自然・環境・人間 −−ハンス・ヨナス『責任という原理』について−−

 

品川哲彦

『アルケー 関西哲学会年報』、No.7、関西哲学会、1999年7月26日、145-154頁

 

 

一 環境としての自然

二 ハンス・ヨナスの『責任という原理』

三 討議倫理学におけるヨナス批判

四 結語

一 環境としての自然

 環境としての自然というテーマはある緊張を孕んでいる。というのは、自然という観念は相対性を超えた全体を意味するのに、環境はその中心となる存在、つまり環境の主体を前提とし、その主体からみたパースペクティヴのもとではじめて切り拓かれるからだ。主体の関心に応じて自然の一部を切り取ったものが環境である。環境という観念をうみだした生物学者ユクスキュルは、ダニの環境がいかにダニが生きていくために必要なだけにきりつめられた世界であるかを記している(1)。生き物としての人間にとっての環境も、程度の差はあれ、縮減された自然であることに変わりない。

 しかしまた、人間は自然全体を環境として捉える可能性も手に入れた。生き物としての人間についての科学の知識を哲学のなかでふたたび捉えなおそうと試みた、一九二〇年代にはじまる哲学的人間学は、環境の観念をも生物学から哲学の文脈へ移植した。哲学的人間学を企図したひとり、プレスナーによれば、人間の特性は自己から距離をおく能力、離心性にある。すなわち、動物がその体そのものであり、環境に束縛されているのにたいして、人間は体も、体をとりまく環境も、環境と自己の関係も対象化することができる(2)。同じ事態を、シェーラーもまた、人間は世界に開かれていると表現している(3)

 自分の環境を対象化する能力は環境を意図的に操作し改変する能力を生み出した。現在、科学技術と科学技術を享受する生活様式によって、人間による環境の改変は地球全体にわたる規模で、かつ不可逆ともなりうるしかたで進んでいる。まさに自然全体を人間の活動と相互作用の関係にある環境として捉えることが現実的な意味を帯びてきている。

 ところが、人間にとっての環境は、ひとつの自然の一部であるゆえに、他の存在にとっての環境と重なり合っている。だから、人間による環境の改変は、他の環境主体の生存に影響を及ぼさずにはいない。したがって、その環境主体が倫理的に尊重されねばならない存在であるなら、問題は倫理の次元にひきうつされる。では、何を倫理的に尊重しなくてはならない存在として考えるのか。話をつきつめれば、環境破壊は人間に害を及ぼすから悪なのか、それとも、人間以外の環境主体、人間以外の生き物の利益を損なうためにも悪なのか。それに応じて、人間中心主義か、非人間中心主義ないしは生命中心主義かという立脚点の根本的な違いが生じてくる。

 生命中心主義を主張するレオポルドの土地倫理(4)やネスのディープ・エコロジー(5)によれば、生態系(ecosystem)は多様な種類の生き物の相互依存によって成り立っており、したがって、人間も含めてどの種の生き物も生態系の不可欠の構成員として平等に尊重されねばならず、その多様性の保持と共生が守られねばならない。

 これにたいして人間中心主義から寄せられる批判の第一は、人間は反自然的存在である(6)、あるいは逆に、人間は人間にとっての長い目での利益をはかることでかえって多様な種の生き物とその環境を守ることができる、という超越的な批判である(7)。人間は神から自然を委託された管理者と考えるスチュワードシップの環境倫理もここに属す(8)。第二に、内在的批判がある。生命中心主義が人間と人間以外の存在を平等に道徳共同体の一員と認めたところで、実際に道徳の責めをはたすのは人間でしかないから、平等主義は破綻して人間を中心に考えざるをえない、という批判である(9) (10)

 だが、この内在的批判は、利益主体としての人間と道徳的主体としての人間を分けない点で誤っている。道徳的主体としての人間が人間自身にとって不利益な行動規範を選ぶ可能性も原理的にはありうるからだ(11)。むしろ、生命中心主義の問題点は、人間以外の生き物を人間と等しく倫理的に配慮すべき対象とみなすと同時に、道徳的主体としての人間の特殊性を見失っている点にある。環境を改変する力をもった人類はその他の生き物とはもはや対称的な位置を占めることができず、その力に応じたしかたでその行為が問われなくてはならないのだ。

