■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆
■■■やき ■ ■ ◆
=その17=
_____
2003-03-04
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
3月期の入試B日程も無事終了しました(工学部でボヤがあったけど)。
 
ちょうど一ヶ月前のA・S日程入試のときと違って、3月2日はぽかぽか陽気で心地好く、第一学舎前での「立ち番」受験生案内ものんびりしたものだった。
 
たった今オバケを目撃したというような青ざめた顔の受験生たちにはたいへん申し訳ないが、ぽかぽか陽気に眠くなってくる。
 
アルバイトで受験生案内をしている学生のみなさんもフレンドリーで、気持ちよいあいさつをしてくれる。
 
よい子たちである。
せんせは眠い。
 
春うららにまどろむアキモトせんせに代わって、今回はまず初めにゼミ生のI平さんに『タイタンズを忘れない』について寄稿してもらいました。
 
それではI平さん、どうぞ。
 
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『タイタンズを忘れない』REMEMBER THE TITANS
2000年アメリカ
監督:ボアス・イエーキン
出演:デンゼル・ワシントン、ウォル・ペイトン他 
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 私はなぜか大学に入ってからほとんど映画というものを見なくなってしまった、本当にぱったり。
 
 それは、当時のアメリカ映画が全部同じように見えたからだ。高校時代の最後に見た『アルマゲドン』のブルース・ウィルスのように、自分の国、自国の人々を守るヒーローが主人公となる映画に、いいかげん飽きたのかもしれない。もちろん、映画全てがヒーローもので同じというわけではないけれど。
 
 最後に映画館に行ったのは大学一年生の五月。見た映画の名前までは思い出せない。高校の時までは映画が趣味などと言ってたのが自分でも信じられない。もちろんレンタル・ビデオ屋に行く回数も激減した。しかし、ある一時、なぜかドラえもんの映画シリーズにはまってしまった。それは、あの夢いっぱいの現実離れしたドラえもんワールドに魅力を感じたこと(もちろんドラえもんの道具にも)そして、子供の頃には気づかなかったが現代社会のさまざまな問題点に目を向けている物語に興味を持ったからだ。見終わった後、ドラえもんたちが投げかけた問題点に真剣になって考えてしまう。その考えるという行為にも惹かれたのだ。ぜひ、大人の人にももう一度見てもらいたい映画だと私は思う。
 
 今回本当に久しぶりにビデオ屋に行った。『タイタンズを忘れない』を見ることに決めたのは、何かの雑誌の記事を読んで知っていて、前々から気になっていた映画だったからだ。
 
 時は1971年 アメリカはヴァージニア州アレクサンドリアの田舎町、街には人種差別の高い壁が残り、人々は憎しみと混乱の中で生活していた。そんな中、州の教育委員会は学校教育制度に残存していた人種差別的なシステムを完全に撤廃し、白人と黒人合同の学校、TCW高校ができる。この学校にできたアメリカン・フットボールチーム、タイタンズを指揮するために、一人の黒人コーチ、デンゼル・ワシントン演じるブーンがヘッドコーチとしてやってくる。もちろん、白人の生徒、親たちはそれを拒み、これまで指揮をとっていた白人のヨーストをアシスタント・コーチとして残すことになった。
 
 選手たちは、白人、黒人に分かれ、共に否定しあい、理解しようとはしなかった。しかし、ブーンはスパルタ指導によって、二週間の合宿のあいだ人種に関係なく、ただフット−ボールという競技のために共に練習し、勝つために互いを認め合い、一つになることを教えようとした。
 
 ブーンの一言がものすごく心に残る。「互いがきらいでも、互いが尊敬しあえばいつの日かきっと互いが人として向き合える日が来る」。
 
 これはスポーツをする意義というか本質につながるものだろう。ただ、がむしゃらに勝つために必死になって一つのスポーツを共に練習する。当然のこと、当初は互いの考えることもわからず、諍いも起こる。しかし、フットボールが好きで、勝ちたいという気持ちはばらばらだった生徒たちの気持ちを一つにして、一人一人が共に尊敬の気持ちを持つまでになるのだから。
 
