
映画「トリュフォーの思春期」の舞台を訪ねて - Thiers - 1983.7.24.
ビシーから南へ延びるルートD906は、オーベルニュ地方独特の 絵画的な平原の真只中を通っている。私は1983年7月、ホームステイ 先の御主人の車に乗ってこの地方を旅した。途中に信号は一本もなく、 ノンストップでまさに爽快にビシーか�?40キロ程走ると、「ティエー ル・刃物工業五百年」という看板に続いて、山の傾斜にオレンジ色の 屋根がばらまかれた感じのティエールの街並みが眼前に広がり始める。 人口約一万八千の、このオーベルニュ地方の小都市は刃物の街とし て栄え、現在フランスの刃物の70%を生産している。街全体を覆う丘 陵の下部を静かに流れているデュロル川の水は元来刃物に焼きを入�? るのに適しており、15世紀頃から刃物の家内工業が盛んになった。 現在は近代的刃物工業が主流だが、昔さながらのアトリエで働いてい る職人もいる。 ティエール駅はこの起伏の激しい街の上部に位置し、市街を見降�? すような格好である。西に45キロ離れたクレルモン・フェランそして ビシーの双方から一日に数本しか列車の便はないが、この小じんま�? としたティエールの街の落ち着いた雰囲気に魅かれてか、訪れる人�? 少なくはない。 「トリュフォーの思春期」の舞台となった小学校や散髪屋はどこだ ろうと辺りを見回しながら、駅前の広場から中心街へ下っていくこと にした。勾配のきつい坂の各通りには、古い建物の昔そのままの姿が 残っているかと思えば、新しい住宅が決して街の伝統的雰囲気を乱す ことなく軒を並べている。コンシェット通りやブール通りには、14世 紀ないしは17世紀に建てられた家が中世の面影をそのまま残してい�? のが見受けられる。支庁舎前の広場は見晴らしが良く、谷間を岩肌で 切り立てた台地のような格好をしている。支庁舎の建物の正面に広�? をはさんで、市立図書館が立っている。かつて修道院だったこの建物 は、一階が図書館、二階がこの地方の名産品等の展示場として開放さ れている。 ブール通りを下ったところに位置するピルー館は、1410年にティエ ール領主ブルボン公ルイ2世が建てたもので、現在の建物は大幅に修 復されたものである。しかし、先の尖ったオレンジ色の屋根に木の�? 組みを浮彫りにしたクリーいろの壁面、建物の突き出た部分を二本の 太い柱で支えた独特の美しいスタイルは、今も変わらぬティエールの 顔である。ピルー館の広場からクトルり通り、つなわち刃物通りの名 前通りの細い坂道が下へと続いている。 刃物通りの名前通り、ここはかつて刃物の家内工業が最も盛んであ った場所であり、今も刃物職人のアトリエとして用いられているとこ ろもある。この通りを左に折れると、サン・ジュネ教会に出る。この 教会のドームはオーベルニュ地方で最大のもので、礼拝堂からその�? 側を見上げていると吸い込まれていきそうな感じがする。教会内部の 修復工事は1982年に終了し、ドームを支える石柱はかつての輝きをと り戻している。この工事中に、中心部か�?11世紀のキリストの荘厳な 壁画が発見されている。 果てしなく広がっていく平原の眺望が素晴らしいテラスから支庁舎 へと続くにぎやかなテラス通りには、刃物を商っている店がひしめき 合っている。はさみでも買おうと、一軒の刃物店をのぞいてみること にした。店に一歩足を踏み入れた途端、包丁、ナイフ、はさみ、缶切 り、キリ、フォーク、コルク抜き、栓抜き等のスティール、ステン�? スの製品が鋭い光を放ちながら店内一面にぎっしりと陳列されてい�? 光景に圧倒されてしまった。 手造りの名産品とあっては、はさみも大体50フラン以上で少々値が 張るなぁと思いながらふと見ると、割としゃれたはさみが29フランと いう手頃な値段がつけられている。まあ、これで妥協しておこうと思 った丁度その時、英語でマークが彫られているのに気づいた。不審に 思って店の老夫婦に聞いてみると、やはりそれはティエールで造ら�? たものではなく、外国製であることをしぶしぶ認める始末である。し かし、五百年の伝統を持つ刃物工業の街の目抜き通りに位置する刃物 屋で、わざわざ輸入した安物のはさみをもう少しで買わされそうにな るとは夢にも思わなかった。