■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆
■■■やき ■ ■ ◆
=その8=

ゼミのみなさんへ

<業務連絡>
『英語青年』10月号、ただいま発売ちゆう。
わたくしが書いたコラム風書評「旧著快読」を掲載しておる。
雑誌なので賞味期限あり、これを逃したら二度と読めないぞー。
買えとは言わぬから、本屋さんで立ち読みしましよう。
アキモトせんせの華麗なるレトリックと目の覚めるような議論に、必ずやきみは
眠くなるであらう。

以上。

今回は6月に観た映画から。

6月には、『ルール2』『デンジャラス・ウーマン』『スクリーム 3』『グリー
ン・デスティニー』『トゥルー・クライム』『ディアボロス』『マーシャル・
ロー』『武器よさらば』『裏切り者』『仁義なき戦い』『最終絶叫映画』『アメ
リカン・ナイトメア』『仁義なき戦い・広島死闘篇』『仁義なき戦い・代理戦
争』『ルール』『処刑人』『悪魔を憐れむ歌』を観ました。

うむ、いかなる先入観にもとらわれないチョイスで、きわめてジャンル横断的で
ある。
って単に支離滅裂で野放図なばか映画偏向ということなのかもしれない。

とは言え、なぜか6月にはホラー映画(『ルール2』『スクリーム 3』『最終絶
叫映画』『アメリカン・ナイトメア』『ルール』)と、「悪魔が現代アメリカに
やってきた」もの(『ディアボロス』『悪魔を憐れむ歌』)と、東映の古典やく
ざ映画(『仁義なき戦い』シリーズ)に偏しておる。

別に意図的ではないが、6月は刹那的な破壊衝動に傾いていたのだろうか。

なんしか徹底したばか映画を観たいという欲望に領されていたことはまちがいな
い。


『ルール2』URBAN LEGENDS FINAL CUT
2001年アメリカ
監督:ジョン・オットマン
出演:おばかな大学生たちとケープを被って顔の見えないヒトゴロシ
【ジャンル:シリアル・キラーのホラー映画(特にバカな若者がどんどん殺され
るザマミロ的倫理のジャンル)】

おバカなホラー映画でも観ようと思って借りたら、期待に違わずとってもおバカ
な若者ホラー・ジャンルだった。
アメリカはホラー映画の名産地だけれども、暴走する若者たちへのルサンチマン
を晴らすようなホラーが実に多い。
これはある種の逆立ちした倫理の表現である。

移民国家アメリカは、その根底に「若者崇拝」がある。
移民一世の親よりも子供たち、とりわけ二世の「生粋の」アメリカ人の方が英語
も身につけるのが早いし、生活習慣もアメリカナイズしている。
したがって、親よりも子の方が「ただしい」という逆転現象がよくある。
子供たちが何をしても、基本的に「ただしい」のではないかという気持ちを、親
世代は払拭することができない。
それで鬱屈した感情がルサンチマンと化し、美しく若くイノセントな者らへと向
けられる。
ホラー映画がその怨嗟を代わりに晴らしてくれるわけ。要するにホラー映画で
は、若者が「罰せられる」のである。

いちゃつく若者(特に女の子)。
大人をばかにする若者(特に女の子)。
傲慢な若者(特に女の子)。
こういった若者たちが、不条理で理解不能で理不尽な暴力にさらされるわけであ
る。
不条理で理解不能の理不尽な闇っていうのは、無意識へと抑圧した情念そのもの
でしょ。

さて、『ルール』その1は見あたらなかったのでいきなり続編である。
まあいいか。たいして変わんないだろ。

『スクリーム3』のように、映画についての映画についての映画についての……
と無限後退していくあからさまな「メタ映画」である。
自分の尻尾をくわえた蛇ウロボロスのように、ぐるぐると永遠に自己言及の円環
をめぐる。
そして「ホンモノ」と「ニセモノ」、リアリティとフィクションの差異が溶融し
ていくってのがこういうメタ映画の本領である。

舞台設定が映画学校だし。
主人公の女の子が卒業制作にフィクションを、それも「都市伝説(urban
legends)」を題材にしたホラー映画を撮るってのが主筋だし。
この段階ですでに審級の異なる3つの「物語」構造をもつ。映画『ルール2』の
物語でしょ、主人公の女の子が製作する映画でしょ、それから題材となる「都市
伝説」物語でしょ。