 特に心に残ったのが、白人のキャプテンのゲリーと、黒人のキャプテンのジュリアスのあいだに生まれる友情だ。共に、他の選手を統率する立場ゆえ、自分の人種に一番こだわり、憎しみ合っていた二人が、二週間の合宿で互いの能力を認め合い、チームメイトとして信頼していく過程は見ていてとても清々しく、最高である。周囲の生徒や大人たちをめぐる状況がなかなか変化せず、憎しみと混乱は続くが、そのなかでタイタンズはフィールドという彼らの舞台で誰の力にも屈することなく彼ら自身の力を見せつけ試合に勝ち続ける。そして、それとともに、まわりの人々にも少しずつ変化が生まれてくる。ブーンの次の言葉は、根底に深く残る人種差別という問題に、真正面から挑もうとしているコーチと選手たちの姿を鮮烈に表している。「自分たちには人種の問題がある。しかし、だからこそ強い。何にも邪魔をさせるな。何も我々を引き裂けない」。
 
 一つの信念をもって共に過ごす人々が示す絆と力強さを、この映画は描き出す。見終わったときの爽快感は大きい。自分も何か一つ信念をもってできるものを探したいと思わせてくれる映画だ。
 

はい、I平さん、どうもありがとう。
 
こういう書き手の人柄の好さがにじみ出た文章もよろしいですね。
直球ど真ん中のボールを投げてくれたので、イジワルなアキモトせんせとしてはおろおろしてしまってストライクを見逃すところだった。
いい人だね、I平さんって。
わたくしのようにひねくれたおじさんのぼやきやゴネがない。
 
『タイタンズを忘れない』は、わたくしもよい映画だと思う。
この映画のメッセージはそれほど新奇なものではない。「基本がだいじ」ってことである(『カラテ・キッド』も『勝利への旅立ち』も『巨人の星』も『あしたのジョー』もみなこのメッセージを発信している)。
 
スポーツを始める若者(子ども)の動機は、華麗な妙技や超絶技への憧憬でしょう。
でも「師」(デンゼル・ワシントン、パット・モリタ、ジーン・ハックマン、星一徹、丹下段平)が教えるのは、退屈でしんどくダサくてみじめでやってらんねえよの基礎体力作りと基本練習ばかり。
 
運動部に所属したことのある人なら、みな経験していることである。
わたくしも、今でこそへろへろぴいの不健康な「文系人間」であるが、知る人ぞ誰も知らない、高校時代は柔道部に所属していた「体育会系人間」であった事実は誰も知らない公然の秘密である。
 
It's one of those secrets nobody knows.
 
柔道部の鬼の顧問は言う。「じゃ、腹筋運動始めっ、よしと言うまで!」。
よしと言うまでっていつなんだー!
 
また邪悪な先輩は言う。「ほんでは腕立てやろか。オレちょっと用あっから、戻ってくるまで続けてるように」。
ってどこ行くんじゃー、いつ戻って来るんだぁ!(涙)
 
理屈ではない。
理性などゴミ箱に捨てろ。
説明はしない。
質問はするな。
 
この徹底不条理性が基幹的なルールである。
 
「基本の修得」と「学び方の学び方」、つまり「ベーシックス」と「メタ」である(『仁義なき戦い』の基本的ルールもこれだった)。
 
この「体育会系不条理」というのは、実はとっても「文学部的」だと思う。基本スキルの修得、鳥瞰図的な視野の涵養、構造への(メタ的な)洞察というふうに翻訳すればであるが。
 
そしてこのような「文学部的知性」さえあれば、「にんげん」の作ったこの世の中でそこそこフシアワセにならずやっていける、努力次第ではけっこうハッピーになれるということである。
 
ということで、『タイタンズを忘れない』は「文学部はただしい」ということを言っておる。
 
言ってない?
 
