福武直賞受賞スピーチ

 

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以下の文章は、19977月に、第4回福武直賞(社会学部門)を受賞した時の受賞スピーチです。23年ぶりに原稿を見つけたのですが、基本的にこの頃から社会学観が変わっていないなと自分でも面白く思ったので、HPに掲載することにしました。

 

 福武直賞はまだ日本社会学会をはじめ社会学関係学会の学会賞がまったくなかった1991年に創設され、2年に1度、社会学部門と社会福祉部門の著書各1点を受賞作として選び表彰したものです。財源の関係で1999年の第5回でこの賞は廃止となり、3年後に日本社会学会に学会奨励賞ができます。

 

 非常に価値のある賞だったわけですが、歴史が短すぎてネットで調べても受賞者一覧とかも出てこないのが残念です。でも、写真のような立派な記念品と賞状とそれなりの賞金もいただきました。忘れられてしまわないように、記録も兼ねてここに掲載しておきます。

 

 


199772

『社会運動の中範囲理論』と私の社会学観

 

 関西大学の片桐でございます。このたびは、私の本に対し、思いがけなくも、「福武直賞」という大きな身に余る賞をお与えいただき、本当にありがとうございました。特に、運営委員長の大内力先生をはじめとする運営委員の先生方や、審査に当たっていただきました審査委員の先生方にはいろいろとお手数もおかけしたことと思います。この場をお借りいたしまして、心からお礼を申し上げます。

 

 私は、福武先生の講義を東大で受けることのできたもっとも最後の頃の学生です。もちろん、その頃の私たちには、福武先生はあまりにも遠い雲の上の存在で、親しくお話などさせていただいたことはなかったのですが、いつも淡々と奇をてらわずに現実社会についてデータを基に講義される先生のお姿は今でもくっきりと焼きついています。正直言わせていただくと、学部学生にとって、それは「おもしろい」という講義ではなかったのですが、自分が講義を担当するようになって思ったのは、福武先生の講義こそ、空理空論にならぬように意識されて行われていた、まさに社会学らしい社会学の講義であったということでした。その福武先生の名の冠された賞をいただけるというのは、本当に光栄なことだと思っております。

 

 本日は、このような晴れがましい場で、スピーチをさせていただくこととなり、非常に緊張しておりますが、受賞者の義務でもありますので、多少お時間を頂き、私の本に関する話をさせていただこうと思います。

 

 私が、住民運動をはじめとする社会運動の研究に関心を持ち、資源動員論をベースとする理論的立場から、「中範囲の理論」構築をめざしたのはなぜかということについては、「あとがき」に個人史的なことを書かせていただきましたが、今日は、私の社会学観からそのあたりをもう少し説明させていただきたいと思います。

 

 学生たちに「なぜ社会学を選んだのか?」と尋ねますと、しばしば返ってくる答えに「社会学は新しい学問なので、おもしろそうだと思った」というのがあります。学生たちは、これを肯定的な意味で言っているらしいのですが、この答えを聞く度に、私は少し不安な気持ちになります。社会学は誕生してからもう150年以上は経った学問です。経済学でも、アダム・スミス以来と考えれば、せいぜい200年ちょっとの学問です。にもかかわらず、社会学だけが相変わらず新しい学問だという印象を世間に与えているのです。これは、一体なぜでしょうか。私は、その最大の理由は、過去の社会学の蓄積がきちんと継承されていないせいだと思うのです。特に、「normal sience」化をめざす方向が瓦解した1970年代以降の理論領域での社会学は、過去の否定、あるいは書き換えに多大のエネルギーを費やしてきたように思われてなりません。誰もが、創始者たらんとして、オリジナルな概念で、オリジナルな理論を展開することにやっきになっていたように思えてなりません。しかし、現実には、そんなにユニークでオリジナルな概念や理論などは滅多に生まれないのではないでしょうか。実際、最近流行の理論家のキー・コンセプトでも、過去に使われていた概念で言い換えられるものがほとんどのように思います。このように、過去にすでに蓄積されていたものすら、新しい言葉で言い直してしまうことによって、いつも新しい理論が登場している学問として、社会学はいつまでも新しい学問だというイメージを払拭できないでいるのではないでしょうか。

 

