第13章 女性起業家:

ブレーン・パワーのケース

 

本章では,女性経営者と起業,企業経営について考察する。事例として,関西大学・総合情報学部(高槻キャンパス)が位置する大阪府の北摂地域において地域貢献型の人材派遣事業を営むブレーン・パワー株式会社の加藤まき子社長による講演内容を掲げる。

 

キーワード:起業 ビジネスチャンス 家庭・育児との両立 バランスシート  

 

(加藤まき子さんについての新聞記事2種類のうちのひとつをそのまま複写掲載)

 

 

 


第1節   女性経営者のデータ

 

本節では,帝国データバンクが発表した@社長に関する調査(「第26回社長交代率調査」http://www.tdb.co.jp/watching/press/p040401.pdf)ならびにA女性社長に関する調査(「第15回女性社長売上高ランキング」http://www.tdb.co.jp/watching/press/p040701.pdf)に基づいて,女性経営者の現状を概観する。

 前者@の調査は,帝国データバンクの企業ファイル「COSMOS2」(約123万社)から抽出された1203429人の社長を対象に,帝国データバンクが2003年に実施した調査である。一方,後者Aの調査は,帝国データバンクが,「COSMOS2」収録企業の中から20031月から12月に決算期を迎えた企業の女性社長を抽出して実施した実態調査である。

 

1.社長分析

 

1.1.社長の年齢

  帝国データバンクの「第26回社長交代率調査」によれば,調査対象1203429人の社長の平均年齢は,582ヶ月であった。年齢別の構成比で見ると,それぞれ,「30歳代」4.8%,「40歳代」15.4%,「50歳代」36.3%,「60歳代」30.2%,「70歳代」11.0%で,昭和生まれの社長の比率は,96.21%を占めた。

 

1.2.社長の出身大学

 出身大学別の社長数で見ると,上位10大学は,それぞれ,1位「日本大学」29,087人,2位「慶應義塾大学」16,808人,3位「早稲田大学」16,547人,4位「明治大学」13,784人,5位「中央大学」12,885人,6位「法政大学」9,830人,7位「同志社大学」7,529人,8位「近畿大学」6,335人,9位「関西大学」6,141人,10位「立教大学」5,130人であった。帝国データバンクの調査においては,日本大学が21年連続して1位となっている。

 

2.女性社長分析

 

2.1.女性社長数と年齢

 帝国データバンクの「第26回社長交代率調査」ならびに「第15回女性社長売上高ランキング調査」によると,同社のデータベース「COSMOS2」に収録されている企業の社長1204,853人に占める女性社長の数は67,957人で,その比率は5.64%であった。 帝国データバンクの調査においては,女性社長数は,23年連続して増加している。ただし,前社長に占める女性社長の比率の伸びは,鈍化傾向にある。

女性社長の平均年齢は607ヶ月で,前社長の平均年齢582ヶ月を25ヶ月上回った。昭和生まれの女性社長が,全体の91.43%を占めた。

 

2.2.女性社長の出身大学

 女性社長67,957人のうち,大卒女性社長は9,655人で,全体に占める比率は14.21%であった。出身大学別の女性社長数で見ると,上位10大学は,それぞれ,1位「日本大学」250人,2位「青山学院大学」191人,3位「外国の大学」189人,4位「日本女子大学」184人,5位「慶應義塾大学」178人,6位「早稲田大学」157人,7位「共立女子大学」152人,8位「明治大学」115人,9位「同志社大学」104人,10位「立教大学」101人であった。外国大学出身の女性社長が多く,合計すると,3位となるというのが特徴である。

 

2.3.業種別女性社長

 業種別の女性社長数で見ると,上位10業種は次の通りであった。1位「土木工事業」3,251人,2位「婦人・子供服小売」3,186人,3位「貸事務所業」3,028人,4位「不動産代理・仲介業」1,246人,5位「旅館・ホテル」1,227人,6位「一般貨物自動車運送」1,131人,7位「貸家業」990人,8位「木造建築工事業」986人,9位「美容業」947人,10位「呉服・服地小売」789人であった。

