トピック:人間の誤りやすさについて


  「この世で無限なのは、私たちの自己欺瞞の精神だけだ。」  Robert T. Carroll

  (The Skeptic's Dictionary日本語版  二千年紀のための懐疑論ガイド 巻頭言)     


 人間は誤りをおかす存在である。個人は誤りをおかす。偉い人も誤りをおかす。集団や社会となると誤りの能力はさらにパワーアップする。誤りから自由な個人も集団も存在しない。誤りを減らし制御するためには、まず、人間の誤りやすさを基本認識としなくてはならない。


1.認知的錯誤は人の常

  知覚や運動のしくみは、コンピュータでも容易にまねできないほど巧妙かつ正確にできているが、種々の錯覚やしまちがい(Action Slip)から逃れることはできない。何百人もの顔を識別し感情を読みとる人間の視覚系のはたらきはすばらしいものだが、同時に人間の視覚系は、ランダムな光のパターンのなかに、人の顔などの意味ある対象を容易によみとってしまう。自動車事故、航空機事故、製造業での事故、医療事故など、事故の原因の大半は人間の誤り(Human Error)が原因である。事故への唯一有効な対策は、人間が誤りをおかす存在であるという前提のもとに、Human Errorに対処できるように機器、システム、組織をデザインすることである。(リーズン 1999)

  記憶で問題になるのは、記憶のしそこないと忘却だけではない。記憶は過去の再構成であり、なかったことも容易に思い出してしまう。

 「偉大な発達心理学者であるジャン・ピアジェは、彼の最初期の記憶は1歳か2歳の頃に誘拐されかけたことだと主張した。彼は自分が乳母車の中から、乳母が誘拐犯に対して身を守っているありさまや、その乳母の顔面の傷や、丈の短いマントを羽織って白い警棒を持った警察官が誘拐犯を追いかけていくさまなどを見ていたのである。この話は乳母や家族や、その他この話を聞いたことがある人たちによって強化された。しかしこうしたことは実際にはけっして起こらなかった。誘拐未遂の13年後、ピアジェの元乳母はこれがすべて彼女の作り話だったということを彼の両親に告白したのだ。ピアジェは後にこう書いている''したがって、私は子供心にこの事件の顛末を聞いて...視覚的な記憶という形で過去に当てはめたのだ。これは記憶の記憶である。だが事実ではなかったのだ'' 」(The Skeptic's Dictionary日本語版より)

  ピアジェの場合は興味深いエピソードですむ。しかし、これが、捜査によってひきだされた犯罪の証言や記憶回復療法で回復された幼児期の虐待の記憶などだったら、どうだろう。

  思考や判断はどうだろうか?たとえば下の問題をかんがえてみよう。


問1.地球の半径は約6,400キロメートルである。はちまきをしたら約40,000キロメートル必要になる。その一周分に10メ−トルプラスして地球の外側に輪として置いたとしたら地球とその輪の間の隙間は次の三つのどれか。

  1.人間が歩いて通れる位

  2.人間が這って通れる位

  3.テレホンカ−ドが1枚入る位


問2.リンダは31才の独身、ものをはっきり言うタイプで、頭がよい。大学では哲学を専攻した。学生として、女性や民族差別問題や社会正義の問題に強い関心を持っていた。また、反核デモにも参加していた。さて、つぎの2つの文のうち、どちらがより可能性があるか(確率が高いか)? 

  1.彼女は今、銀行の現金出納係である。

  2.彼女は今、銀行の現金出納係であり、女性解放運動に熱心である。


問3.百円玉を10回繰り返し投げた場合、表(○)、裏(●)とすると、どの確率が一番高く、どの確率が一番低いか?なお、百円玉には歪みがなく、なげかたにも癖はないものとする。

