日本における文字と文化の問題

1.日本語表記の問題

 日本語の表記は世界でもっとも複雑である。ひらがな、カタカナ、漢字の三種類の文字がつかいわけられており、これらの文字種のちがいは、やまとことば、外来語、漢語という語彙の相のちがいと関連している。

 漢字には、ふるい中国語の音(漢音、呉音、唐音)に由来した発音である音読みとやまと言葉の音である訓読みとが併存している。たとえば、水とかいて「スイ」が音読み、「ミズ」が訓読みである。「スイ」は中国語の音がもとになっている。これにたいし、「ミズ」は、純粋の日本語の音である。「スイ」と「ミズ」は別の言語の音で、「スイ」と「アクア」や「ウォーター」が無関係なのとおなじく、本来は無関係である。水を「ミズ」とよむなら、水を「ウォーター」とよんでもよい。「私は水をのむ」(ワタシハミズヲノム)という漢字かなまじり文は、「私drink水」(アイドリンクウォーター)という漢字英語まじり文と、おなじ混成的表記である。

1.1.日本語における漢字の問題

○漢字の音読みは、中国語の音の発音が日本化したものだが、日本語に四声がないこともあって、音読みをする漢字熟語には同音異義語が非常におおい。たとえば、「コウセイ」という音にたいしては、構成、校正、公正、厚生、攻勢、更正、後生、後世、恒星、など意味に関連性のあまりない一群の語群が対応している。このため、漢語を多用した日本語のスピーチは、耳できいただけでは意味が理解しにくくなる。また、コンピュータへの日本語入力が、かな漢字変換をいちいち確認しての視覚的作業になってしまうことも、同音異義語のおおい漢字に原因がある。

○漢字の訓読みは、やまとことばと漢語を、共通の漢字をつうじて接着させる役割をはたしているが、ひとつの漢字にたいしておおくの訓読みが対応している。たとえば、「生」は、生(なま)、生(き)、生きる(いきる)、生える(はえる)、生む(うむ)、生湯(うぶゆ)、生い立ち(おいたち)など、にた意味のおおくのやまとことばをあらわす漢字としてつかわれる。その結果として、活用語尾のみおくりがをふることいった規則も適用できなくなる。たとえば、活用語尾のみおくたがなとすると、「生きる」と「生える」は、ともに「生る」で区別できなくなる。これは、日本のやまとことばと中国の漢字という異質なものを接合したためにしょうじた、無理である。

○漢字かなまじり文では、漢字がわかちがきの役割をはたしているので、単語の間に空白をいれる必要がない。これは、コンピュータによる日本語処理で、単語のきりだしの問題となる。また、同じ単語も、漢字があるために「生きる」、「いきる」などと、なんとおりにかつづられる。つづりの複数性と単語きりだしの困難は、日本語の情報処理のおおきな障害である。

○漢字は字面のイメージをともないやすい。これが抽象的な思考の障害だとする論者もいる。

○以上は漢字の問題点の指摘である。漢字の積極面をいう論者は、漢字がイメージ的なのを理解しやすいからよいとし、音読みの漢字は造語力にすぐれているとし、訓読みはやまとことばと漢語の接着剤として不可欠とする。この背景には、言語観とイデオロギーの対立もある。

        日本における漢字制限派と漢字推進派の主張

             漢字制限派       漢字推進派

音読みの漢字について  同音意義語のおおさ      造語力    

訓読みの漢字について 読みがと送りがなの問題  和語と漢語の接着剤    

意味とのつながり  イメ−ジ的印象的で安易  イメ−ジ的印象的でよい

コンピュ−タ化   単語のきりだしなど障害  かな漢字変換で克服された

言語観       音声中心主義/正書法の重視 文字中心主義/両チャンネル

イデオロギ−     欧米主義/やまと主義   反欧米主義/東アジア主義

 

1.2.人名表記と文字フェティシズム

○日本語の人名表記は、上述の漢字の問題を極限まで拡大した、でたらめかつ、混乱のきわみの世界である。日本には、約14万の苗字がある。また、珍妙なよみの個人名も日々うまれている。日本語における文字コードの問題は、人名表記の問題である。

