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=その19=
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2003-03-15
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久しぶりにちょっとだけ『北の国から』について書かせてもらいます。
 
お題は「アダルタリーな恋愛症候群」。
 
みなさん、『北の国から』というのは大自然賛歌のお話で、豊穣かつ厳格な北海道の大地で子どもたちがすくすく育つ物語だと思っているのではないだろうか。
豊穣すなわち「母」、厳格すなわち「父」という記号に育まれる子どもたちのお話であると。
 
ちがうね。
 
『北の国から』は、恋という病に罹患して人々が損なわれるお話、とりわけ子どもが成長するどころか「壊れる」お話なのである。
 
このドラマは、adulteryやinfidelityすなわち「不倫」「不貞」「不義密通」(って大時代的な表現だ)を根源的な駆動力とする自己追放の物語であって、その余波で子どもが壊れるお話であり、ついては「女はだめ」で「純愛」など決して成立せず、結局のところ物事の解決は家父長制原理に拠るという、書いているだけで手が震えてくるすごいお話なのである。
 
このドラマでは実にさまざまな「色恋」が描かれます。
ちょっとその「症例」をピックアップしてみましょう。
 
【症例その1】令子(いしだあゆみ)と吉野(伊丹十三)
純と蛍の母の令子と吉野のおじさんの不倫。
そもそも第1話の冒頭はここから始まり、東京から富良野へ五郎ら親子が移り住むことになった直接の原因となる。つまり、この物語の基幹的な部分にあるのは、「母の不倫」なのだ。
そして令子は男を選んだことにより、「母性」「家庭」から追放される(子どもを奪われる)。
 
【症例その2】雪子(竹下景子)と井関(村井国夫)
そもそも雪子は井関と八年の長きにわたって東京で不倫関係にあった。
そしてその関係が破綻することにより、雪子は東京からみずからを追放し、富良野へ赴いて隠棲する。
 
『'84夏』では、不倫相手だった井関が離婚し、富良野に雪子を迎えにくる。
すると雪子は恋人の草太を捨てて、井関とともに東京に去る。(五郎は「はなはだ納得いかないっ」と怒る。)
 
それから14年を経た『'98時代』になると、雪子は突然また富良野に戻ってくる。結局、井関とも離婚し、一人息子の大介も先方の家に取られる(というか「おばあちゃん子」の大介はおばあちゃんのいる父親の家を選び、事実上、雪子は子どもに捨てられるのだ)。
かつての姉、令子と同じく、雪子は「家庭」と「母親であること」から追放され、二度にわたって東京から自己追放することになる。
 
最終回の『2002遺言』では、大介が十代の若者となって富良野に登場するが、周りの人間と一切コミュニケーションをとろうとせず、つねに携帯電話に耽溺している「壊れた子」になっている。
 
【症例その3】草太(岩城滉一)とつらら(熊谷美由紀)
草太は許嫁のつららを裏切って雪子に入れあげる。その結果、つららは出奔して行方不明となる。
 
【症例その4】五郎とこごみ(児島美ゆき)
こりゃ不倫とはちがうか。
バー「駒草」の女こごみは「ちょっと頭が足りないのではないか」と思われるほどお人好しで、すぐ哀れっぽい男に同情して関係をもってしまう「尻軽女」(こんな大時代的な言葉が今でもワープロ変換可能だとは、ちょっとびっくりである)。そもそもこのような「不倫症候群」のこごみと五郎は付き合うんだけど、そんとき五郎はまだ令子と正式に離婚はしていないのである。(あー、やっぱ不倫だ。)
 
【症例その5】(『'87初恋』)純とレイちゃん(横山めぐみ)
思春期の純愛ですけどね。純は親友のチンタが惚れてたレイちゃんを「横取り」すんだよね。
そう言えば、横山めぐみ、こないだ離婚したね(カンケーないけど)。
 
【症例その6】(『'89帰郷』)蛍と勇次(緒形直人)
これも純愛っすね。
でも蛍は「父の五郎に対する裏切り」という罪の意識を持ち続ける。(だって蛍は富良野に来てからずっと五郎に対しても「母のような」存在であり続けてきたのだから。)
 
