=その11=
『仁義なき戦い・広島死闘篇』/『仁義なき戦い・代理戦争』/『ルール』


■シネマ◆
■の■■■
■つぶ■■ ◆
■■■やき ■ ■ ◆
=その11=
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2002-11-02
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
一ヶ月ぶりの配信です。

10月から文学部執行部の末席を汚すことになり、この一ヶ月のあいだかつて経験
したことのないあまりに多くあまりに長い会議の連続で、わたくしは「シンデイ
ル」状態でした。

行政のお仕事ってこんなにいっぱいあるんだ(知らなかった)。

脳天気に幾星霜を過ごしてきてごめんね。

というわけで、11月に入ったのにまだ6月に観た映画の話をしている始末であ
る。

とほほ。情けない。


『仁義なき戦い・広島死闘篇』
1973年日本
監督:深作欣二
出演:菅原文太、北大路欣也、梶芽衣子、千葉真一、小池朝雄、成田三樹夫、川
谷拓三、室田日出男、加藤嘉
【ジャンル:やくざ映画(かつて「東映やくざ映画」はひとつのカテゴリーだっ
た)】

高齢となった深作欣二監督は、大病を患いながら「最後の」映画『バトルロワイ
ヤル2』を制作中だそうである。
この映画に出ている成田三樹夫、小池朝雄、川谷拓三、室田日出男、加藤嘉も幽
明境を異にしてしまった。病に倒れた人が多い。

「東映やくざ映画」の『仁義なき戦い』シリーズ第2弾。30年近くも前の映画で
ある。
そして第1作と同じく、今度もやっぱり戦争が背景にある。

物語は昭和25年の朝鮮動乱から始まり、オープニングはやっぱり原爆のきのこ
雲。
さらにタイトルバックにやくざの抗争事件を報じた新聞記事が出てくるが、その
なかには「米軍の銃を用いた殺人事件」なんてものも出てくる。

終戦後の刹那的で殺伐たる空気の質感が伝わってくる。

やくざの組長の姪で、組の者から「姐さん」と呼ばれる靖子(梶茅衣子)も戦争
遺族なのだ。彼女の部屋には、特攻隊員として戦死した旦那の遺影がある。

主演の北大路欣也演ずる山中正治が「ワシも子供んときは予科練に志願するつも
りだった」と口にする。
山中の兄貴分となる成田三樹夫は「特攻で死んだ人は大事にしなきゃのう」とつ
ぶやく。

前回ご案内のように、やくざ屋さんたちの多くが西部劇の「南軍くずれ」のアウ
トローと同じく「戦争帰り」だったのである。

つまり、このシリーズの背景にあるのは、「戦後民主主義」の時代における「終
わらない戦後史」なのである。

前作の『仁義なき戦い』の主人公、広能(菅原文太)が本作では「脇役」であ
る。
前作ではチンピラやくざだったが、その後「出世」して、今では広島の呉で組員
わずか3人の広能組を率いる。
物語は広島市を中心とする二大組織の抗争を軸におき、それを広能が呉という
「周縁」から第三者の視点で見つめるとういもの。

しかも、刃傷沙汰と拳銃バンバンの血みどろアクションはもう主軸ではない。
主眼は二人の若者、山中正治(北大路欣也)と大友勝利(千葉真一)のコントラ
ストにある。

この映画ってけっこうストーリーが複雑なのだ。深作「東映やくざ映画」をなめ
てはいけない。

山中正治は行く当てもない野良犬のような若造で、大友勝利に闇市のマーケット
でぼこぼこにやられて、助けられた親分にかたぎを続けるか極道に入るかの「選
択」を迫られる。
そして世話になった親分(またこれが「ほれ」って高級腕時計をポンとあげたり
するんだよな)のために命を賭すことになる。

実際、山中は姐さん(組長の姪)に手を出して出奔せざるを得なくなり、九州の
組の「客人」となったため、そこの「一宿一飯の義理」=「極道の文法」を暗黙
了解して、刺客として見ず知らずの男の命を取りに行くことになる(この最初の
殺人の場面がなかなか迫力っす。若き北大路くん体当たりのベスト・パフォーマ
ンスっす。押忍)。

