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「レティシア」(映画エッセー集)


逆V字形の快楽  ―よみがえるフランス映画―

「ディーバ」DIVA (1981年 フランス  ジャン・ジャック・ベネックス監督)



(かつて、勤務していた大阪のある高校で、図書館だよりに掲載した文章をお届けします。 DIVAが大阪で、上映された頃の私の思い出です。)

 

      ● 逆V字形の快楽  −よみがえるフランス映画− 

 

 今、フランス映画が元気だ。

 

 「天井桟敷の人々」などの名作によって、戦前戦後の映画ファンの心を打ち、1950年代末、マル監督「死刑台のエレベ−タ−」やトリュフォ監督「大人は判ってくれない」に代表されるようなヌ−ヴェル・ヴァ−グ(新しい波)と呼ばれる作品で世界の注目を集めたフランス映画だったが、ルル−シュ監督「男と女」の1966年カンヌ映画祭グランプリの栄光を最後に1970年代に入って急速に衰弱してしまった。  

 

 私の学生時代は、まさにこのフランス映画の停滞期であった。

 

 大学2年の春にミッテラン大統領が来日し、これを記念して、某テレビ深夜番組がフランス映画の名作を数夜連続で放映した。この時偶然見たのが、戦前の名作フェデ−監督「外人部隊」だった。 

 

 フランソワ−ズ・ロゼ−が若い兵士の運勢を占うと、不吉なカ−ドをひいてしまうという悲劇的ラスト・シ−ンは、それまで映画と言えばハッピ−エンドに慣れ親しんできた私にとって、非常に新鮮に感じられた。 幸福の絶頂が半ばで描かれ、最後に悲劇的結末が用意してあるのは、言わばVの字を逆さにしたような形だ。 こうして、情緒的で、「逆V字形」をした作品の多いフランス映画というジャンルのファンになってしまった。 

 

 しかし、それは同時に思いがけない苦労を背負うことでもあった。

 

 当時、フランス映画の新作が上映されるのも、大阪では、ソフィ・マルソ−主演の作品などを中心に、年に数本しかなかった。 現在はフランス映画上映源として、関西でも定着しているミニ・シアタ−もなく、レンタル・ヴィデオ店もまだなかった。新作が来ないなら、代わりに往年の名作を見ようとすると、細々とした自主上映会に足を運ばねばならなかった。 

 この頃は、Lマガジンを買うと、真っ先に(仏)マ−ク探しをしていた。 フランス作品を示す(仏)マ−クを探すことは、当時の懸賞にあった鬼さんマ−ク探しよりもはるかに至難の業であった。 せっかく発見しても、駅から遠く離れた場所での、超小規模な自主上映会であることが多かった。

 実際、「天井桟敷の人々」は、神戸のとある百貨店の上映室で、「死刑台のエレベ−タ−」は南森町の小さなビルの一室で、「大人は判ってくれない」はカウンタ−10席ほどのバ−のミニスクリ−ンで、それぞれ初めて見た。 「男と女」が深夜テレビで放映された時は、当時まだヴィデオデッキを持っていなかったので、コ−ヒ−をたくさん飲んで張り切って見始めたのだが、主人公がモナコから高速道路を飛ばしてパリに到着する前に力尽きて、途中で眠ってしまった。

 

 1984年の6月に、評判の新作「ディ−バ」が、大阪で上映されることになった。ある雑誌の試写会にはずれたので、前売り券を2枚買った。 久々のフランス映画の新作、しかも話題の新人ベネックス監督のデビュ−作品ということで、2回は見に行くつもりだったのだが。 

 ところが、封切り日が、私の教育実習と重なってしまった。 教育実習中は、思いのほか忙しく、梅田まで駆けつける気力が残っていなかった。 教育実習が終わった翌日、「ディ−バ」を見るために意気揚々と3番街シネマの前に到着した時、愕然とした。 看板が替わっているのだ。 現在では、想像もつかないが、「ディ−バ」のような話題作でも、当時は、フランス映画であれば、上映期間は、教育実習と同じ2週間程度だったのだ。 後で、はずれた試写会の抽選は、弟のアルバイト先で行われ、弟に事前に頼んでおけば招待ハガキの1枚くらい簡単に手に入ったと知り、二重に落胆した。 そういうわけで、その半年ほど後、三越劇場でやっと、「ディ−バ」を見ることができた。