  1.○○○○○○○○○○

  2.○●○●●○●○○●

  3.○●○●○●○●○●


問4.百円玉を10回繰り返し投げたら、つづけて裏がでた。つぎはどうなるか?なお、百円玉には歪みがなく、なげかたにも癖はないものとする。

  1.表が出る確率の方が高い。

  2.裏が出る確率の方が高い。

  3.表、裏が出る確率は等しい。


  人間は直感やイメージでものを考え納得のいく結果に達する。しかし納得のいくことと、その答えが正しいかは別である。たとえば問2と問3は代表性のイメージにもとづく判断が間違える例である。問4で1を選んだらギャンブラーの錯誤である。正しい結論に達するには、問1の場合には円周=3.14×直径で計算する必要がある。問2から問4は、結合事象の確率、独立試行の確率の照らして結論をださないと正しい結果はえられない。


2.バーナム効果(The Skeptic's Dictionary日本語版より)

 フォアラー効果、バーナム効果、あるいは主観的な評価、個人的な評価ともいわれる。(''バーナム効果''というのは、巧みな心理操作を使ったサーカスで有名となったP・T・バーナムにちなんで、心理学者ポール・ミールがつけた名前らしい。)

 心理学者B・R・フォアラーは、人々が漠然としてごくありきたりな性格描写を、他人にもそれが当てはまることを考えることなく、あたかも自分自身についていっているように感じてしまうことを発見した。以下の文章を、あなたの性格評価だと思って読んでみてほしい。

「あなたは他人に好かれたい、尊敬されたいという欲求を持っていますが、自分自身には懐疑的です。性格的に弱いところはありますが、日常的にはこうした欠点を克服できています。あなたには、まだ隠された素晴らしい才能がありますが、それを使いこなすところまではいっていません。外面的にはよくしつけられて自己抑制もできていますが、内面的には臆病で不安定なところがあります。ときとして、正しい決断をしたのか、正しいことをしたのかと深く悩むことがあります。ある程度変化と多様性を好み、規則や規制でがんじがらめになるのを嫌います。自分でものごとを考えていて、そのことに誇りを持っています;根拠もなしに他人の言うことを信じたりはしません。ですが、他人に易々と自分の内面を見せてしまうのは賢いことではないとも知っています。外交的で愛想よく、社交的なときもある反面、内向的で用心深く、無口なときもあります。非現実的な野望を抱くこともあります。」

 フォアラーは自分の学生を対象として性格診断テストをおこない、解答を無視して学生すべてに上記の回答を診断結果として与えた。かれは学生に、この診断結果が当たっているかどうか、0から5までの値で評価するよう求めた。被験者が回答を"よく当たっている''と思う場合は"5''、"比較的当たっている''場合は"4''である。クラスの学生の評価値は平均すると4.26であった。これは1948年の話である。このテストは心理学専攻の学生を対象として何百回も繰り返して行なわれているが、平均は依然として4.2を記録している。

 手短に言えば、フォアラーは性格を当ててみせたと人々に確信させたのである。彼の正確さに学生は驚いたのだが、じつは彼の用いた診断結果はスタンド売りされている新聞の占星術欄から星座を無視して抜き出したものである。フォアラー効果は、なぜ多くの人が疑似科学を"効果がある''と信じてしまうのかを、少なくとも部分的には説明してくれる。占星術やアストロセラピー、バイオリズム、カード占い、手相占い、エニアグラム、未来占い、筆相学などは、それがもっともらしい性格診断をしてみせるせいで、効果があるように感じてしまうのである。科学的研究によって、こうした疑似科学の小道具は性格診断には役立たないと明らかにされているが、それでも各々、効くと信じ込んでいる多数の顧客を抱えている。しかし、こうした疑似科学をいかに個人的、あるいは主観的に評価したとしても、それが正確かどうかとは何の関係もないのだ。


3.集団による誤りのパワーアップ

 人間は集団のなかに生きる存在である。社会心理学の実験では、事態の理解や正邪の判断でいかに集団に依存しているかがしめされてきた。またカルトにおけるマインドコントロールのテクニックは、人間の理解や判断が、集団のなかでの言葉やシンボルの使用を通じていかに操作可能なものかをしめしている。