それから、神話学、ファンタジー学、昔話学、都市伝説の話法、そして物語学(ナラトロジー)に流布した「内と外の文化の弁証法」。
 
『タイタンズを忘れない』でも『勝利への旅立ち』(ジーン・ハックマンの高校バスケットボール映画)でも、「内集団」の硬直化による停滞→「外」の異要素の到来→「外」と「内」との対立とカオスの発生→「内」による排除の力学とその克服→葛藤を越えた偉業の成就、という基本プロセスをなぞります。
 
外部の力による内部の活性化って、そもそも移民国家アメリカの国是じゃないか。
 
新任の指導者(異文化との接触)、外部の文法の導入と内部からの反発(伝統破りと頑迷な因習)、硬直した内集団による外来者の受容と再活性化という展開をみせる。
 
『タイタンズを忘れない』では人種差別というかたちで前景化しているけれども、人種差別が「なくなった」としてもこの話型は不滅であろう。
事実、同じような話型をとる『勝利への旅立ち』では、全員白人で人種問題は顕現しない。(むしろ都会の高校の強豪チームは黒人の名選手を揃え、弱小田舎高校の白人チームとの「優劣逆転」というポリティカリーにコレクトな現象が見られた。)
 
『タイタンズを忘れない』は、白人と黒人との人種対立(より正確にはracismによる白人の黒人に対する排除)と克服の物語であると同時に、あるいはそれ以上に、「外」と「内」との対立とその克服の物語なのである。
 
硬直した内集団に異要素が外部から介入し、確執ののちより上位次元の和解が訪れるという弁証法ですね。当初その異要素は、排除、差別、蔑視という憂き目に合うが、内集団を活性化させ、その潜在可能性を発現させるのに貢献する。
 
こういうお話って、いっぱいあるんじゃない?
 
こういうお話って、人類みな大好きなんだ。
 

さて、今回から急ぎ昨年8月に観た映画についてです。
あの頃わたくしは何をしていたのであろうか。
夏期休暇期間中だったのえあろう、32本も映画を観ている。
 
早朝にずりずりと起き出して午前中に仕事をすませ、昼飯作って食べたら夕方まで映画観て、それから保育園に子どものお迎えに行って晩ごはんの用意をする。日々その繰り返し。
 
そんなとこだったのろう。
 
メモによると、8月に借りて観た映画はこんなんであった。
『ベオウルフ』『あの子を探して』『追跡者』『メメント』『アナコンダ』『スリー・キングス』『ブロウ』『ロミオ・マスト・ダイ』『N.Y.P.D.15分署』『ザ・ディレクター:「市民ケーン」の真実』『リベラ・メ』『真実の行方』『アラクニッド』『レザボア・ドッグス:仁義なき男たち』『救命士』『ギルバート・グレイプ』『ワイルド・アット・ハート』『トゥルー・ロマンス』『エボリューション』『ゴースト&ダークネス』『U.M.A:レイク・プラシッド』『ロック・ネス』『スター・トレック:ファースト・コンタクト』『フロム・ダスク・ティル・ドーン』『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』『ホタル』『アステロイド:最終衝撃 ロングバージョン』『フロム・ダスク・ティル・ドーン 3』『ザ・ダイバー』『スティル・クレイジー』『ナチュラル・ボーン・キラーズ』『エド・ゲイン』。
 
しかし、さすがに32本とは驚きである。一日平均ひとつは観ていた計算ではないか。
 
頭がおかしくなったのだろうか。
 
大量に映画を観ていた学生時代でもこんなに集中して観たことはない。
 
だいたい映画というのは映画館で観るものであった。
 
かつてあった西梅田の「大毎地下劇場」や「毎日文化ホール」で、ハンバーガー喰いながら一日4本なんてこともかつてはあったのだが。
 
今後ともひと月32本の記録が破られることはないであろう。
 
ところで、この「シネマのつぶやき」は、いずれ映像論を授業に導入するためのデータベース作り、というのも目的にしている。
したがって「ネタばらし」的な叙述もありますので注意してね。
まだ観てない人の興を殺ぐことになったらごめんね。
 
それでは、今回は『ベオウルフ』『あの子を探して』『追跡者』『メメント』についてのつぶやきです。
 


『ベオウルフ』BEOWULF
1999年アメリカ
監督:グラハム・ベイカー
出演:クリストファー・ランバート、モンスター・クリーチャーとその母の女蜘蛛怪物、その他「未来中世」なみなさん
 
