■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆
■■■やき ■ ■ ◆
=その15=
_____
2002-12-29
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
わかってわかってる。
 
重々わかっておる。
 
しつこいのは百も承知ノ助左右衛門である。
 
でも、ちょっとだけ『北の国から』についてつぶやかしてね。
 
だって第22話で、純と蛍の母親、令子が急死してしまったのだよ。
 
わーん。
 
そんで次の第23話、純と蛍は雪子おばさんに連れられて、令子のお通夜のために東京にやってくる。
 
お通夜の晩、まだパパの五郎は来ていない。だから純と蛍が喪主扱いで霊前に座っているの。
 
そして向かい側には、令子の愛人で近々彼女が再婚する予定だった「吉野のおじさん」(伊丹十三)が放心状態で座っている。
 
そこに、吉野の亡き前妻の幼い子ども二人が登場し、吉野パパにもたれかかって甘える。
 
それを無言でじっと見つめる純と蛍。母親の通夜の場で、自分たちの父親はまだ来ていない。
 
目の前の吉野は打ちひしがれて自分の哀しみに耽溺しており、純と蛍のまなざしに気づかない。そして、無慈悲にも純と蛍を前にして、自分の二人の子どもに言うんだよ、「かあさんにお別れいいなさい」って。
 
こ、これはあまりに残酷だ。
 
ぼくたちの母さんなのにー。
 
わーん。
 
蛍は無言でついと立ち上がって部屋を出ていき、純もあとに続く。
 
五郎パパもおらず、母も見ず知らずの子どもたちに「奪われた」かたちの純と蛍は、行くあてもなく無言で夜の街を彷徨い歩く。(でも考えたら、吉野のおじさんの子ども二人も「母親のお通夜」に出るの二回目となるんだよね。それもちょっと相当だと思うけど。)
 
空腹を覚えた二人は肉まん(大阪では豚まんと呼ばれ、脚本では回転焼きとなっている、どうでもよいけど)を買って街灯の下に座って食べる。
 
う"ー。
 
あんな苦い肉まんはないぞ。
 
第23話の終わりは、「古靴探し」のエピソードで締めくくられる。とっても大事なエピソードなので、みなさんセンセの話をよく聞くように。
 
通夜の翌朝、葬儀の日。純と蛍は近くの公園にいる(葬儀の準備でばたばたしてるから「子ども」は邪魔なんだよ)。
 
するとその公園に、同じように葬儀の準備の役に立たない(むしろ故人との関係上、いない方がよい)もうひとりの子どものような大人がひとり、所在なげにたたずんでいる。吉野のおじさんである。
 
「自分ひとりの哀しみに沈んで自分のことしか頭にない子どものような」吉野のおじさんは、静かに静かに純に語りかける。「純はあれか、ガールフレンドはいるか? 女の人を好きになったことはあるか? 今に好きになる、何度も、いっぱい、好きになる。これから始まる。おじさんは終わった、もうこれで終わった」。
 
うむ、名台詞である。
 
ほんとによい台詞である。
 
でもこの名台詞はどうでもいいの。
 
己の哀しみに耽溺して、「自分が愛し再婚するはずだった今は亡き女性」の実の子を前にして、ほろほろと涙を流すことを恥じない「子どものような」吉野のおじさんが、ふと純の古靴に目に留めて、葬儀の日に「そんな汚い靴を履いてたら母さんが悲しむ」と靴屋さんに連れていって靴を新調してあげるのだよ。
 
そして純と蛍は、父さんが買ってくれた履き古しの靴を靴屋さんに置き捨てて、新調した靴で葬儀に出席することになる。
 
それはよい。
 
吉野のおじさんは決して「悪い奴」ではない、むしろ「いい人」である。
 
でも、父さんが買ってくれて、北海道の厳しい自然のなかでぼろぼろになるまで履いて生活を共にしたあの安靴は、東京の「いい人」が金に糸目を付けずに買ってくれたかっこいい靴と天秤にかけることはできない、ということに純は思いをいたすんだね。
 