【症例その7】(『'92巣立ち』)純とトロ子(裕木奈江)
純には遠距離恋愛中のレイちゃんがいるんですよお。
なのに東京でトロ子とデキてしまい、レイちゃんに対して二股かけるんだ。
で、結局トロ子はデキちゃった赤ん坊を堕胎し、「東京は卒業した」と言って九州に帰郷する。
子どもは損なわれ、東京から自己追放するわけ。
そして問題解決には、五郎の土下座と、なによりもトロ子の伯父(菅原『仁義なき戦い』文太)というウルトラ父権主義の介在を要しました。
 
【症例その8】(『'95秘密』)純とシュウ(宮沢りえ)
しつこくレイちゃんと遠距離恋愛しつつ、純はシュウと二股をかけまする。
そもそも、シュウは東京でアダルト・ヴィデオに出演していた過去をもち、またぞろ東京から自己追放して帰郷してきた人なんだよね。
それからレイちゃんも立派に二股かけてます(んで、結局その男と結婚する)。
宮沢りえ、いろんな賞をもらっておめでと。きみは実人生でたぶん幸福になれないかもしれないけど、役者として大成することを祈る(祈ってほしくないか)。
横山めぐみは離婚の苦難を乗り越えても役者として大化けするかどうか……。
 
【症例その9】(『'95秘密』)蛍と医師の財津(一度も顔を見せないが、奥さん役の大竹しのぶが登場)
不倫話の極めつけですね。
「あの」蛍がはじけてしまうんです。
看護婦をしている蛍は、勤務先の財津先生とデキてしまい、旭川へ駆け落ちします。
駆け落ちってのも自己追放のひとつの形式と言えましょう。
蛍は幼少のみぎり、母である令子の浮気現場を目撃してしまったんですね。
それがトラウマとなっていることは、フロイトにもユングにもラカンにも訊かずともわかる。
蛍は母の行動を無意識のうちに模倣し、母と同じ行動を強迫神経症的に反復するという、抑圧された衝動があると見た。
そもそも、蛍も「損なわれた子」なのでした。みずからのトラウマを引き受けたのみならず、父の五郎のトラウマも癒すべく母親的役割を果たしてしまいました。
子ども時代に「ちゃんとブチ切れわがまま」を言って十分「子ども」をすることをせずに、家庭のなかで「静かに見守る慈母」のごとき役割を引き受けたために、大人になってから幼少期の抑圧が爆発してしまったんですね。
 
どーん。
 
【症例その10】(『'98時代』)蛍と正吉
結局、蛍は不倫相手の財津先生と別れて富良野に戻ってきます。お腹には財津の子がいます。
五郎の気持ちを慮って、草太にいちゃんが「ない頭使って」奸計を謀り、正吉を蛍のお腹の子の「父」であることに仕立て上げ、蛍と結婚させます。
このようにこの関係は「嘘」を基盤として成立します。
五郎も純も騙すんだね。
この虚偽に対する物語力学上の代価は、草太の死でありました。
 
【症例その11】(『2002遺言』)純と結(内田有紀)
結は事実上のバツイチだけど離婚はしていない。まだ人妻である。(あ"、やっぱ不倫だ。)
シリーズ最終回でどうやら純と結はうまくいきそうでありますが、死の影がやっぱり付きまとう。
ここでは五郎が不治の病にかかっていることが示唆されます。
和夫(地井武男)の妻みずえは癌に冒されています。
そして次の世代の大介は、完全に壊れた子どもとして登場します。
 
なんだなんだあ。
こんなにいっぱいあったんか。それから草太とアイコ(美保純)ってのもあったな。
『北の国から』ってトレンディ・ドラマだったのでしょうか。
 
こうしてみると、いくつかのことが明らかになります。
まず、個々人の「不倫」「不義」の「動機付け」がほとんどまったく描かれていないということ。
不倫の動機は云々されず、不倫が物語の動機となってストーリーをドライヴしていくのである。
 
それから「純愛」なるものは成立しないということである。
純とレイちゃん。蛍と勇次。純とシュウの哀しい純愛物語。
ものの見事にぜんぶ成就しませんね。
がんがん壊れていきますね。
 
正吉と蛍の結婚は虚偽に基づきます。
その虚偽を作りだし遂行したのは、草太にいちゃんの力業によるところです。
もう完全に「母親化」した優しい五郎の代わりに、冷徹なリアリストと化して事業を拡大し、地域を支配しているかのような草太が父性原理を発動するわけです。
正吉と蛍はこのような父性原理を媒介として結ばれます。
草太は物語作者にして演出家となり、富良野の家父長制を代表する人物となるのですが、その代償は死です。
 