さらには双子のモチーフは出てくるし(どっちがホンモノなの?っていうモチー
フ)、映画の小道具のピストルが散乱したなかでホンモノのピストルを探すって
シーンが出てくるし。
絶叫を録音するために、"Scream!"としつこくディレクトする場面もあるし(も
ちろんホラー・ヒット作の『スクリーム』へのアリュージョンである)。
「物語」だらけの物語なのだ。

ホラー映画を卒業制作で作っているうちに連続殺人が起きるが、実はそれが卒業
制作で作っている映画でしたとなって(ウロボロスだね)、さらにブチっと画面
が切れて、それは精神病院で患者(シリアル・キラーの教授)と看護婦が観てい
た映画でしたってなる。要するに、「映画ってのは狂人の妄想です」ってことが
言いたいんですか、ジョン・オットマンの旦那。

とってもよい。わかりやすくって。
アメリカの大学の映画学科のマニアックな煮詰まり方もよく知れる。

物質文明の頂点を極めた20世紀アメリカはお化けを文明の光で駆逐したはずであ
る。
だから照明の明るいところでみんなと一緒にいれば恐くない。
だから夜一人で図書館に行ったり、車のキーを置き忘れて建物に一人戻ったり、
みんなが楽しくわいわいやっている晩に「じゃ、ぼく、さきに帰るね」って一人
帰途についたり、お化け屋敷に一人で入ったり、暗いとろこで一人でお仕事して
はいけません。
理由その1。一人になるってのは、社会的なペルソナから離れて自分の実体や無
意識と直面することを意味するから。
理由その2。自分自身と相対して矮小なる自己と面したとき、シリアル・キラー
がやってくるから。

しかし、シリアル・キラーって実に身体運動能力に優れ、予測・計画能力に秀で
ていないといけない。
「殺す相手」がいつどこでどのように「一人」になるか、この偶然が支配する世
界にあっては本来予測不可能なのに、実に用意周到で神出鬼没、期を見るに敏で
リスク管理に長けている。
こういう「有能」な人は各会社に一人欲しいところだ。

シリアル・キラーちゃん、その特殊な異能をヒトゴロシなんてつまんないことに
あたら蕩尽せずに、生産活動に発揮してほしい。

◆◆
『デンジャラス・ウーマン』CORRUPTION EMPIRE
1999年アメリカ(TV)
監督:マシュー・ペン
出演:ベンジャミン・ブラッド、ジュリア・ロバーツ、ジェリー・オーバック、
アンジー・ハーモン
【ジャンル:警察もんと司法もん、あるいは映画の名を騙ったTVドラマ】

ツタヤ人気ランキング6位というのにふらふら惹かれて借りてしまった。

サンドラ・『スピード』・ブロックの『デンジャラス・ビューティ』の「タイト
ルぱくり」だね。
原題は"Corrupt Empire"でニューヨークの刑事もん。

なんか冒頭の編集カットが変だと思ったら(DVDの汚れで場面がすっとんでるん
かと思ったよ)、これまたTVシリーズだった。そんで、なんか切れ目がよくわか
んないんだけど2話分入っていて、最初のお話にジュリア・ロバーツが出てい
る。経済界の大立者もデカも手玉に取る「悪い女」の役。

ジュリア・ロバーツ人気で稼ごうってんだろうが、出てんのは1話目だけじゃ
ん。なんでこんなしょーもないもんが、ツタヤ人気ランキング6位なの?

業界のあざとい策略に、なんでみんな抗議してレンタル拒否せんの?