 それでは、人間中心主義にくみするべきだろうか。しかし、人間にとっての利益や欲求がそのまま倫理の根拠になりうるだろうか。この点は生命中心主義が批判する点である。けれども、生命中心主義にしても、たんに利益の主体を人間以外の生き物に広げるだけなら、やはり利益と欲求を倫理の根拠とすることに変わりない。たしかにどの生き物も存続したいかもしれない。だが、生存したいなら生態系を守るべしというだけでは、カントふうにいえば道徳の命令ではなく利口の命令にとどまっている。それゆえ、人類の存続、あるいはまた、生命ないし自然の存在が真に倫理的な次元で尊重されるべきなら、人間中心主義や生命中心主義が論拠としている人間や生き物の欲求とは別の根拠が必要である。

 文化的な地域主義(regionalism)による根拠づけはどうか。環境という観念は、もともと身の回りという意味だから地域的な特殊性に結びついている。ディープ・エコロジーの主張のひとつは、特定の地域ごとの生態系を維持して、そのことをつうじて、自然全体の生態系の多様性を確保することだった。しかも、地域の自然はまた、その地域の人間の暮らしに密接に関わっている。その関わりから地域の自然と文化をともども擁護する試みとして、和辻哲郎の風土論を読むこともできよう。和辻は、日本の風土上の制約を語りつづけたのち、一転して日本の風土への愛を説いている(12)。戸坂潤はそこに昭和初年のマルクス主義の流行にたいする和辻の反発を読みとっているが(13)、特定の風土に適した規範を説く和辻が風土への愛に行き着くのはみやすい道理である。だが、和辻は文化相対主義を主張したわけではない。和辻は特殊な風土を人類性という普遍の現われとみるからだ。環境の地域的な特性を擁護する議論は、このように、生態系については自然全体、文化については人類の存続を不問の前提にしている。けれども、この前提こそがまず根拠づけられなくてはならないのではあるまいか。

 人類の存続と自然の存在の根拠づけ−−この二つは途方もない問いであり、しかも一見たがいに無縁な問いにみえる。しかし、人間が環境としての自然を対象化できる以上、環境としての自然の破壊も保持も、そしてまたそこから帰結する人類が存続するか否かも、人間の自由に委ねられている。したがって、人類の存続と自然・生命の存在の根拠づけは最も根本的な問題で、しかもひとつのくびきに結びつけられている。ちなみに、哲学にとっては人類の自殺の是非さえすでに目新しい問題ではない。たとえば、カントが自殺を普遍的道徳法則に照らして考察したとき、すでにその問題は視野に入っている。

 人類の存続の根拠と生命を尊重すべき根拠−−以下、まさにこの問いを問いつめたハンス・ヨナスの著作『責任という原理』をとりあげよう。(なお、紙幅の都合から同書 Das Prinzip Verantwortung Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation, Suhrkamp Taschenbuch, 1984からの引用・参照はその頁を[ ]に入れて記す)。

 

二 ハンス・ヨナスの『責任という原理』

 従来、倫理は対面関係を基本にして行為を考えてきた。また、現在の人間にとっての善が未来の人間にとっても善であると予想してきた。そのもとで普遍妥当性を獲得しても、したがって、その射程は現在を出ない。ところが、科学技術をとおして人間の活動は遠い未来まで影響するようになり、しかも地球環境を不可逆なしかたで変えるおそれももっている。人間の活動が未来と自然全体に及ぼす影響を考慮する新たな倫理−−それがヨナスの《責任という原理》である[224-226]。

 責任が向けられるのは次の三つの条件を満たす存在である[166,175]。第一に、責任が向けられるのは私以外の存在である。第二に、その存在は時間とともに消滅しかねない、うつろいやすいものである。第三に、その存在が存続するか消滅するかは私の力にかかっている。ここで留意すべきは、ひとつは、責任という観念は、通常、過去の行為に向けられるが、ヨナスでは、存在を維持する責任、したがって未来に向けられていることであり、もうひとつは、責任は力の不均衡から生じるので、正義や権利と違い、もともと対等・互酬的ではない関係のあいだに成り立つということである。

