■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆
■■■やき ■ ■ ◆
=その36=
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2004-08-17
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
やっほ。
 
みなさんたいへんご無沙汰いたしました。
2月以来であります。
ほんとうに曲もなく芸もなく曲芸もない話で申し訳ないが、ほんとにほんとに忙しかったんだってば。
 
シネつぶ休刊に憂慮し、わたくしの体調や脳調の心配までしていただいた世界の一部若干名の方々、ども、すんません。
 

この間、長い伝統ある文学部が「がらがらぽん」と解体し、文学部は総合人文学科の1学科制になりました。
英文学科、英語英文学科と歴史の変転を目撃してきたわが社も、英語英文学専修と相成った。
 
たまらんストレスと疲弊と労苦の挙げ句に学部改革が断行されたのであるが、文学部総合人文学科に入学してきた新1年次生のみなさんはとっても真面目のよい子たちであるように思われるのも、決して欲目ばかりでないであろう。
 
1年次の前期入門演習はほとんどフルマラソンのような授業であったが、35人全員が完走できたのは慶事である。
 
今度はきみたちの番である。「じっくり学んでしっかり選べる」一年間を経たら、来年度に専修を選択するときにはうっかりでもちゃっかりでもしゃっくりでもなく英語英文学専修を選んでね。
 
そのような趨勢のなかで授業をしているせいか、一般英語を担当している法学部や工学部の学舎もみな一生懸命勉学に励む学生であふれているように感ぜられる。
 
いたって真面目な子たちである。
 
みなさん、ご苦労さん。
 
あー、しんどかった。
 
わたくしもいささか疲れたのであろうか。前期終了後、謎の微熱が2週間続く体調不良で何も手に付かなかった。
 
困ったことである。
 

さて、この3月にめでたくご卒業されたみなさん、ご挨拶が遅れてごめんね。
たいへん遅くなりましたが、卒業生のみなさんにはこれが最後の配信となります。お約束どおり、メーリング・リストから削除いたしますので、おバカな映画評メルマガ「シネマのつぶやき」の継続配信をご希望の向きは、別途連絡をお願いします。
 
疫病とテロと戦争と人間不信の21世紀前半をサヴァイヴする同志として、みなさんの前途に幸運がごろごろ転がっていることを衷心より祈りあげます。
 
というわけで、今回はリハビリを兼ねた復活の「シネつぶ」である。
 
この前期のあいだに、わたくしは2回だけ映画館に足を運びました。『ビッグ・フィッシュ』と『ウォルター少年と、夏の休日』。
普通ならわざわざ映画館に行ってまで観ないであろう。
 
『ビッグ・フィッシュ』は、フランス語学を専門とされるO先生ご推奨の映画である。「すごく好きなんですよ」とおっしゃる。
さらには、ぶらりと研究室に遊びに来てくれたゼミの卒業生も、この映画をたまたま観ていて面白かったと言っていた。
それならばと、時間があれば観に行こうと思っていた。
 
と、その翌週、予定されていたミーティングが前日に突然キャンセルされて(わーい)、ポコッと一日空いた6月15日に近場の映画館で観た。
 
『ウォルター少年と、夏の休日』は、補講期間中、「補講はいやだ!」「一度も休講していないのに補講をするなどという暴挙は絶対阻止するぞ!」「帝国主義的補講日制度を断固粉砕!」と糾合される学生さんたちの意を汲んで(わーい)、ポコッと空いた7月13日に梅田ピカデリーまで出向いて観た。
 
実は新聞広告で概略を読んで、観たばっかりの韓国映画『おばあちゃんの家』とそっくりなのに一驚を喫し、比較してみたくなったのである。
 
ということで、リハビリ初回は『ビッグ・フィッシュ』観てきた記。
 

『ビッグ・フィッシュ』BIG FISH
2003年アメリカ
監督:ティム・バートン
出演:ユアン・マクレガー、アルバート・フィニー、ビリー・クラダップ、ジェシカ・ラング
 
映画館に行くのは久しぶりである。
 
自宅から歩いてわずか10分の所に(つぶれることが懸念されつつある)サティに並列して、ワーナー・ブラザースのシネコン(世界をお騒がせの「ネオコン」じゃなくって「シネマ・コンプレックス」)があるのだけれど、なかなか行く時間がない。
 
