グローバル時代の国民国家の行方

片桐新自(関西大学)

はじめに

 現在、多くの国の若者が、Tシャツにジーンズを履き、ウォークマンを聴きながらハンバーガーを食べ、コンピュータゲームに興じる。休日には、ディズニーランドやハリウッド映画を楽しみ、少しまとまった休みが取れたら、海外旅行にも気軽に出かける。家にいてもCNNやインターネットで世界の情報を享受する。海外で起こった事件やスポーツの試合も衛星放送を通してオンタイムで見ることができるし、欲しい物を通信販売等で海外から簡単に取り寄せることができる。為替や株はもちろん、個人の銀行預金ですら、各国の相場やレートを見ながら、資金のつぎ込み先を決めるような時代になってきている。

このように、世界の距離が近づき、国ごとの差が小さくなり、世界がひとつのシステムとして機能するようになるこうした状況を、「グローバリゼーション(グローバル化)」の進行、あるいは「グローバリズム」の浸透と呼ぶ。今や「グローバリゼーション」とか「グローバリズム」という言葉を見聞きしない日はないのではないかと思うほど、これらの言葉が飛び交っている。しかし、こうした言葉がよく使われるようになったのは、ほんの最近のことである。たとえば、朝日新聞の記事検索で調べてみると、これらの言葉や関連語は、1988年までは年間で10回以下しか登場していない。その後少しずつ使われるようになってきたが、本格的に頻出するようになったのは90年代後半になってからのことであり、一般に知られるようになってからは、まだせいぜい5〜6年ぐらいしか経っていないと言ってよいだろう(図1参照)。こんなに最近普及しはじめた言葉であるにもかかわらず、この言葉が示す事態は、すでにわれわれの生活の隅々にまで影響を与えており、これを前提として様々な問題を考えていかなければならなくなっていると言われる。「グローバリゼーション」とは何なのか、それは社会をどのように変化させてきているのか、そして人々や近代国民国家はそれにどのように対応しているのかについて考えてみたい。

 

 

1.現代のグローバリゼーションの特徴

 「グローバリゼーション」という言葉が一般に普及するようになったのは上に述べたように確かについ最近のことだが、その内実である世界規模での経済交流や文化交流は、はるか以前から存在していた。シルクロードを通じての交易は、ヨーロッパと東アジアを両端にもつ広いユーラシア大陸をひとつの経済圏としていたし、仏教もキリスト教もイスラム教も十分に世界規模の伝播をした文化である。こうした古い時代の交流まで「グローバリゼーション」という言葉で語ってしまうのは少し拡大解釈がすぎると思う人も、大航海時代以降ヨーロッパの強国が世界に植民地を持つようになってからは、あるいはそれをベースに成立した19世紀の帝国主義時代は、間違いなく世界規模でのグローバル経済や文化交流がすでに重要な役割を果たす時代になっていたということは否定しないだろう。「世界システム論」を展開したウォーラスティンも「モダニティ(近代性)」について検討したギデンスも、グローバルな世界経済の原点を1516世紀にあると見ている。にもかかわらず、つい最近になって現れた現象のように語られているのは、一体なぜなのだろうか。従来から存在した世界規模での経済交流や文化交流と、最近のグローバリゼーションとの間には、何か根本的な相違点があるのだろうか。

 グローバリゼーションも産業化や都市化と同様の趨勢的変化なので、ある時点を境に何かが根本的に変わるというものではない。しかし、量的変化もあるレベルを超えると、前の段階とはまったく異なるものに見えるということもある。こうした点に注目しながら、近年のグローバリゼーションの特徴を探してみると、まず、ITの急速な発展によって、情報の伝達速度と量がかつてとはまったく違うレベルにまで到達したことを第1の特徴としてあげることができるだろう。それも、植民地会社や多国籍企業といった特別な情報網を持った組織に関係している人々だけがそうした速度や情報量を享受できるのではなく、今やインターネットを使える人なら――いや、衛星放送が見られるテレビさえあれば――誰でもが、容易に世界の情報を得られるようになっている。もはや情報の伝達に関するタイムラグはなくなったと言ってよいかもしれない。現代のグローバリゼーションは、こうしたタイムラグなき情報獲得を前提として成立している。

