第14章 南仏プロバンス・街角の経営者

 

 本章は,南フランスのプロバンス地方で実施した中小企業の経営者らに対するインタビューに基づいた事例研究である。インタビューは,@起業におけるリスクテーキング(「起業のきっかけ」)ならびに,サービスを考える場合に重要な顧客との交流に関わるA経営理念(「ビジネスのどのような点が興味深いか」)という観点から実施した。本章においては,第1節は講演録,第2節はエッセーの形式で記述する。

 

キーワード:起業危機管理 Servuction(サービスの生産) 顧客とのコンタクト コンセプト・経営理念 情熱 観光マーケティング ビジネス・チャンス 中小企業経営者の心構え 投機的リスク イノヴェーション 環境保護 農業振興 


第1節 講演録「南仏プロバンスの12人の経営者」

 

19981014日 

関西大学 経済・政治研究所 第117回公開講座「南仏プロバンスの12人の経営者」より

 

1.ピーター・メイル『南仏プロバンスの12か月』

英国人のピーター・メイルが書いた『南仏プロバンスの12か月』という本があります。風光明媚な南仏プロバンス地方は,もともとフランス人のみならず,世界中の人たちの好みの場所でした。そして,この本が一気にプロバンス・ブームの火を付けたと言われています。

 広告代理店勤務のピーター・メイルはロンドンで暮らしていました。しかし来る日も来る日も天気が悪く,南仏プロバンス地方にあるリュベロンという山岳地帯で毎年夏のバカンスを過ごしているうちに,いっそのことここで暮らしてみたくなって,一大決心の末,リュベロン地方のメネルブという村に移り住みました。最初は出版社の要請で何か小説でも書こうと思って生活を始めました。ところが冬になって,暖房1つ修理するのにも,なかなか南仏の人はのんびりしていて,頼んでもなかなかものごとが進まない。さらに隣人に夕食に招待されると,ちょっとイギリスでは考えられないぐらいの量が出てきてまたびっくりした。いろいろな周辺の人たちの生活を見ているうちに,「よし,小説はなかなかはかどらないから,この生活風景を書いてみよう」と書いた本がこれです。

 この本の中では,「フランスが断じて世界一の座を明け渡そうとしない二つの分野,官僚主義と美食信仰(ピーター・メイル『南仏プロバンスの12か月』31頁),「ノルマルマンはフランス語で「通常は,普通なら」といった程度の意味でしかないが,これは保険契約の免責条項にも匹敵する実に便利な万能の逃げ口上なのである」(同64頁)など,風光明媚で美食の土地での生活を満喫しながらも,「ノルマルマン=普通なら,もう届くんですが(まだ届いていません)」「ノルマルマン=通常なら,もう出来上がっているんですが(この場合はもう少し時間がかかりそうです)」などと言われて,なかなか物事が進まないもどかしさに振り回される様子が描かれています。

 この本は,アメリカや英国,さらには翻訳されて日本でベストセラーになりました。アメリカあたりからこの本を片手に,プロバンスのリュベロン地方に観光客が押しかけるようになったという本です。ピーター・メイル氏は,のんびりした風光明美な地方での生活を満喫してこの本を書いたのですが,これがベストセラーになったせいで,アメリカや日本から観光客が,自分の家にまで押しかけるようになりました。さらにはこの本の中に取り上げられた隣人たちから文句を言われたりというようなことがあって,結局,この南仏プロバンスのリュベロン地方を去ることになりました。そしてイタリアやアメリカで生活していたのですが,やはりプロバンスが好きということで,またプロバンス地方に戻ってきたそうです。

 

2.南仏プロバンス地方の地理・歴史・名物

プロバンス地方といいますと,マルセイユ,エクス・アン・プロバンス,アヴィニョン,アルル,そしてリュベロン地域,この辺りを限定してプロバンス地方とよぶ場合があります。しかしさらに広く,カンヌ,ニースなどのコート・ダジュール地方も含めてプロバンスとよぶ場合もあります。かつて私たちの大先輩がフランスに行くときは,30日間船に乗ってマルセイユに着きました。このマルセイユという港町は,プロバンス地方最大の都市ですが,さらにその北側にはエクス・アン・プロバンスという,プロバンス地方のかつての都で画家のセザンヌにゆかりの街があります。アヴィニョンという街は,14世紀,ローマ教皇が一時期そこに居を構えたことと,「アヴィニョンの橋の上で」の童謡で知られます。ニームという街があります。デニムのジーパンと言いますが,デニムのニムはニームという街のことで,ニーム産の生地という意味です。ローヌ川のたもとにあるアルルという街は「アルルの女」と曲や,ゴッホという画家が滞在したことで知られます。コート・ダジュール側にはトゥーロンという軍港があります。このような都市を擁する地方です。

 歴史的には,紀元前の600年ごろに,ギリシアの移民によりマルセイユが建設されました。そして紀元前後には古代ローマが進軍してきて,ローマ文化を取り入れた街,例えばアルル,オランジュ,ニームなどが栄えました。5世紀から10世紀にかけては東方民族の侵入により,暗黒時代的な時代が続きましたが,11世紀ごろから修道院や教会が建ち始め,14世紀にはローマ教皇をアビニョンに迎えたり,再び繁栄の時期を迎えます。15世紀には,善王ルネがエクス・アン・プロバンスを首府としてプロバンス地方を治めて,芸術や文化の華やかな時代を迎えます。しかしこの善王ルネが亡くなりますと,プロバンスは独立を失いフランスに併合され,そしてフランスと運命を共にして,ルイ王朝やフランス革命を経験することになります。時が流れて19世紀になると,多くの芸術家がこの風光明媚な地方を好んで訪れて,ヨーロッパ中にプロバンス地方の魅力が伝わりました。

一方で,化学工業などによる近代化を目指しました。現在では伝統的な農業のみならず,航空,化学,貿易,そしてやはり観光が貴重な経済基盤となっている地方です。風光明媚で非常に暮らしやすいというか,生き生きと暮らせる地方ですから,例えばニース近郊にあるソフィア・アンティポリス(Sofia Antipolis)には,いろいろなハイテク企業や研究所が集まっています。ヨーロッパのシリコンバレーとも呼ばれています。ここでは,優秀な研究者に過ごしてもらうために,「この地方は魅力的ですよ」ということをアピールしています。

こんなプロバンス地方の名物を少し紹介しておきます。@プロバンス地方のシンボルマークは「セミ」です。A「プロバンス・プリント」は緑,赤,青などを中心にした色鮮やかで花柄模様が中心のプリント生地で,有名なブランドにタラスコンという街に本拠のあるソレイアードがあります。B「パスティス」は,アニスやウイキョーなどの香草から作られるお酒で,プロバンス語で「混ぜ物」を意味します。アルコール度は40〜50度で水に割って飲みます。食前酒の定番で「リカール」や「ペルノー」などの銘柄があります。Cプロバンス地方のワインは「コート・デュ・ローニュ」や「プロバンス」ワインが中心です。Dプロバンス料理に欠かせないのが「ニンニク」,「オリーブ油」そして各種「ハーブ」です。E「塩漬けオリーブ」など,オリーブは,いろいろな形でプロバンス料理に用いられます。Fエクス・アン・プロバンスの街の名物は,プロバンス地方名産のアーモンドのペーストに卵白と砂糖をのせた「カリソン」というお菓子です。G世界3大珍味で「黒いダイヤモンド」と呼ばれる「トリュフ」が栽培されます。Hフランスにおける国民的競技「ペタンク」という鉄球投げゲームの発祥の地方であり,中高年男性を中心にとても盛んに行われています。I色とりどりの花が咲きますが,7月には「ラベンダー」が満開となります。J「ミストラル」と呼ばれる強風がときおり吹き荒れます。プロバンス語で「風の親方」を意味します。K12月になると「サントン」と呼ばれる人形の市が立ちます。これは,クリスマスの季節に家庭で「クレーシュ」と呼ばれるキリスト誕生の情景模型を飾るのに用いられます。「サントン」はプロバンス語で「小さな人形」を意味します。

 

2.インタビューの柱@:起業危機管理

 私は,1997年から1998年にかけて,この南仏プロバンス地方のかつての都,エクス・アン・プロバンスの郊外のプュイリカール村にあるエクス・マルセイユ第三大学・経営学研究所(IAE dAix-en-Provence)に,フランス政府の給費留学生として留学させていただきました。既に大学教員として就職しておりましたので,客員研究員として滞在することもできたのですが,あえて,DEA課程に一大学院生として在籍するというリスクをとりました。自分より一回り若い学生さんたちと机を並べて講義を受けたりゼミに参加したり,下手なフランス語でプレゼンテーションを行ったり,レポートを仕上げるのは大変でしたが,経営学の研究者としての幅を大きく広げることができたように思います。

留学時の授業の一つに,フィールドワーク実習というものがありました。その課題は,経営者にインタビューして,それをまとめプレゼンテーションを行うというものでした。この実習での取り組みがきっかけとなって,その後も,南仏プロバンス地方の街角で,さまざまな個人事業主の話を聴く機会がありました。これからその話をします。