結と純の場合も、結の義父の超パワフルな漁師、吾平(唐十郎)という別の圧倒的父性原理の媒介によって初めて結ばれるわけです。
したがって『北の国から』とういのは、とってもアダルタリーな物語群であって、父権主義によって統括されたお話だったのでした。
 
うーむ。
 
倉本聰くんって、とってもアンチ・フェミニストな父権制擁護論者だったんだ。
 
それにしても純はなんだかんだ言って、けっこうモテるじゃないか。
東京では同級生のケイコちゃん(「拝啓ケイコちゃん」の手紙の宛先)でしょ、富良野では同級生の中畑ンちのすみえちゃんでしょ、中学ではレイちゃんでしょ、高校で東京に行ったあともヤンキー娘のエリでしょ、「遠距離恋愛」のレイちゃんとも続いているのにトロ子とできちゃうでしょ、北海道に戻ってからはシュウでしょ、そんで実人生でも結婚することになった結(内田有紀)でしょ。
 
ええと、ひとり、ふたり、さんにん、よにん……。あほくさ。
 
くそ、純のやつ。ゆ、ゆるせん。
 


『ブロウ』BLOW
2001年アメリカ
監督:テッド・デミ
出演:ジョニー・デップ、ペネロペ・クルス他
 
実話に基づいているのだそうである。
1970年代のアメリカで、麻薬王として名を馳せた伝説的人物ジョージ・ユングを描いています。
ほんとに実在の人物で、現在は刑務所で服役している(塀の中での本人のインタヴューもDVDの付録にあった)。
 
この映画も最近見かけるようになってきた「70年代」を歴史化する試みのひとつと言えるでしょう。
『あの頃ペニー・レインと』とか『スティル・クレイジー』なんかと同じ。
そして、映画というものの筆法では必然なんだけれど、「歴史化」の試みには再伝説化や神話への再回収が付きまといます。
映画には脱神話化や歴史化への動きとは、正反対に向かうドライヴがありますからね。
 
一言にして映画とは、神話再生装置なのだ。
だから『あの頃ペニー・レインと』も『スティル・クレイジー』も、「脱神話」へと跳躍するエンジンを駆動し、過剰なまでにアクセルを踏み込んでいた。
 
監督のテッド・デミはバスケやってる最中に心臓発作で39歳にして急逝してしまった。
残念である。
デイヴィッド・O・ラッセルとともに、今後ともよい映画を作ってくれることまちがいなしの中堅監督だったのに。
 
合掌。
 
ジョニー・「半眼ポカン口」・デップと、ペネロペ・「きみ、ちょっと痩せすぎじゃないちゃんと食べてる?」・クルスの共演です。
デップ&クルス(Depp'nCruzと発音してね)ということで恋愛映画を期待して観た人もいたでしょうが、大まちがひ。
 
これはアメリカ流「女性嫌悪」(misogyny)の映画である(@内田樹『映画の構造分析―ハリウッド映画で学べる現代思想』晶文社)。
 
内田説によれば、建国以来、アメリカ文化の無意識には男性による女性への排他的な嫌悪が伏流しており、映画を含むさまざまな文化表象にそれが(無意識のうちに)露出するということである。
 
むろんこの映画も「女性嫌悪」を意識的に描こうとしたのではないでしょう。
しかし、それが脚本家や監督の「意図」を越えて迂回的に表出しているように見えます。
 
だってこれは「父と子の愛情」の話で、「ばかな女」である母や妻はつねに「男同士の堅い絆」の邪魔をし、それを破壊するということを描いてるんですから。
 
ジョージ・ユング(ジェニー・デップ)の妻マーサ(ペネロペ・クルス)も、結局ジョージの母の言動を反復するだけです。
 
ということで、これは典型的な「ミソジニー映画」とみた。
 
ジョージのパパ役(レイ・リオッタ)が実によい。
中産階級の凡庸で寛容な、実に実に影の薄い「50年代的なマイホーム・パパ」である。
彼は決して息子のことが理解できない。
そして「理解できない息子」と、「息子のことを理解できない自分自身」をともに静かに受け入れている。
ここから、50年代世代のパパと70年代のブチ切れベビー・ブーマー世代の息子との切ない関係が築かれる。
 