翌日の晩、純と蛍は思い立って、新しい靴を買ってもらったときに捨ててきた古靴を探しに、昨日の靴屋さんに駆けてゆく。
 
すでに閉店している靴屋の外のゴミを探し回る純と蛍。
 
そこに、このようなシチュエーションのニュアンスとは一見したところ対極にある「国家権力」が登場する。
 
「何してるの、お前ら?」と若いお巡りさんに詰問されるんです(ゲスト出演の平田満がちょい役でやってる警官、よい味を出しておる)。
 
純「あ、はい。運動靴をさがしてます」
警官「だれの?」
純「ぼくらの」
警官「どうゆうこと?」
純「はいあの、昨日おじさんがぼくらに運動靴買ってくれてそのとき前に履いてた古い靴をもう捨てなさいと渡しちゃっので……。でもあの、それはまだ履けるから」
警官「おじさんは捨てろっていったンだべ?」
純「でもあの、おじさんは、事情をよく知らず……」
警官「おじさんってだれだ?」
純「母さんが一緒になるはずだった人です」
警官「……母さんって、どこにいる?」
純「四日前に死にました」
警官「……」
 
言葉に詰まってしばし無言の警官の表情が、突然がらりと変わるんだね。
 
警官「このゴミの山に確かにあるのか!? あっちにもあるぞ、うん、あっちはオレが探してやる。お前らそこ探せっ」
 
どこか東北(北海道?)訛りのある純朴な警官がよい。(それ「だけ」で彼の人の好さと苦労人であることと純の言っていることを直感的に理解する「都会/田舎」の落差の経験を表象している。)
 
純の子どもらしい言葉に、田舎出の苦労人の警官として突然「すべて」を察して、必死に純たちの古靴を探し始める。
 
「すべて」というのは、純が伝えた情報の「内容」ではない。情報内容は錯綜し、「四日前に死んだ母親が一緒になるはずだったおじさんが新しい靴を買ってくれたので古い靴はもういらないだろうと捨てるように言ったけど探したい」という、ほとんど支離滅裂な子ども語である。
 
しかし、この若い警官は提示された情報の亀裂から、表象され得ない事象群の広大な広がりを直覚する。それが「すべて」ということだ。そして「よくわからないが、すべてわかった」ということを、言葉と行動で表現するのだよ。彼は大人である。
 
表現するということが大事なんだね。
 
このとき、純の整理されない感情は表現を与えられ、表象と化する。
 
若い警官の言動は、名前を与える行為なのだ。彼は純の感情の「名付け親」である。名前/表象のない感情は、重い混沌でしかない。
 
感情というのは優れて文化的な産物だ。所与の「自然」物ではない。それは名付けられなければならない。
 
そう言えば、ずいぶん前のことだけど、「朝ごはんをひとりで食べる子どもたち」を描いたNHKのドキュメンタリーがあった。子どもたちに朝の食卓風景を絵に描かせ、インタヴューするのである。
 
忙しい両親とは別々にひとりで食事することが「当たり前」で「平気」だと思っていた子どもたちのなかに、インタヴューを受けている過程で泣きだしてしまう子がいた。その子は、「自分でも知らなかった自分の感情」を発見し、インタヴューアーにその感情に名付けをしてもらって、初めて自分が「可哀相」であると知ったのである。
 
ほんで、「必死にゴミ漁り」をするお巡りさんの背中を見つめる純の「決め」の語りがここで入るんです。「急に……涙がつきあげた……。拝啓ケイコちゃん。なぜだかわかりません」
 
いいんだよ純くん、センセがなぜだか教えてあげよう。
 
きみはようやく自分を可哀想だと思うことができたんだ。
 
なぜか。
 
大人に心底可哀想だと思われ、それが表現されるのを目にすることができたから。
 
子どもは他者(大人)の欲望を模倣する。きみは同情されて初めて、分裂した「自己と自己の感情」が統合されたのだよ。
 
純朴な警察官の直裁な同情を前にして、それを模倣することによって初めて、抑圧していた自分自身の感情(pathy)に一致(syn-)を見出すことができたのだ。
 
純くんきみはこのとき初めて、自分自身に同情・共感sympathyすることが「許される」と思ったんだよ。
 
センセの言うことはむずかしいかな。
 
でも一生使えるスキルなので覚えておくように。
 
ってもう大人になって内田有紀と結婚したんだね。
 
おめでとさん。幸せになっとくれ。
 
でも、一緒に古靴探してくれた田舎出の若い警察官のこと、忘れたらだめだよ。
 
きみの人生にとって大事なのは、子どものとききみのぼろぼろの汚い靴を一緒に探してゴミ箱を引っかき回してくれた純朴なお巡りさんをめぐる記憶なのだから。
 
あとは雄弁な吉野のおじさんが言うとおりだよ。
 
純くん、きみは「これから始まる」んだ。
 
子どものヴァルネラビリティと強さはともに、その淵源は「すべてはこれから始まる」という一点にある。
大人のヴァルネラビリティと強さはともに、その淵源は「もうこれで終わった」と言えることにある。
 