 服従と同調の社会心理学: ミルグラムのアイヒマン実験、アッシュの同調実験、ジンバルドーの模擬監獄実験。



 

4.メディアや学者も誤る

  個人は誤る。占いやカルトなどのトンデモの世界は誤りに満ちている。新聞やテレビなどのメディア、学者などはさすがに大丈夫だろうか。残念ながらメディアや学者も例外ではない。

  たとえば、呉(1998)は、メディアで、ケーマンなどの小さな国を税金天国だとして紹介していたのに筆誅をくわえている。ヘイブンはheaven(天国)ではなく、haven(逃避所)であると。(正直にいうと、雨宮も呉の本を読むまでは、税金天国だと思っていた。)同じくとりちがえの例をあげると、広島と長崎の原爆投下時の写真は、ながいこと、新聞も教科書も本もすべて、写真が逆だった(新藤1994)。メディアの誤りで怖いのは、誤った情報がコピーされて流通していくにつれて、次第に、社会のなかで、信頼すべき情報の地位をえて、情報源を確認してみようとすらしなくなることである。メディアの擬似現実ではなく、偽造現実になってしまう。哲学者のウィトゲンスタインは、「同じ新聞を何部も買って情報の確からしさがましたと思う男」という警句をはいているが、われわれもその男とたいして変わらない。税金天国のはなしは、お笑いですむかもしれないが、事件や戦争などについての報道での誤報はお笑いではすまされなくなる。北朝鮮を地上の楽園として紹介した報道。湾岸戦争での油まみれの海鳥。等々。メディアで情報提示がくりかえされるうちに、確かな現実の地位を得てしまう。われわれは、メディアの提供する擬似環境のなかで意志決定し行動する。しかしわれわれが行動をおこなうのはメディアのなかではない。偽造現実を信じて歩いていると、その下に隠された現実の落とし穴に落ちてしまうこともある。

  印象的な事件にもとづく社会的な問題にたいする解釈がメディアを賑わすが、統計データを無視してお話を組み立てると、誤った方向にゆく。たとえば、事件のたびに、少年犯罪の凶悪化、深刻化について識者の意見が述べられる。しかし、犯罪統計をみると、少年犯罪の凶悪化が事実か否かは議論の余地があることがわかる(http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/ShonenHanzai/)。統計データや世論調査をもとにした報道なら、誤らないかというと、残念ながらそうではない。例えば、阪神大震災の仮設住宅の住民の不安と取り残された感じが前回の調査時より増しとたとして行政に対応を批判した朝日新聞1996年7月14日の記事。これは、調査データにもとづいたものだが、すでに仮設住宅から転出してしまった7割程度の人は除外されているので、ネガティブな反応が増えるのはやむをえない(谷岡2000 p69-70.)。これは、当ダイエットコースを終了されたかたはみな効果が出て満足していますという宣伝(不満があり効果がでなかった人はほとんど途中でドロップアウトし調査にふくまれない)と同じサンプリング偏りである。政治的意見についての世論調査などは、誘導尋問あり、選択肢の操作ありの、だしたい結果をだすための工夫がなされている。谷岡(2000 p174-179.)には、朝日新聞と読売新聞が世論調査をつうじて、いかにして対照的な結果をみちびきだしたかが、上下に並べて比較されている。サンプリングや質問項目におおきなバイアスがなく、公平で客観的なデータが得られたとしても、まだ誤解を誘導するための手段はある。都合のわるいデータを沢山の桁数のむやみに多い数字のなかにしのばせて見えにくくしたり、統計値の選択を工夫したり(代表値として算術平均を使うか中央値をつかうかなど)、グラフで誤った印象を誘導することができる(ベスト2001、雨宮・水谷2003)。