 2本の柱を,インタビューをするときに念頭に置きました。まず1本目の柱は,起業危機管理です。つまり起業リスクということを考えました。交通事故を起こせば損害を被るだけですから,これは純粋リスク(loss only risk)です。それに対して投機的リスク(loss or gain risk)という場合は,損害を被るかもしれないし,利益を得るかもしれないということです。ですから新しく事業を起こすということは,それが大成功を収めるかもしれないし,失敗に終わるかもしれないという不確実性に挑むことです。これは文字どおり,投機的なリスクで,一般に「リスクをとる」という場合のリスクです。

 さて起業リスクは,独立起業リスク,創業のリスクという事になります。独立起業家のリスクは,創業のリスクということになります。その独立起業家と申しますと,独創性を発揮し,起業リスクに挑戦しようとする創業者,簡単に言いますと「よし,やってやるぞ」という高いロマンと事業意欲に燃えて,ロスになるかゲインになるかどうかわからないというリスクを取ってやろうという創業者です。独立起業家に要求される能力,逆に言いますと起業リスクをマネジメントするのに必要な能力とは先見力と判断力,直感力,すなわち環境を見きわめる力です。それから,ぐずぐずしていますとビジネスチャンスを逃してしまいますから,「これはいける」という直感的な能力が要求されます。こういった能力をを,我々リスクマネジメント研究者の間では「リスク感性」と呼んでいます。ビジネスリスクについて先見力と判断力を持って,直感的に「よし,いこう」「やめておいた方がいいだろう」,あるいは「時期は来た」といったことを的確に判断できるような能力,これが「リスク感性」です。失敗する企業の経営者には,やはりそのリスク感性の鈍りといったものが感じられると思います。

 

3.インタビューの柱A:サービス・マーケティング・Survuction(サービスの生産)

 さて2本目の柱はServuctionです。これはサービス・マーケティング研究の大家で,私の通いましたエクス・マルセイユ第三大学・経営学研究所のエグリエ教授らの考え方です。フランス語ではセルヴュクシオンと読みます。サービスにプロダクションをプラスした言葉です。サービスも工場で車を作るのと同じように生産するものであるから,生産管理と同じように,サービスを生み出すことをしっかり管理してみようという考え方です。つまり「サービス」と言いましても,サービス業自体の問題と,製造業が物を作って売るときに付随するサービス,つまり製品とサービスの組み合わせという場合と,2通りがあります。サービス業の提供するサービスであろうが,製造業で製品を売るときに付随するサービスであろうが,それを「サービスの生産」という観点からとらえてみようという発想です。これはマルセイユにお住みのフランスのマーケティング学者が述べていますので,特に今日の講座の内容の縦軸にするのにふさわしいと思います。

 Servuction(サービスの生産)においては,まず接客者(person in contact)が非常に大事です。つまり顧客と接する業務の重要性です。これが製造業とサービス業との決定的な違いです。つまりポイントは「人」ということです。これからお話するのはサービス業の個人事業主が多いのですが,Servuctionの理論でいうところの「人と接する」「人とのコンタクト」をどのように考えているかに着目してみました。

 さてServuctionと起業を考えるときに,4つのポイントが重要になります。まずコンセプトです。いったいどういうサービスを消費者に提供しようとするのか,これを特に明確にしなければならないとServuctionの研究者は主張しています。どういうサービスをするのかというコンセプトをきっちりと決めたら,次にセグメントです。セグメントとは消費者を細かく細分化した,その一つ一つの区分ですが,いったいだれを対象とするのかということです。ですからコンセプトが不明確であったり,対象が不明確であったりすると,Servuction,サービスの提供・生産はうまくいかないという発想です。例えば高級ホテルを目指しているホテルで,中のレストランが大衆的なレストランであったりすると,セグメントとして高級ホテルを選んだ消費者たちが来たときに,やはり「なんだこれは」と,不満が出てくるわけです。それからイメージです。これもコンセプトと直結しています。どのようなサービスをするのかを明確にして,そのイメージとして浸透させていくわけです。コンセプト,セグメント,イメージということで,そのような理念に基づいてシステムが出来上がっていきます。

 

4.インタビューにおける質問

 さて,起業危機管理という横糸と,Servuctionという縦糸ということで,南仏で出会った経営者たちにインタビューしてみました。起業リスクについては,この事業を起こそうと思った具体的な動機を質問しました。具体的に,「なぜ,このビジネスを始められたのか」と質問しました。また同時に軌道に乗った事業についても,リスクマネジメントの観点から,「現状で直面する問題点は何ですか」という質問をすることもありました。

さてもう1つの軸,Servuctionに関してはコンセプトについて質問してみることにしました。これは,サービス業を中心とする中小企業の経営者ですから,さらにやりがい,生きがいといった経営理念という風に解釈できると考えて,最終的には,「ビジネスのどのようなところが魅力的ですか」あるいは「あなたのお仕事のどのようなところが興味深いですか」「どのようなところがおもしろいですか」というような質問をしました。この2本を軸に質問をしました。

 ではプロバンスの四季の話を交えながら,南仏プロバンスの経営者たちのお話をさせていただきます。

 

5.情熱,人柄,そして戦略

 「この土地の抜けるように青い空と眩しいほどの明るい日差しが,私たちの気持ちの中ではなかなか1月1日という日付と結びつかない」(ピーター・メイル『南仏プロバンスの12か月』6頁)

 プロバンスの冬は,時折,ミストラルと呼ばれるフランス中部山岳地帯のマシフ・サントラルからローヌ川の谷間を抜けて吹き下ろす強風が吹き荒れて,気温が急降下することがありますが,フランス北部やパリと比較すると,寒すぎることなく過ごしやすくなっています。

 エクス・アン・プロバンスの北10キロのところにピュイリカールという村があります。この村にある私の留学先の学校に通っていた頃,プジョー406を借りて乗っていました。車自体は素晴らしいのですが,私の運転が悪くて,何度もあちこち壊してしまったものですから,この村にあるプジョーのGarage Du Stade(ガラージュ・デュ・スタッド)という代理店・修理工場によくお世話になりました。まず最初は,そこのプジョーの代理店です。最初は単なる「車が壊れたから直してください」というような接し方だったのですが,だんだん今まで経験してきた自動車修理工場の雰囲気とはちょっと違うなと思いました。何か和やかな雰囲気を感じざるをえなかったのです。経営者のジャン・フィリップ・アンドレ氏は,このビジネスを始めて10年になります。アンドレ氏は当初,電気関係のディプロムを取って,電気会社の方に就職しようと思っていたのですが,なかなかうまくいかず,結局,自動車修理工場を始めました。

 このGarage Du Stadeの店はロータリーの一角にあります。ロータリーの反対側の一角には,競技場があり,ガラージュ・デュ・スタッド(直訳すると「競技場の修理工場」)という名前はそこから取られています。プジョーの代理店としては小さな代理店,しかも小さな村での代理店ですが,販売代理店としては南フランスで10本の指に入る営業成績を上げています。つまり,何かこの修理工場は居心地がいいなと思ったあたりがこの実績に反映されているということだったのです。ロータリーの一角に店を構えているわけですが,実はアンドレ氏の小さいころからの思いが,地理的な選択に表れているのです。と申しますのも,アンドレ氏の両親は,今をさること30年ぐらい前にこの辺り全体のかなり大きな土地を購入しました。アンドレ氏は,両親がたくさん土地を持っているその中でも,このロータリーの近くでは何かビジネスをやったらもうかるぞ,成功するぞということを,小さいころから思っていました。

 最初は独立で自動車修理工場をしていたのですが,それではなかなかうまくいかなくて,ドイツの自動車メーカーのフォルクス・ワーゲンの代理店になることを目指したそうですが,フォルクス・ワーゲンの方から断りが入ってうまくいきませんでした。次にアメリカのフォードがスカウトにきましたが,フォードからは「カタログ販売をしてくれ」,つまり「モデルを置いてもらうわけにはいかない」というような要求があって,それではやっていけないので,フォードの誘いにはアンドレ氏の方から断ったそうです。そうこうしているうちに,このピュイリカールという小さな村で,そこそこ成功している修理工場のうわさを聞いたプジョーがスカウトにきて,話がまとまってプジョーの代理店になったということです。