ムショに入っている実在のジョージ・ユングにインタヴューを重ねて作った映画だが、このような「父への愛情と母親憎し」は、ジョージ・ユング本人に発するものなのだろうか、それともテッド・デミ監督の暗黙の構想なのだろうか。
 
女の人が観たら「なんでやねん」とご立腹あそばすかもしれない、そういう映画である。
 
ジョニー・デップはどれを観てもあのポカン口となに考えてんだかわかんない目で演技をする。
『シザー・ハンズ』に始まって、『スリーピー・ホロウ』『ノイズ』『ナインス・ゲイト』『デッドマン』、みなそうである。
 
だいぶ前だけれど、『レッド・プラネット』『ドアーズ』『トゥームストーン』のヴァル・キルマーとジョニー・デップを混同していた。
 
愚かである。
 
◆◆
『スコア』THE SCORE
2001年アメリカ
監督:フランク・オズ
出演:ロバート・デ・ニーロ、エドワード・ノートン、マーロン・ブランド
 
監督のフランク・オズはフランク・ボームの『オズの魔法使い』とはまったく関係のないひとですが、『スター・ウォーズ』の老賢者ヨーダとは大いに関係があるらしい(声優さん)。
 
この映画はマーロン・『ゴッド・ファーザー』・ブランド(77歳)、ロバート・これまた『ゴッド・ファーザー』・デ・ニーロ(58歳)、エドワード・『ファイトクラブ』『真実の行方』・ノートン(32歳)の三世代の名優を配した贅沢な作品である。
 
そしてやっぱり若いエドワード・ノートンの勝ち、ヴェテランの負け(ということにしておこう、この映画での三世代共演の名演つばぜり合いとしては)。
 
モントリオールが舞台ということにちょっと意表を衝かれる。
 
ニューヨークとかシカゴとかロサンジェルスといったハード・ボイルドのメッカと違って、ヨーロッパ風の石畳と街灯を配した街並みには旧世界の風情が充溢し、照明を落としたジャズ・レストランの雰囲気もフィルム・ノワール風でよい。
地下道からマンホールを抜けて夜の街に這い出てみれば、雨に濡れて闇に光る街路や車もとってもノワール風でよろしい。
 
もうトシなので引退して結婚し、平穏な生活を考えているハイテク・ドロボーさんニック(ロバート・デ・ニーロ)の「最後の仕事」のお話。
ものを読むとき必ず老眼鏡をかける仕草が執拗に繰り返される(「もうトシだ」という説明的な図像)。
 
対してこれからノシていこうという才気煥発かつ血気盛んな若者ジャック(エドワード・ノートン)。
ここでのエドワード・ノートンは見た目も声もケヴィン・スペイシーにちょっと似ている。
大仰な「ハリウッド・アメリカンな感情表現」とちがった抑制した表情ゆえだろうか。
 
引退した、あるいは引退しかけたドロボーが、何らかの事情で新たに(集まって)仕事をするパターンである。
記憶に新しいところでは、デ・ニーロとジャン・レノの『RONIN』、ニコラス・ケイジの『60セカンズ』とか。
 
グループには旧知の気心しれた仲間(バディ)だけでなく、今からこの業界で名をなしてやろうと虎視眈々とチャンスを窺う若者が異要素として加わり、長老格の巧者とある種の師弟関係をもちつつ、同時に世代間の緊張と対立を孕む。
若く斬新な知識と行動力、そして老成した智恵とスキルとの確執である。
 
そしてベテランが重い腰を上げて「この仕事を最後のヤマに引退だ」というのには、必ず陥穽が待っている。そういうもんだ。
 
知力、体力、技術力を駆使して厳重な警備を破って地下金庫へと侵入するニック。
ハイテク機器をサポートに、大道具・小道具を操って難攻不落の金庫に接近してゆくところは『ミッション・インポシブル』的なアクロバットである。
そして最後にして最大のハードルたる金庫破りは「水圧爆弾」で金庫の扉を吹き飛ばす。なるほど、その手があったか。
 