聴視者はみんな組織的にバカになりたがっているとしか思えん。

といってわたくしも騙されて借りて観てしまったが。ばか。

二つ目のおはなしは、アメリカの裁判制度、司法取引、そして裁判所と似たよう
な権限をもつ調査委員会等々、例のごとく司法もの。
証人をいかに貶め、辱め、言葉の接ぎ穂を奪い、感情的にさせ、発言を途中で遮
断し、いいようにいたぶって追いつめてゆくソフィストのレトリックの台本を書
かせたら、アメリカ人に並ぶ者なし。
証人席に着く者はみなひどい目に遭い、司法に関わる者にろくな奴はいない、と
いうのがこの映画の中心テーゼである。

ジェリー・オーバックおじさんは刑事役で、彼の元相棒がギャングとつるんで人
殺しまでする。
根性もんで元々「いい刑事さん」だったんだが、だんだん悪徳刑事になっちゃっ
たんである。
よくあるパターンである。これもアメリカの原型的な話型だろう。正義感と
innocenceと世間知らずを合わせた若者が、腐敗したrealityに蚕食されてだんだ
ん堕落してゆく。
逆立ちしたイニシエーション・ストーリーなのだ。

最後、オーバック刑事さんたちが、いざ逮捕って犯人である元相棒の家に踏み込
む。犯人さんは連行されるってときに、「その前に、ちょっとトイレいいかい
?」と言ってトイレに消える。
案の定、ドアの向こうで拳銃バンッで自殺を遂げる。

決まってるじゃん、間抜けだね刑事さんたち、トイレなんか行かせちゃだめだ
よ。
以後、注意するように。

やり手の検事役の女の人が美人でかっこいい。かしこそうだし。
上司の女性黒人ディテクティヴが渋い。

上司にはマイノリティを配するってのが昨今のハリウッドPC文法である。
黒人が警察署長役したり、女性が会社のエグゼクティブしたりする映画が最近多
いでしょ。
ここでも「女検事」というやり手の女性が出てくる。
でも、ああなるほど、まだこの手があったんだ、「黒人」で、かつ「女性」の上
司ってのが出てくる。
うむ、なかなかやるじゃん。

ベンジャミン・ブラッドという「自分はペルー系だ」と作中で自己紹介する若手
デカ、名優ジェリー・オーバック、そしてジュリア・ロバーツ、みんな声がい
い。アメリカ英語とその発声法が、耳に心地よい。

ま、そんだけのテレビ「映画」である。

◆◆◆
『スクリーム 3』SCREAM 3
2000年アメリカ
監督:ウェス・クレイブン
出演:ネーヴ・キャンベル、デビッド・アークエット、パトリック・デンプ
シー、パーカー・ポージー、コートニー・コックス、ランス・ヘンリクセン、
ジェニー・マッカーシー、エミリー・モーティマー、ジョシュ・ペス
【ジャンル:シリアル・キラーのホラー映画(特にこれまたバカな若者がどんど
ん殺されるザマミロ的倫理のジャンル)】

シリーズ第3作ですね。
5、6年前、何を思ったのかうちの奥さんがシリーズ第1作を借りてきて観たとき
には、ぶっとびましたね。
すんごーい、そこまでやるかあ、と。

前にも述べたようにホラー映画はアメリカ名産品である。
彼らのホラー映画に傾ける情熱、生真面目さは尋常ではない。30年代から50年代
の狼男、フランケンシュタイン博士のモンスター、ドラキュラ伯爵、ミイラ男
等々のB級ホラーはハリウッドお家芸だった。
それから60年代の血みどろスプラッターとゾンビ、70年代の『エクソシス
ト』『ヘルハウス』『オーメン』等を代表とすオカルト、『ハロウィン』を嚆矢
とするブギーマン(殺人鬼)の猟奇殺人ものの『13日の金曜日』『エルム街の
悪夢』シリーズ。

狼男やフランケンってのは最近あんまり流行んないみたいだけど(確か70年代に
ニュー・フランケンシュタイン人造人間の『悪魔のはらわた』ってむちゃくちゃ
恐い映画があったな)、どうも吸血鬼もんって最近また復活の兆しである。
『ブレイド』でしょ、『ドラキュリア』でしょ、『シャドウ・オブ・ヴァンパイ
ア』でしょ、タランティーノの『フロム・ダスク・ティル・ゾーン』でしょ。
なぜかな。

ゾンビってのも手を変え品を変え繰り返し登場しますね。『フロム・ダスク・
ティル・ゾーン』のヴァンパイア・ゾンビ、『ハムナプトラ』のミイラ・ゾンビ
にもそのココロは正しく受け継がれておる。

