落ちこぼれ経済学部生のための本棚

3回生終了時点での僕は、経済学部生としては完全な落ちこぼれでした。これは謙遜では決してありません。実際、当時の僕の学力は、45度線や限界費用曲線さえも理解できていない悲惨な状態でした。4回生になって田中秀夫先生のゼミに入り、経済思想史・社会思想史という自分のホーム・グラウンドを見つけ、ようやく経済学に入門できたわけですが、それまでの3年間はまさに暗中模索の日々でした。
やる気だけはあったのです。「何だってかまわない。僕は大学で・・・を学びました、と胸を張れるような何かを身につけて卒業したい。」そういう思いは人一倍強かった気がします。しかし、そのやる気はひたすらから回りしていました。自分の求めているもの――現代社会に対する漠然とした疑問・怒りに収拾をつけること――と大学で教えられること――経済学部で提供される抽象的で無味乾燥な講義――と間に、どうしても接点を見つけることができず、講義に熱心に耳を傾ければ傾けるほど、満たされない何かがふくらんでゆくばかりでした。「自分は今何のためにこの教室にいるのか?」そう自問すると、自分を偽って講義につきあうのがばかばかしくなってきて、ほどなく僕の足は教室から遠のきました。これが3年間続いたのです。やり場のないバカなパワーは演劇活動で発散させるより他にありませんでした。コピーノートを調達しての一夜漬けの試験勉強はむなしかったです。こんなパッパラパーの脳みそでも通してくれる甘い先生もいるわけで(もちろん可ばかりであったが)、よけいにむなしさがつのりました。「なんでこんなにわかってへんのに不可とちゃうねん・・・」。人間とはまことに身勝手なものです。
参考書で自学自習すれば、45度線や限界費用曲線くらいは理解できたかもしれません。しかし、当時の僕はどうしてもそうする気になれませんでした。「何のためにそれを学ばなければならないのか?」「それを学ぶことが何の役にたつのか?」それがまったくわからなかったからです。「経済学の基礎理論だから」「公務員試験に出題されるから」といった即物的な理由では、納得がゆきませんでした。受験勉強のような与えられたものをこなすだけの受身の学習態度を捨て去って、自分の関心を自主的に掘り下げてゆくこと――これこそ大学の勉強だと僕は信じていました。だからこそ、自分の心の奥底の「もやもや」を刺激してそれにはっきりとした形を与えてくれるような講義とめぐりあえることを、切望していたのです。しかし、その願いはほとんどかなえられませんでした。期待が大きかったからこそ、幻滅も大きかったのです。
暗闇の3年間はその後の僕に計り知れない影響を与えました。4回生になって、それまでわからなかったことが少しずつわかりはじめて、学ぶことの喜びを知りました。暗闇に目が慣れてしまっていたから、小さな灯りですらもまぶしく感じた、ということなのかもしれません。喜びが大きかったからこそ、僕は研究する人生を選んだとも言えます。それだけではありません。今こうして大学で教える立場になり、2回生・3回生になっても経済学部の講義に馴染めず不満・不安・苦しみを抱いている多くの学生さんと出会うと、彼らの気持ちが痛いほどわかる気がするのです。それはかつて僕自身が抱いていた気持ちと瓜二つだからです。「自分はここに来なかったほうがよかったのではないか・・・。」
今日、経済学(特に経済理論)の入門書は数え切れないほど存在し、評判の高いものも少なくありません(例えば、スティグリッツや伊藤元重など)。そうした入門書から経済学の世界にすんなり入り込めるラッキーな人もいるでしょう。そういう人はそういう人でもちろんかまいません。しかし、少なくとも僕はそうではありませんでしたし、僕のようなタイプの経済学部生はまだまだ意外と多いような気がするのです。経済学に入門する道順は一つではありません。極端に言えば、学生の数だけの入門方法があってよいのです。経済思想・社会思想の歴史を学ぶことから経済学に入門した僕にとって、経済学とは、まず何よりも、「経済学者・政治家・企業家たちが繰り広げる人間ドラマ」なのです。抽象モデルからは得られない歴史上の生々しい現実に触れてはじめて、僕は経済学を面白いと思えるようになりました。
以下、経済学を基本の基本から学ぶための本を紹介します。本の選択基準は、あくまで僕の独断と偏見ですが、
・値段が安いこと
・薄いこと
・網羅的ではなく限定された特定のテーマを扱っていること
・具体例を多く交えて丁寧に説明していること
・現代社会・現代日本との関わりを重視していること
を基準にしたつもりです。

