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「レティシア」(映画エッセー集)


「戦場のメリー・クリスマス」Furyo

(1983年 日本)

〜フランスで見た戦メリ・フランスにおける吹き替え考〜



大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」は、フランスでは、何故かFURYOと題されていた。始めは「不良」のことかと思ったが、映画館の前のポスターをよく見ると、漢字で「浮虜」と書かれていた。どうしてよりスタンダードな日本語のHORYO、すなわち「捕虜」にしなかったのか一瞬疑問に思ったが、よく考えるとフランス人はHの文字を発音しない。従ってHORYOは当然「オリョ」となってしまうので、音声学的見地から同義語の「浮虜」(FURYO)が選ばれたのであろう。この映画のサブタイトルである "Merry Christmas Mr.Lawewnce"をすんなり採用しておけば、別に異和感を感じることもなかっただろうにと思いつつ、ビシー市の非常に小ぎれいな感じのティヴォリ劇場のSALLE2に腰をおろした。

主要な配役が素人であるためか、全体的に堅苦しい感じのする映画だが、唯一の盛り上がりであるヨノイとセリアズのキスシーンは衝撃的である。捕虜収容所におけるヨノイのあらゆる権威もセリアズの接吻によってもろくも崩壊し、失神という醜態をさらすに到る。ロレンス曰く「正しい者など誰もいない」 (Personne n'a raison)ような戦場の限界状況下における武器による威嚇にも増して恐ろしいものは人間の情欲(desir)なのである。このことがこの作品の主題となっている。

 

このFURYOに関してカイエ・デュ・シネマ誌のカンヌ映画祭特集号は、カラー写真入りで10ページにわたって解説している。ちなみに、グランプリを獲得した「樽山節考」は白黒写真4ページの扱いでしかない。さすがに鋭い指摘が多い。例えば、「この映画の表現方法は斜行している。これは大島特有のものだ。」とある。オランダ兵捕虜と韓国兵牢番との例のいきさつのシーンでは、捕虜の大部分が英国兵であるのに何故オランダ兵が取り扱われ、牢番のほとんどが日本兵であるのに何故韓国兵がわざわざ取り扱われているのか?

また、真のラストシーンは、立場が逆転したロレンスとハラの対話ではなく、苦痛にゆがむ膨れ上がったセリアズの顔にヨノイが秘かに近寄り、敬礼すると、あの衝撃のキスの後はもはや何も気にすることもなく、はばかることもなくナイフを片手に身をかがめると鮮血と思いきや、セリアズの髪を切りとって去って行くシーンであるという指摘は興味深い。

この「戦メリ」は日本で既に一度見ていたので、これが二度目であったわけだが、日本語で話されている部分はそのまま残して英語のセリフの部分はスッポリとフランス語に吹き換えられていた。もちろんフランス人によるアテレコとはいえ、デビッド・ボウイがフランス語で話すというのは奇妙な感じだった。よくよく聞いてみると、オリジナルで日本語と英語のセリフが入り乱れている場面において

は、日本語までがフランス人によって逆にアテレコしてあることに気付いた。すなわち、ヨノイがハラとロレンスの二人を前にして、彼らに交互に話しかけるような場面における日本語と英語が入り乱れたセリフの場合、英語の部分を抜き出してフランス語に直すのは至難の技であるため、日本語の部分も含めてアテレコされていたわけである。従って場合によっては坂本龍一の肉声が急にフランス人によるたどたどしい日本語に変わったりするのには少々面喰らってしまった。こうまでして英語をフランス語に置き換える位なら、いっそのこと全部字幕スーパーにしてしまえばいいようではあるが、ハリウッドの作品にしろ、その半分位までがフランス語吹き換え版で上映されている現状では当然といえば当然なのかもしれない。英語による外来語の氾濫、すなわちアングリシスムに対して、どのようにフランス語に置き換えて採用するかについて討議するというフランス人の並み並みな らぬ母国語愛が、この映画一つをとっても、強く感じられる気がした。

さて、この吹き換えによって日本では評判の良かったラスト・シーンにおけるハラのひと言は、

'Joyeux Noel Monsieur Lawrence.'

(ジュワイユー・ノエル,ムッシュー・ロランス)

となっていた。なるほど、これではサブ・タイトルをそのままタイトルにすることは不可能であったはずである。