お目当てのフランス王室にまつわる秘宝の笏を手にしたニックだが、若造のジャックに裏をかかれて奪い取られる。
そんときのデ・ニーロの情けない泣きっ面。
マックス(マーロン・ブランド)も"For the first time in my life I'm scared."と言って、「もう昔のようには戦えない」と泣き言を言う。
二人ともかつては『ゴッド・ファーザー』でマフィアの大ボスだったのに、「情けないトシヨリ」の一面を見せる。
 
でも、才気活発な若造よりも結局トシヨリの勝ちと相成る。ニックがジャックの「裏の裏」をかくわけです。
年長者と若者との騙し合いは、亀の甲より年の功ということに帰着します。
 
マーロン・ブランドはみんなに言われてやダろうけど、やっぱ太りすぎ。
『欲望という名の電車』で、ちょっとトウの立ったヴィヴィアン・リーに対して暴力的なエネルギーを発散していた筋肉隆々の野生の若造を知っている者としては、トホホだよ。
これじゃ『ゴッドファーザー』とか『地獄の黙示録』とか、大役(太っている人の役という意も含めて)しか回ってこない。
 
山場の警戒厳重な金庫にアタックするシーンは迫力がある。でも、音楽をなんとかしてね。
 

◆◆◆
『ロミオ・マスト・ダイ』ROMEO MUST DIE 2000年アメリカ
監督:アンジェイ・バートコウィアク
出演:ジェット・リー、アリーヤ、ラッセル・ウォン、デルロイ・リンドー 
 
永盛娯楽製作有限公司という中国の映画会社のことなどご存じないでしょう。
この会社が作っていたスーパー・カンフー映画シリーズ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』のジェット・リー師匠が、ハリウッド映画で初主演したのが『ロミオ・マスト・ダイ』である。
 
なんとヒップホップ・カンフー映画。
ジェット・リー師匠は『リーサル・ウェポン4』で、脇役のワルモノとしてハリウッド・デビューを果たしました。
さすがは永盛娯楽製作有限公司の出身、メル・ギブソンを相手に存在感を見せていました。
 
DVDのおまけインタヴューによると、『リーサル・ウェポン4』でジェット・リーは、カンフー技の動きが早すぎてメル・ギブソンがついてこれないので、ゆっくり目にするよう配慮したんですと。
 
この映画を観ていてよくわかるのは、カンフーというのは馬鹿力による打撃的破壊力ではなく、古典物理学の応用だということである。
 
ある運動エネルギーをどのように転換するか、身体をどのように運用したら力学的にどのようなエネルギー波動が生じ、どのような衝撃が発生するか、相手の身体をどのように「きめ」たうえでどのような角度からその衝撃を解放したら相手がどのように壊れるかの研究がカンフーである。
 
だから中核にあるのは、テコの原理と遠心力という、きわめて小学校理科的なサイエンスなのだ。
 
先行するイタリア系マフィア、ユダヤ系マフィア、黒人系マフィアと中国系マフィアの対立抗争のお話であるが、ブラック・マフィアにカンフー・マスターという取り合わせはアイデアである。
 
それも基調をカンフー映画にせず、ラップとヒップホップとブラック・コンテンポラリーにし、その舞台にカンフー・マスターを登場させるっていうミスマッチがよい。
 
クールな黒人とカンフー・マスターの出会い。
饒舌で動作の過剰な「コミック・レリーフ役」黒人モーと、寡黙で身じろぎしないカンフー・マスターのハン(ジェット・リー)との対照。
アメリカの黒人ギャングたちがジェット・リーに変に合わせてカンフー使ったりしないのがいい。
 
でも、ハン(「ロミオ」役ですね)とブラック・マフィアのドンの娘トリッシュ(アリーヤ演ずる「ジュリエット」役ですね)をつなぐ仕掛けが、「偶然」というのは禁じ手だと思うけど(プロットの「エコノミー」なんでしょうか)。
 
ジェット・リーはカジノでのダンスはいただけないけど、消防ホースを使ったトリッキーなカンフーは華麗なる「舞踏」の域に達していてすごい。
 
加藤幹郎先生が言うように(@「シネつぶ」16)、マフィアもんってやっぱり「アメリカン・ドリーム」実現のお話なのである。
NFLのスタジアム建設にからむ利権をめぐって、中国系マフィアとブラック・マフィアが抗争を繰り広げつつ、裏社会の魑魅魍魎と化して暗躍する。
NFLの共同オーナーを目指す黒人マフィアのアイザック(デルロイ・リンドー)、その跡目を狙って悪の帝王を目指すマック(アイザイア・ワシントン)も、みんな「アメリカン・ドリーム」を夢見る点では同じだ。
 