経済への関心を育むことから始めましょう。関心の希薄な対象を勉強するのは苦痛でしかありませんから。「経済って面白そう」って思えることが何より大事です。経済に親しむための「基本の基本」書としては、
@細野真宏『経済のニュースがよくわかる本:日本経済編』小学館
A今静行『経済学通になる本』オーエス出版社
B長瀬勝彦『うさぎにもわかる経済学』PHP文庫
の3冊がお薦めできます。ただ、読みやすさ・わかりやすさ・面白さを重視するあまり、説明に飛躍やごまかしがあったり、少しばかり間違いもあったりして、それが「玉にキズ」でしょうか。しかし、経済学の無味乾燥さに悩む学生にとって、読みやすくわかりやすく面白い本から勉強をスタートさせることは、とても大切なことです。
経済のニュースがよくわかる本 カリスマ受験講師細野真宏の 日本経済編 / 細野真宏/著
経済学通になる本 シュプールを描いた経済学者たち / 今静行/著
@ A
経済学的に信頼できるという意味でしっかりとした議論を展開している「基本の基本」書としては、
C野口旭『間違いだらけの経済論』ごま書房
D小室直樹『日本人のための経済原論』東洋経済新報社
E小塩隆士『高校生のための経済学入門』ちくま新書
F野口旭『ゼロからわかる経済の基本』講談社現代新書
の4冊を挙げておきましょう。Cは国際貿易、Dはマクロ経済に関する基本的な考え方を懇切丁寧に説明してくれています。@ABと比べれば少しだけレベル・アップしますが、それでも市販の経済学教科書よりは、格段にやさしく書かれています。CDの二冊が今の僕の講義の基礎を作ってくれました。僕にとってはどんなに感謝しても感謝し足りない2冊です。扱われているトピックがもう少し網羅的なもののほうがよいなら、EFがお薦めです。Eはエディンバラに出発する直前に公刊されて、エディンバラに来てから読みましたが、CDに似たテイストの素晴らしい入門書です。新書だから薄い!安い!しかも、読めば読むほど味が出てくる、スルメのような本です。Eの代わりにFでもOKですが、著者の専門を反映して、Eは財政・社会保障に、Fは国際貿易に重点を置いています。
日本人のための経済原論 / 小室直樹/著
高校生のための経済学入門 / 小塩隆士/著
ゼロからわかる経済の基本 / 野口旭/著
D E F
ここまで勉強して「経済理論って、案外、自分に合うかもしれない」と思えた人は、以下の2冊をお薦めします。「何のためにミクロ(マクロ)経済学を学ぶのか」という初学者の問いを忘れていない点が素晴らしい。基礎概念の説明も丁寧です。
G荏開津典生『明快ミクロ経済学』日本評論社
H荏開津典生『明快マクロ経済学』日本評論社
皆さんにとってもっとも興味深いテーマであるはずの平成不況については、
I佐和隆光『平成不況の政治経済学』中公新書
J伊藤元重『市場主義』日経ビジネス人文庫
K小野善康『景気と経済政策』岩波新書
の3冊を挙げておきます。IJはとても読みやすい。ただし、両者の論調が対照的であることに注意しましょう。読み比べてみると、経済学には派閥がある―― この認識は経済学を学ぶうえできわめて重要です――ことがおわかりいだだけると思います。この2冊を読了した後に、Kを読み進めれば、あなたも平成不況分析の「セミプロ」を名乗れます。経済学に派閥があることの認識なしにKを読もうとしても、途中で挫折するだけでしょうが、そうした認識を踏まえて読むなら、きわめて論旨明快で刺激的な本です。
市場主義 / 伊藤元重/著
景気と経済政策 / 小野善康/著
G J K
政策(国家)といったマクロな問題よりも、経営(企業)などのミクロな問題のほうに親近感を覚える人もいるでしょう。経営学から経済学にアプローチしたいなら、
L沼上幹『組織戦略の考え方−企業経営の健全性のために−』ちくま新書
M高橋伸夫『できる社員は「やり過ごす」』日経ビジネス人文庫
を読むのがよいでしょう。「目からウロコ」の数々の事実を知ることができるだけでなく、公共財の理論、ゲームの理論の基本も身につきます。
マルクス経済学については、
N木原武一『ぼくたちのマルクス』ちくまプリマーブックス
第三世界の貧困に興味がある人には、
O川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書
消費者心理に興味がある人には、
P鹿島茂『デパートを発明した夫婦』講談社現代新書
をお薦めします。木原氏も川北氏も鹿島氏も経済学者ではありませんが、三著作とも「資本主義とは人間にとって何なのか?」という根源的な問題に迫っていて、面白く読めるだけではなく、いろいろな意味で読者を思索へと誘ってくれる名著です。