マンガでした。
 
日本ではすでに人口に膾炙したマンガ的想像力の産物である。
 
幻想上の、非歴史的、無時間的な設定で、「中世」のように見える荒涼とした「未来」のお話で、荒唐無稽な謎のヒーローという主人公を造形しておる。
 
最果ての地にある、蒸気と火炎を動力源とする不思議な「未来中世的」なお城に、怪物が出没して人々を襲う恐怖の事件が頻発している。
 
そこに謎の男、ベオウルフがやってくる。彼は永遠の生命をもち、永劫に邪悪なものと戦うべく運命づけられたヒーローだった。
 
笑わないように。
 
マンガではありますが、大道具・小道具にこだわっておるところが好感が持てます。
「胴体真っ二つちょん切り処刑機」が最初の方に出てきますが、その底板がなんかとっても「使い込んで」黒ずんだ血の染み跡があったりしてコワイ。
 
蒸気機関に基づき、洗練されていない仕事道具や武器や装飾、中世的な建物もこだわりが感じられます。「中世的」環境に、『トゥームレイダー』でも出てきた「19世紀的」なメカニックを布置しているところがよい。
 
それをやりたかったんでしょ?
 
わかるよその気持ち。
 
中世のようだけど未来って、何でもありの器用仕事(ブリコラージュ)の世界だからね。
 
その設定に一番適しているのが、19世紀的な動力機関だ。
 
究極は『千と千尋』の地下の住人「釜爺」の世界である。
 
宮崎駿が『コナン』や『ナウシカ』や『ラピュタ』で描く世界もそうだけれど、自然と文明の関係、機械と人間との関係が、破壊と疎外の不幸な関係に至る「一歩手前」のあやうい共生可能性を保持しているのが感じられる。
何がどうなって動いているのかてんでわからない微視的ICチップと巨視的ウェッブが世界を統括するハイテク時代を生きるわれわれは、そのような「中世」的世界とブリコラージュ的な「原初の」テクノロジーへの強い欲望を、どこか深いところでもっているのだろう。
 
そのような欲望実現が必ず失敗への道程を歩むことを歴史的に知っている現代人は、この欲望を一回ひねって未来へと投影し、「未来中世な」世界を描き出すのに倦むことを知らない。
 
夜な夜な人を襲うクリーチャーは、「ギーガー的エイリアン+『プレデター』+アマゾンの半魚人」という公式から生まれたどろどろぶちょぶちょモンスターです。
 
でも、そいつを謎のヒーロー、ベオウルフがやっつけたあとに、本家本元のご本山evilがご登場つかまつる。
 
なんとそれがクリーチャーの「お母さん」という設定。
 
最悪のevilは「やっぱり女」でした。
 
人を襲って恐怖に陥れるクリーチャーは、単に凶暴性ばかりが先行する「ただのバカ男」の若造だったってことである。
 
ほんで、このクリーチャーのお母さん、一見「美人の女の人」なのだが、でろでろ〜っと変身してみれば、やっぱ蜘蛛のイメージから造形されたモンスターと相成る。
 
欧米人は蜘蛛が嫌いである。
 
そしてモンスターたる蜘蛛は、つねに「雌」なのである。スティーブン・キングの『IT』でも、最後に出てきた地下の怪物は、ただしく「女蜘蛛」だったでしょ。
 
アキモトせんせいちおし映画『サブウェイ』(リュック・ベッソン監督)で主演したクリストファー・ランバートが、謎のスーパー・ヒーローをやっております。
そのフシギな顔がよい。
そのフシギな顔ゆえにSFや中世ものに活躍の場を見出しておられる(ツタヤさん、『ハイランダー』はよ入れてね、観られないじゃん)。
 