 責任の原型としてヨナスがあげたのはみどり児の例だった[235]。みどり児は、ただ息をしているだけで、回りの世界にたいして異論をはさめないしかたで、その世話をすべしという当為をつきつけている。なぜ世話すべきか。みどり児を必ずしも愛しているとはかぎらない。みどり児が人格となる潜在能力があるからでもない。生命倫理学には、 トゥーリーをはじめ嬰児の生存権を認めない議論があった(14)。しかし、ヨナスによれば、 みどり児をたんなる細胞の塊とみるのはすでにみどり児をみていない。「数学的物理学者の分析的なまなざしでみられているのはみどり児ではなくて、[細胞の塊、分子の塊といった]ほかの点もみえなくされているような現実の最も表面的な周縁である。(中略)[みどり児を]みよ、君には[世話すべきことが]わかっている」[235-236。括弧内は引用者の補遺]。 私がみどり児のことを心にかけないなら、みどり児の身にどんなことがおこるだろうか[391]。この思いから、みどり児への責任が迫ってくるのである。

 だが、私は世話をしないこともできる。ヨナスは慎重にも「抵抗できない」といわず、「異論をはさめない」と記した。人間はたしかに責任を感じうる。けれども、ヨナスによれば、それでもう人間はすでに潜在的に倫理的な存在であり、そして、倫理の成り立つ可能性はそこにしかない。人間が存在すべき根拠は、人間の欲求でも、生存権でも、理性でもなく、ひとえに倫理の基盤という人間の理念をおいてほかにない。人間はいつの時代でも責任をひきうけうる存在ですでにある。とともに、実際に責任をひきうけるかどうかはつねにまだ決まっていない。この「すでにあり、まだない」という時間的性格は、人間の理念に永久にともなっている。それをこえた理想の人間の到来を約束するユートピア思想は、ヨナスの峻拒するものである。

 ところが、この守られるべき人類自身の存続は、他の生き物の生存とともに、人間による環境破壊によって脅かされている。ヨナスはこう述べる。人類が存在することが全世界にとって喜ばしいことか、恐るべきことか、その帳尻を考えれば、人類が存在することを支持するのはかなりむずかしい。しかし、そのような帳尻とは別に、人類は存続すべきである。 なぜなら、責任が存在する可能性が、なにより先行する責任だからだ、と[186]。環境破壊にどのような行動をとるかは現在の世代にかかっており、したがって、未来の人類の存在を手中にしている現在の世代は、未来の世代に責任を負うている。

 こうして、ヨナスは新たな倫理の配慮すべき要件のひとつ、未来への配慮を導き出した。だが、新たな倫理には自然への配慮というもうひとつの要件がある。以上の叙述では、自然は人類の存続の手段としてのみ尊重されるかにみえる。そこには、自然はそれ自体で尊重されるべきだというヨナスの、以下に記す自然哲学を補わなくてはならない。

 人間の行為には意識的な目的がともなっている。目的は、しかし、意識的な存在のみならず、生き物の体のどの部分の機能にも−−たとえば消化器官には消化という目的が−−認められる。体の各部分の目的はその生き物が生きるという目的に仕えている[130]。こうした合目的性はいつ出現したのか。それ自身は目的なき物質から突然変異と自然淘汰によって創発したのか。ヨナスはこの説明をとらない。目的なき物質への還元はすでに自然に目的なしという前提を先取りしているからだ。ヨナスによれば、自然の連続性からすれば、 生き物を生み出した自然のなかにすでに目的は潜在的に含まれている[136-138](15)

 さて、善とは、目的をもつものが目的を達成することにほかならない[154]。目的とはそのものが目的を達成したあり方であるべきだという当為を含んでいる。その存在がかくあるべきだという目的は、その存在を脅かすものに、目的を妨げてはならないという行為の当為をつきつける[234]。たしかに、ある生き物の目的は他の生き物にとっては手段として価値があったり、自分の目的と対立し負の価値をもっていたり、端的に無価値であったりする。ただし、価値とはある特定の存在にとっての相対的な評価であるのにたいして、善はそうではない[160]。もしも人間にとっての価値がそのまま善であるなら、善は人間の意志の産物であって人間の意志を拘束できない。したがって、人間にとっての価値とは独立の善を自然のなかに想定するヨナスの論理からは、人間の意志と力によって脅かされうる自然の目的を阻んではならないという責任が人間の欲求とは独立に導き出されるわけである[185, 232]。

 以上、ヨナスの責任原理と自然哲学の骨子を述べてきた[245-246](16)。それは人間中心主義と違い、人間の欲求をそのまま正当化するものではない。また、生命中心主義と違い、人間が自然に属しながら道徳的主体として占めている特殊な地位を明らかにしている。それでは、責任という原理による根拠づけは十分なものといってよいか。だが、とりわけ根拠づけの問題に鋭敏な討議倫理学からヨナスに批判がよせられている。最後にこの点をみておこう。