 「顧客との最高の思い出はなんですか,ご披露いただけませんか」という質問をしました。プジョーのライバルメーカーにルノーがありますが,あるときルノーに乗った女性が,このロータリーの近くでかなりひどい事故を起こしました。そしてこの女性は次に乗り換えるのだったら青色のルノー・ツインゴが欲しいと,もうすでに頭の中で決めていたそうです。車の買い換えを考えていたのが原因かどうかわかりませんが,事故を起こして車が大破してしまいました。それで困って右往左往しているところに, Garage Du Stadeのアンドレ氏が助けにきてくれた。もちろん人が危機的状況に陥っているわけですから,ライバルメーカーの車に乗っていようが,そのようなことは一切かかわりなく,非常に親切に接したそうです。これにいたく感激したこの女性は,そのアンドレ氏の店に,プジョーの106という小型車がたまたま展示されていて,その青い色が自分がイメージしていたルノーのツインゴの青と一致するということで,その場で購入を決めたそうです。30キロ南にあるマルセイユからご主人が心配して駆け付けて,「車はそのように買うものではない」とおっしゃったそうですが,「いや,この店は非常に親切だ。だから私はこれに決めたからこれを買う」ということで,その場で契約までしてしまったということです。その後も30キロ南のマルセイユからわざわざピュイリカールのガレージまで2回ほど定期点検に来たそうです。このように車を売ったことがなかったから,これが最高の思い出だとおっしゃっていました。では最高の思い出がこれだとしたら,困難なところはと質問しますと,やはり競争が激化しているせいもあって,最近の消費者は値引きに非常にうるさくて,やりにくくなったということです。

 アンドレ氏にインタビューしての結論です。結局,自動車修理工場へ行くと,何か気難しい修理工が出てきて,緊張することが多いような気がします。しかしこのプジョーの代理店では,アンドレ氏の万年少年のような顔つきもあって,みんなが非常に和やかな雰囲気で接してくれます。それからお母さんが受付におられるのですが,そのお母さんから醸し出される雰囲気も非常に良く,結局非常にアットホームな雰囲気が醸し出されています。つまり人柄です。それからこの地理的条件,これが成功の要因なのかなと思いました。

 さてGarage Du Stadeという名前の頭文字GDSPを用いてまとめてみましょう。Gは地理的条件,GéographieのG。DはDétente,緊張の緩和のD。そしてさらに,SはStratégie,戦略です。広告を打つときに,駐車場のプジョーの車のワイパーに一つ一つ入れていったりする。あるいは郵便受けに勝手に入れるのではなくて,一軒一軒丁寧に回ったりとか,そのような非常にきめの細かい広告戦略をしたそうです。それからPはPassion,情熱です。「新車を売って,古い車を修理する」,つまり新車が発売されると,その新車もやがて古くなって修理の依頼が多くなってきます。するとそのときに新しいメカニックに接することができて,それに非常に情熱を感じる,メカニックに情熱を感じるというようなお話をされていました。ですから彼に,仕事のどこがおもしろいですかと質問をしましたところ,やはりメカニックがおもしろい。新しい車を売りながら古い車を直していく,それが非常におもしろいのだとおっしゃってくれました。

 

(写真 プジョー アンドレ氏)


6.観光マーケティング −映画と国民的競技のゆりかご−

 続いて経営者の話ではありませんが,コート・ダジュール地方の各地方は,観光マーケティングを必死になってしているようなところがあります。放っておいても人が来るような風光明媚な地方ですが,若干知名度の低い街は観光マーケティング,つまり特色づくりに一生懸命に取り組んでいます。

イタリア国境に近いマントンという街は,ジャン・コクトーという詩人がこよなく愛した所です。ここはイタリア国境に近いこともあって,非常に暖かく,柑橘類の栽培が盛んです。そこで毎年2月から3月のはじめにかけて「レモン祭り」が開催されます。各コミューン,各村落で栽培したレモンやオレンジを出し合って,その年のレモン祭り委員会が決定したテーマに沿って,レモンやオレンジでモニュメントを作るというようなお祭りです。ですから札幌の雪祭りを,雪の代わりにオレンジやレモンでやったようなお祭りです。

 1998年のテーマは「タンタンの冒険」でした。タンタンは,ベルギーやフランスで人気のある漫画ですが,タンタンに出てくる名場面をオレンジやレモンで再現するという催しでした。開催期間が2週間ですので,途中でレモンやオレンジが腐ってきます。丁寧にカビの生えたものを新しいものを入れ替えるというようなことがなされています。なお,同じ時期にマントンからそう遠くないニースでは,世界的の有名なニースのカーニバルが開催されます。この時期,コート・ダジュールではミモザの花が満開となります。

 マントンも比較的有名ですが,日本では観光ガイドにあまり載っていない街の話をしておきましょう。ラ・シオタという街はマルセイユの東側,トゥーロンとマルセイユの間あたりにあるまちです。このラ・シオタは,観光マーケティングという発想で言うなれば,「映画の揺りかご」というような呼び方で「特色づくり」をしているというところがあるかと思います。このシオタの街で,リュミエール兄弟がまず「シオタ駅の到着」という,ラ・シオタの駅に列車が到着する場面から成る映画に撮影して,それをパリで上映しました。そこで歴史では,パリの上映会が映画の発祥というようによばれているわけです。実はリュミエール兄弟はその映画を撮影したラ・シオタの街の別荘で,友達,内輪だけで上映会を行っているのです。この史実に着目したシオタの人たちは「映画の揺りかご」というように自分たちの街の宣伝をして,映画館にはリュミエール兄弟が世界で最初の映画を撮影したシオタ駅のようなかたちをあしらい,そこにリュミエール兄弟の写真をはめ込んで映画館を造って,「映画の揺りかご」という街にふさわしい状況にしています。シオタはさらに,戦前にミッシェル・シモンというフランス映画の名優がいましたが,彼が実はラ・シオタという街に長らく住んでいましたので,これも「映画の揺りかご」という街づくりの宣伝に利用しています。「ミッシェル・シモンの街」というようにも呼んでいるようです。

 このラ・シオタは何気ないまちですが,あともう1つ,忘れてはならないことがあります。フランスは,1998年のサッカーのワールドカップに優勝するなど,スポーツが盛んな国です。一般の人たち,特に男性にとっては,ペタンクとよばれる鉄のボールを投げる競技が国民的スポーツのようになっています。南仏の夕暮れ時,あちこちの街や村の広場でペタンクをしている人たちの姿を見かけます。両足をそろえるというのがペタンクの語源です。鉄球を投げて,的に近く寄せた人が勝ちというような一見単純なゲームです。もともと南フランスに伝統的にあるゲームだったのですが,現在フランス中で行われているようなルールになったのは,このラ・シオタという街で1910年に行われたのが最初だといわれています。日本にもペタンクは普及しています。ラ・シオタはこのペタンクの発祥の地でもあるわけです。このような特色も,観光上のマーケティングに活用しているということでした。

 

(写真 映画のゆりかご)


7.国道7号線の洗車ビジネス −フランス人は車を磨くか−

 春のプロバンス地方では,まずアーモンドのピンク色の花が咲きます。やがて,ひなげし(コクリコ)の赤い花が咲き,野山は色とりどりの花でおおわれ,とても華やかな季節となります。本格的な観光シーズンが到来となります。

 エクス・アン・プロバンスという街は,かつてのプロバンス地方の都で,15世紀に善王ルネが治めて,「芸術の街」,「水の街」と呼ばれるようになりました。これはロトンドという街の中心地の大きなロータリーの真ん中にも噴水がありますが,街の至るところに噴水があります。ご当地出身の画家セザンヌは,この街の近くにあるサント・ビクトワール山の風景を好んで描きました。

この街について,ピーター・メイルは,『南仏プロバンスの12か月』の中で次のように書いています。

「忙しくていろいろなところを訪ね歩くことはできなかった私たちですが,ただ1か所だけ,プロバンスの山の家に根を下ろした私たちが何度でも喜んで出かける場所がある。私たちの大好きなエクス・アン・プロバンスである。国道7号線はフランスで最も美しい景観を誇る目抜き通りのはずれで,エクス・アン・プロバンスのまちの中に入る」。「エクスは大学の街と知られているが,学校のカリキュラムには何やら特にかわいらしい女子学生を引き付けるものがあるに違いない」。「ドゥー・ギャルソンというカフェのテラスは,いつも女子大生たちでいっぱいである」。

目抜き通りクール・ミラボーの突き当たりに善王ルネの像があります。善王ルネはプロバンス地方にマスカット葡萄を伝えました。したがって,彼の銅像ではマスカットを持っている姿が彫られています。

 このエクス・アン・プロバンスという街で,3人の個人事業主に会いました。ピーター・メイルは,ご自身が住んでいたリュベロン地方のメネルブ村からエクス・アン・プロバンスに下りていくときに,7号線という国道を通るわけですが,かつて高速道路がなかったときは,パリの人たちはバカンスで南仏に行くときにこの道を通らざるをえなかったわけです。今は高速道路もあるのですが,こういう国道をフランス人が通るときには非常にスピードを出すので,交通事故が毎年多いという所になっています。

 ピーター・メイルは次のように書いています。

 「道はやがてリュベロンの南斜面を下って,連日連夜アマチュアがグランプリ・レースを展開する国道7号線に出る。毎年この国道で起こる死亡事故の件数を考えると,合流のきっかけを待つ間も心安らかにはいられない。」(147頁)