『ハロウィン』に始まるブギーマンってのも、アメリカ的想像力の特産物であ
る。平和で豊かで明るいアメリカの家庭のリビングルームから、階段を上って子
供たちは二階の自室で眠らなければならない。
そして二階の子供部屋のクローゼットからは、子供がひとりになると必ずブギー
マンが登場してくる。
ブギーマン・イメージって、クローゼットのなかの不可視の暗闇の可視化なの
だ。スティーヴン・キングが小悦で描いているのはたいていこれね。
『13日の金曜日』のジェイソン(前身は人間の皮の仮面をかぶったチェイン
ソー怪人『悪魔のいけにえ』)や、『エルム街の悪夢』フレディもそういった想
像力の産物なのだである。
それが『スクリーム』や『ラスト・サマー』や『ルール』のシリアル・キラーに
つながる。
変奏としては『羊たちの沈黙』『ハンニバル』『エド・ゲイン』であろうか。

ふと思ったのだが、狼男を別にしてアメリカ的なモンスターというのはいずれも
埋葬文化の産物だ。
ドラキュラもフランケンシュタインもミイラ男も火葬文化からは生まれ得ない。
『悪魔のいけにえ』とか『サイコ』とか『羊たちの沈黙』とか『エド・ゲイン』
のように、死せる身体を部品にして別用途にリサイクルするっていう悪魔的な発
想も、火葬文化圏ではそもそも発想し得ない(発想しても材料がない)。
そしてこの背景には、第二次世界大戦のときナチス・ドイツがユダヤ人虐殺で
やった、皮膚をリサイクルして家具を作るっていう悪魔的ヴィジョンがある。
ジェノサイドそのものは言うまでもないが、あのドイツ的効率主義の悪魔的発現
は、20世紀のトラウマなのである。

『エクソシスト』を代表とするオカルト映画ってのも、正統なる嫡子がおる。
わたくしが「悪魔が現代アメリカにやってくる」系とお呼びしているサブ・カテ
ゴリーである。
たいてい、ムードはカトリック系で、現代アメリカの大都市っていうミスマッチ
が「売り」なのだ。

とにかく、こういったホラーの「歴史的蓄積」を経て、今や直球そのまんまのホ
ラー映画を作ることはむずかしくなっている。
セルフ・パロディと、ホラー映画に関するホラー映画たるメタ映画が流行る道理
である。
歴史的蓄積は、そのまま参照枠となる膨大なリソースを形成しているんだから。

さてと、このような長い歴史の蓄積の末登場した『スクリーム』シリーズ。

まず何よりもこのシリーズでブレークしたネーヴ・キャンベルのきらきらした涙
目はよい。
あの涙目が、「なんでわたしがこんな理不尽なひどい目に合うの?」っていう不
条理性を、きわめてイノセントに伝える。
殺人鬼の仮面の、細く地獄の底の闇のように黒い目の穴とコントラストをなす。

それからこの映画が受けた主たる理由なんだけど、かなりどたばたのコメディが
入っておる。
そもそも猟奇的な殺人鬼って、一歩間違えたらコメディに流れるよね。チェイン
ソー振り回す人皮仮面もジェイソンもフレディも、その理不尽なまでの恐さって
お笑いぎりぎりだ。
『エルム街』シリーズが次第に喜劇へと展開していったのも首肯できる。

それから『スクリーム3』には自己言及性のもたらすくすくす笑いもいっぱいで
す。
だから最後に「当たり前のホラー映画」的なシリアスになって、「頑張れヒロイ
ン孤軍奮闘!」的なアクションと、事件の背後に隠されていた過去の怨念の存在
と、連続殺人の種明かしと、謎の解明がかえってがっくり。
あれれ、まんまじゃん。

わたくしが私淑する内田樹先生(http://movie.tatsuru.com/)が評しているよ
うに、『スクリーム』が「ホラー映画に関するメタ映画」で、『スクリーム2』
が「ホラー映画に関するメタ映画に関するメタ映画」だったとしたら、「三部作
(trilogy)」をキー・ワードにしつつ、『スクリーム3』は「メタ映画」に関
するただの「映画」に戻ってしまってるのじゃないだろうか。
設定をハリウッドにすれば自動的にメタ映画になるっつうのはチョト安易でっ
せ、ケヴィン・ウィリアムスンくん。
そんでもって映画監督がすべてを統括する犯人でしたってことだね。よくわかっ
たよ。