  以上は事実についての情報伝達でメディアの犯す誤りである。偉い学者、有名な学者も誤りを犯す。万学の祖とされるアリストテレスは心は心臓にあり脳は血液(プラウマ)を冷やす器官だと書いた。ニュートンは、書斎にやってくる親子の猫のために、大きい穴と小さい穴をあけたのはよいとして、中年以降は錬金術と聖書解読に血道をあげた。ウィリアム・ジェームズは、記念碑的名著「心理学の原理」(1890)で脳下垂体は機能がはっきりしないので痕跡器官だろうなどと言っている。もっと新しいところでは、Science Warsがある。ソカール・ブリクモン(1998)は、フランスの現代思想の思想家達の用いる科学用語や理論がでたらめだとして具体的に指摘とともに告発した。どうやら王様は裸だったらしい。フランス文化への攻撃だとか、思想の比喩的な言葉に難癖をつけなくても、などとの指摘はあったが、まともな反論はなかった。心理学関係ではMemory Warsがある。これはロフタスなどの認知心理学者による記憶回復療法の信頼性への異議申し立てである。これについてはトピックであつかうが、この異議申し立てが妥当なら、記憶回復療法の臨床家は、有害な過ちをしていることになる。「自閉症ーうつろな砦ー」(1957)で、自閉症は親の養育態度が原因だと主張したベッテルハイムも過ちを指摘されている学者である。これについてもトピックであつかう。(自閉症の養育原因説は、ライヒマンによる分裂病原性の母親やハーマンによる複雑性PTSDなどと同じく、標準社会科学モデルの人間観に合致するためか、今でも、社会学者などにはアピールするらしい。資料の末尾にその例を示した。)

  メディアも偉い人も、有名な人もみんな間違える。誤りから自由な人はいない。どのかんがえが正しいかをきめるのは、偉い人の本にどう書いてあるかでも、みんなの意見でも、どちらの語りのほうが魅力的かでも、かんがえが自分の好みにあうからでも、いずれでもない。どのかんがえが事実によって否定されないで残るかである。かんがえを事実によってチェックするにはどうしたらよいのか。これがつぎの科学の方法のテーマである。


参考文献

The Skeptic's Dictionary日本語版  

http://web.archive.org/web/20010413122328/www.geocities.co.jp/Technopolis/5298/homepage.htm 

黒木玄のウェブサイト  http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/index-j.html 

雨宮・水谷 2003 「グラフの認知的錯覚を誘導する要因についての記号論的研究」 日本認知心理学会発表

ベスト 2001 「統計はこうしてウソをつく」 白楊社

ギロビッチ 1991「人間この信じやすきもの」 新曜社

菊池・谷口・宮元編著 1995「不思議現象 なぜ信じるのか」  北大路書房

呉 1998 「言葉につける薬」 双葉文庫

ミルグラム 1974「服従の心理--アイヒマン実験--」 河出書房新社

ソカール・ブリクモン 1998 「「知」の欺瞞 : ポストモダン思想における科学の濫用」岩波書店

谷岡 2000「「社会調査」のウソ : リサーチ・リテラシーのすすめ」 文春新書

テレンス・ハインズ 1988「ハインズ先生超科学をきる・同Part II」化学同人

リーズン 1999 「組織事故 : 起こるべくして起こる事故からの脱出」  日科技連出版社

新藤健一 1994 「写真のワナ」 情報センター出版局

シンガー  1995「カルト」飛鳥新社


自閉症についてのある社会学者の発言をめぐって

黒木 玄(http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/Tmp/mothercom.html)より抜粋

  1985年、河合塾大阪校は、上野千鶴子の講演会を企画しました。そして、その次の年に、それをもとにして作られたブックレット『マザコン少年の末路』が河合文化教育研究所から出版されています。そのブックレットは順調に売り上げを延ばし続けたのですが、 7年の1993年の1月下旬に、ある質問状が著者の上野千鶴子と河合文化教育研究所に届いたのです。『マザコン少年の末路』には、「母子密着の問題」の例として「自閉症」を安易に挙げるというトンデモない記述が含まれており、それに対して抗議する内容がその中に含まれていました。