12時半開演なので、あらかじめチケットを買ってから昼ごはんを済ませておく。
 
シネコン・ビルの一階にあるトンカツ屋が映画館と提携していて、チケットもっている人は10%の割引となる。
シネコンのカードも作ったので、チケットも1800円が1500円となり、トンカツも安く食える。
 
幸福である。
 
時間が早いので他に客のいないお店で「おろしトンカツ定食」を注文し、半分は自家製ポン酢で、半分は特製ソースをかけて食する。一度で二度美味しい。
 
幸福である。
 
トンカツ屋というのはたいてい、ご飯、赤だし、漬け物が「お代わり自由」である。
わたくしはトンカツ屋で供される漬け物が異常に好きである(たいていちゃちな白菜漬けなんだけど)。
寄る年波で、さすがにご飯のお代わりはできないが、赤だしと漬け物を二度ずつお代わりする。二度目のときは、店員にやや白眼視されている感があったが、むろん気のせいであろう。
 
映画とトンカツと言えば、むろん小津安二郎であろう。
オヅヤスはトンカツ大好き人間で、映画にもたびたびトンカツ屋が登場する。
 
なかでも印象に残るのが『秋刀魚の味』(1962年)。
佐田啓二と吉田輝雄が会社帰りにトンカツ屋に寄り、その2階の座敷でトンカツ食べながらビールをやっている。
例のロー・アングルで、はたまた真正面からそれぞれバスト・ショットを交互に映すカット・バックで。
 
佐田と吉田は会社の先輩後輩にあたり、佐田が自分の妹(岩下志麻)を「どうだい、嫁にもらわないかい?」と吉田に勧めているシーンである。
 
若いみなさんは、岩下志麻と言えば『極道の妻たち』やCM「象印夫人」の「へんなおばさん」だと思うかもしれない。
岩下志麻は、かつて原節子、司葉子、香川京子、岡田真梨子などと同じく小津映画の「清純マドンナ」のひとりであり、『秋刀魚の味』の他『秋日和』にもオヅヤス映画に登場しているのである(ってよけい分かんねか)。
 
お兄さん役の佐田啓二は、「いき遅れ」になりそうな妹を思いやって(トンカツ喰いながら)吉田輝雄に結婚話をもっていくのだが、実は岩下志麻の方も吉田のことを「密かに好き」であったのである。
 
いいでしょ、こういうクラシックな話。
 
ところが吉田くんにはもう付き合っている娘がいて、「(結婚の)約束もしちゃっている」ということが判明する。
 
かわひひ岩下志麻を嫁にどうか、という「トンカツよりもおいしい話」に吉田くんは、「早く言ってくれればよかったのに。おしいことしちゃったなぁ」と愚痴っているかと思うと、いきなり話題は「トンカツ」に飛ぶ(こういうところが、「湿度」や「粘液」を徹底して忌避する小津映画の心地よい「ドライさ」なのだ)。
 
「トンカツもうひとつ、いいですか?」と吉田くん。
「ああ、いいよ」と佐田のあにい。
「うまいですね」
「うん」
 
うう、垂涎ものである(おろしトンカツ定食をぱくぱく食べてるんだけど。)
 
お腹もくちくなったので、ゴッド・マウンテンのコーヒーをテラス・テーブルで飲みながら開演時間を待つ。
 
思いはどうしても、吉田輝雄はじぶんだけ(佐田啓二におごらせて)2枚もトンカツ食べるなんでずるいではないか、というところに収斂してゆく。(わたくしもかなりしつこい。)
 
そこでハッと気づいた。
ふつう、トンカツの「お代わり」なんてしないでしょう(漬け物や赤だしなら「二回お代わり」でも「あり」だと思うけど)。
 
思うに、ふたりが今食っているものに加えて、さらに吉田輝雄が「お代わり」として所望するこの「第三の」トンカツは、「観客用」なのではないか。
実に実にうまそうなソースにまみれたトンカツを、オヅヤス監督は観客にも供するべく、吉田輝雄に「トンカツもうひとつ、いいですか?」という台詞を言わしめたのである。
むろん、佐田啓治に否やはない。「ああ、いいよ」
 