『スタッブ』『スタッブ2』という映画があって、そこにあのムンクの「叫び」
のような仮面をつけたシリアル・キラーが『スクリーム』シリーズと同じ殺人
を……、というか『スクリーム』『スクリーム2』が「実話」という設定で、そ
れに基づく『スタッブ』シリーズが作られるというお話である。
ややこしいね。

『スクリーム』シリーズで初回から出ているデヴィッド・アークエットが事件の
経験者として『スタッブ3』の制作アドヴァイザーに雇われているわけ。
『スタッブ』シリーズを制作するという前提が、『スクリーム』シリーズを「現
実」として仮構し、『スタッブ』の「トリロジー」の第3部を通じて解決・完結
する、という設定。
う〜ん、いまいちつまんない。

内田樹師匠曰く、「"I'll be back"という子は死ぬ」というのが「ホラー映画の
ルールのひとつ」である(この映画では"We'll be right back."だった)。
ここではそのルールにさらに一回転ひねりが加えられている。
この台詞を吐いた奴は、案の定殺されます。だけどそれはお芝居でありまして、
実は彼こそシリアル・キラーだったんだから。

シリアル・キラーものの法則には、アパートで一人無防備にシャワーを浴びる女
は死ぬというのもある(『サイコ』を嚆矢として)。
それじゃみんな死んじゃうじゃんってことになるけど、もちろんホラー映画の場
合です。
男はシャワーを浴びないし(もちろんホラー映画の場合)。

それから"We're not in danger."といった台詞を吐く人も死ぬ。

要するに無防備な奴は死ぬ。
はっきり言えば、バカは死ぬ。
これ、ホラー映画の鉄則なり。

我が一押しのランス・ヘンリクセンくん(『パウダー』のシェリフ、『デッド・
マン』の賞金稼ぎ、『クイック&デッド』のキザなガンマン、そしてもちろん
『エイリアン3』の「ビショップU」)は、なぜかチャチな端役だった。
ジョン・ミルトンという名の映画監督で、終わりの方でチャラっと殺されてしま
う。でもわたくしはランスくんの奇態な顔立ちと裏切らぬ性格俳優ぶりを応援し
ているよ。
シブさが似ているので、ときどきスコット・グレンと間違える(『シルヴァラー
ド』や『羊たちの沈黙』や『戦火の勇気』や『ヴァーティカル・リミット』の人
がこっち)。

ちゅういちゅうい。

◆◆◆◆
『グリーン・デスティニー』CROUCHING TIGER, HIDDEN DRAGON
2000年中国
監督:アン・リー
出演:チョウ・ユンファ、ミシェル・ヨー、チャン・ツィイー、チャン・チェン
他、中国系のみなさん
【ジャンル:最初は忍者映画かと思わせて、実はウルトラ・ワイヤー・アクショ
ン・カンフー歴史劇の師弟物語】

わーお、最初こりゃ忍者映画かと思ったよ。
チャン・ツィイーが黒装束で覆面までして剣を盗みに来るの。どう見ても忍者。
そのあとの北京城の屋根の上を「跳んで」いくワイヤー・アクションがすんっ
ごーいと喜んどったら、オーバー・アクションがどんどん過剰になってゆく。
「跳躍」しているって「約束」が、あらゆる物理法則をぶっ壊して「お空飛ん
で」いるになっちゃうんだもん。

でも、びゅんびゅん飛ぶよりも、後半の竹林での戦いがもう「美」である。

みんな中国語がうまくて気持ちいい(当たり前か)。
身体能力の凄さと美しさも、「あんなにうまくて気持ちいい中国語話す人たち」
なんだから可能なんだ、と妙に説得(錯覚)させられる。

馬賊が跋扈する「西域」の景色が超絶美しい。西部劇の荒野みたいにも見える。
馬賊の長(なんとなく宇崎竜童っぽい顔のチャン・チェン)とチャン・ツィイー
(うん、その意志的な目もかわいい)の出会いを描くこのサブ・プロットがよろ
しい。
原作ではこっちの方が主筋ではないのかと思われる。
高山のてっぺんから飛び降りたら願いが叶うっていう哀しい伝説をモチーフにし
て、最後はチャン・ツィイーが飛んでしまうし。