伊丹十三は何故か自死を選んで幽冥界に入ってしまい、ほんとうにこの世界とさよならしてしまったが。
 
さて、本題ですが。
本日は『偶然の恋人』『人狼』『ソードフィッシュ』『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』『ユージュアル・サスペクツ』『シリアル・ママ』『どら平太』のつぶやきです。
 


『偶然の恋人』BOUNCE
2000年アメリカ
監督:ドン・ルース
出演:ベン・アフレック、グウィネス・パルトロウ、ナターシャ・ヘンストリッジ、ジェニファー・グレイ、トニー・ゴールドウィン、ジョー・モートン、ジョニー・ガレッキー
 
主人公はばりばりのヤッピーくん、その名はバディ。自分の持てるスキルに優越感を覚え、仕事に満足し、所有するものへの愉悦に耽溺してばりばりと広告代理店で働いておる(という設定)。
 
ある日、バディは出張帰りに天候不順のため足止めされたシカゴの空港で、グレッグと偶然知り合いになります。グレッグが帰りを急いでいることを知って、バディは気前よくチケットを譲るんですね。
 
その飛行機が墜落してグレッグは不帰の人となり、チケットを譲ったことに自責の念に駆られたバディは、グレッグの妻アビーを訪ねてゆきます。
 
そんで、バディとアビーはどたばたの挙げ句できてしまうというラブ・ストーリーであります。
 
「秘密」がこのラブ・ストーリー話型のドライヴとなっていることは言を俟たない。
 
アビーに対して、バディは自分が偶然グレッグと知り合ったこと、親切心からチケットを譲り、それがグレッグの死につながったことを口にすることができない。
 
この「いずれバレる」秘密が二人のあいだにあること、一方が秘密をもっていて相手がそれを「知らない」ということを知っていること、他方は秘密があることさえ知らず、自分は知らないということを相手が「知っている」ということ、この徹底的な情報の非対称性はつねにドラマを生み出す基本形である。
 
「秘密」がブラックホールのごとく磁場を形成し、ドラマを展開させてゆく。あるいはドラマの駆動力そのものとなる。
 
そして「いずれバレる」ということが、サスペンスを維持する。
 
飛行機事故と死という悲劇がドラマの主眼ではない。(グレッグくん、ただの「死に役」ですまない。)
 
そこから生まれた「秘密」がドラマ性の根幹を形成するのである。
 
ドラマの基本形のうえに築かれたこの映画が描くのは、「アメリカ流の振る舞い方」である。
 
飛行機事故の知らせがアビーに届いたあと、航空会社の事務所で職員の女性が、グレッグが事故機の乗客であったことを示すファクスを手に、ゆっくりアビーに歩み寄っていく。
 
取り乱すアビー、うなだれて言葉もない担当職員の男と女、電話をしながら見つめる女性職員、抱きしめて髪をよしよしと慰める親戚の年上女性。
 
これらのすべて、悲嘆(grief)さえも、いかに文化の文法に縛られているか。
 
国によってそれぞれに異なる悲嘆の振る舞いがある。
 
しかしながら、ハリウッドが繰り返し示すのは(当然のことながら)アメリカ的な振る舞いである。
 
観客はアメリカ的な振る舞い、感情表現の文法を、他でもなく映画という表象を通じて学習して再生産し、そしてまたそれが巷間に流布した「自然な」振る舞い・感情表現として映画において再現される。
 
このループこそ「文化」に他ならない。そしてこの「文化」が、ハリウッドという巨大エンターテイメント帝国によって量産され流通することに、見えざる文化の帝国主義がある。
 
彼らの振る舞いは定型的なものである。
 
初めてバディがアビーに会いに行ったときのドジなアビーの所作、犬をめぐる喧噪、アビーがバディを「怪しい奴」と思ったときの二人の態度、犬に噛み裂かれたズボンを直してもらっているあいだの二人の会話といった「ラブコメ」のどたばたエピソードに見られる感情表現もみなそうである。
 