ところが、その後も「親分のため」に3人も殺し、無期懲役となっても親分は面
会にも来ない。

広島の親分は姪の姐さんに、山中のことは忘れて別の男と再婚しろと迫る。
山中は戦争ですべてを失い、戦後の虚無と行き所のない暴力のなか伝統と師弟関
係と「家」(親分子分の家と姐との家庭)を見出したのに、そこから弊履のごと
く捨てられてしまう(この物語説話は第1部の菅原文太=広能と同じ)。
親分のために、世話になった「おじき」(=小池朝雄)も殺す。特攻隊員になれ
なかった彼はずっと予科練の口笛を吹きながら、ニヒルにクールに暗殺を遂行す
る。
そして警察に追われ、包囲され、自殺を遂げる。
物語は山中の葬儀の場面で終わる。

山中と対照をなすのが、千葉真一演ずるやくざ映画史に残る野犬的「ブチ切れに
いちゃん」大友勝利である。
彼は仁義破り、伝統破り、掟破りの「何でもありの野獣」であり、戦後勃興した
新たな産業資本主義社会の荒波を、誰にも止められない暴走エネルギーをもって
して巧みに泳ぎ渡るリアリストなのである。
山中正治と大友勝利の人物像は際立ったコントラストを見せる。前者がニヒルな
「野良犬」ならば、後者はクレイジーな「野犬」である。あるいは行く当てのな
い「捨て犬」と、暴走する「狂犬」との違いであろう。

山中がクラシカルな日本的情念を漂わせる一方、勝利の凶暴な馬鹿ぶり、鬼畜な
暴れっぷりは、ハリウッド産「クレイジー暴走腐れ外道」の系譜に連なるもの、
あるいはその先鞭をつけるものであろう。

それにしても錚々たるたる出演者である。

菅原文太、北大路欣也、梶芽衣子、千葉真一、小池朝雄ばかりではない。
成田三樹夫、こないだ亡くなったばかりの室田日出男、加藤嘉、遠藤辰雄、今や
「悪役軍団」の会長である八名信夫、川谷拓三(あれ、第1部で死んだはず
じゃ……)等々。

そのなかで菅原文太演ずる広能は後景に退き、呉市の弱小やくざ「広能組」の組
長の位置に甘んじて、広島市の「死闘」を遠くから見守るかたちとなる。

方向性は異なれども、デスパレートな点では同じ山中正治と大友勝利というふた
りの若者に対し、戦後の荒廃を生き残った「大人の」広能は第三の選択肢を模索
している。

ほとんど「吾唯足知(われただたるをしる)」的な境位の諦観である。

広能組は貧乏弱小地方やくざの組であり、日々の食卓にも事欠く日々である。

子分のひとり(なんとあの穏やかなさくらの旦那の前田吟!最近はエビスビール
を売りにしている小料理店のマスターのアルバイトに精を出している)が晩めし
の支度に肉屋に寄って行くと言うと、広能親分は「ゼニもっちょんか?」と訊
く。
「へぇ、まにおうちょりますきっ」なんて前田の吟ちゃんは殊勝にも答えて去
る。

それを見送った広能親分は、「ここらぁの犬はぁしつけが悪いのぉ、ワシら犬殺
しとまちごうとんのかのぉ」なんて脳天気にぼやいているが、前田の吟ちゃんが
用意した晩ごはんのメニューは焼き肉なのである。

吟ちゃんを初め子分さんたちは、じゅうじゅうと美味しそうに煙を立てる「そ
れ」に箸を付けようとしない。

窓の外からは「焼き肉」の匂いになぜか狂ったように吠え立てる犬。

あなおそろしや。

菅原文太の出番は本当に少なく、「第三者のまなざし」役に徹している。
最後の山中の葬儀の場面でも、何も語らない。
情念に満ちた物語において、広能/菅原文太はハードボイルダムの
"tight-lipped guy"を演じている。

説話原型「のみ」で出来上がった物語。
誇張された「日本文化」とその原初的なドラマ性ゆえに、後々の映画やドラマに
まで、アーキタイプ、プロトタイプを提供している。
だからこの映画は観たことのない人にとっても「なつかしさ」を覚えるのであ
る。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/5964/index.htmlというページを見つけ
た。
世の中には何にでもディープなファンがいるものである。