そうなのである。小津監督は観客であるわたしたちに、佐田と吉田が喰っている同じトンカツを「さ、お食べ」と勧めてくれているのである。
 
かくして、梅雨の狭間の晴れ渡った空の下、オヅヤスとトンカツとの関係をめぐる深い瞑想のワインディング・ロードは尽きるところを知らない。
 
子どものとき、わたくしはトンカツが大嫌いであった。
薄くて平べったくて硬い筋張った肉に、4割ほども脂身であるところの食いもののどこがうまいのか(安モンなのであった)。
 
しかし、その後TVで『秋刀魚の味』を観て、自分が食べているトンカツというのが実はその名に値せず、世の中には「大人」というメンバーズ・オンリーのお店で供される、別種の「トンカツ」という美味なるものがあるのを知った。
そしていかに母親がわたくしをだまくらかしていたかもアキモト少年は学んだのであった。
爾来、アキモト少年は甘言を弄する大人をいっさい信じなくなった。
 
オヅヤス映画のトンカツは、うまそうだが高そうである。
当時オヅヤス映画は、都市生活と会社勤めのサラリーマンへの憧憬をいやが上にも人口に膾炙し、高度経済成長をドライヴして資本主義美化に貢献するところ大であったろう。
 
きれいなスーツを着て、特に額に汗してあくせくということもなく仕事を淡々とこなしているように見えるサラリーマンたち。動きも話しぶりも実にのんびりしている。
大人はのんきでよいなと思ったものだ。
 
かくのごとく瞑想に浸るうちに時間となったので劇場に入ると、観客はわたくしを入れて総勢8人。
ウィークデイの昼間にしても、『ビッグ・フィッシュ』あんまり人気がなさそうである。
 

主人公のエド(エドワード・ブルーム)は卓越したストーリー・テラーで、自分の経験を誇張して面白おかしく語るのに長けている。
彼によれば、現実とは「アンビリーバボーな」ファンタジーであり、人生とは荒唐無稽な魔法に彩られていて「当然」なのである。
 
エドの息子ウィルは、子どものときこそそんな父を敬愛していたが、長じるにしたがって単なるおおぼらふきで「本当の自分」を決して語らない父を忌避するようになる。
 
だって、エドの語るお話というのが無茶苦茶なんだもん。
子どもの時分に片目の魔女に自分の死に方を予言されたとか、河に住む伝説の巨大魚「ビッグ・フィッシュ」を婚約指輪で釣り上げたりとか、巨人と友だちになって一緒に旅をしたとか、世間と隔絶した「閉ざされた村」で生活したとか、サーカスにいたとか、一目惚れの女の子(現在の奥さん)と何年もの艱難辛苦を乗り越えて結ばれたとか、戦争中にアジアの敵地でシャム双生児の娘を救い出したとか、その手の「ファンタジー」なのだから。
 
フランス在住のジャーナリストになったウィルは、死の床についた父エドに会いにアメリカに戻る。
そして数々の「フィクショナルな物語」に彩られた父の「本当の姿」を知るため、ウィルは父の過去への旅に出るわけです。
 
映画を観終わっててくてく歩いて帰りながら、「ふむ、人はパンのみにて生くるにあらず。人は物語によって生きるのだってことだな」と思いました。
さらには、人は物語によって生きる「だけ」にあらず。死ぬのにも「よき物語」が要請される。
 
ウィルくんはパパの過剰な物語の奔流によって、逆に「パパの物語」欠乏症を罹患しておられるようです。
だから父と子の「和解」というのは、二人が「共有する物語」を立ち上げることです。
 
物語生成装置のような、あるいは経験自動物語変換マシーンのようなパパのエドが、唯一「語り得ぬもの」としての「みずからの死の物語」を、エドとウィルの父子は二人して立ち上げるんですね。
 
よい話である。
 
まことに佳話である。
 
エドの婚約指輪を飲み込んだ巨大魚、流浪の大巨人、こびと、サーカスの座長、シャム双生児、異界の「永遠の平和村」に暮らす裸足の住民たち、それに10年かかって3行しか書いていない桂冠詩人など、異形のトリックスターがたくさん出てきます。
にぎやかでよろしいけれど、秘密兵器出し過ぎでもったいない。
 