 社長全体で見ると,上位10業種は1位「土木工事業」55,931人,2位「木造建築工事業」58人,3位「建築工事業」24,450人,4位「一般貨物自動車運送」21,046人,5位「一般管工事業」18,465人,6位「貸事務所業」16,872人,7位「家電機械器具小売」15,890人,8位「土木建築サービス」15,653人,9位「内装工事業」15,579人,10位「自動車一般整備」15,482人であった。

 したがって,女性社長のみで上位に入っている業種として,「婦人・子供服小売」,「旅館・ホテル」,「美容業」,「呉服・服地小売」があることがわかる。

 

2.4.女性社長売上高ランキング

 女性が社長を務める企業の売上高ランキング上位5社を帝国データバンクの調査からまとめると表13−1のようになる。

 

 

 

 

 

 

 

表13−1 

帝国データバンク「第15回女性社長売上高ランキング調査」(2003)上位5社

順位

前回調査順位

会社名

所在地

業種

売上高(百万円)

社長名

社長歴()

1

日本トイざらす()

神奈川

玩具小売

179,718

和田浩子

1

2

1

(株)講談社

東京

出版

167,212

野間佐和子

18

3

2

(株)一光

愛知

燃料小売

152,653

矢間裕美子

3

4

3

テンプスタッフ(株) 

東京

人材派遣

107,010

篠原欣子

31

5

4

(株)I・O

愛知

石油卸

86,909

矢野裕美子

16

 

 


第2節 ブレーン・パワー株式会社・加藤まき子社長講演

 

20001121

関西大学・高槻キャンパス・高岳館

関西大学・総合情報学部・小松陽一ゼミナール・亀井克之ゼミナール合同合宿における講演

 

1.いきさつ

(加藤) 皆さん、こんばんは。お聞きだと思うのですが、私は4年前にこちらの総合情報学部でお世話になりまして、若い学生さんの中で唯一40代が1人で、非常に気恥ずかしい思いをしながら勉強してきました。そのときに、小松先生や亀井先生に大変お世話になりまして、ありがとうございました。ちゃんと単位をいただきましたので、ホッとしています(笑)。4年間色々な方にお世話になりまして、なんとか今年の3月に卒業いたしました。今、こちらの大学院で勉強しています。

 今日は、私が自分でなぜ会社を興したかなど、その辺のお話をさせていただこうかと思っています。

 私は九州の鹿児島出身ですが、高校を卒業して大阪で就職し普通のOLとして働いていたのですが、結婚はしたくないと思っていました。結婚にはあまり期待が持てなくて、結婚するとしたら20代の後半、29歳くらいでしたいなと思っていたのですが、運が良かったのか悪かったのか、22歳で結婚してしまいました。(笑)

 それから、ずっと共働きをして3〜4年働いていたのですが、夫婦2人だけというのもちょっと寂しいかなと思いまして、子どもを産んで1年だけ専業主婦をしました。そのときに、何となく私は専業主婦に向かないなと感じたのです。たぶん、一生ずっと働くだろうなと。働くのであれば、何か自分でやってみようかな、そういういきさつでした。何をやりたいというのはなかったのです。自分で何ができるというものもありませんでした。一生働くのであれば、一か八か何かやってみようかという単純な気持ちで会社を興したのです。その時、ちょうど29歳でした。

 結婚していましたから主人からお金を借りたらよかったのですが、あまり甘えるのが好きではないものですから、当時(20年前)100万円くらいあった自分の全財産を資本金にしました。では何をやろうか、というところなのですが、100万円なんて事務所を借りる保証金にもならないくらいでした。当時は、会社用の電話回線を1本引くだけで20万円くらいかかったと思います。20万も使ったら100万のうち80万しか残りませんので、どうしようかといろいろ考えたのです。

 昔、英文タイピストという職業がありまして、私は英文タイプや国際テレックスなどをやっていましたから、英文タイプの教室を開こうかとも一瞬考えたのですが、それでは事業として儲からないだろうなと断念しました。また当時は計算センターが結構はやっていましたが、計算センターは、皆さんが授業で習っていらっしゃるバッチ処理をするところです。データを集めて入力して、フロッピーや磁気テープなどで納品するのですが、これしかないかなという軽い気持ちで加藤計算センターという資本金100万円の有限会社を興したのです。