そもそもバディが生前のグレッグと知り合いになったこと、彼がバディの死の間接要因になったこと、この基幹的な「秘密」がすべてバレて、トイレに閉じこもるアビーの振る舞い、ぼろぼろの表情でトイレから出てきて、バディに今すぐこの家から出て行けと断固たる態度をとるアビー、そして最後にバディのところに現れたアビー等々、ぜんぶそうだ。
 
だがこの型にはまった振る舞いは、「一般のアメリカ人の特徴的な振る舞い」を描いている・上演しているということでは終わらない。
 
そもそも、「一般のアメリカ人の特徴的な振る舞い」とはなんだろう。
 
20世紀において、移民国家アメリカの人々は、ハリウッド的に表象された振る舞いを模倣することによってアメリカ人となり、模倣することによって感情表現を獲得した「一般のアメリカ人の特徴的な振る舞い」を、ハリウッドは再度表象しているのである。
 
これはすべて表象の表象、模倣の模倣のウロボロスであって、どこかに本質主義的な原点となる「感情」のイデアがあるわけではない。
 
感情は事後的な効果であって、「表現」があってのちに発生するのである。
 
表現されない感情というものを、少なくともハリウッドは、決して認めない。
 
ある種のヨーロッパ映画、かつての日本映画にあったような、「表現されない感情」というものを表象することを、ハリウッドは興味を抱かない。むろん、「表現されない感情」というのもある種の振る舞いなのだろうけど。
 
わたくしは何を言っているのだろう。
 
よくわからん。
 
ま、いっか。
 
とにかく、この映画で明らかなように、人間を狂わせるのはビジネスであり、人間を救うのは主体的に獲得された「自己」である、というメッセージをハリウッドは繰り返し発信する――「アメリカ流の振る舞い」付きで。
 
つまりこの映画が描くのは、ヤッピーが自分が人間であることを思い出す物語である。
 
事故と人の死まで商品に変えてしまう錬金術社会(飛行機会社は事故をネタにTVコマーシャル・シリーズを制作し、主人公の勤める広告会社がそれで賞をとるっていう挿話がある)では、失敗(ビジネス上の)こそ成功(人生の)なのだという「ヒューマンなメッセージ」となる。
 
これは2000年製作の映画である。
ヤッピーはぐるっとトラックを一周回ってスタート地点に戻ってきた。
 
90年代の観客は、ヤッピーのエグさとあざとさ、人間性の欠如をさんざん見せられて、もういい加減食傷したのであろう。
 
で、この「神も見捨てた」ヤッピーくんの人間回復はいかに可能か、という設問に対するハリウッド的模範解答は?
 
やっぱ家庭でした。
 
遅いよ。
 
この覚知に至るストーリー・ラインとドラマを生成するのに、また人間をひとり殺さなければならないんでしょうか(哀れグレッグくん)。
 
そのような表現も、また「アメリカ流の振る舞い」なのだろうかね。
 
高層ビルに旅客機が突き刺さって何千人もの人が命を落とすという極度の視覚的不条理を目の当たりにしなければ、一人一人の人間の命の尊厳や、彼・彼女が送っているかけがえのない日常の意味が看取されないというのと、その精神構造において大きな差はない(っていまだに看取していない国家元首もいるようだけれど)。
 
文学書を読みなさい。
 
どことなくトラボルタに似ている(ような気がする)主人公バディ役のベン・アフレックは、『グッド・ウィル・ハンティング』でブルー・カラー層から抜けられないお友達のチャッキーだった。
 