  そして、その後の話し合いの結末は、絶版ではなく、上野千鶴子自身による回答を付録「『マザコン少年の末路』の末路」として付け加え、増補版として新たに発行し直すことにし、ことの顛末を『河合おんぱろす』増刊号『上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』として出版することになったのです。

  果たして上野の対応の仕方は十分であったのか? 多くの人が気になるのはこの点だと思います。この点に関して、私の意見を述べます。

  上野による「『末路』の末路」からの抜粋を見ればわかる通り、上野が話し合いの後も、自閉症が母子関係に起因するという説とそれを否定する説を平等に扱うという形で、自閉症の原因に関する議論に強いこだわりを見せている点が印象的です。

  上野は、「母親の過干渉過保護という育てかたによって引き起こされる母子密着の病理」という考え方に関して、学者もしくは専門家として立場から、社会的に数え切れないほど発言しているはずです。だから、その責任を、学者の立場から十分に「自閉症」に関して調査を行なうことによって取り、自分の立場をはっきりさせるという形で取るべきであると私は考えます。しかし、残念なことに、上野は「私はこの分野の専門家ではありませんから、ある学説の真偽を判定する能力はありません」と言い逃れようとしています。これはかなり無責任な態度だと思います。たとえ、素人であったとしても、「自閉症」について色々調べてみると、「自閉症の原因は母子関係にある」という説は全く信頼できないので、その説を決定的に否定するところの「自閉症は器質性の疾患である」という説とそれを平等に並べてしまうのは間違いであるということはすぐにわかりますし、その程度の主張は可能なはずなのですから。

  あの件は、上野氏にとって、「母親の過干渉過保護という育てかたによって引き起こされる母子密着の病理」というドグマの限界を見極める絶好の機会であったはずなのです。そして、誠実な学者であれば、「自閉症」に関する誤解があったことを契機に、自分自身が広めて来たドグマの限界を正直に語るように変化しなければいけないと私は考えます。

冨田幸子の「「自閉症」と「母性神話」」より抜粋

冨田幸子(高槻南高校教諭)の「「自閉症」と「母性神話」」 (『上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』 27-63頁) から引用。 29-30頁より

 さらに問題なのは「自閉症」についての記述だ。自閉症の原因については、まだ十分に解明されてはいないが、少なくとも、放任や過保護といった育て方によって引き起こされるという考え方は今では完全に否定され、先天的な脳の器質的障害、あるいは機能的障害、発達障害だと言われている(注)。

(注) 上野さんは、文章の中で、

「自閉症」から「登校拒否」、さらには「家庭内暴力」を、子どもの一定の発達段階に応じた「発達障害」であり、それには母親の「育て方」に問題があると見なす一部専門家の説を、私がうけいれた背景には……

と、「登校拒否」や「家庭内暴力」を「発達障害」として「自閉症」と同列に扱う心理学者があったように書かれているが、私は、寡聞にして上野さんの言われる専門家を知らない。私が理解する限りでは、専門家の間では、自閉症が「発達障害」だと位置づけられるようになって以来、自閉症は、「登校拒否」や「家庭内暴力」で言われる「情緒的ゆがみ」とは、截然と区別されるようになった。「発達障害」というのは、精神遅滞や、脳性マヒなどと同範疇の「発達の遅れやゆがみ」を指して用いられてきた、と思うのだが。


鴎外の誤り

 文豪森鴎外は医学者行政官として軍医総監にまでなった人で、近代日本を代表する知識人の一人である。森鴎外の業績を称揚する多くの文章がかかれたが、森鴎外の軍医としての誤りにふれたものは、あまりない。