◆◆
『仁義なき戦い・代理戦争』
1973年日本
監督:深作欣二
出演:菅原文太、小林旭、渡瀬恒彦、金子信雄、加藤武
【ジャンル:東映やくざ映画】

はい、また東映やくざ映画です。シリーズの第3作目。

オープニングは前回と同じく新聞記事を背景に、シリーズ初回からのストーリー
をピックアップする「これまでのあらすじ」。

プラララララ〜ァというトランペットの吹奏も高らかなタイトルバックを凝視し
ていると、「なんやまたかいな、いい加減にしぃやぁ」と言う奥さんの冷たい視
線を浴びる。

やくざの組が広域暴力団化していく話。
組織の拡大とネットワーク化や系列化という名の近代化と、それを忌避する広能
の価値観の相違が中心です。

広能は後見人(横溝正史の金田一探偵の映画で「そうかっ、わかった!」の警部
のひと、何て名だったっけ)に呉にくすぶっていたら「付き合いが狭くなる」と
説教される。

人間関係のつながり、すなわち「国際外交」が大事で、「これからは頭をつかわ
にゃ」と言う「そうかっ、わかった!の警部のひと」(以下「そうわか警部」と
略)に、広能は「わしゃバカでええと思とりますがのぉ」とぼやく。
「こんなんの考えは古いのぉ。これからの極道ゆうたら付き合いの広さやで」と
いうのが、神戸の巨大やくざ明石組と提携して暗躍跋扈する後見人「そうわか警
部」の考え方である。
「そうわか警部」は伝統否定の近代人なのである。

広能は明石組の幹部(第1部では広能の兄貴分で警察に殺されたはずの梅宮辰夫
くんが復活を遂げて再登場)に、広島を手に入れるつもりなら協力するでと言わ
れる。
広能力は「わしゃ呉でいい思うとる」と応じが、梅宮辰夫くんに「極道にそんな
極楽許されん」と一蹴されるのである。

第1部では組の若(わけ)えもんとして登場し、ヒロポンに手を出して逮捕され
たはずの渡瀬恒彦くんが、チンピラにーちゃんとして再登場。
彼は広能組に入ることで極道入りし、広能が山守組を破門されたあと、広能の命
を狙った田中邦衛(おお、『北の国から』の純と蛍のパパ五郎ではないか)を一
人で暗殺しに行こうとする。

しかし、川谷拓三くん(すでに第1部・第2部で殺されていたはずなんよね、でも
今度は広能組の情けない弱たれ系の舎弟として三度目の登場)に裏切られ、敵の
待ち伏せにあって殺されてしまうのです。

渡瀬恒彦くん哀れ。

恒彦くんが広能組に入る場面がよい。
老いた母と(たぶん小学校の)恩師に連れられて広能組を訪れ、舎弟となること
になります。
母親が帰るときに玄関でぼーっとしていた恒彦くん、広能にぼこっと頭をはたか
れて、「下駄そろえてやらんかいっ」「挨拶して見送らんかいっ」と言われる。
目上の人への「仕え方」と「礼儀」だけを広能は教えるのである。

この恒彦くんエピソードがこの映画の眼目である。

川谷拓三くんも別の側面を物語に付け加えています。

冒頭から、川谷くんは愚かにも広能組が管理している廃材を売り飛ばして、広能
親分にぼこぼこにされる。

その落とし前をつけて「詫びを入れる」ために、川谷は左「手」を詰める。指一
本じゃ足りないと思って(ばか)。

さらには広能親分に内緒で、独断で弟分の渡瀬をせっついて敵を「とる」奸計に
走るのです。

渡瀬は広能親分にぼこぼこにされ(「敵をとりゃそれで勝ちって時代じゃないん
じゃ。それだけわかってもらえりゃええ」)ても、自分一人の思いつきだと言っ
て川谷の兄貴をかばう。

いよいよ抗争相手と戦争だってときに、東京に逃げようとする川谷くんに、田中
邦衛くんは金をつかませる(五郎の裏切り者!)。
それゆえ、最後に渡瀬くんが田中を「とり」にいったときには、なんと川谷くん
は電話で内通して知らせる(もっと裏切り者!)。