 新婚時代は本当にお金がなかったものですから、長屋のようなところに住んでいました。1階が4畳半程の台所と6畳和室が一部屋、2階は6畳間が2部屋ある小さい家でした。ですからマシンの置き場がないのです。昔、入力するパンチマシンは、この机よりもっと大きかったと思います。それを2台入れて、私が1回パンチしたものを違う方がもう1回違うマシンにかけてチェックします。だから2台置かないといけないのですが、場所がないので、台所の食卓を取り払って(笑)そこに2台置き、食事は違う部屋に小さい食卓をおいて食べたという、そういうところからスタートしたのです。

 マシンを入れるのに、2台で当時1ヶ月14万円程のレンタル料がかかりましたので、1年で170万円かかってしまうわけです。それまで営業をしたことはないし、納品書や請求書を書いた経験もありません。創業当時は、高槻市であれば松下さん、サンスターさん、YUASAさん、丸大食品さんなど大企業の電算室に電話をかけて「すみません。こういう仕事をやるようになりましたが、お仕事はないでしょうか」という感じで、お客様のところへバイクに乗り、飛び込み営業で担当の方にお会いしていただきました。当然、営業をやった経験がありませんからセールストークが出来なくて、途中から話が続かなくて沈黙の時間が結構ありました。今、思い返すと本当に赤面してしまいます。

 社名としては、「加藤」という個人名はつけたくなかったのですが、なぜ「加藤計算センター」にしたかといいますと、100万円しかなかったので、あれこれ知恵をひねった結果そうなったのです。当時、会社専用の電話を引くと、別に20万円位かかりましたので、自宅の電話を兼用して使おうと思ったのです。だから頭に「加藤」とつけました。これなら、例えば「はい、加藤です」と電話に出たときに、個人相手にかかってきた電話でも取れるし、もしお客さんからかかってきても「はい、加藤計算センターでございます」と言い直せます。それで「加藤」にせざるを得なかったのですが、少しは社名らしくなるようにと、漢字の「加藤」をカタカナの「カトー」にして「カトー計算センター」にしました。今のベンチャーさんは、事業計画をベンチャー・キャピタルや銀行さんが評価し支援してくださると、資金面では楽でしょうから、創業期にこのような悩みはないかも知れません。

一人で飛び込み営業をしていましたので、仕事がなくて2台置いたマシンの上にカバーをずっとしたままの状態が続きました。自宅が事務所ですから、事務所経費が要らないといっても、マシン代だけで毎月1415万程、消えていくわけです。100万円の資本金など何の足しにもなりません。いつまでこの状態が続くのかという不安感で、後悔の念に駆られることもありました。

 営業を開始して、しばらく経ってから大手企業の電算室の方が「これから長期契約したいので、その前に事務所を見に行きたいのですが」とおっしゃったのです。この朗報に嬉しい反面、長屋の台所にマシンを置いていましたので、私は非常に慌てました。とっさに「今、ちょうど事務所を探しているところです。決まりましたらちゃんとご案内いたしますから」と、その場はうまく凌ぎました。それから急遽、事務所探しに奔走です。まだ半年位しか営業していませんでしたし、資金的には枯渇状態でしたが、なんとか10坪くらいの事務所を探して、そこに移転しました。その時点で従業員は3人でした。でも明日、事務所にお客さんが来られるというときに限って仕事がなかったのです。これは、やばいと思い、大阪で同じような会社をやっている友達がいましたので、そこへ電話して「何とか体裁を繕わないといけないので、何でもいいから明日1日分のお仕事をちょうだい」とお願いして、前日にお仕事をいただきに行きました。ですからお客様が来られた当日は、棚の上にデータを沢山積んでおいて、いかにも忙しいという感じでやっていたのです。それが奏功したのかは判りませんが、1年契約をいただいて、辛うじて新事務所でスタートを切ることができました。そして、そこから少しずつ仕事が増えていったのです。