『チャイルド・コレクター:溺死体』でもそうだったが、NFLチームの誘致とスタジアム建設というのが、ものすごい利権のからむ政治的策謀となっている。
アメリカ流の政治と金をめぐるゼネコン汚職は、NFLを基点に展開するということがわかった。
 
カンフーの技が決まったときの骨が折れる体内CGは、一押し『スリー・キングス』のパクりだろうか。
最初の腕骨折と最後の頭蓋骨から頸骨・背骨と衝撃が伝わっていくのはよしとするが、女カンフー使いの心臓に鉄骨が突き刺さる体内CGはよろしくない。
きもちわるい。
スプラッター・ホラー映画か、これは。
このようなものは古典物理学の「小学校理科」からの逸脱であり、美しくない。
単なる粗暴な暴力である。
 
『リーサル・ウェポン4』での脇役以後ブレークし、本作『ロミオ・マスト・ダイ』『キス・オブ・ドラゴン』そして『ザ・ワン』と、今やハリウッドで飛ぶ鳥を落とす勢いのジェット・リー師匠でありますが、人に下積み時代あり。
ジェット・リーはハリウッドでのステータスをゲットするまで、中国映画でとってもおばかな映画を作っていました。
 
なかでもカンフー・マスターが荒野のアメリカを行く「中華ウエスタン」の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ&チャイナ』はあっと驚く異形の作品でした。
 
そう言えば、同じくカンフー・マスターとアメリカ西部のミスマッチというでは、近年ハリウッドで作られたジャッキー・チャンの『シャンハイヌーン』があります。
 
「チャイニーズ・ウエスタン」というレアなジャンルを開拓したジャッキー・チェンとジェット・リーを顕彰し、『シャンハイヌーン』と『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ&チャイナ』を瞥見しましょう。
 
◆◆◆◆
『シャンハイ・ヌーン』SHANGHAI NOON
2000年アメリカ
監督:トム・ダイ
出演:ジャッキー・チェン、オーウェン・ウィルソン他
 
ブルース・リーを嚆矢とするカンフー映画は、その後凡百の亜流映画を生み出しました。
しかし、ブルース・リーの映画が屹立して見えるのは、彼が格闘技芸に秀でていただけでなく、破壊的な力を持つ者の「哀しみ」のオーラが漂っていたからでしょう。
 
ただ強いだけではだめなのである。
 
ブルース・リーの物真似してもだめだと知ってるとってもかしこいジャッキー・チェンは、破壊的な力を自分が持っていることに気付いていない者の「あれれ、壊しちゃったよ」的な「ひょうきんさ」を持ち味にして成功しました。
 
彼の初期のカンフー映画は、ちょっと間抜けな若者が底知れぬ知恵と技を持つ賢者にして武道の達人たる老人の「不肖の弟子」となって、だんだん成長していくという「教養小説」(ビルトゥングス・ロマン)の話型をとっているとこがよかった。
 
『シャンハイヌーン』は中国のカンフー・マスターがはるばるアメリカに渡って活躍するお話です。
 
19世紀後半、中国のお城からお姫さまが誘拐されてしまいます。
それで、ジャッキー扮するお城の近衛兵がさらわれたお姫様を取り戻すため、身代金をネバダ州まで運ぶことになるわけです。
 
途中、西部のアウトローのロイと出会います。
まったくの異文化の相手と、お互いに反目しいがみ合いながらも、次第に「中国人武道家と西部のガンマン」という変てこコンビをなして、お姫さま奪還のための珍道中を繰り広げる、といった「バディ・ムーヴィ」になっていますね。
 
荒唐無稽だけれども、ハリウッドに打って出たジャッキー・チェンと、アメリカ西部を旅する中国人カンフー・マスターというストーリーが、パラレルをなしているように思えます。
 
