っているのがわかりました。留年も決まっていたので、僕は堀先生にゼミに参加させていただきたい旨を伝え、快諾されました。こうして、僕は5回生から2〜4回生に混じって堀ゼミで勉強することになりました。もちろん、単位修得とは関係なしに。
5回生の1年間の生活はなかなかすさまじかったです。留年して授業料を自分で捻出する必要があったので、月・火・金の夜は大津で塾講師をし、水の夜は寝屋川で予備校講師をし、日曜日の昼はラーメン店で働きながら、しかも、就職活動と大学院入試の準備を同時に進めながら(院試に再度受からなかったときは進学を断念して働くつもりだったので企業訪問もしました)、田中ゼミと堀ゼミの二足のわらじを履いたのですから。身体がいくつあっても足りないほどの、目が回りそうな毎日でした。しかし、まったく個性の異なる二人の先生から同時に指導を受け、ヨーロッパの思想史と東アジアの経済史を同時に勉強したことで、僕の学問世界は一気に広がりました。田中先生が、あくまでゼミ生の自由な意見交換を重視し、意見を求められても「そういう考え方もあってええんとちゃうかな」「それはちょっと極端とちゃうかな」といった控え目なコメントに終始して、あくまでご意見番に徹しておられたのに対して、堀先生は「なんとなく」を許さず、説得力のある厳密な思考を学生に要求しました。テキストも「わかりやすい」「とっつきやすい」ものではなく、「重厚な」「本格的な」ものが選ばれました。準備不足の報告者は容赦なく針の筵に座らされました。新人選手にノックの雨を浴びせかける鬼監督のように見えた日もありました。田中研究室がサロンだとすれば、堀研究室は道場でした。もし僕が2回生の時に堀ゼミの門をくぐっていたら、間違いなくドロップ・アウトしていたと思います。
僕は京大の院試に2年連続で失敗したのですが、併願していた早大と大阪市大に合格し、最終的に大阪市大への進学を決めました。京大で卒業論文が制度化されたのは、僕の一つ下の学年からで、僕は卒論を書く必要がなかったのですが、堀先生は「大学院に進学することが決まったのだから、卒論を書きなさい。時間が足りないのはわかっているけれど、どんなにしんどくても書いておいたほうが、後々にプラスになって返ってくる。指導は僕がするから」と秋に突然言われました。僕は当時、川勝平太の綿業理論および物産複合論に強い興味があったので、堀先生の強い勧めもあって、それを卒論のテーマに選びました。単位がかかっていないのをいいことに、ギリギリまでねばりました。かなり昔のことなので、記憶がおぼろげなのですが、卒業式の前日か当日に卒論を提出したような気がします。数ヵ月後、一つ一つの論文に丁寧な講評を付した卒業論文集が郵送されてきたとき、堀先生のどこまでも緻密なお仕事ぶりにあらためて敬服した次第です。
卒業旅行は堀ゼミの一員として台湾に行きました(高雄の屋台は最高でした!)。それが機縁で台湾経済への関心が一気に高まりました。しかし、大学院進学後、紆余曲折を経て、僕は自分の専門を18世紀イギリス思想史に定めました。にもかかわらず、堀先生から「もし負担じゃなかったら、僕の大学院のゼミにも出ておいで」と声をかけていただきました。大学院堀ゼミの参加には、中国語か韓国語の読解力が必要条件だったので、突貫工事で中国語の基礎を勉強し、関大着任1年目まで断続的に出席させていただきました。院生時代、中国語およびアジア経済の勉強には相当な時間を費やしましたね。一時は、中国語で書かれた論文を報告できるほど、イイ線まで行っていたのですが、情けないことに、今ではかなり忘れてしまいました。近い将来、時間を見つけて、中国語の勉強を再開したいと思っています。
結局僕は18世紀イギリス思想史の研究者となり、堀先生の学問を継承しなかったわけですが、それでも僕は堀先生をかけがえのない恩師の一人だと思っていますし、堀先生も僕を教え子として認めてくださっています。関大に就職が決まったことを報告するために研究室を訪れたとき、堀先生は自分のことのように喜んでくださいました。あの日のことは一生忘れないでしょう。
この文章を書いていて、ふと気がつきました。「僕の講義スタイルって、思いっきり、堀先生を意識しているなぁ」って。

(7 November 2002)

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