こうした情報網で得られるものは、経済に関する情報ばかりではなく、政治、文化、社会に関するものもふんだんにあるということが、現代のグローバリゼーションの第2の特徴と言えるだろう。たとえば、ある国の内部で生じた政治的紛争や人権問題は、かつては情報も少ないので国内問題として処理されざるをえなかったが、情報が容易に得られるようになったことで、国連や他国が干渉して国際的問題として扱われることが多くなった。また、文化の伝播も以前なら宗教を含め生活を大きく変化させるような技術等のみが伝わったものだが、昨今のグローバリゼーションの流れの中ではありとあらゆる情報が伝わる。例えば、食や衣類、音楽や娯楽に関する情報も山のように伝わってくる。こうしたグローバリゼーションの結果として、政治的には自由主義と民主制が普遍的な価値として認知されるようになり、食文化や家族制度のあり方も国ごとの差がどんどん縮まってきている。言語に関してもインターネットの普及とともに、英語が実質的な世界語としての地位をより確かなものとしてきている。つまり、現代のグローバリゼーションとは、経済面以外での世界標準化、グローバリゼーションが本格的に進行していることを特徴としているのである。

 経済も含めたこうしたグローバリゼーションのモデルとされているのが、アメリカ社会であり、グローバリゼーションとは実は「アメリカナイゼーション」であるということがしばしば指摘されるが、確かにこれが現代のグローバリゼーションの第3の特徴であると言ってよいだろう。経済、政治、文化、社会、いずれの面においてもアメリカこそがもっとも優れた制度を作り上げており、これが世界標準になることが望ましいという考え方がかなり流布している。アメリカという国家は第1次世界大戦以後、世界でもっとも裕福で軍事力・政治力のある国であり続けてきたが、ここに来て特にアメリカの影響力が増しているのは、やはり長年にわたって「東西対立」という形でアメリカと対抗してきたソビエト連邦を中心とする社会主義国家の崩壊の結果であろう。70年以上に渡ってアメリカ的な行き方とは違う社会像を提示してきた社会主義国家の崩壊は、アメリカ社会がベースとしている市場経済と民主制こそが世界に通用する制度であることを実質的に証明したという解釈は、まったく的はずれなものだとは言いにくい。現代のグローバリゼーションは、経済と政治の面だけのアメリカ化に止まらず、文化や社会生活までアメリカ化してきているところに、大きな特徴がある。

 こうした流れと別に、環境問題が地球規模で考慮を払わなければならないグローバルな問題として重要性を増してきたことも、現代のグローバリゼーションの特徴としてあげておかなければならないだろう。ひたすら豊かさを追い求めてきたモダニゼーションは、地球環境に大きな負担をかけるようなレベルにまで到達している。地球というグローバルなレベルで環境問題を考えていかなければいけないという主張は、最近のグローバリゼーション言説の中ではもっとも早く1970年代から生まれてきていた。いわゆる「宇宙船地球号」という発想である。同じくグローバルな発想を、と言ってもアメリカナイゼーションとしてのグローバリゼーションとはまったく異なる発想であり、時には正面からぶつかり合うことも少なくない。しかし、現代のグローバリゼーションの特徴を考える上で、この地球環境問題を無視するわけにはいかない。グローバリゼーションは、近代国民国家の枠組みを揺るがすために、モダニゼーションを否定するポスト・モダンの趨勢であるように考える人もいるが、モダニゼーションを突っ走ってきたアメリカという社会が国際モデルとなっていることからも明らかなように、むしろモダニゼーションの延長線上にある趨勢――あるいはモダニゼーションの現代的形態――と考えるべきだろう。となると、こうした地球環境問題というグローバルな危機が生じたのは、世界を市場とするグローバリゼーションが必然的にもたらした負の側面であると言える。グローバルな資本主義の進行が、牧場開発のために、あるいは安価な木材獲得のために熱帯雨林を伐採させ、地球温暖化を急速に進める一因になったことを考えるなら、両者のつながりは容易に理解されるであろう。

 このように特徴を見てくると、現代のグローバリゼーションは、過去の――特に近代化(モダニゼーション)の進行以降の――グローバリゼーションと断絶したものではなく、連続したものと捉えておくべきことは明らかだろう。ただし、非常に多面にわたって深く進行していることによって、従来のグローバリゼーションとは異なるものに見えるようになっていることもまた事実である。