 「フランス人は車を磨くか」ということで,一般に日本と違うところは,日本ですと,学生が親に買ってもらったぴかぴかの新車に乗っているというようなケースがあります。このようなことはフランスでは絶対考えられないように思います。若者,学生は中古車に乗る。それからいったん買った車は長く乗るというような人たちが多いようです。車はもう「足」というように割り切っていますから,磨いたりするというのはあまり見かけなかった光景です。ところがこのエクス・アン・プロバンスの近くにある国道7号線沿いで,洗車屋を発見して「これはおもしろいな」と思いました。自分自身も車を洗うのに使った関係でインタビューさせていただきました。国道7号線沿いの洗車屋,LAVAGE AUTOという店です。

 ここの女性経営者は,かつてご主人とエクス・アン・プロバンスの中心地で不動産業をしていました。ところが,南仏プロバンス地方は,先程申しましたように人気が出てきて,北アフリカの方の富豪などが土地をどんどん買って不動産の相場が高騰し,市場が混乱してしまいました。そういった状況に嫌気がさして,あるいはビジネスの限界などを感じて,結局不動産業を辞めてしまったそうです。そして6年間,いろいろな仕事をして,結局うまくいかなかったわけですが,ある日知り合いに「国道7号線沿いに土地を持っているのだが,何かに利用しないか」と話を持ちかけられました。そしてふと考えました。「最近フランス人もスイス人のように車を磨いているな」と。さらに具体的なマーケティング調査,市場調査をして,国道7号線のあの辺りは1日1万7000台,車が通ることがわかりました。「よし,それでは洗車屋にしてみようか」ということで,洗車屋を開業したそうです。

「お仕事のどのようなところがおもしろいですか」という質問をさせてもらったところ,やはり「いろいろな人たちとの交流が非常におもしろいし,この点に満足している」ということでした。

 

8.ノンストップ営業 −フランス人の昼休み−

 ヨーロッパの街を歩きますと,困ることがあります。個人商店が特にそうですが,お昼時に店やオフィスが閉まってしまいます。例えばスーパーマーケットでも大型のスーパーマーケットではなくて,コンビニエンスストア規模のスーパーマーケットは,店が朝の8時から12時半まで,そのあとは夕方の4時からというかたちで,非常にたっぷりと昼休みを取ります。そのほかの店でも昼の12時から,あるいは昼の12時半から2時までとかいうようなかたちで,昼に2時間ぐらい休みを取ることが多いです。

ところが,これは私が住んでいたアパートの下にある美容室,PATRICIA, Bというお店のパトリシアさんは,看板に「9時から19時までノンストップ」と書いています。しかも,特に忙しいときでない限りは1人でやっている。「昼休みは取らないのですか」というところから興味を持って,インタビューをしました。「9時から19時までノンストップと書かれていますが,これはフランス的ではありませんね」と聞いたわけです。すると「いや,美容室という業界から見るとそうではない」という話でした。特に中心街の美容室は昼休みにくる人をお客さんとして獲得するために,昼休みを取らずに続けてやることが多いけれども,その場合とて,交代でお昼を食べに行ったりすることが多いとのことでした。「ではあなたはどうされるのですか」という質問に対し,率直に「私は昼ご飯を食べずに,続けてやっている。用事があるときだけ予約を取らないようにして出かける」ということでした。

このパトリシアさんですが,この仕事を始めて1年半,そして1998年の1月になって,営業権を購入したというお話でした。ですから開業して1年半なのですが,「はっきり言って,私にとって美容・理容の仕事はすべてがおもしろい,すべてが生きがいだ」というようにおっしゃっていました。とても幸せな方だなと感じました。

 

9.高い写真現像料とビジネスチャンス

 一般に日本の物価はフランスに比べて高いというのが,フランス人の日本に対する印象のようですが,果たしてそうでしょうか。確かに野菜や果物,肉などの食料品や,不動産などは高いですが,中には日本の方が安いものも多くあります。ガソリンなどもそうですが,写真の現像料もそうです。フランスは非常に写真の現像料が高いと思います。

さてこのPHOTO DISCOUNTという店の経営者はデュック・シェーディンガーという方です。この方は「昔,何をしていたのですか」という質問で,「ラグビーの選手でしょう」と私が言ったら,「いや,私は昔,パリのキャバレーでややこしい客をつまみ出す係をやっていた」と言っていました。しかし,やっぱり危ない。中には昔のギャング映画に出てくるアラン・ドロンのような客もいて,懐に手を入れるような動作をされたら怖くて仕方がなかったということで身の危険を感じて辞めてしまった。続いて「何かもうちょっともうかる仕事はないか」と言っているうちに,結局トラックの運転手になった。そこそこ稼げるのだけれどもきつい。いろいろ考えて,目を付けたのが「フランスは写真の現像料が高いのではないか。もっと安い店をつくったらいいのではないか」ということです。それで作ったのが,このPHOTO DISCOUNTという店です。この人の場合はもちろんキャバレーの用心棒というのは危ないし,トラックの運転手はしんどかったので,結局いろいろ考えた結果,写真現像のディスカウントに進出したわけです。

「お仕事のどのようなところに魅力を感じますか」という質問をしましたところ,別に口をそろえてくださいと言ったわけでもないのですが,この方も「この商売を通していろいろな人と出会えるのがおもしろい」と答えてくれました。

 

10.ベトナムの戦火を逃れて

 リュベロン地方という,ピーター・メイルが住んだメネルブ村のある地帯の話をしましょう。リュベロン地方はエクス・アン・プロバンスの北方にある山岳地帯ですが,ここは本当に自然の美しいところです。『異邦人』という小説を書いたアルベール・カミュという作家が眠っているルールマランという村や,ゴルドというかつてのミッテラン大統領をはじめ,多くの著名人の別荘があるとてもきれいな村があります。

 さてここリュベロン地方では,この土地が好きで好きでたまらないという経営者たちのお話をいたしましょう。日本のガイド『地球の歩き方』にも取り上げられているボニュー村のお菓子職人,トマは面白い方です。こうしたリュベロン地方で出会った経営者ですが,最初にご紹介するのは,ペルチュイという,リュベロン地方の表玄関のような村で出会ったレストラン経営者です。ベトナム中華料理店のNHA TRANGを経営しているネーエム・カンチャンさんは,ジャンとよばれています。この方は1971年,ベトナム戦争真っ盛りのときに,フランスに命からがら一家で逃げてこられました。そしてベトナムでフランス式の教育を受けていたこともありまして,フランスで学校を卒業したあと,フランスの防衛省に入省しました。防衛省の役人として,10年間,エクス・アン・プロバンス,それからリヨン,さらには海外勤務などをしました。そしてさらに15年間はパリの南で勤めました。ところがこのような役所での毎日毎日の生活に何か息苦しいところを感じて,まず5年前にペルチュイという,このリュベロン地方の表玄関の街に土地を買いました。そしてそこを別荘として使って訪れるうちに,やがて閉店した中華料理店の跡があったのを買い取って,奥さんがそこでベトナム中華料理店を始めたのです。

 最初はこのジャンさん自身はその仕事を手伝うつもりはなくて,私が留学していたエクス・マルセイユ第三大学の経営学研究所に,再教育的なかたちで通っておられました。ディプロムを取得して,何か別のところに就職したかったそうです。ところが,奥さんが始めていたペルチュイのベトナム・中華料理店で,店員さんとのトラブルで,店員さんが辞めたりして,結局,ジャンさん自身が奥さんとパートナーを組んで,この店をやっていくことにしたそうです。

ジャンさんの場合は「ベトナム中華料理店をしている仕事のどういったところがおもしろいですか」という質問に対して,やはり「いろいろなお客さんとのコンタクト,人間関係,いろいろなお客さんとの交流がおもしろい」と言う返事でした。それからこの人は25年間,役所勤務をされたわけですが,「やっぱり上下関係がなくて,上司がいなくて自由だという,その身分に非常に魅力を感じる。与えられる義務がないというのは非常にいいことだ。もちろん,うまくいかなければ大変なことになるけれども,しっかり働けばしっかり稼げるので,非常に満足している」という話でした。

(*現在はNHA TRANGは閉店し,代わってフランス料理店が営業している。)

 

11.郷土を愛するシェフ

 夏になると,プロバンス地方は,バカンス客で賑わいます。地中海の陽光で,日中は,とても気温が高くなりますが,湿気が少なく,日本の夏よりしのぎやすくなっています。逆に夜は寒く感じることもあります。アヴィニョンの演劇祭,エクス・アン・プロバンスの国際音楽祭など,プロバンスの各地でフェスティバルが開催されます。

「ビュウは村と呼ぶさえためらわれる寂しい山里である。ボニューから十マイルほどの丘に抱かれて二十軒足らずの民家がひっそりとした佇まいを見せている。古色蒼然たる村役場がある一方で,今ふうの公衆電話ボックスも設けられている。」(ピーター・メイル『南仏プロバンスの12か月』132頁)

このように,リュベロン地方にビュウックス(Buoux)という村があります。ピーター・メイルの本ではビューというように紹介されていますが,これはビュウックスとよびます。

