■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆
■■■やき ■
■ ◆
=その33=
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2004-01-31
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「シネつぶ」のみなさま、ずいぶんごぶさたしております。
いやはや同じことばかり繰り返していて曲がない話であるが、多忙で映画を観る余裕もない。
前回からこれまでまともに観たと言えるのは、『ボーリング・フォー・コロンバイン』『ドラゴン:ブルース・リー物語』『猟奇的な彼女』くらいである。
『ボーリング・フォー・コロンバイン』のマイケル・ムーアは「きわめてまっとうな常識人」であることがよくわかった。
『ドラゴン:ブルース・リー物語』では、あからさまな「オリエンタリズム」の投影たるけったいなニッポン人「ユニオシ」が登場する映画『ティファニーで朝食を』を、ブルース・リーが映画館で観て不機嫌になる場面が印象的である。
『猟奇的な彼女』は「男ん子版『アメリ』」の語りの文法で語られているようであり、『マトリックス』『ターミネーター』など引用が盛り沢山の「すれ違い」定型のラブコメである(なんのことかよくわかりませんねん)。
年末は、例年のごとくゼミ生の書いた卒論の下書きを読んでぱたぱたと時は過ぎゆく。
うぐぐ。
疲れ果てた心身を癒すために、お正月は『風の谷のナウシカ』を何年かぶりに読んで過ごす。
今までわたくしが読んできたすべての書物のなかで、ベスト5に入る名作である。
最初に映画版を観たのは学生時代のことで、TV放映されたものを下宿の四畳半で観たのであった。
それも白黒TVで。
当時としてもすでに白黒TVというのはほぼ絶滅の危機に瀕しており、NHKから集金に来たおっちゃんに「白黒だから安くしてね」と言ってもなかなか信じてくれなかった(カラーと白黒の受像器では受信料がぜんぜんちがったのである)。
そもそもこの白黒TVは大阪市役所で使われていたもので、それが廃棄処分となったときに市職員だったいとこがもらい受け、さらにそれをおねだりしてわたくしが譲り受けたという、紆余曲折のバックグラウンドをお持ちのおばあさんTV(なぜかジェンダーは女性)であった。
だが思うに、カラーの映像美を剥奪したモノクロだからこそ、その「物語性」の横溢した映画版をただしく鑑賞できたのかもしれない(負け惜しみ)。
映画版は全7巻に及ぶ「原作」の第2巻の途中くらいまでである(知ってた?)。「原作」には数多くの多様な人間群像が次々と登場して「未来中世」的な神話的物語を織り上げている。
『風の谷のナウシカ』のすべてのキャラは、古代の神話から現代にいたる古今東西の文学からの引用でできていると言ってもよい。宮崎駿の歴史・文学の知識の浩瀚なるは圧倒的である。
トルメキア王国の廃墟の都市に君臨するデブのヴ王、シェイクスピア劇に出てくるような王を茶化す側付きの道化、王の三人の馬鹿息子(皇太子)と疎外され復讐心に燃える王女クシャナ、クシャナの失われたイノセンスの淵源たる狂気の母、トリックスター役のシニカルな参謀クロトワ。
世界を救済せんとして「エデンの園」を捨ててドルクを支配した初代王、その理想と遺志を継ぎつつ次第に暴君となる「皇弟」の孤独と狂気と救済、弟に王国を奪われ傍流に貶められていた犬儒学派の「皇兄」。
初代ドルク王に滅ぼされた元王の末裔チクク、僧会の僧侶たち、被差別賤民の蟲つかいたちと、マージナル・マンの極限にあるがゆえに貴人となった森の人。
世界存立の理由を探る賢者にして剣士たる老師ユパ、人類が投影する神と悪魔のイメージを兼ね備え、人類を「裁定」し「終わらせる」エージェント巨神兵……とまあすごいっす。よいっす。
人生で肝心なことはみんな『風の谷のナウシカ』から学んだと言うひとがいても、わたくしはぜんぜん驚倒せんであろう。
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『ウエディング・プランナー』THE WEDDING
PLANNER
2001年アメリカ
監督:アダム・シャンクマン
出演:ジェニファー・ロペス、マシュー・マコノヒー、ブリジット・ウィルソン、ジャスティン・チェンバース、アレックス・ロッソ、ケヴィン・ポラック、ジュディ・グリア