 

三 討議倫理学におけるヨナス批判

 討議倫理学によると、ヨナスによる責任の根拠づけは直観に訴える点で不十分である。

 ヨナスは責任の原型にみどり児の例をあげ、「みよ。君にはわかっている」と訴える。だが、それでも、みどり児を世話する責任を感じない人がいたならどうか。ちょうど共感を否定する人にヒュームがしたように、反論を打ち切るという対応しか、ヨナスには残されていまい。ところが、討議倫理学者は同じ事態に対処できると自負している。まず、それ以上遡りえぬ、かつ不可避の前提として、責任を担うべき主体によってコミュニケーション共同体が形成されている。そしてその共同体のなかで、みどり児を世話する責任があるかどうかが討議されるだろう。討議をへてみどり児の世話が責任として確定されたあとでは、その責任を放棄する者は自分が参加したコミュニケーションとの、したがって自分自身との矛盾に陥らざるをえない。自分の主張と実際の態度とのあいだのこの遂行論的な矛盾によって、責任の主体は責任を履行するように拘束されることとなる。これにたいして、ヨナスの根拠づけでは、みどり児に世話する責任をそもそもみてとれない者は世話するように拘束されもしない。ヴェルナーが指摘するように、責任を向けるべき対象を直観することのほかに責任を担うべき行為主体が責任を問われる審議の場はないからだ(17)

 人類の存続と人間以外の自然への配慮というヨナスの結論には、討議倫理学者も賛同する。討議倫理学にとって、コミュニケーション共同体は倫理の成り立つ基盤だが、コミュニケーション共同体が現実に存続するには、来たるべき参加者である未来世代の人類の存続が要請されるからである。人間以外の自然への配慮はそのための条件であり、討議がどのような主張にも開かれている以上、人間以外の自然への配慮をあらかじめ排除することはできない。そこで、討議倫理学はヨナスの導き出した結論を認めつつ、もっぱらその直観主義的な根拠づけを批判するわけである。

 しかしながら、ヨナスの根拠づけはたんに直観主義的であるだけとはいえまい。それはまた、遂行論的矛盾ともいえる論理にも訴えている。ヨナスの立てた問いは、人類が存続できるかという事実問題ではなく、存続すべきかという倫理の問題だった。これにたいして、存続すべきではないと答えることは、そもそも「すべきか。すべきでないか」という問いが発せられる倫理の基盤を否定することになり、問いそのものを無意味にする。だから、人類は存続すべきだという答えしかないのであり、だからこそ、責任が存在することが第一の責任として不可避に導き出されるのである。

 とはいえ、自己矛盾に訴えるこの論理が妥当するのは人類の存続についてだけである。個々の行為の責任はそうではない。個々の行為の倫理性は討議倫理学ならコミュニケーション共同体のなかで討議され、討議者は討議によって拘束される。先に述べたように、ヨナスの根拠づけはそうした拘束力に欠けている。だから、ヨナスでは、具体的に何をすべきかを示唆できない。この実効性なきところがまた、討議倫理学の批判を招いている。

 けれども、責任という原理における人類の存続が討議倫理学におけるコミュニケーション共同体の存続に対応している点を見落としてはなるまい。責任という原理は、討議倫理学でいえば倫理が成り立つ基盤であるコミュニケーション共同体そのものを作ろうとする意志、したがってそもそも根本的な出発点において、倫理的な態度、倫理的であろうとすることそのものを切り拓いてもいるのである。はたして、倫理的であろうとすることにおいて、討議倫理学が依って立つ正義の原理とヨナスの責任の原理のどちらが先にあるか−−その答えはおそらく両者によって異なるだろう。ただ、確認すべき点は、討議倫理学は、コミュニケーション共同体のなかで、コミュニケーションできる理性があるという意味で等しき相手に要求し呼びかけ(Anspruch)、応答し責任(Verantwortung)をはたすのにたいして、ヨナスでは責任は力の不均衡から生じていることだ。それゆえ、討議倫理学からすれば、 ヨナスのいう責任は、ときに応える必要のない場合にも求められ、露骨にいえば、 やらずもがなの努力ではないかとも疑われる(18)。しかし、だからこそ、責任は、私と異なる存在からの呼びかけにも端的に応えうるのである。