 私は、こうした社会学のあり方に疑問があります。いや、ずっとありました。こんなことばかりしていたら、社会学は危ないと思うのです。過去の優れたものをきちんと継承するそうした仕事をもっとなす必要があるのではないかと思うのです。創始者ではなく、良き2代目が社会学には必要ではないでしょうか。「私の理論では……」とか「私に言わせれば……」などと目立ちたがる「創始者志向」の人ではなく、己を抑え、過去の理論的蓄積を時代、社会に合わせて応用し、次の世代のための社会学的財産を増やす人間が必要なのではないでしょうか。(良い例ではないかもしれませんが、鎌倉幕府や江戸幕府が長期にわたって続いたのは、2代目であった「北条義時」や「徳川秀忠」が目立たないがしっかりしていたせいだと思います。)今、社会学には、こうした良き「2代目志向」が必要なのではないでしょうか。

 

 こんなことを明示的に考え始めたのは、比較的最近のことなのですが、様々な理論的パラダイムが錯綜しはじめた70年代に社会学を学び始めた私にとって、こうした感覚は漠然とした形では、常にあったように思います。もともと「創始者志向」を持ちうるほどに、己の才能にきらめくものを感じていなかったこともあり、等身大の(生活者としての)自分の視点から見て納得がいくものを、きちんと勉強して、時代・社会に合う形に整理し、アレンジして社会学をやっていきたいと思っていました。

 

 こうした視点からもっともスムーズに受け入れられたのが、マートンの社会学でした。素朴な機能主義とでも言えるマートンやその弟子たちの社会学は、足が地に着いている社会学だという印象を強く持ちました。社会学を学び始めた初期の頃に読んで現在に至るまで心に深く刻まれている本のひとつがグールドナーの『社会学の再生を求めて』です。実証性を無視した「誇大理論」でもなく、かつまた一般化志向を失った「調査至上主義」でもないところに、社会学を措定すべきであるという考え方は、100%賛成できるものでした。こうした「中範囲の理論」を積み上げていくという方向で、社会学は継承されるべきだという考え方は、私の中では、かなり早い時期から確信になっていました。

 

 「中範囲の理論」を構築していくには、具体的な対象が必要ですが、私は社会運動をその対象として選び取ったわけです。(現実には、「あとがき」に書きましたように、「中範囲の理論」を作りたいと考えてから選んだのではなく、もともと関心があったのですが……。)なぜ社会運動かと言えば、やはり人間が単に社会によって作られるだけの存在ではなく、社会を作る存在でもあるという点を見ていきたかったからということになります。たったひとりの個人では社会をどう作っているのかなかなかわかりにくいのですが、社会運動なら、そのあたりはかなり明示的に見えるのです。社会学の根本的問いである「マクロ−ミクロ問題」を媒介するようなものとして、社会運動を考えることができるのではないかという思いも多少はありました。特に、社会運動の中でも、庶民の生活感覚から生じている住民運動におおいに関心を持ち、共感も持ち、研究してみたいと思うようになったのです。

 

 重要な社会現象としての運動について考えていくために、過去の運動に関する理論的研究をまず始めていきました。そこで学んだ様々な理論は、それぞれに魅力的ではありましたが、どれかひとつに全面的に依拠したいと思うには至りませんでした。特に、庶民の生活感覚から生じている運動の持つ「日常性」や「合理性」の部分がうまく捉えきれないのではないかという感じがずっとしていました。その時に、たまたま出会ったのが、マッカーシーとゾールドらの「資源動員論」でした。これは、理論というほどに体系的になっているものではありませんでしたが、運動の合理的側面が強調されていて、従来の理論では補いえない部分が含まれていると思いました。しかし、他方でこの理論−−というよりパ−スペクティヴ、あるいはアプローチといった方がいいと思いますが−−は、心理的要因を極端に軽視するといったバランスの悪さも持っていました。そこで、他の理論と融合することで、より総合的な分析枠組みが作れるのではないかと思い、自分なりにアレンジをした枠組みを構築していったのです。(これは、決して「創始者」的仕事ではありません。)その後、私と同じような観点から資源動員論を受け止める研究者が相次ぎ−−それだけ、常識的な発想だったということでしょう−−、特にマルクス主義の影響の弱いアメリカで、急速に普及したため、日本でも改めて注目されるようになったわけです。

 