ポスト・フェミニスト時代における、「仕事か家庭か」「キャリア・アップかプライヴェート・ライフか」「わたしのアイデンティティかカレ氏か」の選択を迫られる現代女性の寓話です。
「バッティングするオプション」のもたらす状況喜劇で、「キャリア・アップ」がそのままイコール「失恋」となっちゃうプロットですね。
全体的にディズニー・アニメ的な音楽シンクロのドタバタ構成のラブコメであり、アメリカが見つけた表現形態であるミュージカルにもう一歩でなるところであった(わたくしミュージカルきらいなの)。
ウエディング・プランナーというのは結婚式の企画・演出家である。
この職業は、冒頭に描かれる主人公メアリー(ジェニファー・ロペス)の子ども時代における「バービー人形の結婚式遊び」の延長なのである。
そも、結婚式とは何か。
パーソナルなもののパブリサイズである。それは社会的イニシエーションの儀礼であり、ショーであり、人生の物語化(リアリティがストーリーを模倣する場)である。
要するに「世界は舞台であり、人間はみな役者である」という沙翁(シェイクスピアのことです)がまたしてもただしいことを証明する場である。
さらに言えば、結婚式とは「他者の欲望の模倣」の顕著な発現の場に他ならない。
「他者の欲望の模倣」とは何か。
ちょっと古いけど、はるき悦巳の『じゃりん子チエ』というマンガにこういう場面があった。
永遠の小学5年生の主人公チエちゃんの父親テツは、プー太郎でちょっと頭の足りない子どもみたいな大阪のおっさんである。
チエちゃんのご学友で、絵画と相撲に異才を放つもシャイで気弱のヒラメちゃんに、テツは「カツ丼と天丼やったらぜったい天丼が上や」てな話をしている。
「けどな、ヒラメ。周りの人間がなんや耳元でカツ丼カツ丼カツ丼カツ丼としつこう言い続けたら、おまえどない思う?」
「そりゃ、カツ丼食べとなる」とヒラメちゃん。
「はい、まちがーい!!」とテツは得意そうにおたけぶ。「誰がなんと言おうと天丼のほうがおいしいのっ。いいかヒラメ、周りがなんと言おうと今後かならず天丼を食べるように」と説諭するのである。
そこにチエちゃんが、「おい、テツー。なんか話がちがうんとちゃうか」と突っ込む。
テツは嫁はんのヨシエのことを、遠回しのクセ玉で言おうとしていたのである。
そもそも自分はヨシエのことなど何とも思っていなかったのだが、周りの人間がなんかヨシエはんのことを「ええ、ええ」と言うので結婚してしまい、とても後悔しているということを伝えようとして「カツ丼と天丼のたとえ話」を持ち出したのだが、そもそもの論件を本人が忘れてしまっている(おばかな奴)という落ちである。
エルメスやビトンへの欲望が生まれながらにしてビルトインされている者はいない(むろん天丼も)。
それは内発的な欲望ではない。
それは他者の欲望であり、他者の欲望を欲望する「欲望の模倣」なのである。
さてと、主人公メアリーは「結婚できない」ウェディング・プランナーである。
彼女が惚れてしまうスティーヴ(若いころのマーロン・ブランドに似ているマシュー・マコノヒー)は別の女性フラン(ブリジット・ウィルソン)と結婚することになっている。
「皮肉にも」そのウェディング・プランナー役をメアリーは引き受ける。
フランは富豪のお嬢様で、この結婚式のプランナーとして成功することは、メアリーにとっても大きなキャリア・アップにつながる。
ラブコメ的要請によるオルタナティヴ(仕事か愛か)ですね。
スティーヴは、相手のフランが「すばらしい(great)」女性であるから(いわば自分の意志不在に)結婚すると言う。
さらにスティーヴは、結婚式がドタキャン寸前になったとき、フランが本当に自分のことを愛していて結婚したいのなら、結婚すると言うのです。
とことん相手=他者の欲望に従い、自分の欲望を持たないんだよスティーヴくんは。
スティーヴに対するフランの反応も特徴的である。
「私のことをあなたは愛していないのか?」とは問わず、こんなに人を呼んだ結婚式当日に私を捨てるのかと問う。
プランナーとしてのメアリーの魔法の言葉も同じだ。
結婚式直前に不安に陥るブライダル・ブルーの花嫁に、メアリーが言う決めの台詞は「あなたは美しい(exquisite)。こんな美しい人が自分を選んでくれたなんて信じられないと花婿は言っていた」というものである。
フランの成金の両親もみずからの欲望をいっさい持たない。つねに他者のまなざしを行動原理とし、豪華な結婚式も娘のためではなく「世間体」のためなのである。
みなさん、ことごとく他者の欲望をドライヴとして行動する。
イタリア系一世であるメアリーの父とその結婚観を描くことによって、この構造がいっそう明らかとなる。