物語作法と映像は、ジョン・アーヴィングの映画化作品風に見えて仕方がない。
そう言えばアーヴィングの作品も異形の者が必須のアイテムだった。
古くは『ホテル・ニューハンプシャー』や『ガープの世界』、それから『サイダー・ハウス・ルール』や『サイモン・バーチ』ですね。
CGを多用したスタイリッシュな映像はとてもキレイだけれど、表現と演出法にわりと大味な「ハリウッド的」(としか何とも表現しようがない)映像である。
 
われわれが「とってもリアル」と感じるのはつねに「作り物」であり、そのような「作り物」でないと逆に「リアル」に感じなくなる。
このようなハリウッド的映像でわれわれの「リアルというもの」の観念は涵養され、その「リアル」に馴致される。
そして映画を観る。とっても「リアル」と感じる。
このようなほとんど自己成就的な予言の循環をわれわれはリアルと呼ぶ。
そのうちわれわれは、CG抜きの、つまり「脚色され合成されていない現実」をリアルと感じなくなるかもしれない。
 
だからときどき小津安二郎を観直して、その「人工的」なリアリズムを通じて自分のなかの「リアル」観を矯正しなければならない。
 
エドの生まれ育ったスモール・タウンのはずれに出没し、羊(や人間)をむさぼり食うと噂される「大巨人カール」の登場の仕方は、かつて度肝を抜かれた『ネバー・エンディング・ストーリー』のローラー持った岩石巨人のようだった。
きれいなCG画像がいっぱいの映画なので、この巨人も「CG」かと思ったよ。
 
もちろんカール(マシュー・マッグローリー)は本物の「優しい巨人」一族に属しますね。
デカ足のギネス・ブックに載っているそうです。
リチャード・キール(「ジョーズ」@『007ムーン・レイカー』)、ロン・パールマン(『ロスト・チルドレン』『エイリアン4』)の正統なる継承者なのです。
 
そうそう、今は亡きアンドレ・ザ・ジャイアントとジャイアント馬場、それにK1のシウバもわれらが憧れの大巨人たちのリストに加えなければならない。
 
あ、それから『グリーン・マイル』のジョン・コーフィ(マイケル・クラーク・ダンカン)くんも記憶に新しい「優しい巨人」軍の選手でした。
 
子どものときに黒澤明の『用心棒』を観たとき、こん棒をもった巨人のやくざのチンピラがちょい役で出てきて、「あー、ジャイアント馬場が出てる!」と思ったが、その真偽はいまだ不明。
 
息子のウィル役の人はよく知らん三流男優かと思ったら、『あの頃ペニー・レインと』のロック・スター役のお方でした。
びっくり。
'70sのアメリカン・ロックン・ローラーからフランス在住のジャーナリストへと転職されたのだね。時代は変わる。
 
つまり、パパのエドがとても現実とは思えないマジカルな体験を饒舌に語るオーラル・ヒストリアンならば、息子のウィルは「事実」の蒐集家としてのジャーナリストに設定しておるわけです。
 
おお、ジェシカ・ラングも「おばあさん」になる役(グランマ・トゥ・ビー) を演ずるようになったか。
わたくしにとって永遠に「一押しの『ロンリー・ハート』のはすっぱ娘メグ」だったんだけれど。
 
『マッチスティック・メン』で驚異的な「14才の少女」を演じたアリソン・ローマン嬢(当時24才)が出ているぅ。
少し困ったような哀感のある独特のえがほがかわひひ。
 
「ヘンナカオ系」一押しのスティーヴ・ブシェミくん、個人的にはどうしてもキース・キャラダインと区別がつかないが、スモール・タウンを捨ててパリを目指し、永遠の平和村の魔術の虜囚となった「桂冠詩人」(そして後にはバンク・ロバー)というおいしいトリックスター役はまさにぴったり。
大巨人やシャム双生児やらの「見た目の異形の人たち」に押されて影が薄くなってしまって残念。
 