◆◆
『あの子を探して』一個都不能少
1999年中国
監督:チャン・イーモウ
出演:ウェイ・ミンジ、チャン・ホエクーほかたくさんの素人さんたち
 
うるうる。
 
教育の話。
 
よいねー。
 
中国の過疎村の小学校で、13歳の女の子ミンジが、50元の報酬欲しさに、たったひとりの住み込み代用教員となります。
 
貧しい過疎の村ゆえに子どもたちも不可欠の労働力として街に出稼ぎに行ってしまい、小学校の児童もどんどん減っている。
 
これ以上子どもたちが減らないようがんばれば10元のご褒美を出すと言われて、ミンジは子どもが学校から「逃げない」ように監視し、教師というよりは看守と化します。
 
最初は教室でそれなりにホンマの先生のふりをして、授業の真似事もしてみるのだけれども、13歳の少女先生のそんな泥縄は子どもたちに通じるわけがない。
うまくいかないのだ。
ほとんど「学級崩壊」状態に相成って、ブチ切れたミンジ先生は教室の外に出て、ふてくされて入り口の外にたたずんでボーッと一日を過ごす。
 
くそガキのお相手なんてばかばかしい、はやくお金が手に入らないかなって感じ。
 
教室の建物のドアの外で、ふてたようにたたずむ少女ミンジの姿が、前半で鍵となる図像である。ここではミンジはまだ「せんせい」ではなく、学級の子どもたちよりはわずかに年長のひとりの打ち捨てられたひとりの子どもにすぎない。
 
ところが、クラスで一番のやんちゃ坊主、っていうかまったくの「悪ガキくそガキ」であるホエクーが、出稼ぎのため街へ出奔してしまってから、「教育のお話」が動き始める。
 
10元のご褒美がチャラにならないように、ミンジはホエクーの連れ戻し作戦を練るんですよ。
 
ところが、街に行くバス代もない。
 
どうしたらよいか。
 
「問題解決」能力の涵養というのが、教育の本旨だということがよくわかる。
 
問題設定と解決法を、子どもたちみんなで考えます。
なにが問題で、どうしたら解決できるか。
 
まず賃金労働。お金をゲットしなくちゃ。
近くのレンガ干し現場へ行って、子どもたちの人海戦術をもってしてレンガ運んで金を手に入れようとする。
 
そうすると、自然と経済学や社会学や苦手な算術のお勉強につながってくる。(みんなで頑張るレンガ運びは当然「体育」の授業です。)
 
注意力散漫だった子どもたちが「勉強」に集中する。
 
少女ミンジもだんだん「先生」になっていく。
 
子どもたちといっしょになって「何が問題」で「どうしたらよいか」を考えながら、それと知らず美しい授業風景を作っているところがよい。
 
なんと「ブンガク」もするんですよ、文学部生のみなさん。
学習委員の女の子が、高価なチョークが踏み潰されたことをめぐって記す「わたしは哀しい」という日記の記述が、詩になっておる。ミンジ先生はそれをみんなの前で朗読させるのです。
ミンジ先生自身もその詩によって動かされていきます。
 
そしていよいよミンジはホエクー探しに街に向かう。
ところがタダ乗りを決め込もうとしたバスから放り出され、ミンジはてくてくてくてく街まで歩いて行くことになる。
このときにはもう、50元の金のための代用教員という当初の金銭目的も、10元の報奨金目当てというのも、どっかに消えてしまう。
そもそも何のためにホエクーを探して連れ戻すのかという理由も、既にして消失してしまっているところがよい。
こういうところが「子ども」のよいところである。
何かの目的のために行動を起こすけれども、いつの間にか行動そのものが目的化している。
 
ホエクーの懐かしい「くそガキ」っぽいところもよい。街なかをひとり放浪しサヴァイヴァルしていくところもよい。日本の戦後闇市の浮浪児みたい(って幸いわたくし経験ないけど)。
 
うーむ。やっぱチャン・イーモウよい監督ではないか。
この映画でヴェネチア映画祭金獅子賞取ったのか。
おばかハリウッド映画ばっか観ていてはいけない。
『紅いコーリャン』も『紅夢』も『初恋のきた道』も観てないけど、これは観なければならない。
 
ミンジ、ホエクーを初め子どもたちもみな本名で出演している。
みんなまったくの素人集団なのだ。
 
原題の『一個都不能少』ってなんだろ。
 
英語版のNot One Lessというタイトルから類推するに、『ひとりたりとも欠けてはならぬ』ってことだろうか。
中国語の題は、『ひとり都会に行っちゃったけど人数少なくなったらだめなのに』といったとこだろうか。
 