 さて、討議倫理学によるヨナス批判にたいして私がこれまで行ってきた擁護論−−擁護論といえればの話だが−−はもっぱら人類の存続だけをとりあげてきた。そのため、討議倫理学と同様、問題を人間だけに回収してしまうおそれがある。ここでふたたび、ヨナスの別の側面、自然哲学を顧みる必要があるだろう。

 ところが、ヨナスを支持しようとする人々もヨナスの自然哲学には躊躇せざるをえない。はたして、ヨナスの主張するように、生命が目的なしに考えられないからといって、目的を客観的に存在すると判断できるのか。ヨナスの自然哲学はカント以前の独断論にすぎないというアーペルの批評は近代以降の哲学の通念からは正当である(19)。一方、ヨナスにしたがってカントをみれば、カントは生き物が身体によって自然に帰属しているという紛れもない事実をそのことを認識する能力の問題のなかに回収しているようにみえる。また、存在と当為を結びつけるヨナスには自然主義的誤謬だという批判もしばしば浴びせられてきた。しかし逆に、ヨナスからすれば、自然から目的、価値、当為を捨象する近代の哲学もひとつの存在論、形而上学にすぎない[92]。けれども、これを反論とするかぎり、ヨナスの自然哲学もまたもうひとつの選択肢、もうひとつの形而上学にとどまらざるをえない。なお、ヨナスが形而上学というとき、当然ながら、私たちはかれの思索の背景に神についてのかれの思索を予想するが、少なくとも『責任という原理』という著作では、ヨナスは一貫して神をぬきにして論証しようとしていることを申しそえておく[92]。

 新たな倫理の要件のひとつ、人間以外の自然への配慮はまさにこの自然哲学から導き出されている。環境危機にあたって、自然への配慮を倫理的に根拠づけなくてはならないと主張する論者は数多い。だが、自然への配慮は同時に従来の倫理では受け入れにくい。人間中心主義では、自然は手段にすぎない。討議倫理学では、自然への配慮を主張するには、コミュニケーション可能な人間の媒介を要する。それを積極的に促す要素は討議倫理学のなかにはない。あたりまえのことだが、人間以外の自然はコミュニケーション共同体にとってさしあたりは外部だからである。これにたいして、自然のなかに当為を見出すヨナスの自然哲学は、この外部を討議のなかに招き入れる契機たりうる。

 とはいえ、それだけでは、生命中心主義もまた同じように契機たりうるといわれよう。たとえば、レオポルドの土地倫理では、どの種の生き物も生態系を維持する不可欠の構成員として尊重されている。この尊重を支える原理は、その生き物は本来それが占める領分を侵してはならないという正義の原理である。だから、ある生態系のなかに鹿が何頭生息するのが適切かは、土地倫理では原理的には答えられるはずである。だが、そのためには、その生態系自体のあるべきあり方が前提されていなくてはならない。これにたいして、ヨナスの自然哲学はさらに遡って、自然にもあるべきあり方が考えられうるということをまず根拠づけようとしているにほかならない。

 

四 結語

 責任の向けられる対象とは、私と異なる存在で、時間とともにうつろいゆくものであり、しかもその存亡が私の力にかかっている点で私の力の内部にあるというものだった。倫理に新たに求められているのは、未来の世代への配慮と自然への配慮だった。責任という原理では、私と異なる存在が存在すること、ひいては存在しうることから未来と自然への配慮が導き出される。それゆえ、未来の世代の生きる権利に根拠づける議論のように、存在しない者に権利があるかという難点を直接は抱えていない。また、責任という原理のもとで語りうる自然は、環境主体にとって外部であるとともに、その活動によって影響しうる環境としての自然である。たしかに、討議倫理学の批判するように、責任は正義を超えた過剰な努力に陥ることなしとはいえない。しかし同時に、責任はそもそも倫理的な態度を用意し、だからこそ、ヨナスは未来の人類と自然という外部にたいして倫理を開くことができたわけである。その意味で、ヨナスは少なくともひとつのアプローチを指し示すことができたのである。

 

 上記は、平成10年10月11日に大阪大学で行われた関西哲学会第51回大会のシンポジウム「環境としての自然」での発表原稿に少しばかり手を入れて、『関西哲学会年報・アルケー』に掲載したものである。同誌では、紙幅の都合から、註に引用箇所をあげることはできたが、訳文を割愛した。このホームページ版の以下の註には、訳文をのせることとする。

 

(1) ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生物からみた世界』日高敏隆・野田保之訳、思索社、1984年、22頁。

(2) Helmuth Plessner, "Der Mensch als Lebewesen für Adolf Portmann", in : Philosophische Anthropologie heute, C.H.Beck, 1972, S.56 (邦訳は、ボルノウ/プレスナー編『現代の哲学的人間学』、林田新二訳、白水社、一九七六年、六三頁)。

(3) Max Scheler, "Die Stellung des Menschen im Kosmos", in : Gesamte Werke, Bd. 9, Bouvier, S. 32.