 

2.仕事と子育て

 私には娘が2人いるのですが、上の子が今大学4年生です。その子がちょうど2歳で、私が29歳のときに会社を興しました。2歳ですから保育所に預かってもらわないといけません。朝は7時半に保育所に連れて行って、それから出勤してお客様から、お仕事をいただくわけですが、「1000件あるから、明日の5時までにやってほしい」とまず、お電話を頂くわけです。その時点で、1000件のデータを3人で明日の5時までに出来るかどうかを判断しなければなりません。できると判断したら、「5時までに大丈夫です」と言って受注するのですが、実際、頂いてみると、その倍の2000件だったということが結構あるのです。倍の件数だから、当初の見積もりよりも2倍の時間がかかるので、納期を1日延ばしていただいて当然なのですが、納期厳守を信条としていた私は、「倍の2000件ありましたから、納期を1日延ばしてくれませんか」とお客様に言えなかったのです。一旦、翌日の5時までにとお約束したからには、自分が徹夜して出来るものであれば、徹夜してでも納品してあげようという気持ちの方が強かったからです。ですから、社員も遅い時間まで頑張ってくれました。それでも間に合わない時は、保育所に娘を迎えに行って事務所に連れ帰り、お風呂は事務所近くの銭湯を利用し、夕食は事務所で取るということをしておりましたが、そこまでやっても時間が足りない時がありました。だからその時は一旦、子供を自宅に連れて帰り寝かせた後、またその足で会社に戻って、一人で一晩中キーボードをたたいて、納品の目処がついた頃、静まりかえった暁の中をバイクに乗って帰宅するのです。自宅に帰り着くのは早朝の6時か7時という時間帯ですから、今度は、スヤスヤと寝ている子供を起こして、朝食をとらせ、保育所に連れて行って、また、その足で出勤するというように、2日間ぶっ通しでやるということも度々ありました。納期の短い仕事は時間との戦いになります。主人は主人で自分の技術翻訳の納期に追われ、二人とも仕事だけの生活で余裕がありませんでしたから、この頃は「人間らしい生活がしたい」という想いを強烈に抱いていました。多分、主人も同じ気持ちだったと思います。

誰も犠牲にならなくてスマートに経営ができたらかっこいいだろうなと、つくづく思うのですが、実際に会社を興してみると、現実はそんなに甘くありません。女性経営者だから、家庭があるから、子供がいるからという理由で、納期が遅れてもいいというお客様は皆無でしょう。男性経営者と変わらない厳しさ、あるいはそれ以上に女性経営者は気力と体力が要求されるような気がします。その後、ノーミス、納期厳守ということで、お客様からの信用も頂けるようになり、お仕事も順調に増えスタッフも10名位、抱えるようになりました。

起業して3〜4年後、会社として落ち着き始めた頃に妊娠したことに気づいたのです。妊娠したことは喜びでもありましたが、会社は開店休業にはできませんし、また産前産後のお休みなど取れるはずもないですから、さあ、これからどうしようかと、随分悩みました。少人数規模の会社で女性社員だけでしたから、結局は大きなお腹を抱えながら出産前日まで働きました。そのお陰なのかどうか、順調に出産できましたので、母子ともに4日間で退院しました。その4日間のお客様とのデータの受け渡しは同じ事務所で翻訳の仕事をしていた主人がやってくれていましたが、退院しても仕事のことが気がかりで、産後の肥立ちがどうのこうのとも言っておられませんし、また保育所は生後40日からでないと預かってくれないというので、結局、退院の翌日から、乳呑児とミルクとオムツを持参して、会社に出勤したのです。会社で2時間おきにミルクを与えたりオムツを取り替えたりと、保育所に入所できるまでの40日間は、これで何とか乗り切ったという感じでした。

 

3.人材派遣会社の設立

 取りあえずそういうかたちで計算センターをやってきたのですが、5〜6年経った頃、オンライン化が進みましたので、これからはバッチ処理自体が無くなるのではないかと懸念しました。バッチ処理とは、お客さんからデータを一括していただき、それを入力代行するのですが、そのころは第3次オンラインサービスに銀行さんが取り組んでいましたし、企業側もパソコンを社員一人に一台は与えようという方向にありましたので、これから計算センターに注力しても、時代に逆行していくのではないかと思ったのです。