 普及した資源動員論は、初期の頃の偏りを是正し、バランスの良い「運動の総合的理論」になっているわけですが、その分、資源動員論の特徴がどこにあるのか見えにくくなってしまったのも、また事実だと思います。しかし、私はそうした変化は決して悪いことだとは思いません。われわれ社会学者が大事にすべきなのは、理論の名称ではなく、理論の切れ味の方でしょう。他の理論とどこが違うかを綿々と語る作業にあまり意味があるとは思えません。実際の現象をどれだけ分析できるかが大事なのだと考えています。私は、世間的には、資源動員論者として位置づけられていますし、そう呼ばれて嫌なわけでもありませんが、実際に発表しているものから言えば、狭い資源動員論のイメージからは相当にはみだしているのではないかと思います。

 

 現実に運動について調べ始めたら、様々な視点が必要になってくるというのが実感です。日本社会の構造や場合によっては国際社会にまで視野を広げる必要がありますし、焦点を当てるものも、社会現象ばかりではなく、地理的条件や自然現象まで含めていかなければならない場合が多いのです。研究方法も、資料を集め、観察をし、話を聞き、アンケートを行いと多面的に展開する必要があります。社会運動に限らないのだと思いますが、総合的に研究するということは、そういうことではないでしょうか。それゆえ、私は、方法論的にはかなり無節操な方だろうと思います。そういうことではだめだという方もおられるかもしれませんが、私は自分が対象とした現実をより深く詳しく分析するためには、むしろこうした「方法論的自由主義」とでも呼べるようなものが大事なのではないかと考えています。

 

 しかし、単なる事例研究に留まらず、一般化まで志向するとなると、話は少し変わってきます。やはり理論化するためには、枝葉末節を切り捨てて、核の部分だけ抽出する必要があります。なんでもかでも入れようと思ったら、一般化は困難でしょう。私の本では、運動参加の理論を考える際に、そうした限定的方法を典型的な形で行っています。狭い資源動員論イメージの核をなす運動参加における資源要因の重要性を、そのイメージからは排除されていた心理的要因とを組み合わせることで、より説得的な運動参加の理論を構築し、それを実証してみようと試みたわけです。この理論に関しては、ある程度検証できたように思いますが、それもひとえに単純な理論を作ったからだと思います。現実分析は、嫌でも複雑にならざるをえないですが、理論はやはり単純でないと、実証が困難になると思います。

 

 私は、「中範囲の理論」を構築していきたいと考えているので、今述べたような理論観に行き着くわけですが、もちろん別の理論観もありうると思います。たとえば、現代という時代状況の中で社会運動がどのような意味を持つのか、大きな視野から位置づけるという社会運動理論もありうると思います。というより、量的にはこうした社会運動理論の方が私などのめざしている理論よりも多く、また影響力もはるかに強いと思います。私なども、個別の運動を位置づける時などには、そうした理論を意識して、あるいは無意識の内に参考にしています。私も将来的にはこうした理論化の方向も視野に入れなければならないと思いますが、当面はまだ手薄だということもありますので、実証可能な「社会運動の中範囲理論」作りに、もうしばらくこだわっていきたいと考えています。

 

 ただし、「中範囲の理論」というのは本来作ろうと思って作るというより、現実の運動について調べている中から、自然に生み出されてくるべきものだと思います。その意味で、現実に生じている運動について関心を持ち、研究を進めていくことが「中範囲の理論」構築にとっての王道だと思います。現在、私が関心を持って調べている運動や社会問題はいくつかありますが、これらを進めていくことによって、「マクロな政治過程における運動の役割」を一般化した形で捉えるモデルを作りたいと思っています。

 

 最後になりましたが、本書は、多くの先生方や諸先輩方のご指導・ご鞭撻があって、はじめてできたものです。とうていここでそのすべての方のお名前をあげることはできませんが、今私の頭の中にはたくさんのお顔が浮かんでいます。そのお一人お一人に心からの感謝の気持ちでいっぱいです。もちろん、本書は完結した終着点のような研究ではありません。というより、まだまだ未完成の途中の研究書といった方がよいだろうと思います。(タイトルも『社会運動の中範囲理論をめざして』ぐらいが適当だったろうという気は、今でもしています。)賞をいただいたからといって、私のこうした認識は変わりません。むしろ、気持ちを引き締めて、一層研究に邁進しなければならないという思いが増してきております。これからも、諸先生方や諸先輩に多くのご指導を受けながら、研究を続けていきたいと考えておりますので、何卒よろしくお願い申しあげます。

 

 以上つたない話ではありましたが、これで私の受賞の挨拶に代えさせていただきます。本当にありがとうございました。