「もし、白米だけを食事にしていたらどうでしょう。1月ほどで皆、脚気になってしまいます。動物実験では、白米だけでネズミや鳩を飼うと、1ヶ月以内に痙攣をおこして死んでしまうそうです。脚気は今でこそ皆無に等しいですが、明治から大正にかけて死亡原因の上位を占めていました。年間で約2万人ほどの犠牲者をだしていたそうです。この当時政府が悩んでいたのは、兵士、特に軍艦乗組員の罹病で、長期航海では約半数もが倒れ操艦不能にまでなるときがあり、その原因は兵食ではないか?と考えたのが海軍軍事総監・高木兼寛です。かれはイギリス海軍には脚気患者が出ないことから一部軍艦にパンと肉食を与えてみたら脚気患者が激減したのをみて、パンは不評であったので小麦ではないが大麦の麦飯を与えて、見事海軍から脚気患者を一掃できたということで、国際的にも今でも食料史上の人物として高木の名前が記されているそうです。

 面白いのは海軍と陸軍の対応の違いで、陸軍ははじめは、麦飯を採用しなかったようです。この理由は、森林太郎(森鴎外)一等陸軍軍医がベルリンでカロリー学説を学んでいたため、麦より米の方がカロリーが高いからというのがその理由のようです。しかし、日露戦争の最後の奉天大会戦でやっと麦飯に転換したのですが、それまでに約半数の兵士を脚気にしてしまっていました。これは高木のイギリス流の考えて方と、森のドイツ流の考えたとの違い違いであったようですが、依然脚気の原因については様々な学説が飛び出していたようです。この脚気の原因には、当時は米食の東洋に発生する風土病と言われたり、白米中に毒物質があるためとか、はたまた脚気菌という細菌原因説まで言われていました。

 これらの脚気論争に決着を付けた人は、鈴木梅太郎博士という人で、彼は理化学研究所というところで研究員をしていました。日露戦争をはさんで約4年半の間、ドイツ・ベルリンで、エミール・フィッシャーという方の元に留学していました。彼は、白米で飼ったネズミや鳩に「ぬか」を与えると症状が収まるのをみて「ぬか」中には、ある有効成分があるのではないかということで、その有効成分を濃縮精製を試み、見事成功した人です。その物質は今でいうビタミンB1ですが、そのときは、稲の植物学名「オリザ・サティヴァ」からとった「オリザニン」と名ずけたそうです。1910年(明治43年)12月7日に「治療薬報」に掲載されまた、東京化学会で発表されましたが、そのときの内容の抜粋は、「白米病治療効果を持つ米ぬか成分は、....(途中略)....微量でしかも著しい治療効果をしめす。これらの化学反応は各種ミネラル、諸種の炭水化物、蛋白質には見られない。もちろん脂質にも見られない。要するに従来の栄養素ではない。こらはおそらく一部の学者によって空想に描かれていた新栄養成分であろ。新栄養成分は事実このとおりに存在する。」、というものでした。

 この重大発見は、翌年の7月ドイツ学会誌に掲載されました。そしてその4ヶ月後の11月イギリスのフンクという人が、鈴木梅太郎博士とほぼ同じ方法で、同じ物質を結晶化しこれを「ビタミン」と名付けて発表しました。ビタミンの第一発見者は当然鈴木梅太郎博士であるはずが、「生命のアミン」という意味の「ビタミン」のほうが、受け入れやすかったのか、フンクの方が「ビタミンの発見者」となっているようです。1929年のノーベル医学・生理学賞は、フンクでもなく、鈴木でもなくエイクマンとホプキンスが受賞しました。エイクマンは「抗神経炎ビタミンの発見」ホプキンスは「成長促進ビタミンの発見」でした。エイクマンは鈴木より先に「米ぬか中には白米の毒を中和する中和物質がある」と主張していた人です。ホプキンスは1906年に動物には3大栄養素以外に微量な不可欠物質があると予言していた人ですが、実験の裏付けはなかったのです。1912年にようやく動物実験報告がなされたようです。

 日本の医学界の対応は、もっとひどく、医者でもない農芸化学者が神聖なる医学に口出ししたことに対して、権威的な医学者(東京帝大医学部教授、青山、三浦ら)は「そんな物質は尿中にもある、尿を飲めば脚気が治るのかと冷笑した。また、別の教授は「いわしの頭も信心から」というように、いっこうに相手にされず、せっかく作って三共から発売されたオリザニンは、臨床医からことごとく拒否されたそうです。大正2年、巣鴨養育園では20人の小児にオリザニンを試して良好な成績を収めていても、大正3年の日本医学会総会では、「白米飼育による動物の脚気様症状と人の脚気とは別種の病気である」と反撃されたほどでした。