この映画は先行作品の引用とパロディに満ちたウエスタン・ジャンルへのオマージュになっていて、その点でも楽しい(もちろんタイトルも『真昼の決闘』High Noonの駄洒落)。
すぐ思いつくだけでもロバート・レッドフォード&ポール・ニューマンの『明日に向かって撃て』、三船敏郎&チャールズ・ブロンソンの『レッド・サン』、名作『西部開拓史』なんかですね。
 
19世紀アメリカ西部には、実に多くの中国人がいた。これは歴史的事実です。大陸横断鉄道の敷設工事の労働者に多くが従事していたし、カウボーイもタウンズ・ピープルもたくさんいて、西部開拓に大いに貢献していました。
 
ところが、ウエスタン映画はこの中国人のプレゼンスという歴史的事実を組織的に排除し(その点、実際にいた黒人ガンマンの存在も系統的に忘却してきている)、まったく描いていないというのが通説で、これはポリティカリーにコレクトでないのでよろしくないとつとに指摘されています。
 
ところが、西部劇をたくさん観直してみると、けっこう中国人が出てくることに気がつきます。ちょい役だけど、意外に多い。
 
内田樹・松下正己『映画は死んだ』(いなほ書房)は、映画には観客に「見えない」ものがあると論じていました。
スクリーンを凝視しているまじめな観客には「見えない」ものがあり、なんも考えないでボーッと見ている人だけ「アレッ、なんか変」と気付くことがあるのだそうです。
 
かつて、ヒーロー大活躍で悪人退治っていうことだけを見ていた「まじめなウエスタン鑑賞者」たるわたくしには、ちょこちょこ登場する中国人が「見えていなかった」わけです。
 
もちろん、かつての西部劇は中国人を単なる「背景」として抑圧し、そして観客のまなざしも中国人のプレゼンスを構造的に「見落とし」ていました。(当然、やたら目立ったらストーリー・ラインへの介入となるから、製作者もオーディエンスの「見落とし」を織り込んでいたことでしょう。)
 
そのような中国人の西部におけるプレゼンスを前景化し、かつジャッキー・チェンお約束のカンフー超絶達人技でもって、「ヒーロー」たる白人ガンマンを相対化する、そのような離れ業をやってのけているのがこの作品です。
 
ジャッキー・チェンが念頭に置いている市場は、アメリカを中心とする全世界だから、当然PC的な配慮がある。
同時に、ジャッキーくんはそんなPC的配慮までやすやすとクリアして、お遊びにしちゃっています。
エンターテイメントの極意を了解した映画の職人さんなんですね、ジャッキーくんは。
 
◆◆◆◆◆
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ&アメリカ』
ONCE UPON A TIME IN CHINA & AMERICA
黄飛鴻之 5:西域雄獅
1996年香港
監督:サモ・ハン・キンポー
出演者:ジェット・リーその他いろんな変装して出てくる中国系の人たちたくさん
 
「永盛娯楽製作有限公司」提供による、驚天動地のトンデモ「西部劇」です。
 
かつて子どものとき観たB級ウエスタンも宙返り打って裸足で逃げ出す「ナンチャッテ・ウエスタン」を偽装した「実はカンフー映画」と言えましょう。
 
同じくジェット・リーが主演で、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』というシリーズ映画(わたくしはぜんぜん観てないのでどんなだか知らない)の末端に位置しているようです。
 
舞台は『シャンハイ・ヌーン』と同じく19世紀のアメリカ西部。
 
『シャンハイ・ヌーン』は先行西部劇への引用とパロディに満ちたオマージュ作品だったけれど、同じくトリッキーな超絶カンフー・アクションが「売り」のこの作品は、もうセルフ・パロディの領域に達しています。
19世紀のアメリカ西部における中国人のプレゼンスを描いているところが、取り柄と言えば言えないこともない。
 
物語はいきなりウエスタンの「定型」で始まります。
 
荒野を走る馬上のガンマン(ビリー)は、東部でうだつが上がらず、一人西部に流れてきました。
 
ところが、このウエスタンお決まりの話型は、すぐさまカンフー映画の話型に乗っ取られてしまいます。
 
旅の途上で乗っていた馬も死に、一人荒野を彷徨い死に瀕したビリーを、馬車で通りかかったジェット・リーが助けます。
それも達人技で馬車の上に飛び上がったかと思うと、今度は御者席に飛び移り、馬車を引っ張って疾走する馬たちの上を走り伝って飛び降りるスタントを見せる。
 