 それで次の事業として何をやろうかと考えあぐねていたときに、昭和61年ですが、人材派遣法ができたのです。高槻には大手企業さんも沢山ありますので、大阪の派遣会社から派遣を使っておられた企業さんもありました。それで派遣法ができるという時に、高槻市に人材派遣会社が1つくらいあってもいいのではないかと思ったのです。地元の人が地元の企業さんを一番よくご存知なわけですから、企業側も働く側も安心して利用できるのではないかという想いで、派遣の許可をこの北摂地域で一番にいただいて人材派遣会社をつくったのです。これは別会社として、今のブレーン・パワーがそうですが、資本金1000万円でつくりました。来年で15周年を迎えます。ですから、人材派遣会社としては15年、その前に5年くらいやっていますので、会社を興してから20年くらいになると思います。

 

4.大学との出会い

 一か八かで会社を始めたのですが、派遣をやるとなれば、今までの計算センターのような情報社会から疎遠になるのではないか、と不安を抱いていた時に、高槻市に関西大学の総合情報学部が新設されたのです。1994年の設立ですが、その2年後に社会人入試があるのを知りました。それは入試の1〜2ヶ月前だったと思います。情報学部ということで、受験してみたいと思いましたが、でも万が一、合格した場合、1部だから授業は昼間になりますし、そうなると会社経営と学生と両立できるかどうか自信がありません。だから合格しても両立は無理だろうから、やはり辞めようと諦めかけていたのですが、それは合格してから考える事ではないか、という主人や子供たちの声に後押しされて、一か八か、駄目で元々という気持ちで受験してみました。社会人入試の場合は、英語か数学のいずれかの科目と、小論文と面接という科目になっていました。お陰さまで、なんとか合格通知を手にすることができましたが、計算センターをやっていましたので、その辺を少し評価していただいたのかなと思っています。それでも、コンピュータのことは全然わかりませんので、若い学生さんにいろいろと教えてもらったりして、これも社会人の特権だと思うのですが、「お昼ご飯をおごるから、ちょっとプログラムを教えて」などと言いながら、皆さんのご協力で4年間、課題も提出でき、この春、無事に卒業することができました。(笑)

 

 5.人材派遣の実状

 関係のないお話をするかもしれませんが、人材派遣業の実状を少しお話しします。今、本当に派遣がまた脚光を浴びてきているのです。アメリカでは多くの企業が派遣を使っていますが、景気が悪いときに、リストラで派遣をどんどん使って、それで景気が良くなったという話もあります。日本の場合も生き残るために派遣を使って経費を削減していこうという傾向にあります。また他のメリットとして今、消費税が5%ですから、派遣を使えば消費税のメリットもあるのです。正社員やパートなど自社で雇った場合、人件費は仕入れと見なされないのですが、派遣の場合は外注費になりますので仕入れと見なされます。売上から仕入れを引いた残りに対する消費税を払いますので、仕入れが大きければ大きいほど、企業としては消費税の金額は少なくてすむわけです。ですから、派遣をどんどん使って、納める消費税をちょっとでも少なくして行こうという企業さんもおられます。その意味でも派遣は最近、非常に忙しくなっています。この総合情報学部はそういうことはないと思いますが、もしお仕事が決まらなければ、当社へ来てください。新卒派遣もできますので。(笑)

 

6.起業へのチャレンジ

 これは経営学的な参考資料になりますが、女性社長の会社は、100社のうち5社くらいしかありません。ご主人が亡くなった後に奥様が社長を継いでおられる所も多いですが、全体で5%くらいですから、女性が自ら会社を興している例は少ないと思います。