目元がジョディ・フォスターに似ている(ような気がする)アビー役のグウィネス・パルトロウは、『シェイクスピア・イン・ラブ』『セブン』にも出ていたそうである。
 
ともになかなか役柄の幅が広いではないか。
 
◆◆
『人狼』
2000年日本
監督:沖浦啓之
原作:押井守
脚本:押井守
出演:アニメのみなさん
 
『Ghost in the Shell/攻殻機動隊』で世界をあっと驚くタメゴロウさせた押井アニメ。そう言えば実写の『アヴァロン』では監督をしていた。
 
なーるど、こういうのがやりたかったのね、ってことがよくわかる。
 
甲冑のような完全武装の兵士、兜から光る赤い目の暗視レンズ。爆発や機関銃の連射や弾が身体に当たった衝撃と血しぶき、地下水道を走ってあげる水しぶき。
 
あれ、ここにも「地下」があった(@「シネつぶ」その14)。
 
とにかく、こういったテクスチャー/手触り感をアニメーションで表現したかったのだろう。
 
それから「あの時代」の風物、風俗、街の風景、人々、雰囲気を表現したかったんだね。団塊の世代がまだ若く大暴れしていた(若すぎて大暴れしすぎていた)時代をね。
 
もー、押井くんって、とっても団塊なんだからぁ。
 
近未来に設定するのではなく、近過去の、あり得たかもしれないもうひとつの日本の歴史を描いてます。ある種の「並行宇宙」(パラレル・ユニヴァース)ストーリーである。
 
過激派と機動隊が衝突していた60年代終わりから70年代初頭の時代が、その過激さをそのままいや増していたらどうなったか、そういう"What if"の世界ですね。
 
でも「もうひとつの歴史」でも、やっぱり「みずからの人間性発見」の物語だったのだ。
腐敗した大人社会の組織内派閥の陰謀・綱引き・騙し合いに翻弄される、「純粋な」若者二人ってことですな。
 
テロリストの哀しみはよしとしよう(古いけど)。
 
ミッキー・ロークの『死にゆく者への祈り』(1987)、ハリソン・フォードとブラッド・ピットの『デビル』(1997)の世界です。
 
IRAのテロリストってのは、そういう「正義と不法テロの狭間で苦悩する人間」類型を生み出す「現代の神話」を形成していた。
 
でもね、言っちゃなんだが日本の学生運動くずれのセクト主義テロリストじゃ、ローカルな歴史を越えた神話にはならないんでは。
 
そしてテロリストを殺さねばならないハンターの哀しみってのも。
『デビル』なんかと違って単なるセンチメンタリズムに陥っているのも、相手が女テロリストで、殺害する者と殺害される者とのロマンスが入るからであろう。
 
たとえ騙し合いの哀しみがあったとしても、おぼこい少女テロリストでは、自分の運命をそもそも掌握していない無力な存在なので、「このまま、二人で逃げよう」という泣きの入った口吻に、「逃れ得ぬみずからの宿命からの逃亡」という重厚さが出てこない。
 
そうだ、その点『シュリ』の女テロリストの描き方は、やっぱ秀逸だった。
 
◆◆◆
『ソードフィッシュ』SWORDFISH 
2001年アメリカ
製作:ジョエル・シルバー
監督:ドミニク・セナ
出演:ジョン・トラボルタ、ヒュー・ジャックマン、ハル・ベリー、ドン・チードル、ヴィニー・ジョーンズ
 
ハッキングに長けた電脳人間の話って、ヴァーチャル・リアリティの世界ばかりが強調されるけれど、実はモニターを睨みながらキーボードを猛烈な勢い叩くハッカーのハイパーリアルな身体運用の方に、むしろ図像的な「つかみ」があるのじゃないだろうか。
 
コンピュータの端末が身体の延長にある、というより端末が身体の一部と化し、身体と一体化している。
 
そういう図像って、殺陣のときのサムライ(志村喬や三船敏郎)、拳銃をぶっ放す西部劇のガンマン(アラン・ラッドやジェームズ・コバーンやクリント・イーストウッド)、身の回りの日用品を何でもブリコラージュ(器用仕事)的に武器にしてしまうカンフー・マスター(ジャッキー・チェン)、斧をブン回すシリアル・キラー(『ルール』)、それからネックが折れたら血が噴き出すのではないかと思わせるほどギターと一体化したギタリスト(ジミー・ヘンドリックス)、なんかと同じだ。
 
というわけで、ワルモノのジョン・トラボルタに拘束された元天才ハッカーくんが、頭に銃口を突きつけられて、わずかな制限時間内にコンピュータに侵入するために、ピアノの連弾のごとく目にも留まらぬスピードでキーボードを叩きまくる。
 
制限時間内にハッキングに成功しなかったら、頭に一発ドンッである。
 
すごい。
 
パソコンから火が噴きそう。
 
で、ハードディスクがフリーズしたりして。あ"ーっ、フリーズしちゃったよー(なんちゃんって)。ドンッ。おしまい。
 
とはならない。よかったね。
 
まあ、あんな「音速入力」ではないが、わたくしもキーボードを打つのは早いほうである。
 
もう20年近く前になるが、洋書屋さんでアルバイトをしていたとき、入力スピードが早すぎてコンピュータが悲鳴をあげ、しばしば抗議のフリーズの挙に出られたものである。(そんで社長に迷惑がられた。)
 