この村のレストラン,オーベルジュ・ドゥ・ラ・ルーブのオーナー・シェフのモーリスは,たたき上げの人です。モーリスはピーター・メイルの本の中で大きく取り上げられたおかげで,NHKのテレビ番組「プロバンス特集」にも登場したことがあります。

「レストラン「オーベルジュ・ドゥ・ラ・ルーブ」は自然のままの美しい谷を見降ろす丘の中腹にある」,「モーリスは独力で叩きあげた料理人だが,自分のい店をビュウの「ボキューズ」にする気はない。そこそこ店が流行って,馬とともにこの谷で暮らしていかれればそれで充分である。彼の店が成功しているのは料理に気取りがなくて味がよく,金を出した客が心から満足するからである。思いつきでいたずらに奇をてらった料理は彼の好むところではない」。(132-133頁)

このように,モーリスは奇をてらった料理は嫌いで,「自分が母親から食べさせてもらったような,伝統的なプロバンス料理を人に出す」と言います。「ヌーベル・キュイジーヌとか言って,いろいろと奇をてらった料理などを出す人もいるけれども,私自身はこのような郷土の料理を出すことに誇りを感じているし,それが私のやりがいなのだ」とおっしゃっていました。

「ではどうしてこのような仕事を選ばれたのですか」という質問に対して,まずこの人は「仕事が好きだ。若いときからたたき上げで,20年来料理に携わっている。この場所が好きだ。このビュックスという村の大自然が好きだ。この田舎が好きなのだ」とのことです。モーリス自身は,もともとはビュックスの方ではなくて,エクス・アン・プロバンス郊外のランベスクというところに住んでいてそこで就業していました。1971年にビュックスに来て,1974年に家を買い,そして1979年にその家を改造してレストランにしたそうです。

 「どういったところがお仕事でおもしろいか」という質問に対して,やはりここでも同じように,口を合わせたように,「さまざまな人たちとのコンタクト,交流や出会いがおもしろい。特にピーター・メイルの本が出てからは,アメリカ人や日本人の旅行者がお客さんとして来てくれて,それまでは交流できなかったような人たちと交流できて非常に満足している」という返事でした。ところがピーター・メイルの本が出た直後は,本の中でモーリスについてたくさん書かれていますので,この本を持ってきて「サインをしてくれ」とかいう人が多くて,非常に迷惑したそうです。最近はそれも減ってきたので,すっかりのんびりして,田舎に住んでいるということ,そしてもちろん料理に携わっていることに満足しているということでした。

料理に生きがいを感じるというのですが,伝統的なもの,つまり自分が母親から作ってもらっていたような伝統的な郷土料理を出す,そういうところがいろいろなお客さんに評価されているのだろう。つまりいろいろなお客さんにプロバンスの郷土料理を発見してもらうというところに喜びを感じているのだとおっしゃっていました。

 

12.ラベンダー栽培と民宿経営 −リュベロンの大地へ転身− 

 7月になるとプロバンス地方のラベンダーが満開となります。あちらこちらで紫の絨毯を敷いたような美しい光景が見られます。8月に入ると,ラベンダーの収穫時期になります。のこぎりくわがたの頭のような装置がついたトラクターで刈り込みされ,束にされたラベンダーがトラクターに積み込まれます。蒸留所に運び込まれたラベンダーは,大きな装置で蒸留され,香水や石鹸の元となるラベンダー・エッセンスが抽出されます。

 さて,モーリスのレストランであるオーベルジュ・ドゥ・ラ・ルーブから歩いて数分のところに,広大なラベンダー畑に囲まれたラ・グランド・バスティードという民宿があります。

ご主人のジャン・アラン・ケラさんは,名家のご出身で,パリで最初は大学の原子物理学教授の助手を10年間,次にマーケティング調査の独立コンサルタントをしていました。独立コンサルタントですから,結局1年の半分ぐらい仕事をして,残りの半分は読書や映画鑑賞三昧をしていたそうです。読書の関係では初版本といいますか,非常に高価な本をたくさん買い集めていたそうです。しかし,そういう生活に行き詰まりを感じて,農業に転身しようということで,エクス・アン・プロバンスの郊外で土地を探していましたが,そのあたりは値段が高くて,だんだん土地探しの半径が広がって,最終的にこのビュウックスの村に決めたそうです。1979年にビュウックスの村に広大な土地を買って,最初は農業だけをしていました。やがてこのバスティードというこの大きな建物を民宿用にたった一人の手で改造して,今から10年前に民宿も開業されたのです。

 民宿にある日やってきた女性旅行客が,旅行が終わっても帰らなくなって,結局結婚してしまったそうです。それが奥さんのベロニクさんです。ベロニクさんは,古典的な家具や額縁の金の部分の補修をする金塗装師です。

 「お仕事のどういうところが面白いか」という質問に対して,ご夫妻とも口を揃えて「民宿に来るさまざまなお客さんとの交流が面白い」との答えでした。現状で直面する問題点としては,特にジャン・アランさんの方が「農業が支える自然環境の保護と,観光客の確保との両立」の問題を指摘してくれました。ラベンダー栽培については,「7月に咲くラベンダーは美しく,本当にいい香りがするので,接していて楽しい。一方,雑草との戦いは本当に大変だ」と語ってくれました。

 

13.ブルターニュの自転車競技選手からプロバンスの自然食料品店経営者へ

 夏のバカンス・シーズンが終わり,落ち着きを取り戻したプロバンス地方の秋は,オリーブや葡萄の収穫時期です。ミストラルが吹くと,急激に気温が下がることがあります。また,11月頃にはよく雨が降ります。

さて,ビュウックスから6キロのところに砂糖漬け果物菓子・フリュイ・コンフィを名産とするアプトという街があります。アプトで自然食品店を経営するヤニークは,もともとはフランス北西部のブルターニュ地方で庭師をしながら,自転車競技の選手としても活躍していました。北西部ブルターニュ地方の庭師で,週末には自転車競技をしていた人が,どうして南仏プロバンス地方のアプトという街で自然食料品店を経営するようになったのでしょうか?  

もともとこのブルターニュという地方で庭師,そして自転車競技でも活躍していたのですが,来る日も来る日もブルターニュというのはよく雨が降る,天気が悪いのです。天気が悪いと庭師の仕事はあがったりで,自転車の練習もできません。ということで,とうとう28歳の時にがまんできなくなってしまったそうです。そして大きな地理の辞典をぱらぱら開いて,フランスで一番日照時間の多い街ということで探したそうです。それがたまたまAで始まるので最初の方に載っていたせいもあったかもしれませんが,アプトだったそうです。そこで,もう雨はこりごりだということで,一大決心の末,アプトに移住された訳です。

 さて,ヤニークは,もともと自転車競技の選手ですから,健康には注意していて自然食品にはかなり興味を持っていました。アプトで,自然食品を売っている店と出会って,最初はお客として接していたのですが,非常に熱心に通ってくるので,とうとう,ときどき「君,暇か。ちょっと店の中を手伝ってくれ。レジに立っていてくれ」と頼まれるようになりました。さらにはその経営者と共鳴して,やがて店を任されるようになり,ついにはこの店を買い取ってしまったということです。そして自分が経営に携わるようになって,ちょうど10年目だそうです。

ヤニークはこういう動機で転職しましたが,「今の仕事のどういったところがおもしろいか」と質問しますと,「私の仕事はとてもおもしろい立場にあるのだ」と言います。いろいろなお客さんたちが「体のここが悪いのだけれど,どのようなものを食べたらいいだろう」というような相談に来るそうです。それに対してアドバイスを与えたりしながら交流していく。さらには自然食品,有機栽培の野菜といってもいろいろ基準があって,中には基準の守り方がいいかげんなところもある。そういったものを厳しく見きわめて,基準をきちっと守っていないところとはもう取引をやめるとか,そうしたことをする見張り番としての立場もおもしろいとのことでした。

 なお,欧州では,Limaというブランドで,醤油や梅干などさまざまな日本の食料品が製造販売されています。ヤニークの店 エピスリ・ベルト(Epicerie Verte:「緑の食料品店」の意)でも,多くの日本の食料品が置かれています。豆腐などは,日常的によく売れています。日本食は,健康食品として位置付けられているのです。

 

(自然食品 ヤニークの写真)


14.お客さんの心にぴったりあてはまる額縁を

 ボニュー村で青春時代を過ごしたというジミーは,プロバンス地方ではありませんが,イスダンという,フランスのちょうどど真ん中辺りにある街でGALIMATIASという土産物店を経営する額縁職人です。ジミーのことは,フランスに留学する前からパソコン通信・ニフティサーブの日仏交流フォーラムの中で,メッセージのやりとりをして知っていました。  