川谷くんは、親分への仕え方を知らない。廃材売り飛ばすのもそうなら、「手」
を詰めてみせるパフォーマンスもそうである。このようなあり方は真の仕え方と
異なる。
彼は「弱い」人間にすぎないのである。

でも死ななかったね、今回は。川谷くんは第1部、第2部と非業の死を遂げたけ
ど、今回は東京への逃亡成功おめでとう。このシリーズで初めて死なずにすんだ
じゃない。

よかったね。

◆◆◆
『ルール』URBAN LEGEND
1998年アメリカ
監督:ジャミー・ブランクス
出演:ジャレッド・レト、アリシア・ウィット、ジョシュア・ジャクソン、レ
ベッカ・ゲイハート、マイケル・ローゼンバウム、タラ・リード(ってぜんぜん
知らん人ばかり)
【ジャンル:言わずと知れた「シリアル・キラーのホラー映画(特にバカな若者
がどんどん殺されるザマミロ倫理映画)」】

「シネつぶ」その8で触れたシリーズ第2作『ルール2』の本編の方です。
観る順番が逆になってしまった。

すでに存在する「恐怖の物語」が現実化するというのが、一番恐いホラー物語な
のであろう。
もはやホラー映画の要諦は意外性ではない。すでに知っている恐怖が顕現し、あ
らがいようもなくその虜囚となることこそ、一番「恐い」のである。

それは「物語」が「現実」を呑み込む恐怖である。ホラー映画の「シリーズ化」
の培地はこれを措いてない。
あっと驚く意外性ではなく、すでに熟知している恐怖の話型が目前に展開し、否
応もなくその必然性に飲み込まれていくこと。

この点で、「都市伝説」という周知の恐怖譚の「現実化」というのは、要所を衝
いたホラーの話法と言っていいでしょう。

ほとんど開き直りに近い姿勢であることは確かだけれど。
「オリジナリティ? 聞いたことない言葉だけど、それって豚の餌の新しいブラ
ンドかい?」って感じ。

プロローグは深夜ひとり車を走らせる女の子のエピソードである。

走行中にその女の子はバックシートのカセットテープを取ろうとして、対向車と
正面衝突しそうになる。オー・マイ・ガー。

不注意な娘である。

さらに、テープの音楽に合わせて脳天気に下手くそな歌を歌っていて、燃料計が
エンプティ・サインに近づいていることに気づかない。

不注意な娘である。

彼女の頭蓋骨の中身もエンプティ・サインを示していることが、このあたりで観
客に知れる。「あ、こいつ死ぬな」と。

要するに「不注意な奴」だから懲罰を受けるのである。

彼女は真夜中の人里離れたガソリンスタンドに立ち寄る。

そこには「いかにも」というブキミな店主がおる。

観客は「あ、こいつに殺されっど、不注意な馬鹿娘は」と思う。

でも危なそうな奴だが、実は違う。

彼には「言語障害」があるという設定で、うまくコミュニケーションがとれない
だけなのである。
何とか「バックシートに誰かがいる!」と伝えようとする必死の形相の店主に恐
怖を覚えた女の子は、車を急発進させて逃げ去ってしまう。

いかに「誤解させるか」が肝要なり。

で、女の子は斧で首チョンパというヒサンな目に合う。

ナンマイダ。

バックシートの殺人者が斧でドライバーの首を刎ねる、という都市伝説がパ
フォーマティヴに遂行されるのである。

老婆心ながら、ちょっと不思議に思ったのでバックシートの殺人者にお尋ねした
いのであるが、走行中にドライバーの首を刎ねちゃって大丈夫なのであろうか。
たいへん危険なのでは。
事故ったらどうするの?