 最終的には大正7年京都帝大・島園順次郎教授、慶大・大森憲太郎教授らの臨床試験の結果で、脚気の原因はビタミンB1の欠乏、と断定されるまで待たなければならなかったのですが、こうしてようやく鈴木博士の功績が認められた訳です。」(http://plaza.harmonix.ne.jp/~lifeplus/text/riken.html)


オカルト・ユング

  ユングはフロイトとならぶ精神分析家である。フロイトもユングも天才的語り手だった。彼らの語るストーリーは、多くの読み手を魅了してきた。(日本のユング派の精神分析家河合隼夫氏もやはり巧みな語りで多くの読者を得て、小渕内閣の「21世紀日本の構想」懇談会の座長をつとめ、現在は文化庁長官の要職にあるなど、日本の文化人の代表的存在である。)しかし、語りが魅力的なことと、説が正しいこととは、別の問題である。事実の根拠のない説を巧みな語りで人を納得させてしまうなら、語り手と言うより、騙り手といったほうがよいかもしれない。精神分析の心理学への貢献と評価については、講義の精神分析のところで述べる。ここでは、ユングの主張の中心部分に、事実による根拠を欠き科学的常識とかけはなれたオカルト的側面が色濃くあることに注意を喚起したい。TheSkeptic's Dictionary日本語版のカール・ユングの項.を引用する。

 「カール・ユングはスイスの精神分析家で、フロイトの同業者だったが、無意識精神というのがあらゆる神経症の原因となる抑圧された性的トラウマのたまった場所だという問題で、フロイト的精神分析と袂をわかつ。ユングは、独自の分析心理学一派を創りあげた。

 ユングは、占星術(星占い)、心霊主義、テレパシー、テレキネシス、透視力それに超能力(ESP)の信者だった。数々のオカルト概念や超自然概念を信じていただけでなく、ユングはオカルトと疑似科学的信念に基づいた心理学を創りあげようとして、その過程で自分でも新しいオカルト概念を二つばかりこしらえた。それがシンクロニシティと集合的無意識だ。

 シンクロニシティというのは、説明のための原理で、「意味ありげな偶然の一致」を説明するものだ。たとえば、患者がフンコロガシの夢を見た話をしているときに、カナブンが部屋に飛び込んでくる、など。フンコロガシはエジプトでは再生のシンボルである、とユングは言う。したがって、カナブンが飛んできたという運命的な出会いは、夢の中のフンコロガシと、部屋の中の昆虫のどちらも超越的な意味を持っており、その患者が過剰な合理主義から解放される必要がある、ということを意味しているのだ、ということになる。ユングのシンクロニシティの考え方は、非因果律的な原理で、ある出来事同士が時間を追って起こるよりも、たまたま同時に起こったことによって、同じ意味を持つものということで結びつける。ユングは、精神と知覚による現象世界との間にはシンクロニシティがある、と主張した。

 シンクロニシティには、いったいどんな証拠があるのか? なにも。ユング自身による弁護はあまりにまぬけで、ここで繰り返すのもためらわれるほど。ユング曰く、「因果律によらない現象は絶対に存在する(中略)なぜなら、統計というのは例外があってはじめて可能なものでしかないからだ」 (1973, 書簡集, 2:426)。そしてユングは「(前略)あり得そうもない出来事も存在する――さもなければ、統計的な平均値も存在しない(後略)」 (ibid.: 2:374) と主張。そしてかれは「確率/可能性という考え方は、同時にあり得そうにないものの存在をも示しているのだ」 (ibid. : 2:540) と主張。