うーん。わかんない。
 
誰が外国語で中国語を履修した人、教えてもらえないだろうか。
 
◆◆◆
『追跡者』U.S.MARSHALS
1998年アメリカ
監督:スチュアート・ベアード
出演:トミー・リー・ジョーンズ、ウェズリー・スナイプス、ロバート・ダウニー・Jr、イレーヌ・ジャコブ、ジョー・パントリアーノ、ダニエル・ローバック、トム・ウッド、ラターニャ・リチャードソン、ケイト・ネリガン
 
『メン・イン・ブラック』でお馴染みのトミー・リー・「渋顔」・ジョーンズ演ずる連邦保安官ジェラードのお話です。
 
もちろん、『逃亡者』(1993)でハリソン・フォードを執拗に追いかけ、その偏執的なジェラード連邦保安官役で注目されたジョーンズを、今度は主役に据えてやろうという「二匹目のどぜう」ねらいであることは言をまたない。
だが、さすがは名優ジョーンズくん、あやうくチープなTVドラマ風になりそうなところを、彼ならではの存在感ある演技でぴしっと締めている。
 
それに、ジョーンズくんは、その「思いこみの強さ」と執拗なまでの「油っぽい信念」を表象する顔立ちからして、実に「追いかける人」「追いつめる人」という役柄がはまり役なのだ。
 
そういう「追いかけ・追いつめる人」って、『メン・イン・ブラック』でもそうでしょ?
 
追いかける人がいれば、当然のこと逃げる人もいる。
 
今回の逃げる人は、ウェズリー・「宇崎竜童+鈴木雅之」・スナイプス。
元CIA特殊工作員で殺人事件の容疑者シェリダン(スナイプス)を、ジェラード保安官が執拗に追跡してゆくってお話です。
 
大方の予想に反して、やっぱウェズリー・スナイプスは「知的な役」がはまりどころだ(@「シネつぶ」その16)。
肉体派を前景化せずに、今後とも知的な役どころで本領を発揮し、身体能力の誇示は隠し味に留めることをお勧めしたい。
知的で陰影のあるキャラだからこそ、ビルの屋上からワイヤー・ロープにぶら下がったスーパー・ターザン跳躍で列車の屋根に飛び移るなんてスタントも見せ所になるんだ。
 
『ブレイド』(@「シネつぶ」その14)のような「脳味噌筋肉化推進連盟全国委員会書記長」の役では、持ち味が十分発揮できないと思うよ。
そういう点で、この映画でも「知的な振る舞い」を見せるシーンをもっと具体的に編集するように(コンピュータ操作やIDの偽造したりする細部がキャラクター造形で重要なんだよ)。
 
◆◆◆◆
『メメント』MEMENTO
2000年アメリカ
監督:クリストファー・ノーラン
出演:ガイ・ピアース、キャリー=アン・モス、ジョー・パントリアーノ
 
主人公レナードは前向性健忘という短期記憶障害をもち、起きたことの記憶を10分間しか保持できない。
元来は健常であったが、妻が殺害されるのを目撃したショックのため、爾来このような障害をもつようになったという。
 
彼はポラロイドカメラとメモとみずからの身体に刻んだ入れ墨のメッセージを頼りに「記憶」を維持し(未来の自分にメッセージを絶えず送り続ける)、妻を殺害した「謎の」犯人に復讐を果たすためにのみ生きている。
 
ツタヤの惹句によれば、「目まぐるしく変わる記憶の断片映像。貴方は果たして"メメント"の謎を解くことが出来るか?」ということだけれども、そんなにむずかしくないよ。安心して観ましょう。
 
時系列を逆転して展開するプロットが斬新なのでしょうね。
物語は時間をどんどん逆行して、過去へ過去へと進みます。(フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の有名なエンディング・フレーズみたい。)
 