 

 「ディ−バ」は、期待していた通り、フランス映画の新しい時代を予感させる作品だった。 

 

 ディ−バ(女神)と呼ばれるソプラノ歌手の熱狂的ファンである若き郵便配達夫ジュ−ルは、ある夜、シンシアのライブをひそかに録音する。 シンシアはその美声を録音することも、レコ−ドにすることも認めていなかった。 この貴重な録音テ−プとは別に、犯罪組織の内幕を暴露したテ−プが本人の知らぬ間にジュ−ルの手元に渡る。 シンシアのライブ・テ−プを入手しようとする台湾系レコ−ド業者と犯罪組織の殺し屋の両方から、ジュ−ルは追いつめられていく。

 

ロフト風の部屋で、シンシアのテ−プを恍惚と聴きいるジュ−ル。 パリの街・縦横無尽に走り回るジュ−ルのモビレット。 パンク・ファッションの殺し屋。ジュ−ルを救うベトナム系の少女アルバと神秘的な一室で瞑想にふける謎の男ゴロディッシュ。 クラシック音楽と軽快な現代音楽。 ディ−バ(女神)たるシンシアとジュ−ルの夜明けの散歩。

 

 新人監督ベネックスの斬新な視点によって、様々な要素がクロスオ−バ−したこの作品は、停滞期にあったフランス映画の殻を打ち破った。

 

 「ディ−バ」以後、フランスでは、続々と新しい感覚の作品が発表されていく。その中心的存在が、ベネックス(「ベティ・ブル−」)、ベッソン(「グラン・ブル−」)、カラックス(「ポン・ヌフの恋人」)の新鋭監督3人だ。

 

 活力を取り戻したフランス映画を受け入れる我が街大阪の状況も、長足の進歩を遂げた。 大劇場では扱いにくいフランス映画を積極的に上映するミニ・シアタ−の誕生。 ロメ−ル監督など、それまで知られることのなかった監督の作品の紹介。1988年のフランス映画祭の開催。 旧作の鑑賞源としてのレンタル・ヴィデオの定着。 「CINEMAだいすき」など深夜テレビの映画番組の充実。 などなど。

 

 こうして、「ディ−バ」以降、1980年代後半より、つまり私が社会人となって、フランス映画はよみがえり、現在に至る。(おわり)

 

(「来ブラリ」第56号,1993年7午20日,大阪府立摂津高等学校図書視聴覚部)


(DIVAに関する追記集)

 

今、ミニシアタ−にレンタルビデオと、見たいときにいつでもフランス映画が見れる状況にありながら、日常生活に没して、積極的に見ていない自分は、見たくても見れない状況で苦労していたあの頃の自分を裏切っているようです。 10年の歳月を感じます。

 

(1994.10.12. Katsuyuki Kamei)


とにかく、DIVAから10年経ちましたね。   

 

雨のチュイルリ公園で、ジュ−ルがシンシアの肩に手をそっと置くシ−ン。 見てはいけないものを見てしまったようなヒヤッとした感覚。 アルバがいいですね。犬を連れたアコ−ディオンのおじさんも妙に印象的。 J'aime pas les bagnoles.のお兄さんもこの映画には必要不可欠のような気がします。 

 

東京では正月映画だったこの映画大阪では半年遅れの6月封切りでした。 で、上記の拙い文章の中で書いたように、それを見逃した私は、さらに半年遅れで年末にやっと見れたのです。 (嘆きの関西人)

 

相変わらず筋を追ったり、登場人物に感情移入しながら、映画を観ている私は、なかなか映像に焦点を置く域には達しません。 字幕に目が集中してしまいます。

 

ただ、私は、「ひろがり(etendue)」のある場面が好きです。  したがって、俯瞰シ−ンや鳥瞰シ−ンやロングショットが出てくるとなんとなく心地よい気分になります。 ディ−バでいうと、モビレットで夜のパリを駆け回るシ−ン、灯台の 出てくるシ−ン、ジュ−ルとシンシアが凱旋門のそばを歩くシ−ン、 そして何よりも劇場でシンシアが歌うシ−ン。 

一度、字幕を観ずに、映像だけを追ってみようかな。

 

(1994.10.12. Katsuyuki Kamei)