メアリーの父は、自分も「お見合い結婚(arranged
marriage)」だったと言う。そうして幸せになったのだとメアリーにお見合い結婚を勧め、「結婚→感謝→尊敬→好意→愛」というのが「ただしい」展開だと説くのだ。
メアリーは父の薦める別の男マッシモと結婚することになるが、その結婚式の誓約に臨んで司祭が「異議を申し立てたい者は今この場で述べよ。しからずんば生涯口を閉ざすべし」というフォーミュラを述べるとき、メアリーの父その人がこの期におよんで「この結婚はおまえが望んだんじゃなく、私が望んだのだ」と「異議申し立て」をする。
「結婚式が他者の欲望の模倣である」ということを物語的に開示する場面である。
ビジネスと「世間」の欲望を模倣していただけのメアリーがすべてを投げ出し、タヒチで自分を見つめ直すと言って去る(ハッピーエンドのためのかなりアクロバティックな脚本だけど)。
確かに、タヒチにはキャリア・アップやビジネスや商業主義や消費社会的な「他者の欲望の模倣」という契機は希薄かもしれない。アメリカ人が「自分を見つめ直す」場としては最適であろう。
しかし、ここでタヒチとは単なる地名ではない。それはアメリカ人が投影する「タヒチ」という文化表象であり、あるイメージである。
つまり「アメリカ的なるものと対極に位置して」「自分を見つめ直すのに最適な」異空間の理想郷たるタヒチへの「アメリカ的な欲望」を、メアリーは模倣しているということになる。
という指摘をすると無限後退に陥る。
この映画はまず結婚や愛が文化的な擬制であることを表現しており、そして次に文化的な擬制というのが単に人間を囲い込んで虜囚と化する「悪しき枠組みにすぎない」のではないということも表現している。
つまりですね。文化というのはひとつのフィクションなんですよ。
そんで、そのフィクションの虜囚たるわれわれは、実は「わたし」などという盤石な基盤のうえに立っているのではなく、他者の欲望を欲望して生きているんですよ。
でもね。だからそんな擬制たる文化なんちゅうもんは「ぶっ壊しちまえ」というラッダイト的発想は短絡なんですよ。
われわれは文化という擬制の虜囚である。そのことに気づくのはファースト・ステップかもしれない。
だが同時に、「で、それがなにか問題でも?」と開き直る姿勢もまた必要なのだ(だってわれわれは文化の「なか」でしか生きられないんだから)。
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『ヴィドック』VIDOCQ
2001年フランス
監督:ピトフ
脚本:ピトフ、ジャン・クリストフ・グランジェ
出演:ジェラール・ドパルデュー、ギョーム・カネ、イネス・サストル、アンドレ・デュソリエ
監督のピトフは、『ロスト・チルドレン』でデジタルVFX、『エイリアン4』でVFXスーパーヴァイザー、『ジャンヌ・ダルク』ではVFXディレクターを務めたひと。
脚本のジャン・クリストフ・グランジュは『クリムゾン・リバー』の原作・脚本の方。
『デリカテッセン』『ロスト・チルドレン』のマルク・キャロもスタッフにいる。
要するに「アキモトせんせが好きな系」の映画スタッフたちである。
探偵ものの要請に発するトリックと謎そのものは、ホームズやルパンものと大差ない。ほとんど仲間由紀恵の『トリック』か『探偵少年コナン』程度の小細工と言ってよろしい。
この映画で肝要なるはトリックではなく、イマジェリー(心象喚起力)である。
「錆びた金属、石壁、石畳」と「じとじとばちゃばちゃの水」の合体(ハイブリッド)イメージこそ、この映画の要点と見た。
そして両者の中間領域として「鏡」がある。
錬金術的あるいはイメージの心理学的な発想で言えば、「金属や石」と「水」とのあいだにあるものこそ、「鏡」に他ならない。
堅く同時に壊れやすい物、水のように透明で映し出す物でありながら固形物でもある物。鏡でしょう、やっぱ。
中間領域としての狭間は、異界を構成する。
金属、石、水の日常世界から転がり落ちたところはあの世です。
連続殺人鬼は「わたしの死」なのだ。
この「鏡の顔」をもつ者と対峙すれば、相手の顔には自分自身の顔が映し出される。「あなた」とは「わたし」であり、「わたし」とは「あなた」なのだ。この差異なき混沌を見た者、連続殺人鬼の鏡の顔にみずからの姿が映じるのを目撃した者は死ぬとされる。
連続殺人鬼に殺されるのはわたしであり、そして連続殺人鬼とは(鏡に映じた)わたしである。