 

2.グローバリゼーションへの反発と近代国民国家の行方

 近年、サミットやWTOなどの先進国中心の国際会議が行われるたびに、グローバリゼーションやグローバリズムに反対するNGO(非政府組織)が必ずと言ってよいほど、過激な抗議行動を繰り返す。その主張の骨子は、グローバリゼーションは結局現在の豊かな国をさらに豊かに、貧しい国をさらに貧しくするだけにすぎず、国家間の貧富の差の固定化につながっているというものである。つまり、グローバリゼーションは、以前から言われてきた南北問題(豊かな北の先進国が貧しい南の発展途上国を搾取するという問題)の固定化であるということだ。グローバル時代においては、東西対立は緩和されたが、南北対立はさらに熾烈なものになっているとも言える。ただし、最近のグローバリゼーションに対する反発は、貧しい国の人々自身がクレームをつけているというより、豊かな国に住みながら、自由主義という名の資本主義経済に批判的な人々を中心とするNGOによって担われているところに特徴がある。それゆえ見方によっては、現在の南北問題はかつての東西問題を吸収したものになっていると言ってもよいかもしれない。

現実の社会主義国家体制が失敗に終わったからと言って、資本主義経済が何の問題もないすばらしい制度だと証明されたわけではないと思う人は少なくない。自由な競争という理念は一見するとすばらしいが、実際には最初から有利な位置にあるものの方が競争にも勝利しやすいのは当然であり、この経済体制では貧富の差は広がることはあっても縮まることはない。かつては、その貧富の差は主として国内問題として表れていたが、グローバリゼーションが進行する今、より深刻な貧富の差は、国家間に存在する。世界経済に巻き込まれる以前は、あるいは他の社会の情報が入りすぎる以前は、物質的には豊かでなくとも幸せに暮らせていた国々も、今や世界経済システムの末端に位置づけられ、貧しさと不足を痛感させられる不幸な立場に追い込まれている。つまり、グローバル経済とは、結局世界を巻き込んだ資本主義体制以外の何者でもない。このように考えれば、反資本主義の立場に立つものが、反グローバリズムの立場に立って活動することになるのは、当然と言えるだろう。国内での貧富の差を縮めるために各国で導入された「結果の平等」を求める政策が、国家間ではほとんど存在しないことも、グローバル経済の過酷さをより露骨なものにしている。こうした主張をグローバリズム批判という形で展開するものは最近登場してきたわけだが、実質的に同じような内容は、レーニンの「帝国主義論」や1960年代に登場した「従属理論」などでもすでに指摘されていたことである。

 ところで、現在グローバリズム批判を展開する人たちが、グローバリゼーションのすべてに反対しているのかというと、そうではない。たとえば、交通手段や情報メディアのグローバリゼーションに関しては、彼らも自分たちの活動を行う上でおおいに利用している。また、人権思想や自由や民主主義に関する価値観が世界的に広まることには何の疑問も持っていないどころか、積極的に普及に努めてさえいるということもできる。グローバリゼーションの進行なくして国際的なNGO活動などは行いえないのだから、グローバリゼーションのすべてに反対することなど不可能である。彼らが反対しているのは、基本的には経済面でのグローバリズムに限られているのであり、政治、文化、社会制度に関しては、グローバリゼーションに反対しているわけではない。別の見方をするなら、現在のグローバル経済は、実は近代国民国家の枠組みを前提として特定の先進国を利するだけの役割を果たしているので反対せざるをえないが、近代国民国家の枠組みが薄れ、地球市民として人々がアイデンティティを持つようになれる本当のグローバリゼーションなら、積極的に推進したいと考えるのが、現代のグローバル経済批判者たちだと考えられる。

 これに対して、まったく異なる立場から、グローバリゼーションに反発する人々もいる。それは、経済だけならともかく、政治や文化、社会制度に至るまでグローバリゼーションが進行することで、各社会が長い時間かけて築きあげてきたその国独自の特徴が消失してしまいかねないことを危惧する人々の動きである。世界を画一的な文化圏にしてしまいかねないグローバリゼーションに対し、宗教的・民族的アイデンティティ、あるいは近代国民国家の成員としてのアイデンティティを再確立しようという反発の動きが出てくる。たとえば、イスラム教の原理に忠実な国家では、グローバリゼーションという名の下に、アメリカ化が進んでいくことに対して大きな抵抗がある。イスラム原理主義ほど極端ではなくとも、民族や宗教アイデンティティを大事にしようとする集団であれば、文化や社会制度の安易な世界標準化には抵抗の動きが出るのは当然である。