ま、業務用とは言えお話になんない遅いCPUの時代のコンピュータだったから。
 
今でもフローの状態になると、だんだん入力スピードが上がっていく。
 
画面に記述される文章をふと見て、自分の脳から出てきた言葉ではなく、キーボードを叩いている「指が考えた」ものじゃないかと思うことがある。
 
実際、大量の文章をがんがん書いているときには、半分以上は頭ではなく手が考えてくれている、というのが実感である。
 
頭にピストルを突きつけられたまま猛然とキーボードを叩くというこの映画のワン・シーンの図像は、まさしくそのことを描いている。
 
あんな短時間では、頭で考えて、指に命令を下して、入力する、なんて悠長なことはしてられない。
 
指が勝手に音速入力を実行し、頭脳の方は囚われてピストルを突きつけられているという生命の危機と不安で満たされている。
 
指が失敗したら、脳が吹っ飛ぶ。
 
でもこれはデカルト流の心身分離ではない。
 
指が脳化しているのである。
 
身体すべてが脳化しているのである。
 
ヴァーチャル・リアリティとはこのことを指すのだろう。
 
身体の喪失と「全脳」状態こそ、ヴァーチャル・リアリティの適切な表象である。
 
頭の後ろにソケットを付け、コンピュータと脳髄とをケーブル接続したSF的な人間コンピュータ図像って、身体性の「気味の悪さ」が先立つけれど、実はあそこにはもう身体はない。全脳状態なのである。
 
とにかくこの映画を観て、ジョン・トラボルタは『マッド・シティ』のリストラされたさえない博物館員よりも、キレた天才陰謀家の方が向いている、ということはわかった。
 
◆◆◆◆02/7/18
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』インターナショナル・ヴァージョン1995年 日本
監督:押井守
原作:士郎正宗
出演:またまたアニメのみなさん
 
以前にも観たんだけど、うちの奥さんが借りてきたので久しぶりにもう一度観る。今度はDVDで、いろんな付録付き。
 
前にヴィデオ版で観たときはみんな日本語しゃべっていたけれど、その後みなさんコミュニケーション・スキルの涵養にこれ努めたのであろう。DVD版だとみんな英語をしゃべってらっしゃる(軍人さんまで)。インターナショナル・ヴァージョンだからだよね、もちろん。
 
映画観ながら「う〜む」とうなってしまった。どっかで見たことのあるイメージばっかだなぁ。
 
既視感というより、もはやファミリアで「懐かしさ」さえ覚える。
 
なぜだろう。
 
こういうのはもはや「パクり」とは言えないのかもしれない。近未来のイメージは、もはやストック・イメージとなってしまって、「斬新な近未来」イメージというのは表象し得ないのかもしれない。近未来はすでにしてヴァーチャルな「現実」であり、すぐに「現在」に回収されてしまうのだから。
 
それにしても、過去に数々造形された「近未来のイメージ・ストック」を初めとして、「こういうのをやりたかった」情念が横溢している。
 
星野之宣が『2001夜物語』で描いた首の後ろでコンピュータ(ネット)に接続するキャラ。
 
『プレデター』の透明化イメージ。
 
大友克洋の『アキラ』に出てくる、脚のある昆虫みたいなタンク。
 
とりわけやっぱり『ブレード・ランナー』は「近未来イメージ」の引用の宝庫だね。
 
香港みたいな漢字だらけの猥雑な街と市場。
 
なんと言っても「私」を形作るのは何か、「私」を形成しているのはインプットされた情報としての記憶に過ぎないのではないか、「私」というアイデンティティは何によって担保され得るのか、要するに「私はだれ?」という「ブレード・ランナー・テーマ」(とわたくしは呼んでいる)です。
 
自分の名前も両親も子どものときの記憶もない(=ゴーストのない=魂のない)「人形」の登場人物。
 
逆に記憶を植え付けられた人間。「ゴースト・イン・ザ・マシーン」の「ゴースト」は、記憶を中心にして形成される「魂(たましい)」なのである。
 
そして魂とは、要するに「情報」である。そして「身体(ボディ)」も遺伝子という情報である。
 
「人形遣い」が言うように、人間は記憶の外部化を可能にしたときの重大性を理解しておくべきだった。サイバー・スペースが巨大な情報=記憶=魂と化するのだから。
 
オーケー、よくわかったよ。
 
近未来の「旧い」話だ。
 
もっと画像を「レトロな近未来」にしてよかったんじゃない?
 