空の色、空模様のCGもよいですね。ほとんど「ジャパニメーション」化しているところさえある。
心理的時間を表象するカメラワークもよい。いや、観客の心理的時間を積極的に産出しドラマタイズするところさえある。
最初のところで、ガラス工場で犯人を追いつめていくヴィドックの視点のカメラワークは早すぎると思ったが、それはオーディエンスの心理的時間を創造的にドラマタイズするためだ。
『ジェヴォーダンの獣』にはスローモーションどころかストップモーションまで入る場面がある。
それも心理的時間のドラマタイズでしょうね。
映画的演出とは、観客の心理作用を「見越して」映像化するのではなく、心理的作用そのものを生み出すことでもある。
う〜む。もしかしたらフランス映画ってハリウッド映画よりあざといのかもしれない。
そこまで観客の心理をマニピュレイトするんだから。
『ヴィドック』的なドライヴ感って、この観客操作的な演出に拠るところが大きいのかも。
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『ジェヴォーダンの獣』LE PACTE DES LOUPS
2001年フランス
監督:クリストフ・ガンズ
出演:サミュエル・ル・ビアン、ヴァンサン・カッセル、モニカ・ベルッチ、エミリエ・デュケンヌ、ジェレミー・レニエ、マーク・ダカスコス
色調がよい。ワンシーンごと絵画のようである。
『ヴィドック』は「空」が秀逸ならば、『ジェヴォーダンの獣』は「地面」の描き方が卓抜である。
サウンドもよい。音響と音楽がよい。
早回しとコマ落としとスローモーションを合わせたのって流行っているけど、なるほど効果的で「おいしい」絵柄である。
登場人物の身体運用の美しさも秀でております。
この物語はフランス革命で処刑場に向かう老貴族、フロンサック侯爵の若き日の回想という形式をとっている。
革命を逃れてアフリカに逃れるよう誘われたが、彼は領地の管理のためという理由で断わり、粛々と処刑台に向かう。
フロンサックの記憶のなかで、若き日々は「英雄による魔物退治」と「ヒーローとヒロインのロマンス」という中世の伝説と等しい。それは神話的な「過去」に属する。
そして革命によって「近代」という名の「未来」が始まろうとしている。
革命によって前近代が駆逐され、近代の夜明けが訪れる以前の「暗黒の中世」には、怪物が跋扈していたという「ほんとうのお話」である。
世界の周縁に潜むドラゴンを騎士が倒してお姫様を救い出し、めでたく結婚して世に平和が訪れるという英雄譚ですね。
『ベオウルフ』(@「シネつぶ」その17)も辺境のドラゴン退治のお話でした。
フランス人はこういう「ドラゴン退治」話型が好きなんですね。
ところが、その英雄が後々フランス革命で処刑されることになるという設定、そして彼が昔日を回想するというところが「中世の騎士物語」と違うところです。
それに、怪物が次々と村人を殺しているジェヴォーダン地方に赴いたフロンサックは、王室付きの「博物学者」という設定なんですから。
彼は単なる騎士ではなく科学者でもあるのです。近代の萌芽ですね。
フロンサックに同道する従者マニ(マーク・ダカスコス)は異邦人であり、東洋系(アメリカン・ネイティヴ系)の黒髪の長髪で武道家である。
「美しいフランス語を話すインディアン」マニは、なぜかカンフー・マスターでもある(なんでだろう)。
超絶的な身体運用による武術の動きはジャッキー・チェンやジェット・リーやチュウ・ユンファを越えるかもしれぬ。東洋的な神秘と武道に対するフランス人の憧憬が窺われる。
そしてなんとなくB'zの稲葉浩志と『トリック』の阿部寛と元YMOの細野晴臣を足して3で割ったような顔立ちである(いずれの方面からも怒られそうであるが)。
マニが殺害されたあと、「中世の騎士」にして「近代主義の博物学者」たるフロンサックが、なぜか秘教的な儀式を通じて武術と神秘哲学を秘めた「インディアン」化するところもよい。
こういうオリエンタリズムは美しいし楽しい。
さてと。次に手塚治虫原作の『メトロポリス』について書こうと思ったけど、どうも文章が荒れて困る。
『メトロポリス』に関しては言いたいこといっぱいあるし、またいずれ。
嗚呼、煉獄の入試期間が始まる。
2004-01-31
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秋元秀紀
Hideki Akimoto
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