チュウ・ユンファはときどき陣内孝則に見えることがある。
チュウ・ユンファの相方の女剣士ミシェル・ヨーは倍賞美津子に似ている。
若い「弟子候補」チャン・ツィイーは原田美枝子をもちょっと若く細くした感
じ。

みんな美しいまでの身体能力(と耳に心地よい中国語)を活かして今後ともがん
がん頑張るように。
せんせは応援するぞ(こういう美しくもベタな映画もっと観たいし)。

◆◆◆◆◆
『トゥルー・クライム』TRUE CRIME
1999年アメリカ
製作・監督:クリント・イーストウッド
出演:クリント・イーストウッド、ジェームズ・ウッズ他
【ジャンル:冤罪サスペンス(なんてジャンルないかな)、あるいは「死刑囚」
もの】

「ツタヤおすすめ!」という惹句によろよろと引かれて借りてしまった。

イーストウッド、元アル中って設定はいいとしても、女たらしのだらしない男と
いう役柄には、いささか年齢がいきすぎているのではなかろうか。ひとつ間違え
ると、単にだらしなくきたなく少々人格的に問題のある「変態じいさん」と化す
るであろう。

イーストウッドがやり手のブン屋って役柄も今ひとつ説得力がない。

例えば『インサイダー』で元左翼ジャーナリストって役柄のアル・パチーノ、そ
れから『マッド・シティ』で立て籠もり犯に密着取材するTVジャーナリスト役の
ダスティン・ホフマン。
彼らのような「ブン屋」的説得性と存在感がイーストウッドには欠ける。

たぶん、文筆業的な知性を、無慈悲にしてクールなマカロニ・ウエスタンのガン
マンや、ニヒルでマグナムでメイク・マイ・デイな「ダーティ・ハリー」キャラ
ハン刑事のイーストウッドのイメージに、うまく重ねて見ることができないから
だろう。

拳銃ならずペンを持ち、ちゃっちゃか文章書いているイーストウッドなんてのを
想像するのは困難だ。
実際にブン屋として原稿書いているシーンを見ても、目から入ってきた情報を脳
が拒否しているような居心地の悪さがある。
新聞局でパソコン画面に向かい、あの長い腕とおっきな手を無骨に操ってキー
ボードをパコパコやっているシーンがあったが、全然説得力ないっすよ。

演技派ジェイムズ・ウッズはやっぱりいいぞ。
あくどい、あざとい、いかにも現代アメリカの生き馬の目を抜くようなやり手の
リアリストでありながら、ポコッと人間性をかいま見せるのに長けた卓越した演
技。
この映画では、オーバー・アクション気味のダスティン・ホフマンを思い出させ
るような、かつての『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のときに
はなかった演技を見せてくれる。

『トゥルー・クライム』は、犯罪アクションもの、刑事もの、法廷もの、そして
シリアル・キラーものに追いつけ追い越せとばかりに台頭著しい「死刑囚」もの
ですね。
『デッドマン・ウォーキング』『グリーン・マイル』『ダンサー・イン・ザ・
ダーク』なんか記憶に新しい。
シャロン・ストーン主演の女性死刑囚の『ラスト・ダンス』ってのもあるらし
い。(ツタヤに置いてないので観てない。ツタヤのばか。)
リュック・ベッソン監督の『ジャンヌ・ダルク』や、アーサー・ミラー原作で
ウィノナ・ライダー主演の『るつぼ』みたいな歴史もん、ウエスタン映画では
ジョン・キューザックの『ジャック・ブル』やジョディ・フォスターとリチャー
ド・ギア主演の『ジャック・サマースビー』も、究極的には処刑シーンに収斂し
てゆく。
処刑に収斂してゆく、あるいは処刑から始まるって点ではショーン・コネリーの
『理由』もデンゼル・ワシントンの『悪魔を憐れむ歌』もそうだ。

アメリカの方々はみんな「死刑」が大好きなのだろうか。

そう言えばクリント・イーストウッドのウエスタン『奴らを高く吊せ!』にも、
映画史上に残る印象的な縛り首シーンがあった。

フランス映画だけれども、大昔に観たアラン・ドロンとジャン・ギャバンの共演
で、ドロンがギロチンにかけられる話(フィルム・ノワールの『暗黒街の二人』
だったっけ?)や、『パピヨン』の冒頭の斬首刑のシーン、それから日本映画に
も『切腹』ってのがあった。ちょっとカテゴリーはちがうけど。