○よみと漢字の対応のでたらめは、苗字と個人名の両方で大規模にしょうじている。苗字には、なぜそうよむかわからないようなものがおおい。たとえば、五十嵐(いがらし)、乃位(のぞき)など。紫田(しばた)は、「紫」を「柴」とまちがえてつかったのを、そのままよみにしてしまったものである。また、いくとおりものよみががあるものもある。四方(ヨカタ、シホウ、シカタ)など。また、ひとつの音に対応する苗字の漢字はきわめておおい。たとえば、「ソガ」にたいしては、蘇我、曽我、十川、十河、宗丘、宗宜、宗岳、宗我、宗賀、崇賀、我何、曽加、曽宜、曽賀、曾宜、曾我、曾谷、素我、素賀、蘇何、蘇宜、蘇宗、蘇賀など、あとJIS第二水準では表記できない文字をつかった「ソガ」が二種類ある。一方、名前のほうは、名前につかう漢字の制限はあるが、漢字とよみの対応の制約はない。このため、緑夢(グリム)などの外国語の音をあててもよいし、温大(はると)など、よみはどうふっても自由である。最近のはやりは、沙矢香(さやか)などの万葉仮名風の表記とよみである。以上の結果として、人名の名簿では、漢字とよみがなの両方を参照しないと個人を識別してよぶことができなくなる。

○苗字には、さらに異字体の問題がある。渡邊・渡辺、藤澤・藤沢、広瀬・廣瀬、程度ではない。手書きにおける字体のすこしの差異も、戸籍の電算化とともに、異字体として登録されてしまう。学校の名簿でも、梯子高などは、JIS第二水準までのパソコンでは、対応するフォントなしとして、ゲタ(〓)で表示されてしまう。「團」という作曲家は、「団」という宛名の郵便物はすべてうけとりを拒否したと自慢している。これは、文字フェティシズム、文字の呪術崇拝をほこっているようなものである。

○日本語の文字表記の混乱を是正するためには、ひらがな表記による名前の音を一義としてもっと大切にし、漢字の字体とよみとの対応は標準的なものに制限する必要がある。ただこれは、文字フェティシズム、漢字への呪術崇拝が、病膏肓の現状では抵抗がおおすぎてむつかしいだろう。

 

1.3.社会科学における漢語の語彙

○明治期の日本の知識人は、おおくの欧米の事物や学術にかんする膨大な語彙を漢語に訳した。これは、欧米の事物や学術を導入するために必要なことだった。しかし、人文社会科学でもらいられる漢語の語彙は、概念規定があまく、日常生活のはなし言葉とのつながりがよわく(きれる、むかつくなどのマイナスの意味をあらわす和語の身体性との対比)、構成する文字の字面の意味にひきずられたり、文字崇拝的に非日常的なよきものとしてもちいられることがおおい(柳父のいうカセット効果)。

○権利とright・自然とnature

○能記・所記などの奇怪な言語学の語彙

○国際化とInternationalize

○革命・解放・平等/多様性・個性・自由/単独性・非決定性/などキャッチワードによる思考

○日本の学術は、自然科学・技術の分野、人文科学の分野では独創的な成果をのこしたが、社会科学の分野は欧米の学問の翻訳にとどまってきている。これは、言葉を事物をさししめす道具としてきたえていこうとせず、言葉を外来のありがたいおまもりとしてつかうような態度にも原因がある。

 

1.4.カタカナ語について

○最近のはやりはカタカナ語である。カタカナ語には、技術分野などのようにあたらしい語彙がつぎつぎでてきて日本語化が間にあわないという事情、漢語に同音異義語がおおすぎるなどの事情もあるが、印象操作としてもちいられる場合がおおい。コマーシャルだけでなく、行政なども、舌足らずの外来語を率先してつかっている。外来語の発音は、CVCVの二拍を基本に日本語化されているが、構成要素の意味が把握されていないので漢語のような造語力はもちえず、日本語の語彙の混乱、言葉の呪術的使用の傾向に拍車をかけている。

 

2.日本語の言説について

2.1.声の文化と文字の文化

○欧米には言葉の本質は声にあり、文字はそれをうつしたものであるというかんがえが根強くあり、科学論文なども19世紀までは音読されていた。今日でも、選挙のさいには、かんがえを声として表明し、声と声を対決させるという文化がのこっている。これを2次的な声の文化という。西欧は、はやくに1次的な文字の文化を確立したが、文字が音素文字であることもあって、2次的な声の文化が公の文化としてつよくのこっている。

○日本文化には、かかれた文字を重視し、声を軽視する傾向がある。落語や露天商などの庶民の声の文化は、文字をしらない層の1次的な声の文化であり、書き言葉をふまえた公的な声の文化は日本ではきわめてよわい。日本でのおおやけのスピーチは、柳田が荘重体とよんだような、漢語ばかりの伝達力、喚起力にきわめてよわい、文字のうつしのような形式的・儀式的なものになってしまっている。日本には、公的なスピーチや議論の文化がきわめてとぼしい。