(4) アルド・レオポルド『野生のうたが聞こえる』、新島義昭訳、森林書房、一九八六年、三一四頁。

(5) Arne Naess, "The Shallow and the Deep, Long-Range Ecology Movement. A Summary", Inquiry vol.16, 1973.

(6) Richard A. Watson, "A Critique of Anti-Anthropocentric Biocentrism" , in: Environmental Ethics, Environmental Philosophy, Inc. and The University of

Georgia, vol. 5, 1983, p.252.

(7) 個人の選好のままに自然を搾取することを是認する強い人間中心主義と、長期的視野からそれを抑制する弱い人間中心主義とを分け、後者を主張する立場がある。たとえば、Bryan G. Norton, " Environmental Ethics and Weak Anthropocentrism", in : Environmental Ethics, vol. 6, 1984, p.135.

(8) J. Baird Callicott, Earth's Insights, University of California Press,1994, p. 16.

(9) R. A. Watson, op. cit., p. 253.

(10) 「アルド・レオポルドの土地倫理におけるように、ひとびとが『生命共同体の一構成員、一市民にすぎな』いことが(中略)生命共同体の他の構成員、市民と生命共同体にたいする倫理的責務を生み出すなら、他の生き物は同様に構成員、市民であるのに、どうして他の生き物の私たちや生き物同士への同様の責務を生み出さないのか、説明しなくてはならない」(J. Baird Callicott, op. cit., p. 22.)。

(11) 「人間は、人間だけがものさしをもつという意味で万物の尺度かもしれないが、人間が測るものは人間自身や人間の存続より大きいかもしれぬ」(Arne Naess, "A Defence of the Deep Ecology Movement", in : Environmental Ethics, vol. 6, 1984, p. 270.)。

(12) 和辻哲郎『風土』、和辻哲郎全集第八巻、岩波書店、一九六二年、一三八頁。

(13) 戸坂潤「和辻博士・風土・日本」、戸坂潤選集第五巻、伊藤書店、一九四八年、一五六頁。

(14) マイケル・トゥーリー「嬰児は人格を持つか」、H・T・エンゲルハート、H・ヨナスほか著、加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎 欧米の「生命倫理」論』東海大学出版会、一九八八年。

(15) 「次第に意識にまで成長した主観的生物が存在するというこの証拠から窺えることは、それを生み出した物質と意志とが決して異なるものではないこと、(中略)つまり、物質にはなるほど計画性はないにせよ、何か傾向のようなもの、意志へと向かう憧れのようなものがあり、それが世界内の偶然の中でチャンスを掴み、それをさらに促進するという解釈です」(ハンス・ヨナス「精神・自然・創造」、W・Ch・ツィンマリ、H=P・デュール『精神と自然』、尾形敬次訳、木鐸社、一九九三年、六五頁)。

(16) ヘスレは、ヨナスが根本におく公理は「私は、個々の目的から身を話すことができるが、目的をもつという原理からは離れられない。目的をもつということは、目的をもたないあらゆる存在よりも、価値論からすると優れている構造をもっている」ということであり、そこから「目的を果たそうとする存在(有機体)や、目的について考える存在(人間)を含む世界を破壊すること」が「道徳にたいする最大の背反」と結論されるとまとめている。Vittrio Hösle, "Ontologie und Ethik", in : Im Diskurs mit Hans Jonas(以下、IDmHJ と略記する), Dietrich Böhler (Hrsg.), C. H. Beck, 1994, S. 114.

(17) Micha H. Werner, "Dimension der Verantwortung: Ein Werkstattbericht zur

Zukunftsethik von Hans Jonas", in : IDmHJ, S.311.

(18) Wolfgang Kuhlmann," <Prinzip Verantwortung> versus Diskursethik", in :

IDmHJ, S.299.

(19) Karl Otto-Apel, "Die ökologische Krisie als Herausforderung fur die Diskursethik", in : IDmHJ, S. 389.


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