とってもカンフーなシーンである。
かくしてウエスタン話型は一瞬にしてカンフー話型に乗っ取られます。
 
ウエスタンお約束の「インディアンの襲撃」とういのもありますが、これがまたすごい。
 
インディアンたちがどう見ても中国人にしか見えない。
 
中国人俳優たちが「インディアン風」のめちゃくちゃインチキなフェイス・ペインティングをしている。
『ゴー・ゴー・ファイブ』とか『ガオ・レンジャー』(って知らないだろうね、うちの子にときおり強制的に付き合わされて鑑賞させられる)の怪人か、あるいはブル松本とかロックバンド「キッス」のジーン・シモンズみたい。
 
しかも、この「インディアン」たちの動きが妙に「カンフー」ぽいのが笑える。
 
ジェット・リーが連れて行かれた「インディアン」の部落には、「ホンモノ」のネイティヴ・アメリカンの役者も若干数見られます。
だけど白人俳優さんが化けたニセモン・インディアンがほとんどで、特にスーパーむきむきマッチョなインディアン戦士なんぞ、悪役プロレスラーにしか見えない。
 
それからジェット・リーの敵役となる強盗団のボス。
これまたとっても変なメイキャップしたぶっきぃなアウトロー(やっぱり『ゴー・ゴー・ファイブ』の怪人風)なんだけれど、襲いかかる野生の狼をにらみ殺しちゃう異能力の持ち主である。
 
まあ、奇態なメイキャップやら超能力は許そう。
でもきみはアメリカ西部のアウトローなのに、どうしてカンフーの達人なん?
 
変なの。
 
「インディアン」の来襲を初め、街を牛耳る悪徳マーシャルや悪徳メイヤー、銀行強盗、サルーンにたむろするゴロツキ・ガンマン等々、一見したところ西部劇のパロディみたいだけれど、たぶんパロディなんかじゃないんだ。
一生懸命、「西部劇」の物真似をしようとしているのでしょう。
よくがんばった。努力は認めよう。ごくろうさん。
 
そう、これは西部劇のパロディじゃなくって、むしろカンフー映画のパロディなのでしょう。
魔法のようにカンフーの技でひゅんひゅん宙を舞い飛び、やられた方も彼方へびゅーんとぶっ飛んでいくワイヤー・アクションである。
わぁすごいと思いながら、カンフーのスタントマンは大変だろうなと同情する。
君たちもごくろうさん。
 
とにかく、何とかサンフランシスコにたどり着いたジェット・リーくんは、悪い奴らをぜんぶやっつけて、中国人街に平和をもたらします。
 
よかったね。ぱちぱち。
 
悪徳メイヤーの代わりに就任した、相方のガンマンのビリーは、ジェットくんの功績にちなんで、ここをChina Townと命名しました。
 
つまりこれはChina Townの創世神話なのである。
 
うそつき。
 
ということで、おバカ度爆裂カンフー・ウエスタン『むかしむかし中国とアメリカで』でした。
ジェット・リーは役者としてはウルトラだいこんだけど、カンフー・マスターとしては最高である。
 
ところで「永盛娯楽製作有限公司」提供のこの映画、「中国の武道の達人と西部のガンマンのコンビが荒野をゆく」というとこが『シャンハイ・ヌーン』と同型だ。
 
さては『シャンハイ』をパクったなと思いきや、実は『ワンス……』の方が先に作られている。
 
そもそも、『ワンス……』というは日本での流通版のみのタイトルで、原題はよくわかんない漢字が並んでいた(『黄飛鴻之:西域雄獅』みたいなの)。
 
セルジオ・レオーネ監督、ロバート・デニーロ主演で、ニューヨークのユダヤ系ギャングを描いた秀作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』という映画が1980年代にあったけど、そのタイトルを日本の映画配給会社がパクったんだろう。
 
IMDb(Internet Movie Database)で調べても原題の中国語を発音表記しただけのタイトルだったから、欧米では上映されていないらしい。
 
と、言うことは。
 
アメリカでまったく知られていない『ワンス……』のアイデアを、『シャンハイ』がハリウッド・マネーをたっぷりかけてパクったということか。
 
う〜む。もしかしてジャッキーってとってもずるい……。
 
03-03-15
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秋元秀紀
Hideki Akimoto
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