 それから、社長になる比率では、どういう大学が多いかという出身大学別のリストがありますが、1位が日本大学で社長になっている率が高いようです。2位が早稲田大学で、3位が慶應大学、関西大学は8位になっています。同業ですが、パソナの南部靖之さんは、関西大学出身です。あの方もご自身の就職活動中に「忙しいときは忙しいけど、暇なときは暇だしな」ということを企業さんから聞かれて、そうであれば、そういう人を派遣したらいいのではないか、という発想で会社を興されて、今では大企業になりました。(*南部靖之氏については第10章参照)

 皆さんも頑張って会社を興してみてください(笑)。私は自分で経営ができるとは夢にも思ってもいなかったのですが、ある女性が私より先に計算センターをやっていまして、その方に触発されて、じゃあ私もできるかなと妙な自信がついたのです。ですから皆さんも、自分もやれるという自信とチャレンジ精神を持ってほしいと思います。私もこれからどうなるか解りませんが、私に続いて会社を興してくださる方が1人でも多く出てくれたら嬉しいです。

 

7.成功の秘けつ

(質問者1・亀井ゼミ・武田裕司) 成功の秘けつは何ですか。

(加藤) 零細企業のままですから、成功しているかどうかは私もまだわからないのですが。ただ、成功の秘けつというか、私は経営学的な数字もやはり、きちんと知っておかないといけないと思うのです。中小企業の社長さんなどで、貸借対照表(バランスシート)、損益計算書の中身は経理任せで、自分はその数字の意味がわからないという方もおられます。借り入れする場合も、やはり年商(年間の売上)の半分以上借りたら、会社としては危険領域に入るというような基本的な経営知識は必要です。某大手スーパーさんで年商と同じくらいの借入があります。企業としては本当に大変な、たぶん倒産してもおかしくないような数字ですから、その辺の経営学的な数字を、やはりきちんと頭に入れておかれること。ベンチャー・キャピタルや銀行さんが、いくら貸してくれたとしても、自社の売上と借入のバランスを、しっかり把握しておかないと会社を潰してしまうことに成りかねません。

 板倉雄一郎さんの『社長失格』(*日経BP社,副題「ぼくの会社がつぶれた理由」)という本を読まれた方はいらっしゃいますか。板倉さんは、ハイパーネットという会社を設立して、インターネットの無料接続サービスなどで急成長し、ニュービジネス大賞までもらわれた方なのです。しかし,最終的に会社は破産してしまいました。この方がおっしゃっているのも同じことです。やはりベンチャー・キャピタルや銀行さんがどんどん会社にお金を貸してくれるので、最終的にはわからなくなるのです。そして、いざ本当に資金が欲しくなったときには、この会社は危ないからと、スーと資金を引き揚げてしまう。それで資金繰りができなくなり倒産というケースに至るのです。結局、ニュービジネス大賞を取られて、あれだけ有名になられた方であってもそうなのですから、借り入れは自社の能力範囲を超えない、あまり背伸びをしないということが大事です。協力者があればどんどん協力していただくのもいいと思うのですが、限度をわきまえて借り入れをするということが、一つの倒産防止になると思います。経営学はきちんと学ばれた方がいいですから、皆さんも小松先生や亀井先生の授業はしっかり聴かれておいた方がいいと思います。(笑)

 それから、最初のスタートで、自分に自信の持てるもの、絶対にこれは大丈夫、私はできるというもの、信念を持ってやれるものがあれば、自信を喪失した時に「だめかなあ」という気持ちにならないで「いや、自分はできるのだ」と前向きに考えて、ポジティブな行動を起こしていけます。ですから、ある程度やはり自信を持ってできるものをされるといいかもしれません。

(質問者2) 昔と今との違いを教えていただきたいのですが。会社をつくられたときは、自分の会社をどのように発展させていきたいなというビジョンなどがあったと思うのです。それは、昔と今とどのように違っていますか。