ガソリンスタンドのブッキー店主の他にも、大学で起きた「25年前の事件」に関
わった(らしい)ガリガリに痩せたブキミな掃除夫が登場します。

これまた「いかにも」という彼も犯人じゃないのね。

主人公のナタリーだけがすべてを知っている。しかし誰もナタリーの言うことを
真に受けない。
したがって、殺人者は「不在」なのである。これがこの映画のホラーの鍵です。

最初の殺人(エピローグで登場するとともに首を斧でチョンパと刎ねられてご退
場あそばす女の子)に関しては、ガソリンスタンドのブキミな店主が犯人と見ら
れて逮捕されてします。

第二の殺人は、「都市伝説」を茶化したお友達デイモンの悪戯にすぎないとされ
る(彼は殺されて行方不明なのではなく、週末旅行でスキーに行っているのさ、
と片づけられちゃう)。

第三の殺人は自殺とされる。

わたし一人が知っていて、誰も事態を適切に理解していない、というのが要諦で
ある。

こういう閉塞的な恐怖がこの映画のポイントである。はい、1点追加。

この恐怖感は幼児心理に根ざしていると思う。
現実の支配者、事態の統括者である「大人」に、自分の思いをうまくコミュニ
ケートできない幼児の不安と苛立ちです。

この映画には事件に取材して記事を書く学生新聞の記者という役柄のポール
(ジャレッド・レト)が登場する。

誰にも理解されずに孤軍奮闘していたナタリーの言うことに、ようやくポールが
耳を傾けてくれる。

そして彼女は、「事態の理解者である男性」を得て初めて、"I'm so scared."と
言うことができるのです。
このとき初めて、「強い女性」として振る舞ってきた姿勢をかなぐり捨て、あた
かも父親に対する子どものごとき身振りを見せ、あるいは男性性を前にした女性
性を顕現させます。

この辺は典型的ですね。上で言った幼児と大人の関係と同じ。

男性性とは、現実、権力、スーパーエゴ、支配、統括、秩序etc.なのだから。

ナタリーは「理解者たる男性」に、「わたし、こわいわ」と幼児のように言うこ
とが「できる」ようになって、ようやく幼児心理に根ざした根元恐怖から抜け出
ることができるのです。

言語運用がなぜだかうまく機能せず、相手に理解されないという状況は、「言語
障害」のあるガソリンスタンドのブキミな店主と同じでした。
ドライバーの女の子が「それと知らず」(=幼児性)危険にさらされている状況
を見て取った彼は「父」の原理として振る舞おうとし、そして「言語障害」ゆえ
に「父」として振る舞い損ねるわけです。
バックシートに誰かいるという発話ができず、理解されない。
そのことによって、より大きな権力たる「父」すなわち警察権力に犯人と誤解さ
れて逮捕される憂き目に遭う。

彼は女の子を救うためにクレジット会社に電話をかける振りをして、その電話が
通じないのはもちろん、危機に陥っていることを自覚していない女の子に伝えよ
うとしたメッセージを送り損ねる。

電話をかけている相手がそもそも存在しないというのは徴候的でしょう。
それは彼の損なわれたコミュニケーション作法を代弁して余りあります。

ホラーの根本には、「父の不在」がある(とわたくしは常々思ってきました)。
「父なるもの」(ほんとのお父さんでなくってもよい)の原理が喪失したところ
に、不安や恐怖やお化けやシリアル・キラーが介入してくる。

しかし、この映画では「あっと驚く」スタントを見せてくれました。
「黒人」の「女性」警備員のリース(ロレッタ・ディヴァイン)という、かつて
ない新しいキャラを創造しています。
丸々太った「肝っ玉母さん」みたいで、妙に甲高い可愛らしい声を挙げるリース
は、父性原理という「問題処理能力」に対抗する「包容力のある母性原理」と、
相手への功利主義的なギブ・アンド・テイクの"That's the deal!"話法を超越し
た「共感能力」としての幼女性を体現しています。

彼女は警備員室で仕事をさぼり、がんがん音楽をかけて踊りまくり、監視カメラ
の肝心の場面を見落とし続けるおバカなおばちゃんです。
ブラックス・エクスプロイテーション・ムーヴィの大ファンで、ソウル・ミュー
ジック狂の「お馬鹿」っぽいおばちゃんだけれども、その馬鹿さ加減はヴァルネ
ラブルなものとはならない。