でもヴィデオの「巻き戻し」みたいのではもちろんありません。
 
出来事を時間順に並べて、A→B→C→D→E→F→Gと進む物語があるとしますね。
それぞれのシークエンスはこうなります。
 
(1)A→B
(2)B→C
(3)C→D
(4)D→E
(5)E→F
(6)F→G
 
それを逆転するように編集すると、シークエンスはこうなる。
 
(1)F→G
(2)E→F
(3)D→E
(4)C→D
(5)B→C
(6)A→B
 
発想としてはわりかしシンプルである。「終わり」から物語が始まって、主人公の短期記憶スパンの10分ほどをワン・シークセンスとし、次々と時間を逆行していっているわけである。
 
因果関係を時間軸に沿って展開させず、時系列を入れ替えるのが「プロット」というものです。
他方、時系列順に出来事を並べたのが「ストーリー」。
 
だから、時間は逆行しているけれども、基本的にリニアーなストーリー展開であって、プロットはそんなに複雑ではない。
プロット的に時間が行きつもどりつということはあまりないし(白黒の断片的な「回想」場面以外)。
ということで、直線的な逆時系列展開ということになる。
 
こういうのって、脚本・編集が大変だったろう。
時系列認識というのは、そもそも人間の脳の基本的機能であるから、観客にあまり混乱を招いてはいけないし。
小道具(傷跡、服のしわ、汚れ等)も時系列的に齟齬が出てはいけないし。
 
インタヴューでノーラン監督は、好みの映画として、伏線を巧みに配置して最後にどんでん返しを見せるような、「二度観てもおもしろい」映画に言及していた。『エンゼル・ハート』『ユージュアル・サスペクツ』『シックス・センス』とかね。
 
賛成である。「伏線大どんでん返し二度観てもおもしろい」映画好きのノーランくんに一票。
 
"memento"というのはもちろん、"memento mori"(「死を忘れるな」)の"memento"で、「記憶せよ/忘れるな」の意。
記憶というのは当然のことながら過去に遡及するものだ。
記憶のベクトルは、現時点を基点にし、現在から過去に向かう。逆ではない。
あたり前のことだけど、この映画のプロットはそういう「記憶」のベクトル構造をなぞる。
 
主人公のレナードはどんどん記憶を失ってしまうけれども、復讐心という彼を動かすドライヴが失われることは決してない。
そして復讐の達成感も決して得られることはなく、新たな「物語」を紡ぎ出す方向にこのドライヴを解き放つ。
彼が生きているのはフィクショナルな物語であって、その物語を動かすドライヴは復讐心であり、その物語を支えているのがなんと記憶障害そのものなのである。
 
つまり、レナードは記憶を遡及的に「創造」するんだ。
 
レナードに付きまとう、テディと呼ばれるとってもアヤシイ男がいる。
しかし物語が遡及的に過去へ進むにしたがって、彼が元警官であり、レナードに同情して復讐の遂行を手伝っていることがわかってくる。
 
過去にテディは、すでに何人もレナードが「復讐殺人」を犯すのを幇助していたのである。
最初の殺人以後も、レナードは復讐を遂げたその「達成感」を10分間しか維持できない。そして復讐心というドライヴそのものは、決して記憶から抹消することができない。
 
それゆえレナードはまた新たな「謎の犯人」を仮構して、その探求と復讐のため焦燥感も露わに動き出す。
テディは街のゴロツキを見つけては、レナードが「復讐を遂げる」ためのお膳立てを繰り返してきたのである。
 
さらに、レナードの妻が殺害された事件そのものの「事実」も、実はレナードが遡及的に創造した「記憶」なのかもしれない、という事態を招来する。
 
レナードは記憶と記録の「編集」さえしているのだから。
問題の「解決」を促す記憶/記録(そこには「真犯人」の謎の解明がすでに記述されている)を、彼は破り捨ててしまうのだ。そして、証拠の存在も、証拠を破棄した事実そのものも「忘れる」ことを意図的に選ぶ。
そうすることによって、真犯人はつねに「謎」であり、彼の犯人探し・復讐物語は動力源を永遠に失うことがない。
 
レナードの記憶障害を利用して、彼の記憶を編集する他者も登場してくる(とっても悪い女が登場します)。
テディもレナードの記憶の「共同執筆者」として、その紡ぎ出された物語=シナリオを実現(リアライズ)する演出家となるわけです。
 