(加藤) 私も地元でお世話になっていましたから、地元の企業さんに喜んでもらえるような仕事をまずしたいと思ったのです。ですから、人材派遣の会社を興したときに、他社の派遣会社さんよりも、よりお客様に満足していただけるようなサービスを提供していかないといけない、というのがスタート時点のポリシーで、それは今でも変わりません。当時は会社を大きくするというよりも、スタッフの質に拘っていました。会社が大きくなるのはいいですが、借金を重ねて会社を大きく成長させたとしても、最終的にその借金を国民の税金で棒引きにしてもらうというやり方は良くありません。そういう大企業もありますが、責任のない、あるいは責任を取らない経営は誰でもできると思うのです。でも中小企業の社長さんの場合、そういう訳にはいきません。否が応でも経営責任を伴いますから、自分が借り入れしたものは必ず返済するという気持ちで経営していますから、中小企業の社長さんたちは本当に偉いと思います。やはり経営者として責任ある経営をする、自分がお借りしたお金はきちんとお返しする、人様に迷惑をかけない。私は最初からそういうスタンスで経営しています。その上で会社が大きく成長して、社会にも大きく貢献できれば経営者冥利につきると思っています。

(質問者3) 会社をつくるのに、最低いくらお金がかかるのですか。

(加藤) 有限会社なら資本金は300万円、株式会社であれば資本金は1000万円です。

8.ビジネスチャンスと経営者

(亀井) オンライン化が出てきたときに、計算センターはたたまれたのですか。完全にやめて人材派遣業に?

(加藤) 計算センターは、今でも続けてやっています。続けてやってはいるのですが、シフトはもう派遣の方に移しています。計算センターは、今までいただいているお客様のお仕事が続くかぎりやらせていただいていますが、新たに営業してというところまではやっていません。

(関西大学・総合情報学部・小松陽一教授) 創業されるときも、見通しがいいというのか、つまりこれはいけるという、経営学でいえばビジネスチャンスを上手につかむことがポイントだと思うのです。ここが僕らが一番知りたいことなのですが、どういうふうにしてビジネスチャンスを確信されるのでしょうか。

(加藤) いろいろな会合へ出かけて、いろいろな方のお話を聞いたり、新聞を読んだり、情報誌を読んだりして、そういう中で世の中がどっちの方向に動いているか、あるいは動きつつあるかということを、掴んでいかなくてはいけないと思うのです。

 私も大学に入ったのは、1つは日常生活で疑問に思っていることがあったからです。これは母親の気持ちなのかもしれませんが、子どもが病気のときに病院へ行きますと、診察時間は5分ほどしかかからないのに、総合病院などでは2〜3時間は待たされるということが往々にしてあるのです。これだけ技術が発達しているのに何故、予約システムがないのかと考えるわけです。例えば10時に予約しておいて、10時5分前に病院に着いて、5分の待ち時間で診察してくれるというようなことが、どうしてできないのかという疑問を、子どもが小さいころからずっと抱いていたのです。日常生活の中で、何故だろうと疑問に感じることは結構あると思うのです。こんなに技術が進んで、IT革命だ、インターネットだ、世界中の品物が瞬時に入る、情報が瞬時に入ると言っている割には、では私たちの日常生活上では、どうなのだろうと疑問に思いませんか。

だから、総合情報学部へ行って、その答えが見つかるかどうか解らないけれども、ちょっとその辺を学んでみようかなという気持ちもあったのです。ある方に、そのことを話してみたのですが、「加藤さん、病院へ行ったらおじいちゃん、おばあちゃんたちだけでしょう。ああいう人たちは話をするのが楽しみで病院へ来るのだから、2〜3時間という時間は楽しみなんだよ」とおっしゃいました。それも一理あるでしょう。でも、時間がない人でも病気をすれば病院へ行かないといけないし、熱を出してしんどい思いをしている子供たちが、何時間も空気の悪い病院の待合室で待たされている。それはやっぱりおかしいのではないかという想いがあります。日常生活が便利になるということは、これまでの様々な規制を緩和する、撤廃するということにも繋がると思うのです。今私たちは、宅急便という便利なものを利用していますが、ヤマト運輸の小倉昌男会長さんが、宅急便のシステムを作られるまでに行政と相当の丁丁発止があったことは有名な話しです。(*本書補章に小倉昌男氏の言葉収録)