組織戦略の考え方 企業経営の健全性のために / 沼上幹/著
できる社員は「やり過ごす」 / 高橋伸夫/著
ぼくたちのマルクス / 木原武一/著
砂糖の世界史 / 川北稔/著
デパートを発明した夫婦 / 鹿島茂/著
L M N O P
ゼミでの討論をもっと充実したものにしたければ、
Q遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』ちくま文庫
からヒントを得てください。この本は単なるタレント本ではありません。東大・上野千鶴子ゼミを実況中継したものです。著者の「バカなパワー」(失礼。でも僕はこの言葉が好きなのです。)が炸裂していて、読むだけでこれだけ熱くさせてくれる本も珍しい。こんな卒論を自分のゼミ生にも書いてもらいたいものです。
最後に、経済学の入門書ではないのですが、
R高橋信『マンガでわかる統計学』オーム社
S阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』ちくまプリマーブックス
を紹介させてください。「経済学=数学」というイメージの強さゆえに経済学を毛嫌いしている皆さんが多いので、あえて「そうじゃない経済学もあるよ」という路線の入門書を紹介してきましたが、初歩的な数学や統計の知識を身につければ、経済学がいっそう学びやすくなることは間違いありません。数学とは料理における切れの良い包丁のようなものです。なるほど包丁だけでは料理は作れません。あくまで道具です。しかし、包丁なしで料理を作ろうとすれば、メニューが限られてくるのもたしかです。初学者には「限界費用曲線の意味」よりも「ダイエーはどうして経営不振に陥ったのか」のほうがはるかに学ぶに値するトピックのように思えるでしょうし、実際僕もそうだったわけですが、最低限の数理的思考を身につけずしては、ユダヤの陰謀論といったトンデモ経済論(Cを参照)に騙されてしまう恐れもあります。Rは数理統計学の初歩の初歩をマンガで解説したものですが、これこそ理想の数学教科書と言えるのではないでしょうか。偏差値、単相関係数の説明などは、これ以上丁寧には説明できないだろうと思うくらい、わかりやすい。マンガもかわいい。この本の製作に携わったすべてのスタッフの愛情が感じられます。Sはドイツ中世史の権威が高校生向けに書いた半生記。学問することの素晴らしさを、著者自身の体験に即してやさしい言葉で語ってくれているこの本に、僕は幾度となく元気をもらいました。そして、著者の誠実な研究態度に強い共感を覚えました。
東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ / 遥洋子/著
マンガでわかる統計学 / 高橋信/著 トレンド・プロ/マンガ制作
自分のなかに歴史をよむ / 阿部謹也/著
Q R S
蛇足。経済小説・企業小説を通じて経済の世界に親しむ、という手もあります。僕がいちばん親しんだのは、辻井喬の一連の小説です。辻井喬とはセゾン・グループ元会長堤清二さんの筆名。学生運動の挫折経験。暴君的な父や腹違いの弟との葛藤。実業家でありながら文人でもある自分自身への矜持と不安。 『彷徨の季節の中で』をはじめとして、彼の小説の多くは自伝的色彩が強いのですが、暴君的な父を持って苦しんだ体験を共有している僕にとって、小説の中にもう一人の自分を見る思いでした。救われた気分になりました。かれこれ20年近く前のことですが、それまで娯楽的な本の読み方しか知らなかった僕にとって、「小説を読むとはこのような経験を言うのだな」と体感できました。その時の震えるような静かな興奮は今も忘れません。経済学を嫌いになりかけた時期はあっても、経済への関心を失うことがなかったのは、この手の経済小説・企業小説を欠かさず読んでいたおかげだと思います。「経済学とは人間ドラマ」とはじめに書いたのも、このような僕の読書経験が反映しているのでしょう。
「一番やさしい」と銘打ちながら事典のように分厚い入門書が巷にはあふれかえっていますが、そういう本にはうかつに手を出さないほうが賢明ですね。あなたに「経済学って面白い」と体感させてくれる本こそ、あなたにとっての最良の入門書です。あなたが経済学に入門できないのはあなたのせいではありません。あなた自身の感性を、あなた自身の内なる声を、どこまでも大事にしてください。

(1 Ocotber 2002)
(26 July 2005 加筆・修正)


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