いい加減に目を覚ませと言うテディを、とうとうレナードは殺してしまう(「こいつが真犯人だったのか!」と)。
そしてこのテディ殺害場面こそ、物語では最初に提示されるんです。以後、ずっと過去へ遡及してゆく。
 
レナードの記憶のシナリオライターであるテディが見落としたのは、レナードの復讐心の消費し尽くされ得ぬドライヴの強さ、そして「物語の力」だ。
 
テディは、レナードの記憶という物語のライター兼演出家として、その物語の「外部」にあって物語を支配・統括する神のごとき存在を自認していた。
そのためテディは、物語の内部に「取り込まれ」た瞬間に、殺害されてしまう。
 
一見したところ欺瞞に満ちた嘘つきのアヤシイ奴テディが、実は真実を知り、かつレナードが欲望する物語を執筆してくれていたのである。
他方、純粋であるかのように見えていたレナードが、実は虚構を生きていることが判明する。
このエンディングはあまりに救いがないように見える。レナードはテディ殺害後、「神なき世界」を生きなければならない。
欲望する物語を自分の代わりに描いてくれる神さまはもういないのだから。
しかしレナードは自身の記憶を司る神の審級へと跳躍をみせる。
 
この映画は、記憶とはあやふやだとか、もろいものだとか言っているのではない。
記憶は「作られるもの」であり、記憶が作り出す「物語の力」はとても強いと言っているのである。
 
記憶が物語を作り、物語がアイデンティティの謂いとなる。
記憶をポラロイド写真とメモに拠るレナードは、みずからのアイデンティティを創造された「表象」に依存していることになる。
 
ところが、この物語生成の構造そのものを最後に暴露するテディを、レナードは妻の殺害の真犯人であり復讐殺人を決行せねばならないという新たなシナリオを生成し、"Don't believe his lies.  He is the one.  Kill him."とメモに記す。
そのとき、レナードは自覚的にこの物語生成そのものを生きることになる。彼はもはやテディを必要とせず、記憶の執筆者となるのである。
10分後に忘れることを「織り込んで」、虚偽と知りつつ「偽物語」を生成することを選ぶのだ。
 
妻の殺害事件以前の記憶は確かだというのも、実は「事後的に」レナードが作った物語、すなわち遡及的に形成された記憶である。
前向性健忘のサミーとその糖尿病の妻という知人について、レナードはみずからの記憶を語るが、実はそれは自分と自分の妻のことであり、「サミーとその妻」の物語に仮託していたにすぎない。
 
サミーは糖尿病の妻にインシュリン注射を一定時間に施すが、痴呆症を発症しつつあるサミーは注射したことを忘れてしまって何度も注射を繰り返す、という物語をレナードは語る。
しかし、実は「事件」でレナードの妻は死なず、インシュリンの過剰注射をレナードに繰り返させることによって、事実上の自殺を行ったのは自分の妻であった。
 
このような、現在のアイデンティティを仮構してくれる「原初の物語」の「偽記憶」まで、テディは暴露する。
そのとき物語生成の力学が崩壊の危機に瀕し、レナードは自分の物語=アイデンティティを保持するために、あとで忘れてしまうことも織り込みつつ「偽記憶」を自覚的に生成する方を「選ぶ」のである。
それが"Don't believe his lies.  He is the one.  Kill him."というメモの秘密である。
 
レナードはメモをとって正確な記憶を保持し、それによってみずからのアイデンティティを保持する物語を堅持しようとしていたが、その物語生成の構造が崩壊したとき選んだのは、偽りの記憶を保持することによってみずからのアイデンティティを保持してくれる物語へとシフトすることだった。
 
これは大きな跳躍である。
 
そしてとってもコワイ跳躍である。
 
それにしてもクリストファー・ノーラン、29才とはなんて若い監督だ。
ノワールの未来はきみとトロイ・ダフィー(@「シネつぶ」その12)にまかせた。
「巻き戻しプロット」というトリッキーな奥の手を使ってしまったので、次作がちょっと心配であるが。
 
03-03-04
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秋元秀紀
Hideki Akimoto
akimoto@ipcku.kansai-u.ac.jp
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