2.2.官僚と法律家、社会神学者たち、騙り手たち

○漢語だらけの奇怪な日本語の典型例が、官僚や法律家による文である。官僚による文をイアン・アーシーは、整備文とよんだが、官僚たちは整備文をつかって読み手の頭脳を混乱させ、責任をあいまいにしながら、自らの頭も混濁していき、責任をのがれるために誤りから学ぶこともできなくなっている。判決文などの法律の文は、文のながさといい、つかわれる語彙の特殊さといい、奇怪さでは、官僚の文以上である。複雑怪奇な文章をあやつれるのだから頭がいいのだというひともいるが、心理学の知見からすると、まちがいである。かんがえは表現とコミュニケーションをつうじて形成されていくので、簡潔・明快な文章ではなく複雑・怪奇な文章でかんがえを表現していると、かんがえ自体も混乱し、頭脳はしだいに混濁していくのである。人間の知的能力は、表現手段もふくめてのものであり、奇怪な表現を常用していると、知的能力は確実にむしばまれていく。

○奇怪な言葉に思考をのっとられ、頭脳をむしばまれているのは、法学部出身者だけではない。おおくの社会科学者も、「1.3.社会科学における漢語の語彙」でのべたような、キャッチワードによって思考停止におちいっている。個性、自由、人権、国際化などの、現実感や身体感覚によるうらづけをかいて、概念規定もゆるい、社会的是認のおすみつきをえた言葉による思考は、現実的、科学的思考ではなく、神学的思考にちかいものになる。オルテガ・西部のいう大衆は、こういうキャッチワードに思考をのっとられた社会科学者を原型とする知識人のことである。

○社会神学語は法学語より、一般のひとにはわかりやすく、それなりの魅惑もあるが、さらに説得力的、魅惑的なのが、ユング派や宗教学者、美学者などによる、かたりの日本語である。このかたりの日本語は、法学語とはちがってよみてに納得してもらうことをめざしている。また、社会神学語のような教条性もない。はるかに柔軟でしたしみやすい。しかし、かたりよる魅惑にたけたひとは、事実による検証や科学をないがしろにし、魂の救済などをいう傾向がある。科学的思考をきらいなおおくの日本人にかれらのかたりはおおいにアピールする。しかし、現実の問題にどう対処するかという点からは、事実による検証や科学をないがしろにするかたりてたちは、よわくいって無責任な騙り手、つよくいうと「ハメルーンの笛ふき」のような危険な存在になりかねない。

 

2.3.理科系の作文技術と庶民の言葉

○法学日本語、社会神学語、かたりて・コマーシャルの言葉、などの混乱のなかにあって、簡潔・明快で事実に即した日本語の可能性は、たとえば理科系的なセンスをもった人文学者たちや、きえつつある庶民の言葉のもとにみいだすことができる。

○理科系的なセンスをもった人文学者の代表は、梅棹忠夫である。最近では、「理科系の作文技術」をはじめとする一連の日本語をかいた木下是雄、臨床心理学の中井久夫などである。これらの学者の文章は、明快で事実にそくし、包括的であろうとしており、かつ、あやまりによる修正にひらかれている。日本語の書き言葉の可能性は、法学日本語、社会神学語、かたりて・コマーシャルの言葉などではなく、この方向にあると雨宮はかんがえている。

○日本のような高学歴の消費社会では、大衆も地に足のついた身体感覚にうらづけされたはなし言葉をつかっていない。日常の会話でも、個性とか自己実現とか、自由とか、うろんな言葉をつかい、それに思考をのっとられたミニ知識人と化している。身の丈にあった話し言葉の世界は、落語や職人、うりかいをする人の言葉に断片をみることができるだけである。

 

参考文献

金田一・林・柴田 1988 日本語百科大事典  大修館

橋本・鈴木・山田 1987 漢字民族の決断 大修館

丹羽 1994 人名・地名の漢字学  大修館

柳父 1972 翻訳語の論理 法政大学出版

梅棹忠夫 1969 知的生産の技術 岩波新書

本多勝一 1982 日本語の作文技術 朝日文庫

本多勝一 1994 実戦・日本語の作文技術 朝日文庫

木下是雄 1981 理科系の作文技術 中央公論新書

木下是雄 1994 レポ−トの組み立て方 ちくま学芸文庫

言語技術研究会 1991 マニュアルはなぜわかりにくいのか 毎日新聞社

イアン・ア−シ− 1996 政・官・財の日本語塾 中央公論社

オング 1991 声の文化と文字の文化 藤原書店

梅棹・小川 1990 ことばの比較文明学 福武書店