押井守くんの思弁はわかった。士郎正宗くんの才能もわかった。
 
大量の水であれ(主人公が生成されるところ)、通りをチョロチョロ流れる水であれ、海であれ、浅い水たまりの広がりであれ、雨であれ、水没しつつある旧市街であれ、水の描写が秀逸だということは認めよう。
 
絵画において、空気と同じく、水を描くというは古来よりチャレンジングな技法だった。
 
現代日本のCGは、もはや印象派を越えたと誉めてあげよう。
 
◆◆◆◆◆
『ユージュアル・サスペクツ』THE USUAL SUSPECTS
1995年アメリカ
監督:ブライアン・シンガー
出演:ガブリエル・バーン、ケヴィン・スペイシー他
 
忘れてたけど、これまた観るのは二度目でした。
 
1995年度のアカデミー賞脚本賞、それからケヴィン・スペイシーが助演男優賞とった作品ですね。
 
この映画も、出来事の「あと」から始まり、実は何があったのかを遡及的に物語る「フィルム・ノワール」話型をとってまする。
 
ケヴィン・スペイシーが「悪魔のような」人間を演じていて、カイザー・ソゼというトルコ/ドイツ系の暗黒街の伝説的人物。
 
彼に関してはすべてが謎で、顔も知られていない。
 
伝説の語るところによれば、対立するマフィアによって家族を汚されたソゼは、敵を皆殺しにしたのち、みずから(汚された)妻と子どもたちを全員殺害した「氷の意志」をもつ男。
 
そんで、「びっこ」(クリップル)でバカでおしゃべりで情けない男ヴァーバルこそ、実はカイザー・ソゼの仮の姿なのである。
 
ヴァーバルの「しるし」である「びっこ」の脚は最後に消え失せ、すたすた歩き出す。
 
執拗で切れ者のデカを相手に話して聞かせる陳述は、すべて署長室にある素材(記事、コップ、写真等々)を使ってでっち上げた「お話」にすぎないのだ。このストーリー・ラインがものすごい着想である。
 
おバカで情けない「びっこの」ヴァーバルというのも、彼が作った自作自演の「お話」にすぎない。
 
犯罪者グループの「末席を汚す」役割も、彼自身の自作自演なのだ。
 
ディーン・キートンは何となくトルコ系ドイツ人の顔つき(そんな「顔つき」があるんのかね)なので最後のどんでん返しを予測させ(彼こそが謎の人物カイザー・ソゼではと思わせ続ける)、さらにそれを大逆転させる。
 
「友達だと思っていた死んだはず」のディーン・キートンは、「実は生きていた」のではなくやっぱり死んでいたのであって、「おしゃべり」ヴァーバルが殺したのでした。
 
なんか黒澤映画の『羅生門』を思わせるところもある。
 
クレジットではディーン・キートン演じるガブリエル・バーンがトップ扱いなので、よけい彼が「実は黒幕か」と思わせる効果がある。ケヴィン・スペイシーは助演だし(で、助演男優賞)。
ケヴィン・スペイシーの演技力を知らしめた映画です。当時はまだスーパー・スターではなく、「格付け」も2位なので「助演男優賞」だけど、どう見ても主演である。
 
でも逆に、今この映画作ったらどう考えてもケヴィンくんが「主演」で「真犯人」ってことがばればれとなるであろう。ストーリー・ラインから言っても「ひょうたんからこま」的にケヴィンくんの「無名性」と「助演」がうまくいったのだ。
 
映画を「観る」というのは、物語だけを考えればこと足れりというわけにはいかない。
 
ところで、「ついでに言えば」となってしまう「主演」のガブリエル・バーンはコーエン兄弟の『ミラーズ・クロッシング』でブレイクした俳優。
 
なかなかシブい役者さんであることは間違いない。
 
ケヴィンくんに喰われてしまってかわいそうである。
 
◆◆◆◆◆◆
『シリアル・ママ』SERIAL MOM
1994年アメリカ
監督:ジョン・ウォーターズ
脚本:ジョン・ウォーターズ
出演:キャスリーン・ターナー他のみなさん
 