死刑執行もののコワイところは、制度的な力が、人間性という抽象的な理念は言
うまでもなく、生命や自然の力や人間の感情や情念の「上位に」位置づけられて
いることをありありと現前している点だ。
今、目の前にいる看守、所長、警備員、死刑執行官は、「人間」であると同時に
人間でない「制度」なのである。
彼らが「気が変わって」「同情心を抱いて」「ほだされて」、あるいは冤罪を信
じている場合は「法よりも真実を優先する」って信念に基づいて、何であれ死刑
囚の命を救うだけの物理的なチャンスがある。
無数に転がるチャンスに比して、同時にそんな可能性は無限にゼロに近い。

制度側の彼らは、囚人を憎んでいるわけではない。
むしろ、被害者遺族を初め世間が死刑囚に対して抱く激しい憎悪と対照的に、囚
人のそばにいる彼らは囚人に同情的であったり理解があったりする。
しかし、こんなにも近くにありながら、彼らと死刑囚とのあいだには決して飛び
越えることのできない断崖が広がっている。
看守ら「向こう側」には持続的な生命があり、こちら側には何時何分と確定した
死が待つ。
憎悪の刃によって殺される方がまだましなのではないか、とさえ思えてくる。
「同情すんなら命をくれっ」というところであろう。
しかし、彼らは職責として、お仕事として、きちんと制度を遵守して粛々と死刑
を執行するだろう。
囚人を励まそうと、暴力的に引っ立てようと、変更し得ない運命に向けて彼らは
きちんと物事を押し進めていくだろう。
制度が生命を圧殺するのである。そこには人間がいない。皮肉にもすぐにも人間
であることを止められる死刑囚除けば、死刑執行の現場には人間が一人もいない
のだ。
「非人間的」な制度のなかで、逆説的に死刑囚のみがこの瞬間きわめて人間的な
のである。

こういうのってコワイ。

現代アメリカの処刑は、「残酷さ」に否を唱える。
絞首刑や斬首刑は残酷だから排除される。
まず、麻酔の注射が打たれて、死刑囚が意識を失ったところで次々と致死性の薬
が段階的に注射される。
それも人が注射するのではなく、すべてコンピュータ制御の自動化された機械に
よるものなのだね。
処刑からいっさいの「人間性」を排除し、人間の介在を取り除こうとしているの
だ。
非人間的な「優しさ」である。

でもこの映画ではぎりぎり知事からの電話で、死刑執行が中止となる。
いくつもある注射の最初のショットで意識を失うところまで執行が進行したとこ
ろで、ぎりぎりストップがかかるんだよ。

死刑囚たる黒人の冤罪を描いたPC的配慮もあるだろう。
最後のシーンは、冤罪の晴れた元死刑囚一家が街中でお買い物をして、「クリス
マスの親子三人の幸せな家族像」を上演して終わっている。

こんなんでいいんかね。わたくしはちょっと納得がいかない。
しあわせそうな一家を見て、ニヤッと笑って指立てて挨拶を送るイーストウッド
と、それに応える元死刑囚、ああよかったね。そんな感じで物語が終わっちゃっ
ていいんだろうか。

まず冤罪の問題があるでしょ。補償はどうなったの?
それ以上に、ドストエフスキーの経験のようなトラウマの問題もあるし。
ドストエフスキーは若いころ革命党派に属していて、ツァーリに対する陰謀で銃
殺刑を宣告された。
目隠しをされ、いよいよ「撃て!」となる直前に官憲が刑場に駆け込んできて、
「皇帝の恩赦が出た」ってことで執行停止となったのね。(ところがこれはお芝
居で、元々死刑は執行せずに、「直前に執行停止」とする謀りごとだったんだ。
悪趣味だしひどいよね。)
この死の恐怖のトラウマこそドストエフスキーという小説家を生み出し、彼の小
説を領していると言う人もいる。

だからこの映画も、実は終わったとこ「から」始まるドラマがあったはずなんだ
よ。

2002-09-10
Copyright c.2002 by Mew's Pap Co.Ltd.
All rights reserved.

****
秋元秀紀
Hideki Akimoto
akimoto@ipcku.kansai-u.ac.jp
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