近代国民国家の枠組みは、かなり便宜的に作られている場合も多いので、そうしたところでは、グローバリゼーションの進行とともに国家の枠組みより狭い範域で民族アイデンティティを確立しよう、ひいては独立をめざそうというローカリゼーションの動きが生まれてくる。既存の国家の多くは、こうした動きを押さえ込もうとするが、これもグローバリゼーションに対する近代国民国家側からの抵抗の動きと見ることができるだろう。

また、2001年9月11日に起こったアメリカ同時テロ事件とその後の対応がよく示したように、便宜的に作られた近代国民国家でも、国家に対する攻撃とみなされるような事態が起きれば、国家という枠組みを改めて確認し、それを拠り所にアイデンティティを形成しようという動きが強まることもある。

 グローバリゼーションの進行は、原理的には近代国民国家の枠を弱めるものだが、現時点では近代国家の枠組みはまだまだ強固なものである。現段階のグローバリゼーションは近代国家の存在を前提に進行している側面が強い上に、国連もオリンピックもワールドカップも、すべて国家という枠で議論したり、勝敗を争ったりしている。こうした国際会議や世界大会が開かれるたび、通常はあまり意識しない近代国民国家のメンバーとしてのアイデンティティが呼び起こされる。国家の線引きは変更されうるし、近代国民国家の正統性はますます揺らいで行くだろうが、グローバリゼーションの進行の結果として、境界線の一切引かれていない地球社会というものができあがるとは考えがたい。情報獲得の容易さは、国家間の差を確かに小さくするだろうが、差がなくなることはないだろう。人々が集団を作る基準はいろいろあるが、絶対的な基準になるものなどはない。近代国民国家の線引きが絶対的な基準ではないように、結局他のどのような基準を持ってきても絶対的な基準になるものはない。地理、人種、言語、宗教、文化、歴史、どの基準を採るかによって、線引きは変わってくるが、どの基準を使っても、近代国民国家よりも恣意的ではないとは言い切れないだろう。

 

3.グローバリゼーションの中の日本

現代のグローバリゼーションは、日本を例外的な位置になど置いていないが、これまではグローバリゼーションの影響も他国に比べると小さいと思ってきた人も少なくない。これは、日本が、周りを海で囲まれ、言語や文化が独自の発展を遂げたために、外国の影響を直接的に受けにくいという考えにもとづくものである。しかし、歴史を丁寧に見てみれば、日本も世界でグローバリゼーションが進行していた時はいつでもその波にさらされていたことがわかる。

もともとこのユーラシア大陸の東の端の島国である日本列島で人類が誕生していたはずはないので、この地域に住むようになった人々は、すべて様々な経路でここに渡ってきた人々である。ユーラシア大陸とつながっていた寒冷期にマンモス象を追いかけて北から入ってきた人々、南の方から島つたいに入ってきた人々、さらには、朝鮮半島から数次に渡って入ってきた人々などにより、日本人と呼ばれる人々は形成されたと考えられる。こうした有史以前の時期の人類の移動までグローバリゼーションと呼ぶのは拡大解釈になるかもしれないが、文字も思想も様々な技術も他の地域から伝わってきたものだということは忘れてはならない。これに続く時代においても、日本は常に中国や朝鮮から進んだ文化を取り入れ続けてきた。このように考えると、日本という国家の範域だけで自己完結していた時代などかつて一度もなかったということに気づかされる。伝達速度やモデルとなる社会、あるいはグローバル経済の比重などに大きな差はあるものの、グローバリゼーションは常に機能していたと言えよう。