 もし精神と世界との間にシンクロニシティがあって、ある種の偶然の一致は超越的な真理を反響させているにしても、その真理をどうやってつきとめるか、という問題が残る。ある解釈の正しさを決めるために、いったいぜんたいどんなガイドを使えばいいのだろう。直観と洞察以外にはなにもない。これはユングの先生であるジークムント・フロイトが夢の解釈で用いたガイドと同じだ。

 精神分析家で著述家のアンソニー・ストール(Anthony Storr)によれば、ユングは一時精神をやんで、その間、自分は「特別な洞察力」を持った予言者だと考えていた。ユングは自分の「創造的な病」 (1913-1917の間) について、無意識との自主的な対決だったと主張。かれのすごい「洞察」というのは、35歳以上の自分の患者はすべて、「宗教の喪失」に苦しんでいて、自分こそはかれらの空虚で無目的で無意味な人生を埋めるための絶好のものを持っているのだ、というものだった。そしてその絶好のものとは、ユング自身の原型(アーキタイプ)と集合的無意識という形而上学体系なのだった。

 シンクロニシティは原型(アーキタイプ)へのアクセスを提供する。この原型(アーキタイプ)は集合的無意識の中にいて、経験に基づかない普遍的な精神の傾向であるのが特徴だ。プラトンの言う形相 (eidos) と同じく、原型(アーキタイプ)は感覚世界から生じるものではなく、その世界とは独立して存在し、精神によって直接知られるのである。でもユングはプラトンとはちがい、その原型(アーキタイプ)というのは唐突に(特に危機のときに)精神に浮かんでくるのだ、と信じていた。カナブンとフンコロガシの夢みたいな、意味ありげな偶然の一致が超越的な真理の扉を開くように、危機というのは集合的無意識の扉を開けて、原型(アーキタイプ)を送り出し、ふつうの意識からは隠されている深い真理を告げようとするのである。

 ユングの主張だと、神話の物語はこの原型(アーキタイプ)に基づいている。神話というのは、深く隠されたなぞめいた真理の貯蔵庫となる。夢や精神的な危機、熱、や譫妄症、偶然の出会いが「意味ありげな偶然の一致」と反響しあい、すべて集合的無意識への入り口となっており、それがその洞察をもって個人の心理の健康を回復してくれるのだ、とユングは言った。ユングは、こういう形而上学的な考え方が科学的な根拠を持っていると主張し続けたけれど、でもこれはどれも、まともな意味のある形で経験的に検討することは、まったく不可能である。一言で、こんなのは科学でもなんでもない、疑似科学にすぎない。」 


経済論戦

  かつて日本経済が絶好調だったころ、欧米のメディアには日本脅威論がでまわった。われわれと異質な特別な力(奇妙な?策略による?)をもった連中という認識である。日本経済が不調におちいると、われわれと異質なまぬけな連中という認識に変わったようだ。成功時の能力の過大評価と失敗時の能力の過小評価。これは、外集団の成功失敗の評価における能力への帰属におけるバイアスとして心理学でしられている現象である。

  経済の低迷と対策について種々の論が自信をもって主張されている。同時生起の原因が多すぎて、どれが本当の原因かを特定するのはなかなか難しい。結果が悪いとあらゆることがその原因にみえてきてしまう。そのなかで、痛みなくして成長なし(苦しい思いをすれば最後に報われる)、陰謀説(この苦境はだれかのせいにちがいない)、経済ハルマゲドン本(破局がやってくる。私たちのおすすめのレシピであなたはたすかります。)などの感情論理にしたがったストーリーは俗耳にうったえる。しかし納得しやすいことと、その説明が事実に合っているかは別である。多数のアナリストの経済予想が当たったか否か何年かの記録を検証してみると、ランダムな予測と差がなかったという報告もある(デュードニー1997「眠れぬ夜のグーゴル」 アスキー)。問題は、得心のいくストーリーを選ぶことではない。主張とその予測を、事実によって厳しくチェックしていくことである(黒木玄のウェブサイトの経済についての議論の情報や野口2003「経済論戦」日本評論社などが種々の主張のクリティカルな吟味を展開していて有益。)。