ホラー映画の文法に従えば、若く美しく、そして若く美しいというリソース「し
か」もたないお馬鹿な若者が「罰せられる」わけですから。
そういう意味で、「太っちょの黒人おばちゃん」は、ホラー映画ではヴァルネラ
ブルな存在ではないわけです。
リースは「エディ・マーフィー女性版」的なコミック・レリーフを担うという点
で、「お馬鹿」だけれども「肝っ玉母さん」的包容力を持つキャラとなります。

もし、わたくしの仮説どおり「(白人の)父の喪失」がホラーの原理なら、黒人
の母親的存在はその代替となる「力」となり得るかもしれない。
「父」なきあとには、「肝っ玉おっかあ」の力に頼るしかない。実際、後手後手
に回りつつも、リースはようやくナタリーの「理解者」となります。
それでもいざというときに、犯人の男性教授(=父性原理)の方を、一瞬信じて
しまう過誤を犯すのだけれど。

でも、この切り口はよいとスタッフの方々も考えたんだろうね。
第2作の『ルール2』にもこのおばちゃん警備員はキー・パーソンとして再登場
しているから。

この「黒人の女性」キャラとコントラストをなすのが、校長先生でしょう。

彼は権力と情報をもち、現実(舞台である学校)を統括する「父親」的キャラで
ありながら、そして殺人が起きていること、それがかつての事件の模倣であるこ
とも知っているにもかかわらず、それを隠蔽して「子供たち」(学生たち)への
配慮を放棄します。

つまり、やっぱ「父の喪失」なのだ。

そして、大馬鹿者で「大事な情報を隠蔽する」権力者は死ぬ。

だから校長は死ぬ(ザマミロ)。

ホラー映画的には彼は死なねばならない。
いや、本来倫理的に言えば、この映画で死なねばならないのは彼ひとりである。

けれど、馬鹿で生意気で大人の言うことを聞かず、人生を謳歌している恥を知ら
ない若者に罰を与えたいというのが、現代アメリカの隠された、しかし抗しがた
い、欲望である(それを輸入したのが『バトルロワイヤル』だね)。

現実にはそんなことできないけど、馬鹿な若者に罰を与える欲望の成就という特
権こそ、ホラー映画のレゾンデートルなのだ。

殺され方そのものは「都市伝説」の模倣であり、ホラー映画の引用である「背後
から」バン、「振り返ったら」ドンばかりの定石である。

それでよい。

ホラー・ジャンル(あるいは「犯人探し」もん)が進化すると、当然「意外性」
がひとひねり、ふたひねりされてくる。

「一番怪しくなさそうな人が犯人だった」という文法は、『ルール』の時点では
もう消費し尽くされてしまっていて、そのまんまというわけにいかない。

まず、一番怪しそうな人を犯人じゃなかったとする(ガソリンスタンドの言語障
害のあるブキミな店主、そして25年前の惨劇のときからいたガリガリの掃除
夫)。

そして、あっと驚く女性原理による男性原理への対抗を体現した黒人女性警備員
リースの新機軸と同じく、「犯人は女であった」というかたちで「都市伝説」と
ホラー映画の文法を破る。

しかしながら、エピローグで暗示されているように、都市伝説のひそみに倣っ
て、この事件は「ブレンダが男として」巷間流布される物語となるのである。

やっぱり結局はブレンダも男性原理に回収されてしまう宿命にある。

そもそもブレンダの動機づけからして、かつての恋人を殺された復讐というにと
どまらず、「彼ってキュート」とおか惚れしたポールを目の前でナタリーにかっ
さらわれ、二度にわたって「男を取られた」ルサンチマンたる「女性原理」に基
づくものなのだから。

ホラー映画では、「女は恐い」という月並みな信憑を追認・強化することに終
わってはならないのであろう。

ホラー映画のお約束では、加害者が男で犠牲者が(主として)女という話型に再
回収しなければおさまりがつかない。
したがってエピローグにあるように、ぜひともブレンダは「男」になってもらわ
なければ困るのである。

別にわたくしが困るわけではないけれど、「そういうもの」なのである。

2002-11-02
Copyright c.2002 by Mew's Pap Co.Ltd.
All rights reserved.

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秋元秀紀
Hideki Akimoto
akimoto@ipcku.kansai-u.ac.jp
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