ジミーは学校で教師と折り合いが悪くて,高校を卒業する前にやめてしまいました。20回ほど職を転々として,最後は精神科医の助手をしていたそうです。それも嫌になってしまって,中南米の方に旅行に行きましたがお金が底をついてパリに戻ってきました。パリで女友達と大きなアパルトマンに住んで,「何かいいことがないかな,何かすることがないかな」と言っているうちに,その女友達のつてを頼って,イスダンというフランスの真ん中の街に出てきて,「土産物屋でもしようか」ということで開業しました。土産物屋で写真やポスターを売っていたのですが,「額ごと売ってくれ」というリクエストが非常に多かったので,額縁を付けてもらって売っていました。しかし,選ばれる額縁がどうにもジミーには気に入らなかった。何回主張してもなかなかいい額縁職人に巡り会えないので,「では僕が自分でやろう」と独学で額の作り方を学びました。定期的に実習に行ったりして技術を習得し,今や額縁を作ることが専門になってしまったわけです。

 多くの顧客を抱えるようになり,一般のお客さんが来たときにどういう段取りでものごとを進めていくか,コンピュータのソフトを使ってスケジュール管理をしています。そのソフトは自分で開発したそうです。

ジミーに「仕事のどういったところがおもしろいか」と聞きますと,「写真が好きだ。古い写真と仕事をするのがとても好きなのだ」と言います。ですから写真,額縁に生きがいを感じているし,やはり人との交流が好きだとのことです。

ジミーの店には,お客さんが絵や写真やポスターを持って「これに額縁を付けてください」と来店します。ジミーは,来店したお客さんと話をし始めて,大体10秒後にこの人はいったいどれぐらい稼いでいる人で,どういう家に住んでいて,その家の壁はどういう色で,どのような額縁にすれば似合うなどか,推測できるようになったそうです。失礼ですから,一応お客さんに「どういう額縁がいいですか」と質問はするそうですが,やっぱり自分が最初に思い浮かべていたのと同じような額縁を,お客さんが最後には言うのでおもしろいとのことでした。ジミーのモットーは「どのような額にしてあげたらお客さんが喜ぶか」です。これをとにかく常に考えているそうです。

ジミーは中小企業の経営者としての心構えとして,次のように語ってくれました。「やはり別のことを常にしたいなという気持ちを持つことが大事だ。あるいは,違うことをしたという経験を持つことが大事だ。つまり好奇心を持つということがとても大事なのだ」。「自分自身は20回も転職したり,精神科医の助手をしていたときに,実にいろいろな人を見た。そういったさまざまな経験が,今の仕事に非常に活かされているし,自分自身,いまだに好奇心を失わないで生きている」。「中小企業の経営者の問題点として,自分の商売以外のことを考えない,つまり視野が狭いというのは非常によくないのではないか」。

 

Galimatiasの写真)


15.トリュフ −投機的リスクの象徴−

 世界三大珍味のトリュフとは,樫の木の根っこに生え,「黒いダイヤモンド」と呼ばれます。日本のマツタケと同じように香りを楽しみます。それ自体がとびきりおいしいというものではなく,その香りで料理を引き立てます。卵にトリュフを刻んで入れてオムレツを作るのが定番料理です。

 「トリュフが異常なまでに高価で,なおかつ値上がりが続いているには二つの理由がある。その第一は自明の理で,新鮮なトリュフのあの得も言われぬ味と香りは,新鮮なトリュフ以外の何をもってしても代えることができないということである。第二の理由は,これまでのところトリュフはまだ人口栽培ができないということだ」。

 「トリュフを捜すには豚か馴らした犬,または棒切れを使う。トリュフはある種のカシ,またはハシバミの根の地下数センチのところに生えている。」(ピーター・メイル『南仏プロバンスの12か月』(79-80頁)

このように,トリュフはどこに生えるかわからず,しかもどの樫の木の根っこにも生えるとも限りません。トリュフ探しには嗅覚の鋭い豚や犬が活躍します。どこに生えるかわからない,生えるかどうかわからない,収穫しても相場がどうなるかわからないということで,このトリュフは投機的リスクの象徴と言えます。このような不確かなものを植えるぐらいであったら,他の作物でも栽培した方がいいように思うのですが,リスクはあるけれど,やはりあの不思議な匂いの魅力に誘われて,トリュフを育ててしまうようです。

 

(トリュフの写真)

写真の下の言葉

卵ににおいをすわせ,歯ブラシで泥を落とす。そしてオムレツに

 


16. 「ミストラルの一撃」 −サントン人形工房フックによるイノヴェーション−

 各地の夏のフェスティバルが有名なプロバンス地方ですが,冬の風物としてはサントン人形というものがあります。

かつてマルセイユやプロバンス地方では,クリスマスが近づく頃になると,教会にキリストが生まれたときの場面を情景模型にしたクレーシュというものが流行しました。当時は等身大の石膏人形でクレーシュを作って教会で展示していました。ところが,フランス革命の影響で教会が閉鎖になりました。石膏を使ってキリスト誕生の場面などを再現する人形を製作していた人たちは,仕事がなくなってしまいました。

そこで,マルセイユの教会に勤めていた彫像師ラニョルは,「家庭に置く小型クレーシュというものを考案すればいいのではないか。小型クレーシュ用に,泥で小さい人形を作って,それを売ったらよいのではないか」と考えました。このアイディアと新商品は大成功を収め,家庭内にサントン人形を使ったクレーシュを置く事が一気に各家庭に普及しました。サントン人形は,粘土で形を作り,窯で焼いた後,色鮮やかなテンペラ絵の具で着色して出来上がります。

 プロバンス地方では,12月になりますと,マルセイユやエクス・アン・プロバンスなどの街で,サントン人形市が立ちます。劇作家のマルセル・パニョルの生まれた街であるオーバーニュは,サントン生産地として知られています。

 エクス・アン・プロバンス市にあるサントン人形工房のフックは,1934年にジャン−バティスト・フックによって創業されました。以来,2代目ポール・フック,3代目ミレイユ・フックへと,3世代にわたって,伝統的なノウハウが継承されています。この間,1800体ものモデルを創り出し,サントン人形界における最大級のコレクションを誇っています。工房フックでは,粘土の塊からすべて手作りでモデルが作り出されています。

 1952年にポール・フックは,「ミストラルの一撃」というモデルを考案しました。これは,ミストラルと呼ばれるプロバンス地方特有の強風を受けて,飛ばされそうになった帽子に手をやり,マントが足にからみついて身をかがめている老羊飼いの人形です。これは,静的だったサントン人形の世界に人間の「動き」を導入した画期的な作品として絶賛されました。サントン芸術にイノヴェーションをもたらしたこのモデルは,工房フックのシンボルマークとして用いられています。

 

(関大通信を持ったフック父娘の写真)

(写真の下の言葉

サントン「フック」についてのエッセーが掲載された関西大学通信(コラムE参照)と

2代目 ポール・フック 氏 と 3代目 ミレーユ・フック 氏

199812月のエクス・アン・プロバンスのサントン市にて


17.企業家精神・顧客との交流

 起業リスク,創業リスクを取って,プロバンス地方で独立開業した個人事業主たちは,人とのコンタクトを大切にし,自らの生きがいを仕事に見いだしている経営者たちでした。サービスを生み出すということ(Servuction)を考えれば,人との交流というのはとても大切ですし,コンセプトを明確にするということは経営理念をしっかり守るということになります。小さなビジネスだけれども,南仏プロバンス地方で出会った経営者たちの生き生きとした姿に接していますと,リスクを取ろうとする企業家精神や意思決定におけるリスク感性,さらにはお客さんとの触れ合いに喜びを感じる気持ちといった,昨今の不祥事にまみれた大企業の経営者たちが忘れてしまった大切なものをつまり思い出させてくれるような気がしました。

 

 

  ビュウックス村 ジャン・アラン・ケラ村長の民宿とラベンダー畑

 

第2節   小さな村から大きな環境保護 −ビュウックス村の挑戦−

 

2003年夏・2004年夏 実施 ビュウックス村 行政調査

−「二〇〇三年猛暑のフランス滞在記」『青淵』平成十六年三月号,(財)渋沢栄一記念財団

−「南仏プロバンス・街角の経営者の声から −起業リスクと経営者のリスク感性−」『商工金融』2004年9月号,(財)商工総合研究所

 

 本節は上記の調査とエッセーに基づいている。

第1節の中で取り上げたビュウックス村でラベンダー栽培と民宿経営を行っているジャン−アラン・ケラ氏は,その後,2001年の地方議会選挙の結果,村長に就任した。そこで,2003年と2004年の夏にビュウックス村の行政調査を実施し,村長としてのケラ氏に対してインタビューを実施した。本節は,したがって,こうした調査とインタビューを中心に構成した事例研究であり,エッセーの形式で記述している。

 

1.2003年夏・記録的猛暑のフランス

 2003年夏,フランスは記録的な猛暑となった。各地で連日40度近い気温が続き,フランス全土で180ある気象台のうち70ヵ所で最高気温の記録を更新した。マスコミでは酷暑を意味する「カニキュール」(canicule)という言葉が飛び交っていた。この猛暑による干ばつのため,農作物に大きな被害が出た。さらに,高齢者を中心に,猛暑が原因で死亡した人が一万人以上に上った。老人ホーム入居者の死亡,独居老人の死亡など,いずれの場合も緊急医療体制などの危機管理システムの不充分さが指摘された。