ヨーロッパの国々が本格的に世界進出を始めた大航海時代のグローバリゼーションの波が日本に押し寄せてきたのは、室町時代末期から戦国時代を経て江戸初期へ、という時代である。この波の中で、ポルトガルから鉄砲と火薬が伝わり、日本の歴史を大きく動かす力になったことは、よく知られた事実である。また、キリスト教をはじめとするヨーロッパの思想、知識、文化も多く伝わり、中には日本の文化として根付いていったものも少なくない。しかし、この時期の日本は最終的に「鎖国」政策をとることによって、グローバリゼーションに本格的に巻き込まれるのを回避した。しかし、世界的なグローバリゼーションの流れは、日本の政策とは無関係にどんどん進行し、ついに日本もその波に飲み込まれることになったのが、江戸末期、ヨーロッパ史の区分で言えば19世紀の帝国主義時代ということになる。この時は、強力なグローバリゼーションの波に抗えず、鎖国していた国を開き、代わりに近代国民国家としての体制を急速に整えていくことで、他国と拮抗する力をつけ、国際的に競争する道を選ばざるをえなかった。それゆえ、日本が近代国民国家としての体制を整えたのは、当時のグローバリゼーションの産物だったということになる。政治制度や軍事制度ばかりでなく、生産や流通システムの技術から、教育制度、暦、服装、髪型、生活習慣といった身近な文化まで、欧米諸国に合わせることが、モダニゼーションであり、かつそれは当時のグローバリゼーションなのであった。

この時期のグローバリゼーションは、自由主義経済の名の下に各国が自国の権益を世界各地で拡大していこうとするものであったので、最終的には権益のぶつかりあう国々の間での戦争(第1次世界大戦)という事態を引き起こした。戦争終結後、むき出しの欲望をぶつけ合う世界市場の奪い合いに関しては多少の反省も見られ、調整機関として国際連盟を設立したが、最強国となっていたアメリカが加盟しなかったこともあり、結局根本的な改善は行われず、再び世界大戦へと突入した。すでに、近代国家として他の先進国と拮抗する力をつけていた日本も当然のようにこの2度の世界大戦に関わり、最終的には世界各地で甚大な被害を生み出してようやく戦争は終結した。第2次世界大戦後もグローバル経済は縮小したわけではないが、経済的な競争が国家観の軍事的対立にならないような歯止めは第1次世界大戦後よりも機能するようになった。

戦後の日本では、アメリカナイゼーションという形でのグローバリゼーションが急速に進行した。不敗神話を誇っていた日本を完膚なきまで打ちのめしたアメリカという国は、戦後の進駐軍の比較的穏和な政策もあって、「鬼畜米英」から一転して日本人の憧れの国となった。特に、その豊かさを反映した大衆文化や価値観が次々に受け入れられ、日本人の生活を変えていった。しかし、経済システムに関しては、日本は独自の路線を貫くことで、世界が驚くほどの復興を遂げた。もちろん、復興するにあたっては、朝鮮戦争の勃発といったグローバルな事態の変化も重要なきっかけとなっているが、その機会を生かして経済成長につなげていった日本の経済の仕組みは、「終身雇用、年功序列、企業別組合」を特徴とする独自の日本的経営方式であった。さらに、許認可権をもつ中央官庁の意向が民間企業によく行き渡る、まるで計画経済のようなシステムであったことも、日本の復興と経済成長に大きな寄与をした。こうしたシステムは、個人主義と自由主義を全面に打ち出すアメリカ的な経済システムとはまったく異なるものであった。

日本は、この経済システムで、戦後復興、高度経済成長を遂げ、その後生じたドルショックや2度の石油危機も巧みに乗り越えて、世界でもっとも豊かな国のひとつとなったが、1980年代後半からのグローバル経済の圧力は、日本独自のシステムを否定し、世界標準に合わせるように求めてきた。特にこの圧力はアメリカから強く、円高誘導、内需拡大、貿易不均衡の是正、規制緩和と矢継ぎ早に要求が出された。ちょうど豊かさの中で生まれ育ち、勤勉努力、刻苦勉励、辛抱忍耐といった価値観を身につけていない世代が働き手の中に入り、組合非加入や転職が当たり前のように行われるようになり、またコンピュータの導入によりこうした機器を使えない古い世代の価値が大幅に減退することで年功序列も崩れていかざるをえなかった時期であったことも相まって、急速に「日本的経営」は崩壊していった。

