関西大学 孝忠研究室インドで僕も考えた 2000.3Research Life of Professor Dr. N. Kochu |
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インドで僕も考えた(続)(2003年3月)ヴァーラーナシー(ベナレス)を訪れるのは11年ぶりのことである。そのとき(1992年12月)の強烈な印象を記したものが、後掲「インドで僕も考えた」(関大生協『書評』第102号、1993年)である。この間何度かインドを訪れているが、やはり、今回のヴァーラーナシー訪問は、自分自身の研究のあり方と生き方をあらためて考えさせてくれた。 研究関心にかかわることのひとつは、このヒンドゥーの聖地に存在するモスクである。前回は、アヨーディヤー事件の直後であり、この近辺は立入禁止地域となっていた。今回は、河岸の遺体焼却場の横を通り、入り組んだ路地を迷い子にならないよう必死でついていくと問題のモスクがあった。検問があったものの、鉄条網に囲まれたモスクのすぐ隣には人々でごったがえす著名なヒンドゥー寺院がモスクに向けて建てられていた。モスクとヒンドゥー寺院の並存、雑踏の中での宗派の共存と、テロや暴動への警戒態勢のそれぞれが、当然のような顔をして雑然と、人々の生活と町のありようとして存在していた。 この10年間でインドの人々の生活は大きく変わったように思う(1991年以降、インドはIMFの圧力などもあり、経済自由化政策に大きく転換した)。急速な経済成長は、インドの都市部において中間層の拡大をうながしたといわれている。まちを走る車の種類、テレビの普及などもめざましい。と同時に変わらない(変われない)人々も多数いるように感じさせられる。そして、このことが問題を一層深刻にしているように思う。つまり、10億人の八分の一の人々の生活水準が日本並みになるだけで、日本よりは大きな市場が形成されるからである。このことはかなり実現しているように感じられる。しかし、同時に、日本の人口よりも大きな貧困層が厳然として存在している。スラムのボロ布屋根は延々と続いている。でも、「共同」生活が営まれているだけでも人間的なのかもしれない。道端に穴をほり、犬と日陰を譲り合いながらひとりで生活している人も減りそうにない。 みんなが貧しい時代よりは、周りの人が豊かになりはじめたとき、それに取り残された貧困感のほうが強いことは、高度経済成長に取り残されたときの私の子ども時代の記憶からしても明らかであろう。でも、人より遅れてでもすべての家庭にテレビが普及していくように国民全体が右肩上がりに成長を遂げていくならば問題は少ないのかもしれない。しかし、かなりの人々にとって、その見込みがないことが「確定的」であるときにはどうすればよいのだろうか。このような問題の解決のために独立後のインドは努力し、苦悩してきた。 これからの日本人は、自分が少なくとも「負け組み」には組み込まれないように、と努力することが大方の生き方になってしまうのだろうか。 (注1)アヨーディヤー事件(1992年12月) アヨーディヤーにある「バーブルのモスク」は、1528年にラーマ生誕の地にあったヒンドウー寺院を破壊し、その上に立てたものだと主張し、暴徒がモスクに乱入、破壊した事件。この破壊事件が引き金となり、インド全土でヒンドウー教徒とイスラム教徒との衝突が繰り返され多くの犠牲者がでた。 (注2)インドの中間層の実態については、各種の見解がある。最大規模で2億人から5億人とする説や、富裕層600万人、中流層5億人とする説などがあるが、その所得規模は、国際水準からすればまだかなり低いことも確かである。
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