 だから、日常生活で問題意識を持つ。ビジネスになるかどうかは解りませんが、ビジネスチャンスというものは、本当にその辺に転がっていると思うのです。ただ、それを問題意識を持って見るかどうかというところにあるのではないでしょうか。同じものを見ても、何も考えないでスーと流れてしまう人と、ちょっとおかしいな、何でだろうといったん止まる人がいます。そういう意識を持っていたら、第六感のようなものが働いてくると思うのですが、その第六感が大事なのです。

(亀井) 経営者としてのお仕事と家庭とのバランスをどのようにおとりなのかに非常に興味があります。会社を興されるときに、やはりご主人様とは何か取り決めがあったのでしょうか。

(加藤) 女性が外で働くことになれば男性は多分そうだと思うのですが、「女性が働くのはいいが、自分の妻は働いてほしくない」という総論賛成、各論反対のような所があると思います。我が家では主人も同時期に会社を始めて今、技術系の翻訳会社を経営しています。設立当初は会社を一つにして事業部制で、計算センター事業部と翻訳事業部でやろうかという話も持ち上がったのですが、夫婦でも考え方や方針は違いますから、いつか意見のぶつかり合いがあるかもしれない。そうなればお互いに不快な想いを会社でも自宅でも引きずってしまうので、そういうことは極力さけたいということで、自己の責任において各自の持てる能力や資金の範囲内で独自に会社を興すことになったのです。ですから最初から、お互いに役員にもならずに関与もせずに会社を別々に経営してきました。

 主人は自分の会社が忙しいから君の手伝いは一切できないと、仕事や家事に対して一線を引きましたが、その代わり、私が忙しい時には外食で済ませてくれたり、そういうことで協力してくれました。手作りの食事しか受け付けない人であれば、ここまでやってこられなかったと思います。

 妻、母、経営者としてのバランスの取り方は非常に難しいと実感しています。女性が経営していくということにおいては、男性以上の努力が要求されるかも知れません。女性経営者になって離婚されるケースも多々見られますが、離婚されてから会社を大きくされた方もおられます。それはそれで、その方の人生と価値観がありますから、どれが良い悪いということではないのですが、私としては、「家庭を壊してまで自分のやりたいことを押し通して本当にそれでいいの?」という考えが根底にあるのです。だから家庭を維持しながら、子どもを育てながら会社をやっていくのが、一番しんどい事だけれども、一番意義があることではないか、という妙なこだわりというか、ポリシーのようなものが自分の中にあるのです。

 でもそうは言っても、多少なりとも家族は皆、犠牲を伴っていると思っています。その中でも一番苦労をかけたのは、大学4年の長女だと思いますが、娘たちは、「ほったらかしにされて十分、横道にそれる家庭環境だったけれども、私たちが横道にそれなかったのは自分たちが偉かったからだよ。お母さんが偉かったからじゃないよ」と言います。お母さんは体がエラカッタ(大阪弁でしんどいの意味)なんて冗談を言っていますが、本当に娘たちの言うとおりだと思っています。娘たちや主人の協力がなければここまでやってこられなかったと、いつも家族には感謝しています。ゴタゴタしながらも何とか今日まで経営者として存続できたのは、家族の支えがあったからだということを時間の経過とともに強く感じています。

妻、母、経営者としてのバランスをどう取るかということでは、それぞれの役割に完璧さを求めないで、また自分自身に完璧さを課さないで、出来ないことはできないと割り切ることがバランスをとる上で一番大事なことだと思っています。

(亀井) 経営者の方にインタビューするときに必ずする質問なのですが、お仕事のどういったところがおもしろいですか。

(加藤) 経営をしていたら、夢が膨らむのです。次はこういうことをやっていこうかなとか、状況を見ながら次は何をやろうかと考えていく中で、夢が膨らむことが一番楽しいところですね。さっきの話ではないですが、これだけインターネットだ、技術革新だ、IT革命だというわりには、実生活上であまり生かされていないのでは、という忸怩たる思いがありますので、これからいかに実生活上でインターネットを便利に使いこなせるかを考えていきたいと思っています。そういうことを考えていたら、どんどん夢は膨らみます。実践できるかどうか解らないのですが、経営は苦しいよりもやっぱり楽しいからやっているのだろうなと思います。