 現代のグローバリゼーションは、経済に関してのみ起こっているのではなく、社会の様々な局面に関して生じている。どこの国でも、グローバリゼーションの影響がもっとも明確に現れやすいのは、大衆文化の領域であろう。これは、大衆文化が大量現象となるので、商業ベースに乗りやすい――すなわち、グローバル経済の一環になりやすい――ためである。日本も例外ではない。映画、音楽、ファッションなどは、戦前でもそれなりに伝わってきてはいたが、高度経済成長を経て豊かさを実感できるようになった1970年前後からは、アメリカやヨーロッパで流行ったものが、すぐに日本でも流行るようになっていた。80年代、90年代と現在に近づくほど、さらにタイムラグはなくなってきている。スポーツに関しては比較的グローバリゼーションの進行は遅かったが、90年代後半以降、日本人選手の活躍もあって、野球はアメリカのメジャーリーグを、サッカーはヨーロッパのプロリーグを、衛星放送で楽しむ人が急速に増えてきている。マンガやアニメやコンピュータゲームのグローバリゼーションも進行しているが、これらに関しては、むしろ日本は受容国と言うよりグローバリゼーションの中心にいて発信元となっている。食に関しても、日本は創造性が豊かなので、単純にグローバリゼーションの波に巻き込まれるというより、インスタントラーメンや寿司がグローバリゼーションの波に乗って世界に広まっているといった事実がある。しかし、他方で世界に展開するマクドナルドは日本の町のあちこちにも存在し、ハンバーガーとポテトとコーラという食事を好む人々も日本に多数生まれていることもまた事実である。

 この他にも、周りを少し意識して見れば、グローバリゼーションの影響をいろいろなところに見いだすことができる。ダイニングキッチン、リビングルーム、ベッド、ソファー、洋式トイレなど、居住空間はすっかり欧米化してきているし、最近は、アメリカ社会の現実を背景に生み出された言葉が輸入されることで、われわれの価値観や生活が変わっていくパターンも目につく。セクシュアル・ハラスメント、ストーカー、チャイルド・アビューズ(児童虐待)、ドメステッィク・バイオレンス(家庭内暴力)などがそうした例としてあげられよう。文化面では、このように日本は相変わらず欧米――特にアメリカ――の強い影響下にあるが、経済的には中国をはじめとするアジア諸国との関わりが深くなってきている。衣料、食料品等で、”Made in China”とか「中国産」の文字を見かけることが実に多くなった。今後のグローバル経済の展開においては、中国との関係が比重を増してくることになるだろう。

 

おわりに

現代のグローバリゼーションに関して、一方ではすでに近代国民国家の枠組みを解体しつつあるという見方もあれば、他方では大げさに言うほどのものではなく、グローバリゼーションなど妄想だという見方もある。たぶん、両者の中間あたりが現実に近いのではないだろうか。様々な面において、確かに世界の距離は近くなり、世界がひとつのシステムとして機能することは多くなっている。しかし、だからと言って、近代に確立した国家という枠組みが一気に解体に向かうというのは、グローバリゼーションの影響力を過大に評価しすぎている。「地球市民」といった壮大なアイデンティティを持てる人はそうたくさんいないだろう。多くの人は、国家という枠組みの中で自らのアイデンティティを形成している。すでに述べたように、国家の枠は絶対的なものではないので、より狭い民族的、宗教的アイデンティティを自分の拠り所とする人々は出てくるだろうが、国家よりも広い範域で自らのアイデンティティを確立できる人はほとんどいないだろう。確かにグローバリゼーションは進行している。しかし、それは国家や民族といった枠組みを無に帰すものではなく、むしろそれを前提にさらに進行していくものなのではないだろうか。

 

<参考文献>

A.ギデンズ(佐和隆光訳)『暴走する世界』ダイヤモンド社(2001)

J.グレイ(石塚雅彦訳)『グローバリズムという妄想』日本経済新聞社(1999)

K.ポランニー(吉沢英成ほか訳)『大転換』東洋経済新報社(1975)

J.トムリンソン(片岡信訳)『グローバリゼーション――文化帝国主義を超えて――』青土社(2000)

I.ウォーラスティン(川北稔訳)『近代世界システムT・U』岩波書店(1981)

 

<学習課題>

(1)日本製品で世界に通用しているものにはどのようなものがあるか探してみよう。

(2)かつてフランスで、日本製アニメの放送に対する規制が検討されたことがあったが、なぜこうしたことが生じたのかについて考えてみよう。

(3)地球温暖化対策に関連して登場してきたCO2排出量取引とは、どのようなものか調べてみよう。