 猛暑は,フランス社会の特徴も浮き彫りにした。すなわち,バカンス大国のフランスでは,医療機関においても夏の長期バカンスをとる者が多く,人手不足に陥っていた。また,元来個人主義の国で,離婚の増加に伴う家族・親子関係の複雑化などを背景に,死亡した老人の引き取り手が現れないケースが数多く見られた。

 南フランスのビュウックス村とモンペリエ市に滞在した私は,この猛暑を肌で実感せざるを得なかった。しかし,猛暑はマイナスの側面だけをもたらしたわけではない。ワイン生産者にとって,今年はブドウ果汁の濃度が高く,ワインの品質は史上最高の部類となる見通しである。2003年は,猛暑の被害と共に,最高のヴィンテージの年として人々の記憶に残ることになる。

 

2.2003年・危機管理の夏

 ラングドック・ルシオン地方の中心都市モンペリエ滞在中は,さまざまなニュースに目を凝らし,耳を傾けた。猛暑に見舞われた2003年の夏のフランスは,観光業が大打撃を受けた。まず,一大バカンス地であるコート・ダジュールでは,7月末に発生した山火事によりホテルのキャンセルが相次いだ。前年秋に沈没したタンカーから流出した重油におる海岸汚染の被害を受けた大西洋岸では,7月半ばに暴風雨に襲われ,泣きっ面に蜂のようそうとなってしまった。さらに舞台芸術関係のスタッフ職のストライキのあおりを受けて,アヴィニョンの演劇祭や,エクス・アン・プロバンスの国際音楽フェスティバルなど,全国各地で毎年恒例の芸術フェスティバルが中止に追い込まれた。ディズニー・ランド・パリを運営するユーロ・ディズニー社の財政危機も報道された。世界一の観光大国フランスであるが,2003年夏は幾多のリスクに遭遇し,危機管理の観点から大きな試練を経験した。

 

3.モンペリエのリスクテーカー −サッカーと日本料理−

 モンペリエでは,日本とフランスのスポーツ交流において,大きな出来事があった。サッカー元日本代表の広山望選手がフランス一部リーグのモンペリエと契約を結んだのである。広山選手は,かつて,欧州のリーグで活躍する日本人選手がスポットを浴びる中,Jリーグでの安定をあえて捨て,南米パラグアイのチームに移って大活躍していた。

 200382日,フランス・リーグの開幕戦の対レンヌ戦。フランスのサッカー一部リーグでプレーする初の日本人選手のデビュー戦を見ようとスタジアムに足を運んだ。試合開始前には,サポーター席で大きな日の丸の旗が振られた。ハーフタイムの観客席では,「ヒロヤマって,どんな選手なんだい?」と地元サポーターから次々と声をかけられた。後半開始と共に,広山選手が交代で出場した。軽快な動きに「ヒロヤマ」コールが起こり,流れをつかんだモンペリエは,試合終了直前に同点に追いつき,地元ファンは熱狂的に喜んだ。

(シーズン終了後,モンペリエの第2部リーグ降格を機会に広山選手は退団し,20048月よりJリーグの東京ヴェルディに所属している。)

 このモンペリエの街では,ボー・ザール広場の側にある,当市で初めての日本流回転寿司店「スシ・バー」が成功を収めている。スシ・バーの成功を受けて,類似した日本料理店がいくつか開業した。しかし,苦戦を強いられ,既に閉店したものもある。フランスにおける日本料理は,寿司,刺身,すき焼き,てんぷらなど,高価なものがメニューに並び,高級料理という位置付けになっている。お好み焼きやカレーライスなどの庶民的で値段の安い料理が紹介されていない。 

 こうした状況の中,日本の「居酒屋」というコンセプトに着目した,新しいタイプの日本料理店が開店した。この「居酒屋まゆみ」はモンペリエの中心街から少し離れた静かな通りにある。経営者のスリは,ラオス出身のフランス育ち,学生時代に日本に渡ると日本と日本料理の魅力にとりつかれ,叩き上げで日本料理の調理法を学んでいった。帰国後,パリのホテルの日本料理店に勤務,次いでカナダのケベックに渡り,空港のカフェの責任者として,時にアジア料理を担当した。この間,休暇の旅に日本を訪れ,日本料理の研究を続けた。15年に及ぶカナダ滞在を終え,再びフランスに戻ると,今度はモンペリエに定住した。

モンペリエにおけるスシ・バーの成功とそれに追随する店の苦戦を目の当たりしながら,スリは,5年間,まさに虎視眈々と出店の機会をうかがった。あらゆるリスクを想定し,同時に「居酒屋」のコンセプトで当市の日本料理界にイノヴェーションをもたらすことによるチャンスに期待し,周到な準備の末,2002年夏に開業した。

広山選手デビュー時,本人はもちろん,モンペリエまで応援に来た同選手の日本人サポーターで「居酒屋まゆみ」は賑わった。地元新聞ミディ・リーブル誌に経営者スリの生き様が大きく紹介されるなど,その暖簾と提灯は街の知る人ぞ知る風物となり,店は定着した。小刻みで的確な手順で調理をするスリは,「時間的なプレッシャーが集中力を高め,エネルギーを沸き起こしてくる」と言う。「料理は,恋愛と似ている。完璧ということはありえない。いつもさらにもっと良くしようと努力しなければならい」。スリの経営理念は明快である。

 

4.中小企業リスクマネジメント

2003年酷暑の夏,さらに翌2004年の夏も,このラングドック・ルシオン地方のモンペリエに滞在した後に,南仏プロバンス地方に赴いた。ここは,かつて留学していた地方であり,街角で出会ったさまざまな個人事業主・中小企業経営者に対するインタビューを実施した所でもある。プロバンス地方での旧知の個人事業主との再会を記す前に,中小企業のリスクマネジメントについて以下にまとめておこう。

 近年,企業経営におけるリスクマネジメントについての関心が高まってきた。リスクマネジメントは,従来,工学的な安全管理と,保険を中心とするファイナンスという二つの分野を中心に発展してきたが,第三の流れとして経営管理や経営戦略に関連づけて考えられるようになってきた。具体的には,我が国では,@安全管理や保険管理の専門部署の領域という位置付けから,JIS Q2001「リスクマネジメントシステム構築の指針」が示す,トップから現場に至る全社的・統合的リスク管理体制作り,AISO/IEC Guide73:2002におけるリスクマネジメント用語の標準化,B経済産業省平成156月指針「リスク新時代の内部統制」に見るような,コーポレートガバナンス,企業倫理,内部統制との連動などの試みが現実のものとなっている。これらの動きは,端的に言えば,阪神大震災を契機とする危機管理の社会的認知や,平成不況下の大規模倒産や不祥事件の続発を受けて,大企業におけるリスクマネジメントの意識が,@事故や災害などの純粋リスク(loss only risk)限定したものから経営戦略展開に伴う投機的リスク(loss or gain risk)を含む全ビジネスリスクを対象とするものへ,A経営者のリスク感性(リスクに直面しての意思決定力)や経営者リスク(リスク感性に劣る経営者の存在)の問題を認識するものへと進化したということである。

 しかし,こうした観点は,中小企業のリスクマネジメントにおいては,従来よりごく当然のことであった。すなわち,投機的リスクの最たるものである起業リスクに挑んだ独立起業家による事業が多く,倒産可能性が高く,経営者個人の在り方が倒産リスクに直結するという中小企業経営においては,好むと好まざるにかかわらず,経営者自身が中心となって,全ビジネスリスクに対する経営戦略型のリスクマネジメントが展開されてきた。倒産の回避ならびに経営者のリスク感性の発揮という本来の至上命題に日々取り組んできた中小企業リスクマネジメントの実態に,大企業が追いついてきたと言えるだろう。

 

5.南仏プロバンス地方の街角の経営者たちとの再会

 さて,以上のようなことに思いをはせながら,南仏プロバンス地方に滞在し,かつてインタビューを行ったことのある旧知の個人事業主たちの何人かと再会した。

エクス・アン・プロバンスには,フランスの高い写真現像料に目をつけディスカウント店を起業したデュック,汚れた中古車が走り回る国道7号線で洗車ビジネスの可能性に着目し不動産ビジネスから転業した女性経営者,親の所有する広大な土地の中でも少年時代からロータリーの一角という交通量の多い場所に目をつけて自動車修理工場を起業したアンドレらがいる。

かつての留学の地,エクス・アン・プロバンスから,さらに北へ,広大な自然のあるリュベロンの山岳地帯に車を進める。エクス・アン・プロバンスからリュベロンに向かう場合の表玄関のような街がペルチュイだ。誠に残念なことに,かつて経営者にインタビューした,ベトナム・中華料理店の姿はなく,フランス料理店になっている。