サーカス団長ダニー・デヴィートはもうはまり役すぎて、職人芸に徹して特段役作りや演技に努力の形跡が見られないように思うのだが(お忙しいのであろう)。
 
父の語る荒唐無稽の物語群は、おそらくその「陳腐さ」で魅力的なのであろう。
すべてどこかで聞いたことのあるファンタジーや昔話や伝説に近接していますね。
 
ところで「父子話型」というのは昔からたくさん書かれてきましたが、最近ふと「父娘話型」が巷間流布しつつあるような気がする。
 
『アイ・アム・サム』『シッピング・ニュース』『マッチスティック・メン』とか。
 
本邦に目を向けても、ソニーのハンディカムやKDDIの広告、カルピスのCM(ウルフルズのトータス松本は、こないだの車のCMでは父子図像を演じていたけど父娘図像へと転向した模様)、海の深層水CM(父娘で並んでドリンクを飲み、「お父さん。元気で!」という娘の台詞で決まり)なんかですね。
 
ようやくハリウッドも我が邦のTV CMもオヅヤス的「父娘」話型を再発見したと考えるのは楽観的すぎるだろう。
男は疲れているのかもしれないね。
強くコンペティティヴな女性に倦んでいるのかもしれない。
(All right, all right!  Don't take it personally.)
 
「父娘話型」で反復されるのは、女性性が発現するまえの「素直でやんちゃで無邪気な女の子」への、多分に身勝手な憧憬を投影した図像である。
しかも、そこには母性イメージや恋人イメージも投影されている。
 
「父なる者」が「息子」ではなく「娘」という存在に気づいたというよりも、「母親」という類型を嫌悪し女性を排斥するかのようなミソジニー(女性嫌悪)話なのではないかね。
「父娘」話型の映画では多かれ少なかれ必ず「母親の排除」が織り込まれているし。
 
好意的に見れば、従来の「父−息子」という権力関係の原型を通じて自己定義していた男たちが、「父−娘」という非権力関係の物語を通じて自己再定義、人間関係の再構築、そして人間性の回復を暗に求めていると言えるかもしれない。
何を勝手な、と言われるかもしれないけど。
このようなスペキュレーション自体が、相変わらず男性中心主義的なものの見方だと叱られるかもしれない。
Please don't take it personally.
 
『ビッグ・フィッシュ』は古典的な「父子話型」に回帰し、「見えない父」の物語を息子が読み取っていく、ストーリーとしてはクラシカルな話である。
 
この物語は異形の者たちがたくさん出てくるので、疑似精神分析的な象徴解釈を援用して「つながりがないところにつながりを作る(でっち上げる)」ことや、一見したところ謎めいたファクターやモチーフに「一見したところ理路の通った筋道を立てる(でっちあげる)」こともできる。
 
まず、子ども時代の魔女の予言という物語でエドの人生=物語が駆動される。
 
小社会(スモール・タウン)における自我肥大(「こんなちっぽけな町に埋もれるのはやだー」)によるそこからの脱出(巨人が表象)し、永遠の安寧を約束する子ども時代への回帰を誘惑する平和村にいたる(大人へのイニシエーションの障碍)。
平和村はもうほとんど「子宮」である。しかも主人公以下、決して誰も近づかない「中心」のファルス(教会っすね)が彼方に見える。
 
サーカスの捕囚として社会から追放され、無料奉仕(奴隷労働)を従容として受け入れ(二度目の捕囚体験)、恋敵ドンの暴力への無抵抗によって獲得する「永遠の愛」、死への参入とサバイバル(徴兵と死地と流浪)、真と偽/表裏/二重の人生の始まり(シャム双生児)、ネコ屋敷にひとり暮らす「永遠の少女」にして「老婆」(にして魔女にして予言者)という「もうひとつの別の世界」との交流っていう主人公の二重性の暗示etc。
 
でもパパのエドが語る数々の物語と同じく、「解釈」というのもまた別の「物語の生成」なのである。
 
河、沼、バスタブ、プール、大雨、ペットボトル、コップと、水のイメージや水底のイメージが多用されているけれど、「子どものころからいっつも乾いている元お魚」としてのエド・ブルームの河=故郷=回帰=死出の旅と、「誰にも釣ることのできないビッグ・フィッシュ伝説」と、みずからの願望の投影としての沼のお魚妖精の幻視との、イメージ上と論理上いずれもつながりがよっく見えませんでした(原作読まにゃ)。
 

うむ。まとまりが悪くてすまない。
まだリハビリ中なのでご海容に願う。
 
2004-08-17
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秋元秀紀
Hideki Akimoto
akimoto@ipcku.kansai-u.ac.jp
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