カルト映画の王様ジョン・ウォーターズが、キャスリーン・ターナーを使っていっぱい遊びました。
 
コーン・フレークばっか食べているCereal Momじゃなくって、連続殺人鬼Serial Momなのだ。
 
「普通の主婦」キャスリーン・ターナーがブチッと切れて、気にくわん奴をぱっぱかぱっぱかどんどん殺してゆく。
 
Serialには連続テレビ・ドラマの意味もあるが、映画自体もなんかテレビ演出を心がけておる。
 
登場する人たちは、溢れる物に囲まれて、飽食でデブが多い。
 
したがってみんなデブ的なバカとなっとる。
 
アメリカ人とはこのような物に溢れた環境に置かれた飽食のデブバカ中産階級であると定義できる。
 
肉を喰らい、ばかでかいケーキをむさぼり食う。クッキーまででかい。
 
でもキャスリン・ターナーはなんであんなに「奥様は魔女」に似ているのか。
 
中産階級の家庭はどうしてあんなに『奥様は魔女』的に1950年代的なのか。
 
家庭やコミュニティがどうしてあんなに道徳的(口にできない言葉、子どもが見てはイケナイもの、日曜の教会通い)にして、同時に徹底して非倫理的(彼氏にデレデレ娘、エロビデオ・マニア、ホラー映画マニア、死刑制度の必要性をがなる牧師とそれに付和雷同する信者たち)なのか。
 
すべての人間がばかになっているとこの映画は主張する。
 
そうかい、それで楽しいかい。
 
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『どら平太』
1999年日本
監督:市川崑
原作:山本周五郎
脚本:黒澤明、木下恵介、市川崑、小林正樹
出演:役所広司、浅野ゆう子、宇崎竜童、片岡鶴太郎、菅原文太、石橋蓮司、石倉三郎、本田博太郎、岸田今日子
 
よいよい。
 
役所広司はもちろんよいが、浅野ゆう子(機敏な動作で動くときの、しゅるしゅる〜しゅばあっっつという着物が立てる音がよい)、片岡鶴太郎(人の好さも明らかな「あ"〜っ!」という大口びっくり顔のすっとんきょう声がよい)、みんなとってもよい。
 
菅原文太は銀髪のやくざの大ボス役で、あまりといえばあまりのはまり役だが、あやうく役所広司を喰いそうなところまで存在感があって、しかも主役にならないところがよい。
 
最後にどら平太がお沙汰を申し渡すところで、「んじゃ、ま、そういうところで」というのが、yes/noのデジタル的な解答の極北にあるアナログ的で「おじさん的思考」(@内田樹師匠)の解決法であるのがよい。
 
「徹底正義」と「悪の美学」のいずれにも傾かないところがよい。
 
殺陣もよい。スピーディかつ音がよい。空を切る刀の「びゅん」という音が恐い、刀がぶち当たって「ぼぎっ」と骨が砕ける音がよい。従来のお約束の「ずばっ」というのじゃないところがよい。
 
なんにせよ、「黒澤映画」しているところがよい。
 
最後にどら平太が「ほどほどがよい。物がありすぎるのはよくない」と言うところが、文脈は違うんだけれど、なんだか『シリアル・ママ』を観たばっかりだったので妙に説得力があった。
 
よい映画である。
 

さてと。
 
これでずるずると成りゆきで始まった「シネつぶ」も2002年最後であります。
 
今年観た玉石混淆の映画(というかおばか映画を中心に「石石石石ときどき玉」くらいかね)について「ぜんぶ」「順番に」書くべく8月にトートツに始まったのであるが、上の『どら平太』も観たのは7月でした。
 
結局のところ今年中に「自分に追いつく」(書き始めた頃に観た映画について書く)ことはできなかった。(無念。)
 
自分でひとつ気づいたのは、わたくしのまなざしの中核の部分に、「どうしたら大人になることができるか?」ということと、「子どもというのは、そも何者なのか?」というのがあるということです。
 
知らなかった。
 
思いつくままに書いてみて、自分でも初めて気づいた。
 
ある作家が"How can you know what you want to say until you write it?"と述べているけど、なるほどそれはただしい。
 
ということで、「シネつぶ」は2003年も瞑想と迷走を繰り返しながらがんがん続くでありましょう。
 
とりあえず2002年のみなさんはこれにて。さよならさよならさよーなら(@淀川長治)。
 
また来年。
 
よいお年を。
 

02-12-29
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秋元秀紀
Hideki Akimoto
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