砂糖漬け果物菓子フリュイ・コンフィが名産のアプトの街では,自然食料品店Epicerie Verteを経営するヤニークと再会した。店はますます盛況だ。フランスでは健康食品扱いの日本の食材が並んでいる。「サ・マルシュ。商売はうまくいってるよ」。「昔インタビューさせてもらったものをいよいよ本に載せますから」。

ヤニークはかつてフランス北西部のブルターニュ地方で庭師をしながら自転車競技でも活躍していた。しかし,連日の雨に嫌気がさすと,日照時間が最も多い街という理由だけでアプト移住を断行,自転車競技の選手であることから健康に留意し自然食品店に通ううちに,ついにその経営権を譲り受けることになった。食品についてお客さんにアドバイスを与えたりしながら交流していくことに喜びを感じ,自然食品・有機栽培の基準チェックに日々苦労している。

アプトで食材を調達すると,滞在地のビュウックス村に行く前に,「フランスで最も美しい村」に選定されているボニュー村に足を向ける。日本のガイド「地球の歩き方」に紹介されているパン・お菓子屋の主人トマは,2004年の夏には結婚したばかりだった。

このボニュー村で青春時代を過ごしたというジミーを思い出す。フランス中部イスダンで土産物店Galimatiasを経営するジミーは,ポスターや写真を購入する客の「額ごと売ってほしい」という要求に応えているうちに,既存の額縁に満足できなくなり,ついに独学の末,自ら額縁職人になった。ソフトウェアで工程管理をしなければならないほどの注文を受けるようになった今や,来店したお客さんと言葉を交わして10秒後には,収入,家の形態,壁の色,どういう額縁にすれば似合うかが推測できるようになった。どのような額縁にすればお客さんが満足するかを日々追求する氏曰く「中小企業経営者の心構えとして,常に好奇心を失わないことが最も大切だ。20回も転職して,精神科医の助手時代には実にいろいろな人を見た。そういったさまざまな経験が仕事に活かされているし,いまだに好奇心を失わないで生きている。視野が狭く自分の商売以外のことを考えないのはよくない。」

 

6.忘れかけていた素朴さに出会える村 −ビュウックス−

 南仏プロバンス地方の中でも,とりわけ美しい景観で人々を魅了するリュベロン地方に,ビュウックスという人口110人ほどの小村がある。ビュウックスは,リュベロン地方の中心都市の一つであるアプトから6キロの地点にある。英国人ピーター・メイルの紀行『南仏プロバンスの12か月』により一躍脚光をあびることになったリュベロン地方の小村群の一つで,いわゆる観光地化・別荘地化することなく素朴で広大な自然そのものの美しさを保持している稀有な存在の村である。岩肌が剥き出しになった山が連なっており,ロック・クライミングの聖地の一つでもある。

この村でオーベルジュ・ド・ラ・ルーブというレストランんを経営するモーリスは,自分が母親から食べさせてもらったような伝統的な郷土料理をお客さんに出すことに生きがいを感じている。何回訪れても,10ほどの小皿に決め細やかな郷土料理が盛られた「プロバンス風オードブル」には飽きることがない。ビュウックス村の名産の山羊チーズ生産農家の一員で,有機栽培農産物流通のシステム設計に従事するフランクは宮本武蔵の愛好家であり起業の時も現在の事業運営においても禅の精神が活かされているという。

7.小さな村から大きな環境保護 −ビュウックス村の挑戦−

村長のジャン・アラン・ケラ氏は,2001年の地方選挙で初当選し,就任した。元々,ラベンダー栽培を中心とする農業と民宿業を営んでいたジャン・アランが村長職に立候補を決意するに至ったきっかけの一つに,自らがこよなく愛するリュベロンの美しい自然を守らなければならないという強い使命感があった。ジャン・アランの持論は明快である。

「観光振興によりリュベロンの村々の財政は潤い得る。しかし観光客のための施設をいくら充実させても,リュベロンの自然保護そのものには繋がらない。観光客が魅力を感じて訪れてくれる美しい自然環境を保護するためには,それを手入れする人が必要だ。それは農業に従事する人たちにほかならない。風光明媚な景観の維持は,実は農業の充実によって保証されているのだ。農業をないがしろにして目先の観光振興に走ってはならない。人口110人の小さな村が,自然環境保護には大きな役割を担っているのだ」。

ジャン・アランは言う。「こんな小さな村でも,民主主義は守られなければならない。フランス国家の法律は守られなければならない。村長として2つの役割がある。まず第一に,この人口110人余りのコミューンの舵取りをすること,第二に,国の代理人として,この小さなコミューン内においても国家の決まりごとを住民たちに守ってもらうことだ。つまり,この小さなコミューンにおいても,共和国の精神を遵守してもらう(faire respecter la république dans cette petite commune)のが私の役割だ。また重視しているのが,若い世代への投資だ。したがって子供たちや若者たちのためのアソシアシオン(子供会・青年会)を結成している」。

「日常的に直面している問題点は,1,800ヘクタールの面積に住民が110人しかいないということで,常に,住宅地建設と,観光施設建設の圧力を受けているということだ。農業に理解のなかった前村長は,その圧力に屈しかけたことがある。しかし,忘れてはならないことがある。人口10万人のエクス・アン・プロバンス市の面積は約5,000ヘクタールだ。ビュウックスはこのわずかな人口で,エクス・アン・プロバンスの面積の3分の1に相当する面積を保有している。しかも,その土地は農業従事者によって手入れされ,素朴で実に美しい自然環境が保護されている。かくも小さな村の村長であるが,農業を軽視して,住宅地建設や観光施設建設による環境破壊の圧力に屈すれば,一気に大きな環境破壊のリスクを招いてしまうことになるのだ。繰り返しになるが言っておこう。小さな村が,自然環境の保護には大きな役割を果たしているというのはこういうことなのだ」。

 

8.的確な資金申請と村の整備

  ジャン・アランは,25年前にビュウックスに移り住む以前は,パリで物理学研究の助手,さらにはフリーの経営コンサルタントをしていたという異色の経歴の持ち主である。前任者の着手していた事業を継承しつつも,村の行政に次々と新機軸を打ち出している。

 EUレベル,国レベルで地方に対してさまざまな補助金が存在するが,その申請手続きは煩雑で大人数のスタッフを有する地方公共団体以外では,補助金獲得に二の足を踏んでいるのが実情のようである。

 ジャン・アランの場合は,マーケティングを専門とする経営コンサルタントとしての経験を十二分に発揮し,戦略的にてきぱきと補助金の申請を行い,その獲得に成功している。村の道路は見違えるほど整備されたほか,大雨に備えての排水道も確保された。小さな村でも積極的に補助金を得て村民に還元することが可能であることを示したモデルケースとして,村長ジャン・アランの手腕は,2003年夏,地方の新聞『プロバンス』誌上で紹介された。

ビュウックス村のバザー

 

9.リスクをとって村長となって

 国営テレビ・フランス2の2003年夏の連続ドラマは,その名も『酷暑の夏』で,舞台はリュベロン地方であった。村長ジャン・アランの自宅兼民宿は,ドラマの中で主人公一家が住む家として撮影に使用された。このドラマが放映された夜,その鑑賞会に同席させてもらったが,金塗装師として活躍しているベロニク夫人の言葉が印象的だった。

 「村は変わった。大きなリスクをとって,彼が村長になってよかった」。

ビュウックス村 村長夫妻と

 

 さて,ビュウックス村では,毎年8月初めの日曜日に恒例のバザーが開催される。バザーは,フランス語では,納屋に余った物を放出するという意味の「ビッド・グルニエ」(vide grenier)と呼ばれる。村のバザーも,ジャン−アランが村長に就任以来,活気を増してきた。当日は,地方にゆかりの作家が招待され,郷土文学作品の販売,作者との交流会・サイン会が開催されるようにもなった。

 村長夫妻の許可を得て,正式にエントリーし,日本の伝統文化である折り紙セット(折鶴・折り方説明書付き・)を販売した。人々は日本文化に興味を抱いてくれるものの財布の紐は固く,赤字に終わってしまった。翌2004年のバザーでは,前年の失敗に学び,入念な戦略立案に基づき,フランスには存在しない日本のかき氷器を持参して,かき氷を売った。物珍しさとおいしさが好評,で100ユーロ近い売り上げを達成し,その夜は,2年越しのバザーの収益を元に,モーリスのレストランで「プロバンス風オードブル」に舌鼓を打つことができた。

話がそれてしまったが,このように,ビュウックス村を中心に,南仏プロバンス地方の活き活きとした人たちの姿と接することができた。特に,ジャン・アラン・ケラ村長のこれまでの歩みと就任後の取り組みに接して,小さな村から大きな環境保護をモットーにリスクを取って村を改革しようという「企業家精神」や,村の整備に関わる予算申請の意思決定における「リスク感性」,さらには民宿のお客さんや村の住民など「人との触れ合いに喜びを感じる気持ち」といった本当に大切なものを実感することができた。

 


コラムE 「南仏プロバンス師走の風景」

 

(ここに関西大学通信を入れる)