関西大学 孝忠研究室今を生きるResearch Life of Professor Dr. N. Kochu |
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今を生きるM.K.ガンディーvs B.R.アンベードカル(「在外研究員 現地からの生の声」として、関西大学国際交流センター発行のA Tiny Ripple第16号(1995年)に掲載された。) インド憲法の研究をはじめたきっかけの一つが、アンベードカル(不可触民解放運動のリーダーであるとともにインド憲法起草委員会委員長をつとめた)に関心をいだいたことにあったから、ナーグプルとセヴァーグラームには是非行ってみたかった。 デリー大学での、マーヘンドラ・P・シン教授(憲法学・法学部長)との論議は、その大半がインド憲法におけるアファーマティヴ・アクションの解釈論をめぐるものであった。また同僚のパラマナンドM・シン教授も学位論文がこのテーマに関する著作になっており、同じ学部に所属する二人の教授は友人であり、しかも学説を二分して幾多の論文を発表し(アファーマティヴ・アクション「権利説」vs「政策説」とでも呼べようか。)、競い合う良きライバルでもある。この二人との論議を通して、現在のインドのおかれた困難な状況と、その克服の課題、プロセスを考えると、インド憲法のたんなる解釈論にとどまらず、1930年代のガンディーとアンベードカルの対立を思い起こさずにはいられない(ガンディーは、カーストヒンドゥーが不可触民に対する態度を変えることが基本だと考え、アンベードカルは不可触民自身が立ちあがり、カースト社会を変えるべきだと考えた)。インドを発つ日を二日遅らせ、連日40℃をこすようになったデリーを離れ、ナーグプルに向かった。 ナーグプル(Nagpur)は、インドの中央に位置する人口約130万の都市である。1956年、この地でアンベードカルはヒンドゥー教とカースト社会からの解放の一つの手段として指定カースト(旧不可触民の憲法上の呼称)約30万人とともに仏教に改宗した。アンベードカル・カレッジには、彼の胸像があり、その横に大きな記念館が建設中であった。ここで当然、写真を、ということになるが、運転手氏に、アンベードカルの胸像と写真を撮るのに抵抗感はないのか、と聞くと、彼はここで初めて自らがブッディストだと名のった。そこで私がアンベードカルの研究者だと云うと、それからブッディスト居住区に案内してくれた。そこに入ると、インドの街の雑然とした感じはあまりなく、質素だが小ざっぱりした街という印象をうけた。この街の中に、山際素男氏がその著作の中で紹介しているように仏教寺院があり、日本人僧侶がいた。彼が人々から敬愛(崇拝にちかい)されていることは明らかだった。今まさに憲法上のOBC(other backward classes)をめぐる闘いをしており、ブッダガヤの奪還闘争を始めるところなんだ、と気迫をみなぎらせて語ってくれた。日本人のカメラマンも入るから日本にも紹介されるだろう、とのこと。彼は、アンベードカルの解放思想を実践する、まさに「闘士」という雰囲気にみちていた。 そのナーグプルから南西約70km離れたところにセーヴァーグラーム(Sevagram)がある。ここは1934年、ガンディーが居をかまえ、セーヴァーグラーム(奉仕の村)と命名したところである。彼はここにアシュラ-ムをつくり、手紡・手織の奨励、不可触民の地位向上などに尽力したといわれる。静かな村の中にガンディーの住居など簡素な建物が当時のまま保存されており、今なおアシュラ―ムとして使われている。そこから車で5分ほど行ったところに、女性解放運動の発信地ともなっている、女性たちでつくるアシュラームがあった。海外講演にまわっている人、村々の女性を啓蒙し、織字運動をしている人、雑誌の編集者など、物静かだけれども強い信念を感じさせる女性たちであった(もっとじっくり話すために泊まっていけといわれたが、日程を理由に!辞退した)。彼女たちと話し、自然環境に対する考え方、生産者中心の物々交換システムへの構造転換の必要性etc.を聞いていると、日本での「自然環境派」(のつもり)の私が近代合理主義者のように思えてくる。 ナーグプルの僧侶との好対照は、何やらガンディーとアンベードカルの対立が、今まさに生きつづけているとの想いを深くさせた。
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